2016.10.13 原発事故から5年半の福島を見る
遅々たる復興、進む荒廃

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから5年半たったのを機会に10月5日、原発事故被災地の福島県を訪れた。原発事故被災地・福島の現地見学は2015年2月、同年10月に次いで今回が3回目。被災地のごく一部を垣間見たに過ぎなかったが、今回の総体的な印象を言えば、「被災地の復興は遅々たるもので、むしろ一部では荒廃が進んでいる」という感じであった。

 最初の現地見学は、東日本大震災で被災した東北の人たちへの支援活動を続けている「NPO法人大震災義援ウシトラ旅団」が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現した。2回目は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉OB会)が主催した「福島ツアー」に加わっての現地見学。今回は、埼玉ぱるとも会と東京ぱるとも会(パルシステム東京OB会)が共催する「福島ツアー」に加わっての現地見学だった。

 今回のツアー参加者は生協の元役員、組合員ら総勢29人。バスでさいたま市――福島県いわき市――広野町――楢葉町――富岡町――いわき市――さいたま市のコースを回った。

 いわき市で、同市在住の「NPOふよう土2100」の里見喜生・理事長と合流、以後、里見理事長の案内で被災地を回った。
 同理事長によれば、今なお原発事故で避難を余儀なくされている人は福島県内だけで約12万人を数える。同理事長にいただいた資料によれば、いわき市の人口は約34万9000人だが、うち約2万4000人が福島第1原発に近く被害が甚大だった双葉郡(大熊町、双葉町、富岡町、楢葉町、広野町など)から避難してきた人たちで、仮設住宅だけでも3500戸以上にのぼるという。

 バスは四倉港に立ち寄った後、いわき市内の久之浜地区の「浜風商店街」へ向かった。
 東日本大震災で、いわき市の太平洋沿岸も津波に襲われたが、久之浜地区では、住民60人が津波に呑み込まれて死亡し、火災も発生した。家屋586棟が全半壊し、商店街を形成していた商店38軒も全滅。半年後、うち9軒が久之浜第一小学校の敷地内に仮設商店街をつくって営業を始めた。これが「浜風商店街」である。
 魚屋や食堂、酒店、理髪店など9軒。ところが、この商店街も来年3月には解散する。このままでは明るい展望がもてないからだという。商店街の人たちは私たちツアー一行を歓待してくれたが、その表情は心なしか寂しそうだった。
 私たちはとかく原発による被害に目がゆくが、東日本大震災の津波による被害もまだ回復せず、その後遺症はなお深刻であることを突きつけられた思いだった。

 いわき市から北上する。広野町を過ぎ、楢葉町に入る。楢葉町役場があり、そのわきの広場で仮設の商店街が営業していた。ちょうど1年前にもここに立ち寄ったが、商店街は昨年と同様人影もまばら。1年前と変わったことと言えば、商店街の外に「移動焼き鳥店」が駐車していたぐらいだった。
 そこから、さらに北上すると、道路の両側に田んぼが広がるが、どの田んぼも一面雑草に覆われ、すでに稲田の面影はなく、まるで原野のようだ。放射能に汚染されたため、稲作が不可能となったのだ。ちょうど1年前にもここを通ったが、この1年で、田んぼの原野化がいっそう進んだように思われた。
 加えて、野天に積まれた、放射能に汚染された廃棄物を詰めたフレコンバッグが増えたように思えた。里見理事長がいう。「放射能に汚染された廃棄物は、無害化することができません。ただ移動させるだけなんです」
 このあたりは、かつて福島県でも有数の米作地帯だった。美田のあまりにも変わり果てた姿に心が痛んだ。

 楢葉町は、福島第1原発から南へ20~12キロ。このため、原発事故後、同町の大半は、立ち入り禁止の「警戒区域」に指定され、住民は避難を強いられた。が、2012年8月、「避難指示解除準備区域」となり、昨年9月、避難指示が解除された。ただし、里見理事長によると、この1年で避難先から町に戻ったのは約800人。原発事故以前の町の人口は7500人だったから、帰還者は約1割ということになる。里見理事長が語る。
 「町民の心情をひと言で言えば、『戻りたくない』ではなく、『戻れない』ということでしょう」
 「町民が帰還に二の足を踏んでいるのは、第1に、子どもへの影響を懸念しているからです。残留放射能が子どもの健康に影響するのではという不安ですね」
 「第2の懸念は、病院、美容院、スーパーなどが不足していることです。これでは生活できないと」
 「まだあります。すでに他の市町村で就職してなんとか暮らしてゆけるようになった。帰還するとなると転職しなくてはならない。果たして働き口があるか不安なんです」
 同理事長の話を聞きながら、「避難指示が解除されても住民が町に戻らない。そうなれば、町は自治体として成り立たなくなるのではないか」と思わざるをえなかった。

 さらに北上すると、富岡町である。同町は福島第1原発から約10キロのところにあり、大震災では津波に襲われた上、原発爆発による放射性物質が降り注くというダブルパンチを被った。人口はただ今ゼロ。事故当時は約1万5000人が住んでいたが、放射線量が高いために今も全町民避難という事態が続いており、町役場も郡山市へ退避したままだ。

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富岡町の双葉警察署わきの公園に設置された線量計は「0.281マイクロシーベルト」 を示していた

 ここでは、まず、JR常磐線の富岡駅へ向かった。ここは昨年も訪れたが、その時はすでに駅舎は取り壊され、白っぽいプラットフォームだけが、かつての駅の面影を残していた。駅前には、津波で半壊した商店や住宅が、目を背けたくなるような無残な姿をさらしていた。
 それから1年後、駅前は一新していた。商店や住宅の残骸は取り払われ、更地になっていたからだ。これから先、その更地に何が造られるのだろうか。新しい街づくりの構想を示した看板等は見当たらず、復興の将来展望は見えてこなかった。
 駅前から少し離れたところに、かなりの数の、建築したばかりの瀟洒な住宅が立ち並んでいた。もちろん、人は住んでいない。
 「津波・原発事故の直前に建てられたものなんです。おそらく、ローンで建てたものでしょう。せっかく借金してマイホームを建てたのに、避難指示によりそれに住めない。しかも、避難先では借家暮らしだから家賃を払わなければならない。ローンと家賃の二重払い。避難民の苦難は、こんなところからもうかがえます」と里見理事長。

