2018.04.29 「本日休載」
 
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2018.04.22 「本日休載」
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2018.04.15 「本日休載」

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2018.04.08 「本日休載」

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2018.04.07 旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京都大学に求める運動について
大学・研究機関における軍事研究を阻止するために

広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)

 さる4月2日、京都大学の大学記者室において「満州第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」の記者会見が行われた。趣旨説明は、会の事務局長を務める西山勝夫(滋賀医大名誉教授)が行い、共同代表の鰺坂真(関大・同)、池内了(名大・同)、広原盛明(京都府大・同)なども参加した。記者室では10人前後の記者が熱心に耳を傾けた。

 周知の如く関東軍731部隊とは、旧満州ハルビン市の郊外(平房)の研究施設で中国人捕虜を中心に3千人ともいわれる膨大な生体実験を行った日本軍細菌戦部隊のことであり、研究組織の中核に京大医学部出身の研究者が多数在籍していた。部隊長(石井軍医中将)が京大病理学教室の出身だったため、医学部を挙げて軍事研究(ペスト菌など細菌戦のための研究)に協力していたのである。

 医学部出身でもない私がなぜこの会の共同代表に名を連ねているかについては、少し説明が必要だろう。私は、731部隊がハルビン市郊外の平房地区で建設されていた頃(1938年前後)、ハルビン市内の満鉄社宅で生まれ、そこで育ったが、731部隊のことは帰国してからも何一つ知らなかった。ただ、ハルビン市はロシア帝国が建設した美しい都市であり、建築や都市計画に関しては興味深い対象なので度々調査に出かける機会があった。そうこうしているうちに、「15年戦争と日本の医療医学研究会」の中心になっている旧知の西山氏から声を掛けられ、731部隊遺跡の視察旅行に同行することになったのである。

 最初に訪れたのは2011年9月、その次が2016年5月でいずれも哈爾浜市社会科学院との研究交流が主だったが、731部隊遺跡の視察にも多くの時間が割かれた。731部隊遺跡の保存と整備は1980年代から本格化し、2015年からは「戦争史跡公園」としての建設計画が始まり、現在は世界遺産登録を目指して努力が続けられている。私は建築・都市計画研究者の端くれとして、遺跡保存と整備のための資料収集(日本の建設業者による設計図など)を続けているが、未だその志を果たせていない。なぜなら、731部隊の施設は日本軍によって爆破され、また関係書類は徹底して破棄(焼却)されたためにほとんど残っていないからである。また研究資料は、731部隊関係者の「戦犯免責」と引き替えに全てアメリカに持ち去られ、それ以降、日本政府は731部隊に関して「関知しない」「資料は残っていない」「調べていない」との態度を一貫して撮り続けているので、関係資料の発掘は極めて困難な状況にあるためである。
 
本題に戻ろう。今回の京都大学に対する申し入れは、西山氏の長年の努力によって明らかになった731部隊軍医将校の学位授与に関する疑惑の検証を求めるものである。疑惑の中核は、「サル」を実験材料にしたペスト菌の感染実験が実は「ヒト」の生体実験を基にしたものではなかったかというものであり、そのことを裏付ける記述が学位論文自体の中に存在することを根拠としている(詳しくは下記の要請書、会のホームページを参照してほしい)。

会はこの問題を社会的にアピールするため、4月14日(土)13~16時、京大時計台ホールで講演会を開催する。講師は731部隊の存在をはじめて学術的に解明した常石敬一氏(神奈川大学名誉教授)、タイトルは「研究者が戦争に協力する時―731部隊の生体実験をめぐって―」である。常石氏は講演に当たって、「2015年、防衛相と自衛隊が安全保障技術研究推進制度を創設したことに触発され、731部隊の問題に立ち戻り、21世紀における科学技術と社会のあり方を模索したい」と述べている。是非、来聴をお待ちしたい。

またこれと並行して、会は国内外で賛同者の署名運動を始めている。会のホームページに署名欄が掲載されているので、これにも是非賛同をお願いしたい。これらの成果は、7月上旬の目途に京都大学総長と医学研究科科長に届けることにしている。以下は要請文である。

