2009.11.25 超弩級の名カメラマン、アーチストであった広重
〔書評〕大久保博則・安田就視著『江戸・東京百景 広重と歩く』(角川グループパブリッシング、¥1280円+税) 
  
雨宮由希夫 (書評家)
 

 広重の絵『名所江戸百景』119景と、絵の描かれた場所で撮った写真「平成の東京百景」119葉が左右に並べられて配置され、鑑賞できる。カメラマンの安田就視氏は「情緒がなくなりつつある東京の風景を広重の心になって美しく残しておきたい」と思い、シャッターを切っている。しかも、10年もの歳月をかけて。広重の絵と安田氏(以下、Y氏と表記)の写真を比較しながら、読者は“広重気分”で江戸と東京の時空を思うがままに往還できる本のつくりとなっている。
本書の巻頭を飾るのは《日本橋雪晴》。「日本橋」は広重の頃とは思いもよらないほど変り果ててしまったものの代表格である。
  現代の写真を撮るにあたり、「めまぐるしく変る東京の中で、これほど昔と変らないで残っている場所も珍しい」とY氏が断ずるのは《外桜田弁慶堀糀町》の「弁慶堀」、《千束の池袈裟懸松》の「千束池」である。周囲の建物は現代風におきかえられてしまったが、画面を大きく占める建物は丸に井桁のマークの「いとう松坂屋」、今の松坂屋の前身で、遠くに「上野の森」が見える《下谷廣小路》の写真は広重の絵に通じる景色であろう。これらに比べて、「日本橋」の変容は目を覆うばかりである。
「昔を偲ぶものは何もない」「昔の風情はなくなってしまった」「無惨な姿になってしまった」とは変り果てた景色を眼前にしたY氏の常套句であるが、《日本橋江戸ばし》では、「江戸橋もかろうじてみえてはいるが、絵にならない。幾度か撮影し直した。これ程苦労したところも珍しい」と嘆いている。
  広重の時代にあって、今に無いものは「富士の眺望」である。《する賀てふ》当時、越後屋呉服店(今日の三越)のある駿河町からの富士の眺望は江戸一の評判だったというが、「広重の時代には駿河国の富士山がバッチリ見えた駿河町も、いまやここから富士山を望むのは、とても無理なこととなった」。
  見えなくなったのは富士山のみではない。《日暮里諏訪の臺》「諏訪台」は道灌山と言ったほうが通りが良いだろう。江戸の人々の行楽地で、東方に向かっての眺望は絶景と謳われたというが、今では筑波山もめったなことではお目にかかれない。筑波山が見えなくなったのは、《飛鳥山北の眺望》もおなじである。
  江戸から東京へ。「富士」についで景観を大きく変えたものは海である。
  霞ヶ関坂上の正月の凧揚げ風景を描いた《霞かせき》には海が描かれている。江戸の昔、海は身近な存在だったが、今はビルが天空をふさぎ海どころではない。「広重の絵心を再現しよう」とY氏は「モデルに凧を揚げさせようとしてオマワリさんに警告をうけ」ているのは愛嬌である。
  古(いにしえ)の江戸らしき風景を再現しようというカメラマン魂には頭が下がる。《神田紺屋町》の染物のさらし干し風景は江戸の風物詩でもあった。「JR神田駅の東に、今も紺屋町は存在するが、町中探し廻っても紺屋は一軒も残っていない」ことを知ったY氏はカメラを担いで、「江戸川区は一之江迄行き、やっと見つけ」撮影している。《玉川堤の花》は左に桜並木、右に遊女屋が立ち並ぶ、今の新宿区新宿2丁目付近を描いているが、その場所には江戸情緒のひとかけらも残っていない。Y氏は「多摩川堤の花」を求めて、玉川上水を小金井市まで20キロメールも遡り、当時の面影を残す映像をキャッチしている。
  それにしても、広重の構図のなんと斬新なことか。どうしてこうした絵が書けるのか、と不思議に思わずにいられないのは広重の目線である。