 富岡駅跡から、夜の森地区へ。ここも昨年訪れたところ。見事な桜並木が続き、それを挟んで住宅街が広がる。住宅街は、立ち入り禁止の「帰還困難区域」と、住民に一日のうち一定の時間のみ立ち入りを許される「居住制限区域」に分けられており、私たちは「居住制限区域」の中をバスで通り抜けた。
 そこは、昨年もそうだったが、完全な無人地帯で、さながらゴーストタウン。犬一匹、猫一匹見当たらず、空には鳥の姿もない。住家の庭には雑草が茂り、半ば朽ちかけた家も。
 
 森閑とした住宅街にも人の気配がするところがあった。住宅の除染作業がおこなわれていたからだ。今回のツアーに参加した私の友人はツアー中、至るところで放射線量を測っていたが、彼の線量計は、この住宅街周辺では毎時0.53~0.58マイクロシーベルトを記録した。環境省が示している一般人の放射線量の基準が毎時0.23マイクロシーベルト以下であることを考えれば、夜の森地区は異常に高い値だ。
 「こんなに線量が高くては、この地区の住民は当分、いや、かなり長期にわたって我が家に帰ることはできないだろう。なのに、政府は住民を帰還させることを前提に住宅の除染を続ける。この落差はいったいどういうことなのか」。そんな疑問が募った。

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無人の住宅街では除染作業がおこなわれていた=富岡町夜の森地区で

 夜の森地区の近くに、JR常磐線の線路と夜ノ森駅の駅舎があった。1年ぶりに見た線路と駅舎は、前年よりもいっそう荒涼とした姿をさらしていた。低い丘と丘の谷間を走る線路は伸び放題の雑草と雑木に覆われて、もはや線路が目に入らない。駅舎もジャングルのような雑木の中に埋もれてしまっていた。常磐線が再び開通することはあるのだろうか、と思った。
 夜ノ森駅周辺には、広大な田んぼが広がっていた。しかし、見渡す限り雑草の生えた田んぼと化し、秋だというのに、黄金の穂並みはなかった。「もう稲作は無理」と、農民たちはこの土地を利用した大規模なソーラー発電を計画中という。

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雑草地と化した田んぼ=富岡町夜の森地区で

 ツアーを終え、さいたま市へ帰るバスの中で、参加者全員が感想を述べ合った。
 「現地に来て、初めて原発事故の惨状を理解できた。百聞は一見にしかず。帰ったら、周りの人に福島を訪れるよう勧めたい」
 「原発事故はまだ収束せず、被災地の復興も進んでいないのに、安倍政権は原発の再稼働に躍起になっている。そんなこと、とても認められない」
 「被災地に来た大臣や国会議員が極めて少ないことを知った。原発事故による被害の実態を知るために、大臣や国会議員はもっと現地を訪れるか、現地に住むべきだ」
 私は「原発再稼働が推進される一方で、福島では棄民政策が進行しているという感じを受けた」と発言した。

2016.09.30  献身無私のオルガナイザー
    平和運動家・進藤狂介さんを悼む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦後71年。この間、ひたすら平和運動に携わってきた人の訃報が相次ぐ。先日も平和運動家・進藤狂介さんが病没したのを知り、「これでまた1人、平和運動を裏方として支えてきた活動家がいなくなったか」と、惜別の情を覚えた。5月29日に死去、82歳だった。

 進藤さんに出会ったのは1966年である。私は当時、全国紙の社会部記者で、この年から「民主団体担当」になった。「民主団体」なんて今では死語だが、当時は革新系の大衆団体のことをそういった。「革新系」というのも今や死語と言っていいが、当時は社会党(社民党の前身)、共産党、総評(労働組合の全国組織。すでに解散)などをひっくるめて「革新陣営」あるいは「革新勢力」と呼んだ。そして、その影響下にある大衆団体を「民主団体」と呼んだのだった。

 私が取材で足を運ぶことになった民主団体は、具体的には平和運動団体、労働団体、学生団体、女性団体、国際友好団体などだったが、その中に、原水爆禁止関係団体があった。それは、3つあった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、民社・同盟系=どちらもすでに解散)だ。

 このうち、東京・港区御成門にあった原水協にいたのが進藤さんだった。当時、進藤さんはそこの専従事務局員で組織部に属していた。原水協の取材でお世話になった人の1人が進藤さんだったわけだが、ここで進藤さんと一緒に仕事をしていた同僚によると、進藤さんは山口県出身で、ここに来るまで山口県原水協の事務局員だった。抜群の事務能力を買われて原水協本部にスカウトされたのだという。 

 組織部での仕事は、原水協が主催する原水爆禁止世界大会の準備とか、核兵器問題や軍縮問題の資料集づくりとか、会議の議事録づくりとかいうものだったようだ。進藤さんと一緒だった元事務局員の1人は「原水協時代の彼の功績は、何といっても被爆問題国際シンポジウムの成功に寄与したことだろう」と語る。

 被爆問題国際シンポジウムとは、正式の名称を「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」といい、国際準備委員会と日本準備委員会の共催で1977年7月21日から8月9日まで、東京、広島、長崎を結んで行われた。これには、海外から22カ国69人の専門家が参加し、日本側からも学者・研究者らが多数参加した。シンポジウムは、広島・長崎の被爆者を対象に調査を行い、その結果を医学的、社会的、文化的な見地から検討し、原爆が人間と社会もたらした影響を明らかにした。被爆の実相と被爆者の実情が総合的な見地から国際的に明らかにされたのは初めてだった。
 いわば、日本にとっても世界にとっても画期的なイベントとなったわけだが、このシンポには、当時、対立・抗争していた原水協・原水禁の両組織も全面的に協力し、両組織に距離を置いていた市民団体も協力した。このことが1つの契機となって、この年、原水協、原水禁、市民団体が統一して世界大会を開くなど、3つのブロックの共闘が実現する。

 このシンポで、進藤さんは日本準備委員会の事務局員を務めた。シンポの後に刊行された報告書の中で、日本準備委員会事務局長を務めた川﨑昭一郎氏(当時、千葉大学教授。現公益財団法人第五福竜丸平和協会代表理事)は「日本準備委員会の事務局を支えてくださった多くの方がたのなかで、とくに進藤狂介・・・の各氏にたいし、心から謝意を表したい」と述べている。  