京都大学総長 山極 壽一 様
京都大学医学研究科長 上本 伸二 様

要請書 旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます

貴大学が、京都帝国大学時代に医学博士の学位を授与した旧満洲第731部隊軍医将校(以下、同人)の学位論文(以下、当該学位論文)の主論文1)に人道上看過できないねつ造と医の倫理に反する不正な箇所が含まれている疑いがあります。
貴大学大学文書館所蔵の学位授与記録2) によれば、同人は1945年(昭和20年)5月31日付けの学位申請書と主論文「イヌノミのペスト媒介能力ニ就テ」などを貴大学に提出し、医学博士の学位申請を行いました。貴大学は、当該の学位申請を受け付け、医学部教授会の議を経て、総長より文部大臣に学位認可を申請し、文部大臣の認可(同年9月26日)を受けて同日に学位授与を決定し、学位記(学位記番号: 医 2556)を同人の代理人に届けました。

当該学位論文は、イヌノミのペスト媒介能力についての実験的研究ですが、論文中の「Ⅶ 特殊實驗」の項3)で用いられた実験動物のサルは実はヒトではなかったかとの疑いがあります4)。もしそれが事実であるとすれば、実験報告のねつ造であるに留まらず、実験が極めて非倫理的・非人道的であることは多言を要しません。
厳正な学位審査を行なうべき学術機関として、貴大学におかれましては、上記実験動物がサルであったかヒトであったかを検証する義務があります。もしヒトであったことが判明した場合、すみやかに学位授与を取消されるよう要請します。

旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会
住所: 〒604-0931 京都市中京区榎木町95-3 延寿堂南館3階 日本科学者会議京都支部気付
ホームページ URL: https://war-kyoto-university.jimdo.com/

2018.04.01 「本日休載」

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2018.03.25  「本日休載」

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2018.03.18 平和運動に生涯をささげた佐藤行通師逝く
 日本の運動の国際化に貢献

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「まるで平和運動の一時代の終了を告げるかのような訃報だ」。私がその訃報に接した時、とっさに脳裏に浮かんできた感慨はそのようなものだった。日本山妙法寺の僧侶で平和運動家だった佐藤行通(さとう・ぎょうつう)さん。3月1日に肺炎により死去、99歳だった。その一生は、ひたすら原水爆禁止運動の発展にささげられたものだったと言ってよく、とりわけ日本の運動を欧米の平和運動や国連と結びつける上で佐藤さんが果たした大きな役割は長く記憶されてしかるべきだろう。

 とにかく、波瀾万丈の生涯だった。
 1918年(大正7年)、秋田県阿仁合町(現北秋田市)に生まれた。教師だった父が兵庫県西宮市の小学校に職を得たため西宮へ。そこで小学校を終え、1931年、大阪府立北野中学(現北野高校)へ進む。自由主義的な校風で軍人志望は少なかったが、親戚に軍人がいて、「ソ連の膨張に備え、日本は軍備拡張を急ぐべきだ」と吹き込まれ、プロの軍人になろうと決心する。
 
 父や教師の反対を押し切って陸軍士官学校へ進む。そこから、重爆撃機の操縦者を志して陸軍航空士官学校へ。しかし、埼玉県所沢市の上空を練習機で飛行中、エンジンの故障で不時着。ショックで左目の視力をほとんど失った。これでは操縦者になれない。やむなく通信部門へ。卒業後は中国東北部(満洲)で航空通信網の整備にあたった。
 帰国後は航空通信の開発・改良に携わり、1945年(昭和20年)8月15日の終戦の詔勅は東京・八王子の第四陸軍航空技術研究所で聞いた。その時、26歳、陸軍少佐だった。

 「無条件降伏」には絶対反対だった。「まだ戦力は残っている。死に物狂いで戦えば対等の講和に持ち込める」。上司に面会を求め、「無条件降伏を画策した君側の奸(かん)を除き、天皇に翻意を促すため決起すべきだ」と主張。同じ考えの陸海軍青年将校らの愛国グループ同志と埼玉県豊岡町(現入間市)の陸軍航空士官学校へ乗り込み、決起を呼びかけた。
 どこからも願っていたような返事は返ってこなかった。万事休す。「そうだ。降伏文書の調印が行われる敵艦ミズーリ号に特攻機で突っ込もう。そうすれば、終戦はご破算になる」。両親と妻あての遺書を書き残すと、8月22日夜、土砂降りの雨の中をトラックで宇都宮基地へ。重爆特別攻撃隊を出撃させるためだ。が、佐藤さんの説得に隊長は応じなかった。「それなら、おれ1人でゆく」と単独操縦を試みたが、離陸できなかった。