《千住の大はし》も同様であるが、たとえば、《両国花火》を見るがいい。絵の下3分の一ほどの低位置に「両国橋」が描かれ、天空高く舞い上がる花火を見上げる橋の上の人々はまるで胡麻粒のようである。広重の時代、高層ビルがあるはずもない。いかにして広重はこうした俯瞰図をものにすることができたのか。《大はしあたけの夕立》では、「広重のアングルに少しでも近づこう」と、Y氏は近くのビルの管理人にお願いしてビルの屋上に上り、しかも、夕立が降るという気象条件を満足した上で、ビショ濡れになって撮影している。
  さすがのY氏も気象現象にはかなわない。永代橋の橋桁ごしに、「石川島・佃島」を望む図の《永代橋佃しま》には月が晧晧と冴えているが、「永代橋の付近からこの高さに、この形の月は出ない」と広重にイチャモンをつけている。
  広重と気象現象といえば、雪である。《浅草金龍山》は名品中の名品。絵の右上に大提灯。仁王門の左側のみが書かれ、遠景に雪に覆われた五重塔が浮かぶ。今、東京ではめったなことで雪は降らないが、雪化粧の浅草を撮るために、Y氏はその雪を待って車で寝泊りしている。
超高層ビル、高速道路や気象条件は何とかクリアするY氏が「名所平成の東京百景」の撮影にあたり、一番悩んだのが王子の狐火である。この絵《王子装束えの木大晦日の狐火》だけは写真の映像に出来ないと匙を投げている。
『名所江戸百景』は安政3年(1856)2月から安政5年(1858)10月までの間、つまり広重が還暦を迎える直前から数え年62歳で死ぬまでの二年半にわたって制作されている。
《高輪うしまち》は安政4年(1857)4月の刊行。ペリー来航の翌年に築かれた「お台場」に虹がかかっている。Y氏の「何としても、虹ある品川風景を摂りたかった」というカメラマンとしてのプロ根性と、「太平の眠りを覚まされたはずなのに、広重が描いた雨上がりの情景は、清々しくもおおらかだ」との著者・大久保氏の感想が印象深い。広重が描いたいかにも長閑な風景が〈広重にとっての今〉を私たちに訴えかけているのである。広重はまさしく「時代の今を描く浮世絵師」であった。
《品川御殿やま》「御殿山」は江戸の花見の一大名所であったが、「お台場」を築造するために御殿山の土は無惨にも削り取られた。Y氏は「今も当時の原形を留めている」と書いているが、ここでいう原形とは「広重が描いた“削り取られた”あとの美しい風景」である。「絵師・歌川広重は変わりゆく江戸への哀惜をこめて筆を走らせていたのではないか。名所は、景観が素晴らしい場所という意味だけでなく、人の記憶を呼び覚ます場であることを広重はよくわかっていた。だからこそ、《品川御殿やま》では、お台場建造のために無惨に削り取られた御殿山を描いて見せたのだ」との大久保氏の指摘は当を得ている。
  寛政9年(1797)、幕府定火消同心の子として生まれた広重は明治維新のちょうど10年前の安政5年(1858)9月6日の暁、数え62歳でこの世を去っている。その安政5年の春には条約勅許、将軍継嗣問題で政局は大きく揺れ動き、夏にはコレラが江戸市中に流行り、秋には井伊大老による「安政の大獄」がはじまっている。広重の死因はコレラだと伝えられている。
  広重が今に生きていたら、超弩級の名カメラマン、アーチストであったろう。
  広重の絵と現代の写真を対比して、一冊の本にするという試みは、大正期の石川研堂の『今昔対照江戸百景』(1919年)以来、何度かなされている。石川研堂は明治末から大正昭和にかけて活躍した百科全書家であるが、『今昔対照江戸百景』の刊行にまつわる興味深いエピソードが、河津一哉編『今とむかし廣重名所江戸百景帖』(暮らしの手帖社、平成10年)に掲載されている。なお同書には『今昔対照江戸百景』の写真が掲載されている。本書の写真と比較するのも一興である。
  本書は新書版ながら、『名所江戸百景』のすべて119点が眼にも鮮やかなカラーで掲載され現代の写真が並んでいる豪華なつくりである。「解説マップ」もついている。携帯に便利な本書を手にしながら、広重が絵筆を揮ったであろう地点あたりを日がな一日逍遥したいものである。
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