 そんな進藤さんにとって、1984年、思いがけない転機が訪れる。この年、共産党が、原水禁、市民団体との共闘を推進してきた原水協執行部に「原水禁・総評と共闘してはならない」との方針を示し、これに従わなかった吉田嘉清・代表理事を、共産党の意向を体した原水協の全国理事会が解任したからである。原水協事務局の何人かは「共産党のやり方は納得できない」として吉田氏と行動を共にした。進藤さんも原水協を離れた。
 吉田氏らが、新たな活動の場として「平和事務所」を立ち上げると、進藤さんもこれに加わった。平和事務所が開催した「草の根平和のつどい」で、よく進藤さんを見かけた。
 また、吉田氏らが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で被ばくしたバルト3国の国民を支援するための「エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金」を創設すると、そのメンバーになった。バルト3国の被ばく者代表が来日すると、彼らを長崎に案内したりした。
 
 そのころの進藤さんの活動でとくに印象に残っているのは、神奈川県の生活クラブ生協の組合員グループを“引率して”8月6日を中心に「広島行動」をやっていたことだ。進藤さんとともに広島を訪れた女性組合員たちが、原爆関係の遺跡を見学したり、平和集会に参加して討議に熱心に耳を傾けていた光景を思い出す。1990年前後のことである。組合員たちが広島へ行く前には事前学習会があった。それをアレンジしたのは、もちろん進藤さんである。

 15年ぐらい前だったろうか。進藤さんは郷里の山口市へ帰った。がんを患ったため、その治療のためだったようだ。しかしながら、私はその後もほとんど毎年夏に、広島か長崎で進藤さんに出会ったものである。彼が8月6日には広島の、8月9日には長崎の反核平和集会に姿をみせていたからだ。その時の進藤さんは元気で、とても病身とは思えなかった。そのころは、「軍縮問題研究者」とか「被爆問題研究者」と名乗っていた。
 ただ、昨年、歩行中に倒れ、以来、外出もままならない日々だったようだ。

 「勉強家だった」「軍事問題や軍縮問題にくわしかった。文章も書けた」「いつも裏方に徹していた」「人と人を結びつけるのが得意で、根回しに長けていた」「とくに若い人を組織するのがうまかった」「献身無私の人」「けんかをすることもあったが、心がきれいな人だった」・・・進藤さんと一緒に仕事をした人たち、進藤さんと付き合いがあった人たちの進藤評である。
 平和運動家のほとんどがそうであったように、進藤さんもまた、その生活を支えたのは奥さんだった。進藤さんの奥さんが言った。「脇目も振らず平和運動一筋に生きた一生でした」。
 なんでそんなに平和運動に熱心だったのか。その理由を聞く機会はついになかったが、幼いころ、戦争を体験したのだろうか。残念ながら、今となっては分からない。遺体は、遺言により山口大学医学部に献体された。死してもなお世のため他人のために役立ちたい。いかにも進藤さんらしい最期と思った。
2016.09.23  「『もんじゅ』廃炉は脱原発運動の勝利だ」
    豪雨の中、東京で「さようなら原発」集会

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「さようなら原発 さようなら戦争大集会」と銘打った集会が、9月22日、東京・代々木公園で開かれた。秋雨前線による豪雨が降りしきる中、全国各地から約9500人が集まり、「高速増殖炉『もんじゅ』の廃炉が決まったが、これは、私たちが長い間求め続けたきたことであって、脱原発運動にとって画期的な成果」「政府の原子力政策は明らかに曲がり角を迎えた。さらに運動を強化して原発のない日本、核武装とは無縁の日本を実現しよう」と気勢をあげた。

 東京で「脱原発」を掲げる大規模な集会が開かれたのは、今年3月26日にやはり代々木公園で開かれた「原発のない未来へ!つながろう福島!守ろういのち!3・26全国大集会」以来。主催は、作家の大江健三郎、落合恵子、作曲家の坂本龍一さんらが呼びかけ人となって生まれた「『さようなら原発』一千万署名市民の会」。

 開会は正午からだったが、その前から、JR山手線原宿駅から、レインコートに身を包んだり、傘をさして雨の中を会場の代々木公園にへ向かう人の列が続いた。
 会場に着くと、公園の野外ステージの前の広場には脱原発団体をはじめ労組、生協、市民団体などの旗やのぼりが林立し、色とりどりの無数の傘が広場を埋めていた。
 労組では、自治労、日教組、国労、JR総連、私鉄総連、全港湾など旧総評系の組合旗が目立ち、参加組合は北海道から九州にまで及んでいた。生協ののぼりは、パルシステム生協や生活クラブ生協など。もちろん、個人や仲間と連れだってやってきた思われる一般市民の姿もあった。
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             代々木公園の野外ステージ前広場を埋めた集会参加者

 第1部では、東京電力福島第1原発事故で被害を受けた福島県飯舘村の村民が、被災地の現状と課題を報告した。村民は「事故から5年半。メディアは東京の豊洲市場問題一色で、福島のことはほとんど報道されない。たまに報道されると、福島では復興が進んでいる、除染も進んでいるという話ばかり。しかし、まだ多くの県民が避難生活を余儀なくされており、行き場のない、除染廃棄物を入れたフレコンバッグが山積みになるばかり。原発事故による汚染水の処理問題も未解決で、そればかりか台風の影響で汚染水が増えている。これでは、復興が進んでいるとは言えない」と訴えた。
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          野外ステージから原発事故被災地福島の現状を訴える飯舘村の人

 第2部では、「市民の会」呼びかけ人で作家の澤地久枝さんが主催者あいさつをしたが、その中で澤地さんは、まず「きょうの新聞の一面で、高速増殖炉『もんじゅ』を廃止することになったと報じられている。これまで多くの人がやめるよう訴えてきただけに、これは歴史的なことだ」と「もんじゅ」の廃炉を歓迎。言葉を継いで「でも、安倍政権は原発再稼働を推進するばかりか、事故を起こした福島第1原発の廃炉費用を消費者の電気代に上乗せしようとしている。廃炉費用は東京電力が負担すべきであって、消費者にしょわせるなんてとんでもないことだ」と政府と東電を批判、「原発をなくすために、これからも力を合わせましょう」と呼びかけた。

 次いで、福島から参加した武藤類子さん(ひだんれん共同代表)や、詩人のアーサー・ビナードさん、俳優の木内みどりさんらが発言。
 ビナードさんは「広島を訪れたオバマ米大統領は、帰国後、核の先制不使用を言いだした。広島で話したことを具体化しようとしたのだろう。すると、安倍首相がこれに異議を唱えた。安倍さんは被爆国の首相ではないか。こんなこと許されることではない」と述べた。木内さんは「大雨の中、こんなに多くの人たちが集まった。天はなぜよりもよってきょう雨を降らせたのでしょうか。君たち、ほんとうにやる気があるのか、と私たちに問いかけたのではないか」と話した。