 東京に戻ると、同志たちの姿はなかった。宮城(皇居)前に向かったという。彼らがやろうとしていることは察しがついた。「おれも一緒に死のう」。急いで宮城前に駆けつけると、同志ら13人はすでに自決していた。

 何も手が着かない虚脱状態が続いた。見かねた愛国グループの指導者が「それなら、出家したら」と、日本山妙法寺の藤井日達山主を紹介してくれた。藤井山主を訪ね、弟子入りする。1945年11月のことである。
 藤井山主は、宗教学者の山折哲雄氏が「百歳の長寿を全うした人である。その足跡はインドをはじめとして全世界に及び、平和運動と伝道活動に献身した稀にみる国際的な仏教者だった」「敗戦以後、日本の仏教諸教団はこぞって平和主義を宣揚し、そして例外なく平和運動の戦列についた。しかし、そのときから今日にいたるまでの半世紀をふり返るとき、その平和運動の持続性と徹底性において、藤井日達の日本山妙法寺に及ぶものは一つもなかったといっていいだろう」(日本山妙法寺発行の『報恩』。2011年刊)と述べているように、平和運動に生涯をささげた僧侶だった。

 佐藤さんは、その藤井山主の傘下で平和運動に邁進する。原水爆禁止運動、内灘米軍試射場反対闘争、再軍備反対・平和憲法擁護運動、全面講和・中立堅持を要求する運動、日米安保条約改定阻止闘争……。原水禁運動では、東京と広島を結んで行われる平和行進に加わった。
 長身でがっしりとした体つき、丸坊主で精悍な顔つき。黄色の僧衣をまとって、「南無妙法蓮華経」と唱え、うちわ太鼓をうち鳴らして行進する佐藤さんの姿は異彩を放ち、人目を引いた。平和運動関係者の間では「ぎょうつうさん」と呼ばれた。

 1962年には、広島からアウシュビッツまでの平和行進を敢行する。前年に「ベルリンの壁」が出現。佐藤はさんは、こう思い立つ。「このままだと、世界大戦が起きるかもしれない。今こそ、各国の市民が平和を守るために手を結ばなくては。そのことを訴えて歩きたい」。広島とアウシュビッツの街を結ぶことにしたのは、そこで第2次世界大戦における最大の殺戮が行われたためだ。
 62年2月、広島を出発。行進には東大大学院生、東大生、上智大OBが加わった。翌年1月、アウシュビッツ収容所跡に到着した。同年8月に広島に帰着。訪れた国は33カ国、旅程は9万キロに及んだ。

 行進中、佐藤さんは各国の平和運動家と懇意になった。それが縁となって、世界的に著名な平和運動家が日本を訪れるようになった。フィリップ・ノエルベーカー(英国、ノーベル平和賞受賞者)、ショーン・マクブライド(元アイルランド外相、元国際平和ビューロー<IPB>会長)、ペギー・ダフ(英国、元軍縮と平和のための国際連合書記長)……。これが、日本の原水禁運動が欧米の平和運動や国連と結びつくきっかけの1つとなった。それまでの日本の原水禁運動は、社会主義諸国や非同盟諸国の団体とのつながりが強かっただけに、これは画期的なことであった。
 佐藤さんは、ショーン・マクブライドらの推奨でIPBの副会長に就任する。

 佐藤さんが国際的な舞台で最も活躍したのは、1978年の第1回国連軍縮特別総会と82年の第2回国連軍縮特別総会(開催地はいずれもニューヨークの国連本部)の時だろう。第2回総会の時はニューヨークで、欧米と日本のNGO(非政府組織)が「百万人の反核デモ」を繰り広げたが、佐藤さんは国際連絡事務所に詰め、各国代表団の受け入れにあたった。

佐藤さん写真 

第1回国連軍縮特別総会を前にして開かれたNGOの会議に参加した佐藤行通さん(左端)。その右はペギー・ダフさん、その右はショーン・マクブライド氏。1978年、ニューヨークで=山下史さん提供


 国内でも東奔西走の日々だったが、最も力を注いだものの1つが1968年から始まった成田空港反対闘争だ。航空機の離着陸を阻止するために農民や共産党系団体と協力して4000メートル滑走路敷地内に「平和塔」を建立する。これは空港公団によって撤去されてしまうが、空港建設阻止の運動形態の1つとして話題を呼んだ。