 最後に登壇したのは「市民の会」呼びかけ人でルポライターの鎌田慧さん。
 「安倍政権はようやく『もんじゅ』の廃炉を決めた。実に遅すぎた決定だが、それが持つ意味は重大で、日本の原子力政策がターニング・ポイントを迎えていると言いてよい」
 「ただ、政府が『もんじゅ』を廃炉にしても、高速炉の研究を維持すると言っていることに注目しなくてはいけない。それは、イコール核燃料サイクルをやめないということだからだ。そのことは、青森県六カ所にある、原発の使用済み核燃料の再処理工場の稼働を続けると言っていることで明白だ。この再処理工場はこれまで30年間にわたり22回も試運転を繰り返したのにいずれも中止に追い込まれたのに、まだやろうとしている」
 「なぜ、政府は核燃料サイクルをやめないのか。それは再処理工場でプルトニウムを取り出すためだ。プルトニウは原爆の材料になる。つまり、日本の核武装を目指しているからなのだ」
 「日本の原子力政策は破たんしつつある。脱原発を求める国民の声に耳を傾けない安倍独裁政権を打倒しよう」
 
 集会の後に予定されていたデモ行進は雨のため中止となった。
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                のぼりを持って集会に参加した大学生

2016.09.09  脱原発運動、反転攻勢へ
    9月22日(秋分の日)に大規模集会へ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「さようなら原発 さようなら戦争大集会」と銘打った集会が、9月22日(木、秋分の日)、東京・代々木公園B地区・けやき並木で開かれる。原発の再稼働を推進する安倍政権と電力業界に対し再稼働停止を迫ろうという狙いで、脱原発を掲げる大規模集会は今年3月26日にやはり東京・代々木公園で開かれた「原発のない未来へ!つながろう福島!守ろういのち!3・26全国大集会」以来だ。

 主催は「さようなら原発」一千万署名市民の会。これに、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲行動実行委員会、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会が協力する。集会では、次のスケジュールが予定されている。 

12:00 第1部 トーク&ライブ
   報告:福島の現状と課題 長谷川健一(ひだんれん)他
13:30 第2部 トーク
   呼びかけ人あいさつ:鎌田慧(ルポライター)、澤地久枝(作家)
   発言:アーサー・ビナード(詩人)、木内みどり(俳優)、武藤類子(ひだんれん)
15:00 デモ出発
   渋谷方面コース:代々木公園~渋谷駅~神宮通公園
   原宿・青山方面コース:代々木公園~原宿~表参道~明治公園周辺

 この時期に脱原発団体が大規模な集会を計画したのは、安倍政権と電力業界が、昨年から、ますます原発の再稼働に突進しているからだ。
 東京電力福島第1原発の事故から5年余になるが、事故はまだ収束していない。そればかりでない。東電が原発建屋に流れ込む地下水を遮断する対策の切り札としてきた凍土遮水壁方式の破綻が、いまや明らかになりつつある。
 にもかかわらず、安倍政権と電力業界は昨年8月には九州電力・川内原発(鹿児島県)1号機を再稼働させ、続けて同10月には川内原発2号機を、今年1月には、関西電力・高浜原発(福井県)3号機を、2月には高浜原発4号機をそれぞれ再稼働させた(ただし、高浜原発4号機は再稼働直後にトラブルで自動停止。これに続き、今年3月には、高浜原発3、4号機に対する大津地裁の運転差し止め仮処分決定を受け、3号機が停止)。さらに、安倍政権と電力業界は、8月12日に四国電力・伊方原発(愛媛県)3号機を再稼働させた。
 稼働中の川内原発1、2号機については、こんなこともあった。三田園訓・鹿児島県知事が、熊本地震を受けて県民の不安の声が高まっているなどとして、8月26日、九州電力に「原発を直ちに停止し、安全性を再検証するよう」要請したことである。川内原発に関しては画期的なことだが、九州電力は9月5日、「直ちに停止する」との求めには応じず、10月以降の定期検査入りまで稼働するとの方針を知事に伝えた。

 こんどの「大集会」は、これらの動きに抗議し、改めて全ての原発再稼働に反対する意思を示すためのものだ。
 さらに、先の参院選中は、大規模な脱原発集会を開きたくても開けないという事情もあった。脱原発団体に参加している組織の中には精力を参院選に集中せざるをえないところもあって、そうした組織は、選挙中は脱原発のための集会にエネルギーをさけない、というわけだった。「参院選は終わった。次は脱原発だ」。そんな声も聞こえる。
 それに、参院選では、市民諸団体と野党4党の共闘が初めて実現したが、双方が合意した選挙政策は「安保関連法の廃止」「立憲主義の擁護」「安倍政権打倒」などで、「脱原発」は入っていなかった。野党の中に「脱原発」ではまとまれない政党があったため、合意項目に「脱原発」を加えることができなかったわけである。いずれにせよ、そうしたことが、この時期、脱原発団体の動きを鈍くしたとという面があった。

 テント強制撤去に抗議して経産省包囲へ

 「経産省前テント」が国の提訴により撤去されたことも、脱原発団体関係者を勢いづかせている。
 経産省前テントとは、脱原発を訴える市民団体が東電福島第1原発の事故から半年たった2011年9月11日に東京・霞が関の経済産業省の敷地内に設置したテント。市民団体のメンバーがここに常駐して国の原発政策を批判する看板を掲げ続けた。脱原発運動の象徴的な場所として知られるようになったが、国は立ち退き訴訟を起こし、団体メンバーに撤去と土地使用料の支払いを命じる判決が、7月28日、最高裁で確定した。それを受けて、8月21日未明、東京地裁によりテントの強制撤去が行われた。

 市民団体「経産省前テントひろば」は、9月11日(日)15時から「テント設営5周年 脱原発9.11・怒りのフェスティバル」を経産省周囲一帯で行う。18時45分からは、経産省包囲ヒューマンチェーンを行うという。
 このフェスティバルは、テントの強制撤去前からテント設営5周年記念行事として企画されていた。が、強制撤去を受けて、フェスティバルは抗議の行動となりそうだ。
2016.09.03  色あせない山本宣治(やません)の訴え
 87年前に右翼に刺殺された労農党代議士を偲ぶ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 8月は、誰しも物故者と“出会う”月である。今年も8月にはお盆があったから、その期間中はあの世から里帰りしてきた祖先に“出会えた”し、加えて、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日と続いたから、私たちは戦争で亡くなったおびただしい人びとに思いをはせることができた。私も多くの故人に“出会えた”が、最も印象に残ったのは、「やません」こと山本宣治である。

 8月6日の広島原爆の日関連の行事や集会を取材した帰り、私は京都に途中下車し、そこで京都在住の友人(大学の同級生)と落ち合い、JR奈良線で宇治駅へ向かった。目的は、宇治市内にある平等院を見学することだった。私がまだ平等院を見たことがないのを知った友人が、案内を買って出てくれたのだった。

 宇治駅で下車すると、友人が「平等院へ行く前に見せたいものがあるから」と、宇治川川畔へ向かった。ついてゆくと、豊かな緑に囲まれた和風の国際観光旅館に着いた。「花やしき浮舟園」だった。友人は旅館の受付で何ごとか交渉しているようだったが、やがて青年が現れて、旅館の周りに茂る樹木の中の小道に私たちをいざなった。ついて行くと、古い蔵に突き当たった。古い表札がかかっており、そこには「山本宣治記念資料館」とあった。

 「山本宣治」と聞いても、今の若い人はどんな人物か知らないだろう。が、私の年代の者には「ああ、あの人物か」と思い出す人が少なくないに違いない。私は、学生時代に先輩からその存在を教えられて覚えていた。しかし、その生涯については詳しくは知らず、知っていることと言えば「戦前の労農党の代議士で、治安維持法の改正に反対して活動中、東京・神田の旅館で右翼に刺殺された」「その闘いは孤立したもので、彼の最後の演説も『山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆がいるから』というものだった」ということぐらいだった。
 「いまや伝説的な人物と言っていい山本宣治に関する資料をこの目で見られるとは」。私は思わぬ奇遇に胸の高鳴るのを覚えながら、薄暗く、人気のない蔵の中に陳列されている彼のデスマスク、胸像、著作物、揮毫などを見て回った。

 資料館に備え付けられていたパンフレット『山本宣治(やません)墓碑、資料館早わかり』(2016年3月改訂版・宇治山宣会発行)によれば、山本宣治の生涯は次のようなものであった。

 1889年(明治22年)、京都市新京極のアクセサリー店の一人息子として生まれた。両親はクリスチャンだった。宣治は京都市内の高等小学校を卒業し、神戸の中学校へ進むが、胸を患って中退。両親は宣治のために宇治川川畔に別荘(これが後に「花やしき浮舟園」となる)を建て、宣治はここで養生生活を送る。
 17歳の時、上京。大隈重信(明治・大正期の政治家で総理大臣を歴任。早稲田大学の創立者)邸に住み込んで園芸を学ぶ。1907年(明治40年)、カナダへ渡航し、家事手伝い、新聞配達、開墾、鮭捕りなどの労働に携わりながら、ハイスクールで学ぶ。ここで、自由と民主主義を尊ぶ科学的なものの見方を身につけたとされる。
 1911年(明治44年)に帰国し、同志社普通学校へ編入学。1914年(大正3年)、そこを卒業し、旧制第三高等学校へ。この年、丸上千代と結婚。1917年(大正6年)には東京帝国大学に進み、動物学を専攻する。東京・小石川に妻、子ども2人と住む。
 1920年(大正9年)、32歳で東京帝国大学を卒業し、京都大学大学院へ入学。そのかたわら同志社大学予科講師となり、「人生生物学」を教える。翌21年には、京都大学医学部講師、次いで同大学理学部講師になる。
 1922年(大正11年)。この年、日本共産党が創立される。宣治は、この年、米国の産児調節運動家サンガー女史が来日したのを機に労働者・農民への産児調節教育を始める。さらに、自由大学・労働学校の講師を務めるなど、労働者を対象とする教育活動に携わる。1924年(大正13年)には、鳥取市で産児制限に関して講演中、立ち会いの警察官から「弁士中止」を受け、演壇から引きずり下ろされる。これが原因で京都大学理学部講師を辞めさせられる。
 
 1925年(大正14年)、普通選挙法と治安維持法が公布される。これ以前の選挙は一定額以上の税金を納めた者にだけ選挙権を与えるという制限選挙だったが、普通選挙法により、25歳以上の男性は選挙権を得た。ただし、女性は除外されていた。年ごとに高まりを見せていた普通選挙を要求する国民の声に政府がようやく応えたのが、この法律だった。
 一方、治安維持法は「国体(天皇制)を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したり、これに加入した者を10年以下の懲役または禁固に処す」という法律であった。要するに、共産党(当時は非公然)をはじめ労働者や農民の政治的活動を取り締まるための法律であった。政府は、アメとムチの法律を同時に施行したわけである。

 こうした状況の中で、1926年(大正15年)、無産政党の労農党が結成され、宣治は労農党京滋支部に参加する。翌年、労農党京都府連委員長に選出される。1928年(昭和3年)には第1回普通選挙が行われ、宣治は京都府第2区から労農党候補として立候補し当選。当選者466人中、無産政党からの当選者は8人。宣治はその1人であった。
 その直後、共産党員とその支持者、労農党員ら約1600人が治安維持法違反で検挙されるという「3・15事件」が起き、宣治は犠牲者救援に奔走する。

 1929年(昭和4年)、治安維持法改正案が帝国議会に上程される。処罰の量刑を「10年以下の懲役または禁固」から「死刑または無期もしくは7年以上の懲役もしくは禁固」に引き上げるというものだった。宣治はこれに強く反対し、議会でもそれを表明しようとするが、発言を封じられ、改正案は3月5日、可決、成立する。
 その夜、宣治は常宿としていた神田の旅館光栄館で、「労働者だが、ストライキのことで相談したい」と身分を偽って訪ねてきた右翼団体の黒田保久二に短刀で刺殺された。39歳10カ月だった。
  
 遺体は東京で荼毘(だび)にふされ、遺骨が宇治の「花やしき浮舟園」に移された。そこで1週間にわたって通夜が行われた。日本が、いわゆる「15年戦争」に突入するのは、それから1年半後のことである。

 「花やしき浮舟園」は、その後も宣治の遺族によって経営されている。墓は宇治市内にある。墓には大山郁夫(戦前、早稲田大学教授から労農党委員長に就任。戦争中は米国に亡命、戦後、同大学教授に復職)の筆で「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから」と刻まれているという。

 宣治が右翼のテロに倒れてから87年。宣治はもう遠い過去の歴史に埋もれてしまった人物だろうか。同パンフをめくっていたら、宣治が1929年の第1回普通選挙に立候補した時に掲げた政見が載っていた。それは以下のようなものだった。
 立毛差押立入禁止反対。耕作権の確立
 失業者の生活国庫保証と最低賃銀の制定
 所得税の免税点の引上及その高率累進賦課
 生活必需品の関税及消費税の廃止
 言論集会出版結社の自由
 選挙法の徹底的改正
 働く農民に土地を保証せよ!
 労働者に仕事と食を與江(あたえ)よ !
 税金は大地主大資本より出させよ!
 すべての人民に自由を與江よ!