 ところが、絶頂期の佐藤さんは突然、思ってもみなかった奈落に転落する。1983年、師匠の藤井日達山主から、「下山」を言い渡される。「お前はいつまでも軍人気質が抜けない。驕慢(きょうまん)である」「金づかいも荒い」。いわば、破門であった。
 追いかけるように、84年には、それまで所属していた原水爆禁止日本協議会の国際部長を解任される。原水協で内紛が起き、代表理事らが解任されるが、佐藤さんがその代表理事を支持したからだった。

 これを機に、佐藤さんは茨城県大洋村(現鉾田市)に引きこもった。それ以来、内外の平和運動で佐藤さんの姿を見ることはなかった。
 1995年、私は佐藤さんを訪ねた。釈尊像を安置した仏壇の前で、佐藤さんは語った。「蟄居(ちっきょ)して、ざんげの日々です」。再婚した女性の稼ぎと軍人恩給が頼りで、ここから出ることはほとんどない、とのことだった。

 それから23年して訃報に接したわけだが、3月1日といえば、「ビキニ・デー」である。1954年の3月1日に太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験が行われ、静岡県のマグロ漁船・第五福竜丸が被ばくし、無線長の久保山愛吉さんが亡くなったことを記念して設けられたのが「ビキニ・デー」で、この事件を忘れまいとして誕生したのが原水禁運動だった。その記念すべき日に死去するとは、平和運動に生涯を賭けた佐藤さんにふさわしい最期のように思えた。 
2018.03.04  「本日休載」

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2018.02.27  前衛俳句の金子兜太さん逝く
    平和への執念は極限の戦争体験から

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「ここに人間あり」。人間として極めて存在感ある人だった。2月20日に98歳で亡くなった、俳人の金子兜太さんである。その印象を一言でいえば、豪放、磊落、骨太にして反骨、飾り気のない自由人ということになろうか。「前衛俳句の旗手」とか「反戦平和に執念を燃やす俳人」と言われたが、98年に及ぶ生涯の原点は、西太平洋のトラック島における戦争体験だった。

 金子さんに初めて会ったのは、1982年11月25日である。当時、私は朝日新聞社会部記者で、取材のために金子さんにインタビューを申し込んだのだった。
 当時、朝日新聞は夕刊で『新人国記』を連載中だった。全国1道1都2府43県の著名人を、その人たちを生んだ風土と歴史をからめながら紹介する企画で、私は岩手県と埼玉県を担当した。
 埼玉県では約50人をリストアップしてインタビューを試みたが、その1人が金子さんだった。当時も熊谷市に住んでおられたが、取材を申し込むと浦和まで出てきてくれた。喫茶店で話を聞いた。
 
 当時、63歳。小柄だが図太い体躯から吐きだされる言葉は実に力強く、私はすっかりその虜になってしまった。「よし、決めた」。私は、『新人国記』埼玉県編の第1回でこの人を取り上げることにした。
 『新人国記』埼玉県編は1983年4月26日から始まった。そこで、私はこう書いた。

 「秩父。県の西方に連なる奥深い山地である。切れの深い山々に囲まれたわずかな平地は日射量が少なく、寒さが厳しく、地味も薄い。こうした風土が、素朴だが気性が激しく、根性があって忍耐強い人びとをはぐくむ」
 「そんな秩父人の典型が、熊谷市在住の俳人金子兜太(六三)だ。中秩父・皆野町の開業医で俳人、それに秩父音頭の生みの親でもあった伊昔紅の長男に生まれ、東大を出て、昭和十八年、日銀に入る。だが、すぐ軍隊にとられ、トラック島に赴任。九死に一生を得て日銀に復職するが、多くの戦友の死をまのあたりに見た衝撃から、『死者に報いるには、反戦平和のために生きることだ』と、従業員組合の運動に身を投じ、初代書記長となる」
 「エリートコースを外され、地方にとばされる。地方勤務十年。その中で、秩父人としての反骨が頭をもたげる。『日銀がオレを認めないなら、オレの方から見切りをつけてやる。これからは、日銀を食いものにしてやるぞ』。日銀での栄達をあきらめ、旧制高校時代から趣味でやっていた俳句に生きようと決意する。
   朝はじまる海へ突込む鴎の死
 昭和三十一年、神戸支店にいた時の句だが、カモメの死と回生に託して、自らの新たな門出への決意を詠んだものだ。それまでの俳句が専ら花鳥風月を詠んでいたのに対し、金子は社会を、人間をうたった。季語なんか、無視した。いわば、俳句に現実感や社会性を盛り込もうとしたのである。句界からの反発は強く、『ゲテモノ』『異端』の声。しかし、やがて『前衛俳句の旗手』と呼ばれるようになる」
 「日銀の方は四十九年に定年退職。その時のポストは証券局主査。いわゆる金庫番で、金子によれば『カスみたようなもの』。現在、俳誌『海程』の代表、現代俳句協会副会長」
 