 その中に「言論集会出版結社の自由」があったのが、ひときわ私の目を引いた。「そうだ。宣治が命をかけて治安維持法に反対したのは、言論・集会・結社の自由をなんとしても守りたかったからだ」。そんな感慨に襲われた。
 戦後に制定された日本国憲法は「集会・結社・表現の自由」を保障している。が、安倍政権になってから、特定秘密保護法が制定された。これについては今なお「国家機密を拡大し、国民の知る権利が制約されかねない」との批判が強い。
 そればかりでない。この7月には、自民党が教育現場で政治的中立性を逸脱する教員の事例がなかったかを把握する実態調査への協力を、ホームページ上で募っていたと、共同通信などが報道した。また、参院選前の大分市で、野党を支持する労組などが入る建物の敷地に警察署員が無断で立ち入り、ビデオカメラを設置する、といった出来事があった。そのうえ、安倍政権は、過去に廃案となった「共謀罪」の成立要件を絞り込んで「テロ等組織犯罪準備罪」を新設することを柱にした組織犯罪処罰法改正案を今秋の臨時国会へ提出する構えだ。

 「言論集会出版結社の自由」が、また侵されつつあるのだ。山本宣治の訴えは決して古くさび付いたものではなく、現代日本にも通ずるのではないか。そう思わずにはいられない。そればかりでない。彼の政見の中には、87年後の今もまだ実現していない項目がいくつもある。そのこともまた、彼の訴えが今なお古くはなっていないことを感じさせる。
2016.08.27  毎週金曜日 国会前に立ち続ける武藤先生(91才)
          韓国通信N0497

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 小学校時代の恩師の年賀状が欠けていることに気づき電話をした。「年賀状を出したはずなのに」という元気な声が聞こえ、ホッとした。今年の正月のことである
 「武藤先生ですか」と声をかけると耳に手をあてて「そうですが…」。
 官邸・国会前の反原発デモ。千人近い参加者のなかに武藤先生を見つけた。
 武藤徹先生は私の恩師ではない。学校も違う元都立戸山高校の数学の先生である。先生が国会前のデモに参加しているのを知って手紙を書いた。三冊の本とともに返事が来た。先生の名前を覚えていたのは、戸山高校の友人たちから何回も噂を聞かされていたからだ。
 8月19日、隣に立ってシュプレヒコールを続ける小柄な老人が「ひょっとして」と思い、思い切って声をかけてみた。私たちは旧知のように固い握手を交わした。
 その3日前、いただいた本の礼状を書いたばかりだった。
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 武藤 徹様
 (略) 先日は手紙と図書までお送りいただき大変恐縮しております。『きらめく知性・精神の自由』『朽ち果てぬ知恵を求めて』、興味深く拝読しました。戸山高校の教育を知るうえで、また現在の教育問題、私たちが置かれている社会を知るうえで貴重で刺激に溢れたものでした。(略)
 戸山高校と同じく、私が在籍していたころの新宿高校も、とても自由な雰囲気で、大学受験のことを別にすれば天国のようなところでした。ただ残念なことに学校の教育方針などを聞く機会もなく、「自由放任」も同然で、ただ好き勝手に過ごしたという記憶しかありません。
 私が幸運だったのは戸山高校に進んだ友人たちと(略)酒も飲まずに夜遅くまで「如何に生きるか」といった青春論をいつも語り合ったという記憶があります。それはまさに「きらめく知性・精神の自由」がほとばしる世界でした。先生の薫陶を受けていた彼らからその「おこぼれ」にあずかっていたような気がしています。その後音信は途絶えていますが、高校という垣根を越えて先生の弟子が私の人格形成に大きな影響を与えたことは確かです。
 実は私は数学が大の苦手で、努力もせずに数学の先生に対して「こんな謎解きのようなことを勉強する気がしない」と開き直り、文学書ばかり読んでいました。(略)私自身が数学に偏見を持っていたことに気づいたのは40才を過ぎてからのことです。武藤先生に出会っていたら私の人生も変わっていたかも知れません。
 文系人間とばかり思っていたのに文章もロクなものしか書けません。文章は「技術」ではない、人間の「中身」が問題と悟り、目下人間修行の最中です。同封した新聞は個人新聞最新号です。「きらめく知性」を失いつつある友人たちは呆れているようですが、500号を折り返し点にして1000号を目指しています。「考える」「伝える」そして「ともに考える」。それを目指しています。いつまでもお元気に活躍してください。
……………………………………………………………………………………………………………

 著書『きらめく知性・精神の自由』(2013年桐書房)の出版記念シンポジウムが昨年2月、かつての教え子らによって開かれた。その模様が『朽ち果てぬ知恵を求めて』(2015年)として記録集にまとめられた。それを読むと先生の人柄が浮かび上がってくる。
「ファシズムが闊歩する社会」に危機感を募らせ、平和憲法の大切さを訴えた先生の挨拶に続き、教え子による記念講演、市川須美子氏(1968卒)の「日の丸・君が代裁判」と浜矩子氏(1971卒)の「アホノミクス」論はどれも武藤先生の教育と重ね合わせ語られた。
 収録された会場の声も先生の教育と各人が抱える問題が率直に語られたものばかりだ。260人もの元生徒らが集まり、「平和」「民主主義」「教育」についてこれほど熱く語られた「集まり」は他に例がないだろう。

 本の余韻が残っていたせいか、一度も会ったことのない先生に声をかけてしまった。私の横で先生は静かに立ち続けている。体調を聞くのが精一杯、その他の月並みな言葉は浮かばなかった。
 私には91歳まで生きられる自信は全くない。もし生きられたとして、自分の姿を想像してみる。自力で歩けるだろうか。「原発はイラナイ」「フクシマを返せ」「戦争反対、平和が一番」と叫び、拳をあげられるだろうか。
 「ボクたちが後を引き受けます。先生はゆっくりお休みください」と話しても、私の「偽善」に武藤さんは耳を貸すことはないだろう。「先に生れたのが先生」という言葉がある。あまり良い意味では使われない。黙々とデモに参加する姿を見ていると、先に生れて、「先を生きる」先生のすごさが胸に伝わってくる。また先生に会いに行こうと思う。

<ブランデージ会長の提言>
 IOC(国際オリンピック委員会)のアベリー・ブランデージの名前を記憶している人は多い。名前を聞くのもウンザリするほど1952年から20年間も会長を務めた。彼の評判は至って悪い。「反ユダヤ」「親ナチ」主義者といわれたにもかかわらず、何故長期にわたってIOC会長をやれたのか不思議だ。その彼が会長時代に一貫して主張していたことがある。
 1953年の理事会を皮切りにオリンピックの表彰式で国旗と国歌を禁止する提案を続けた。「ナショナリズム高揚への懸念」を表明し、オリンピックは「国家間の対抗試合ではなく、あくまでも個人が争う大会」というのが彼の信念だった。さらにオリンピックを「商業主義政治主義」から守り抜くことも訴え続けた。提案は否決され続けたが、退任の直前1968年の第67回総会で執念が実り、国旗掲揚と国歌の演奏の禁止が賛成34反対22で多数を占めるまでになった。3分の2を得られなかったため「否決」扱いとなったが、世界の常識は国旗掲揚と国歌演奏禁止が多数派となった。
 ひたすら「日の丸」と「君が代」に感動するのは世界の趨勢とかけ離れている。「ニッポン ニッポン」を絶叫し続けるアナウンサーはこのことを知っているのだろうか。
2016.08.26  弱者・少数者であることを罪とする風潮が生んだ凶悪犯罪
          相模原殺傷事件について思うこと                                

舩橋春子 (介護福祉士)

最初の印象。空気感とでも言おうか。それは地下鉄サリン事件や池田小事件の第一報を聞いた時と同じものだった。また一つパンドラの箱が開けられてしまった。今まで誰も試みなかった犯罪。でも、やってみたら案外たやすい。
テレビを娘に占領されるから、私の情報源はもっぱらインターネットだ。その日も機嫌よくテレビを見ている娘の横でパソコンを開き、そしてこの事件を知った。津久井やまゆり園は「支援区分6」の重度の障害者が多く利用している。
入所施設・重度の重複障害者・支援区分6。
世間の人にとっては聞きなれない、けれども私たちにとっては耳慣れた言葉がメディアに溢れ出す。津久井やまゆり園も地域との絆や理解を深めるために、コンサートや夏祭りを開催して地域住民を招待していた。ああ、これも娘が通う施設がやっていることだ。事件が起きた場所は、障害者を家族に持つ私たちにとっては実にありふれた場所なのだ。
私は事件当日も親の会の仕事で施設に行った。
でも、その日会った親はその間誰もこの事件を話題にしない。朝からおそらくテレビではひっきりなしに報道されているこの事件について知らないはずもなく興味がないはずもない。けれども、私を含めて誰も口にしない。まるでそんな事件などなかったかのように。

だが、今や親以上の時間を障害を持ったわが子たちに寄り添っている職員は、彼ら彼女らに対して適切に真摯に向き合ってくれていた。この事件について、わが子たちと話し合いを持ってくれたのだ。「子」と言っても、50歳になろうとする、私と同世代と言ってもよい「わが子たち」もいる。障害の重さも障害種別も年齢も異なる人々が利用している施設である。
最重度の「支援区分6」言語能力2歳代の娘は、おそらくいつも以上に緊張感を持って話をしている職員や仲間たちを前にして、話が分からないなりに何かを感じたのだろう。多動傾向があるのだが、離席もせず神妙に耳を傾けていたようだ。ここに施設利用者との信頼関係を大事にしている日常の施設の取り組みの確かさや、職員の努力を感じる。職員は命の大切さを、そして職員としていかに彼らを大切におもっているかを丁寧に説明してくれた。
子どもたちから出た意見は「怖いと思った」「自分の施設は大丈夫だろうか」。いつも通りの彼ららしい率直さだ。一方で「僕たちの職員さんはそんなことしない」「僕たちを勝手に不幸だと思わないでほしい」そして「犯人も僕たちのように支援が必要だったのじゃないか」という頼もしい発言もあった。
犯人が「生きている価値がない」と断じた障害当事者が彼を思いやっているのだ。
子どもたちから意見を求められた職員は、障害を持った彼らからいかに「たくさんの贈り物」を受け取ってきたか、それが自分の人生を変えるほどの影響を与えたことについて話し、心から信頼されるような職員になりたいという思いを伝えてくれたそうだ。障害を持ってもなお一生懸命生きている彼らがいるからこその支援者としての自分があると。
津久井やまゆり園もおそらくそれまでに職員施設の必死の努力があり、積み重ねたすぐれた実践も職員と施設利用者との信頼関係もあったであろう。

事件を受けて、厚労省が各都道府県、指定都市、中核市の民生主管部局長あてに「社会福祉施設等における入所者等の安全の確保について」という通達を出した。緊急時の対応体制を適切に構築せよ、夜間の施錠を徹底せよ、警察機関との協力・連携体制を構築し有事の際の通報体制を構築せよ、そして地域に開かれた施設運営をして地域住民との連携協力のもとに防犯体制を強化せよと。
この通達の意味するものは、あいかわらず現場の「自助努力」頼みでそれ以上でもそれ以下でもない。
通達を受けたからであろう、県からは県内障害者関係施設に「警棒」「サスマタ」の類が常備されているかというアンケートがあったそうだ。むしろ、こんなものを使った経験のある施設があるのかと聞いてみてほしい。今年度赴任したばかりの県の管理下の障害者施設の館長は施設内にサスマタが存在することすら知らなかったそうだ。そのことを責める必要はまったくないと思っている。
そもそもサスマタは一本持っていても意味がない。ネットでサスマタを販売している業者のHPによると、「当店では「威圧する係り」「転ばせる係り」「取り押さえる係り」を役立てるため、5本以上の設置を推奨しております」とのことだ。夜間の入所施設でせめて5人以上の職員を配置出来たらと思う。ところがそれだけの人数を配置できるだけの報酬単価はない。そもそも手薄になる時間帯など内部事情を熟知している元職員の犯行は、セキュリティを強化するだけでは防げない。