 つまり、トラック島での体験が、金子さんにとって人生の転機となったのだった。
 
 金子さんの著書『二度生きる』(チクマ秀版社、1994年刊)によると、徴兵された金子さんは1944年3月、トラック島の海軍基地(第四海軍施設部)に主計中尉として着任した。そこは要塞構築部隊だったが、金子さんの仕事は金銭に関することと、食糧の調達と管理だった。
 この年6月にサイパンが陥落すると、のべつまくなしに米軍機が飛来し、爆撃と銃撃を繰り返すようになり、戦死者が続出。日本本国からの食糧補給も完全に絶たれ、食べるものがなくなって餓死者が続出した。こうして、敗戦までに、トラック島にいた日本人(軍人と工員が大半)4万人のうち3分の1が亡くなった。

 敗戦から1年3か月後、本国から迎えに来た駆逐艦で生き残った戦友とともに島を離れ、帰国の途につく。その時、戦没者を弔うために建てた墓碑が見えた。墓碑は、戦友たちを最後の一瞬まで見送ろうとしているかのように見えた。
 その時、金子さんの心につのってきたのは、部下たちを死なせたことへの責任感だった。「その光景を駆逐艦の甲板上から眺めながら、私は自分にはっきりと誓っていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、この先私は頑張ろう、死んだ人たちのために頑張ろう、そうすることで彼らの死に報いよう、そう肚をくくっていたのです。
   水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 
 その時作った句です」
 「世のため人のために頑張らなければだめだという気持ちに目ざめさせられたのです。戦争はよくない、平和が大事だ、反戦平和にこれからの私の生き方をかけよう、その結果自分の首をはねられようとどうしようと知ったことではない、どうせ私はとっくに死んでいるのだから今で言えば、『格好いい』と言うことになるのでしょうが、本気でその時私ははっきりと腹を固めました」
 「トラック島は私にとって、戦後の歩みの原点です。……組合活動に身を投じたのも、後に俳句専念を決意したのも、元を辿ればすべてここに集約されます」(『二度生きる』)

 その後、金子さんは:現代俳句協会会長、日本芸術院会員などを歴任、2008年からは文化功労者。そのかたわら、平和問題で発言を続けるが、多くの人びとに強烈な印象を与えたのは、安保関連法反対運動での金子さんの行動だろう。
 安倍政権は2014年7月、自衛隊が他国の軍隊といっしょに戦えるようにするために憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権行使容認を閣議決定し、それを法制化した安保関連法案を15年に国会へ提出した。これに反対する多くの人たちが国会周辺につめかけたが、その人たちが掲げるプラカードには「アベ政治を許さない」の文字が躍っていた。これは、作家・沢地久枝さんの求めに応じて金子さんが揮毫したもので、安保関連法反対運動のシンボルとなった。
 金子さんとしては、「今こそ、平和のために声をあげなくては」という危機感の発露であったのだろう。

 金子さんに最後にお目にかかったのは、2015年12月12日である。私が関わっている市民団体・平和・協同ジャーナリスト基金がこの日、第21回平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式を東京の日本記者クラブで行い、基金賞(大賞)を、中日新聞、東京新聞など中日新聞グループで連載中だった『平和の俳句』に贈呈したことから、選者の1人の金子さんが会場に駆けつけてこられたのだ。
 その時、「今朝、野坂昭如君が死んだ。彼は時々、『また変なものが地上にふわふわふわふわしておる』と言っとった。そのような時勢が生まれつつあるのではないかと思い、まだあと何年も生きるつもりでおりますから、その間頑張っていきたい」とあいさつされたことを鮮やかに思い出す。
 金子さんはまた、平和・協同ジャーナリスト基金への支援者だった。

 金子さんのモットーは「捨身飼虎(しゃしんしこ)」。自分を捨てて、人のために生きる、という意味という。どこまでも他人に優しく、他人を思いやる人だった。