衆院議長・総理大臣は犯人の考えを否定する声明を出せ

犯人は二月に衆議院議長に犯行予告をしていた。彼は時代の空気に触発されてこの行為を正義と信じ、私たちの子供を殲滅すべき「敵」と見なしている。犯人は言う「障害者は不幸を作ることしかできません」と。優生思想に基づいてT4作戦という障害者の虐殺を行ったヒトラーと現政権が同じ政策をとることを期待しているのである。彼は衆議院議長や総理大臣という権力に対して己の忠義をアピールしている。
犯人の意図をおしはかれば、この青年は犯行予告のなかで自分は弱いわけではない、強者だと証明したかったのだ。ところが彼は生活保護費受給者であり、何らかの判断でそれが打ち切られていた。事実は彼もまた社会的弱者であり、本来「こちら側の人」であった。

わたしは、ここに、弱者、少数者であることが罪とされる異様な社会的風潮が形成されつつあることを感じる。たとえば在日朝鮮人韓国人排斥のヘイトスピーチである。「勝ち組」「負け組」という物言いである。弱者である青年の「思い込み」はこの風潮の中で形成され、凶悪犯罪は生まれた。類似の犯行を防ぐためにはセキュリティの対策以上に、この犯行に対して正当性を一切与えないことはもちろんだ。だが、そのためには市民社会が戦うべきはこの風潮であることを、互いが確認してほしいと思う。
犯人が言った「障害者は不幸を作ることしかできません」という言葉に対して、政府は障害者、その家族、支援者とともに怒りを感じているだろうか。もしそうであるなら、これを受け取った衆議院議長、総理大臣はきっぱりと犯人の考えを否定する声明を出してほしい。
そして、「保護者の疲れ切った表情」と犯人に犯行のダシにされた私たち「親」は、「自分らはほんとうに不幸なのか」と自問しよう。

障害者の親は不幸だと言うむきもあるだろう。なぜなら、重度の障害者が働く場も暮らす場も不足しているからだ。私たちはいまだに子供たちの生涯を安全に、生まれてきた喜びを感じながら終えられるだけの、十分な社会資源を持たずにいる。
そのために、とっくに子育てを終えた同世代の「健常」の子どもを持った親たちとは異なり、子どもが成人年齢に達してからも、幼稚園保育園の子どもを持つ親同様に毎日施設への連絡帳を書き、かなりの時間を親の会の活動などに割かなくてはならない。障害者を家族に持ったら、公的支援の足りない部分を「運動」で賄わざるを得ない。だから時として心身ともに疲れることもある。
だが、それは不幸ではない。障害を持っていても、家族に障害者がいるとしても、社会に対して人として尊重されたいと訴えることができなくなること、それが本当の不幸である。「健常」ではないこと、障害者であることが罪とされること、それが本当の不幸である。
それにしても、ただ自分の子どもの命を守るということが「時代の空気」と対峙する覚悟を必要とするようなことになるとは、20年前に子どもに障害があるとわかったときには、思いもよらなかったことである。
2016.08.09  オバマ大統領の広島訪問を巡る議論白熱化
     被爆71年の8・6広島を歩く

岩垂 弘 (ジャーナリスト)
            
 8月6日は、米軍機から広島市に原爆が投下されてから71年。この日を中心に、広島では原爆に生命を奪われた人たちを悼む慰霊の行事や、核廃絶を求める集会が展開された。猛暑の炎天下、全国から多くの人々がこれらの行事や集会に集まったが、戦争で核兵器を使用した唯一の国である米国からオバマ大統領が現職大統領として初めて広島を訪問した直後とあって、核兵器禁止を求める声が一層高まったほか、同大統領の広島訪問をめぐる議論が熱を帯びた。

2016・8・6岩11
                     8月6日の原爆ドーム
 6日に平和記念公園で開かれた広島市主催の平和記念式典には、強烈な夏の日差しが照りつける中、被爆者、91カ国の代表、各都道府県の遺族代表、一般市民ら約5万人が参列した。昨年は約5万5000人、一昨年は約4万5000人(いずれも広島市発表)だった。こうした事実は、原爆死没者に対する慰霊の思いと核兵器廃絶への願いが、被爆から71年たってもなお衰えていないことを全世界に示したと言える。参列者は式典会場からあふれ、平和記念公園内を埋め尽くしたが、親子連れ、小・中・高校生の参加も目立ち、ヒロシマが若い世代にも受け継がれつつあることを印象づけた。
 
オバマ広島訪問を巡って両論――評価と批判
 オバマ大統領は5月27日、広島を訪れ、原爆慰霊碑の前で演説をおこなった。8月6日を中心とする広島の行事や集会では、その行為と演説の内容を巡って相反する対応がみられた。
 一方は、その行為と演説の内容を高く評価する立場である。それを最も象徴していたのは、平和記念式典での松井一實・市長の平和宣言だった。
 松井市長は、宣言の中で、オバマ大統領の演説のうちの「核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」というくだりを、「被爆者の『こんな思いを他の誰にもさせてはならない』という心からの叫びを受け止め、今なお存在し続ける核兵器の廃絶に立ち向かう『情熱』を、米国はじめ世界の人々に示すものでした。そして、あの『絶対悪』を許さないというヒロシマの思いがオバマ大統領に届いたことの証しでした」と述べ、「今こそ、私たちは、非人道性の極みである『絶対悪』をこの世から消し去る道筋をつけるためにヒロシマの思いを基に、『情熱』を持って『連帯』し、行動を起こすべきではないでしょうか」と訴えた。

 秋葉忠利・前市長の発言も注目を集めた。秋葉氏は5日に開かれた原水禁国民会議(旧総評系)の「被爆71周年原水爆禁止世界大会・広島大会」分科会で講演したが、その中で、「オバマ氏の広島演説は、米国民を含む世界の全ての人々に向けて発せられたもので、米国民の意識を変えるはずだ」と、演説を肯定的にとらえる見解を明らかにした。
 秋葉氏によると、米国民の間では「日本によるパールハーバーが絶対悪。だから、神から与えられた原爆で日本をこらしめた。それゆえ、原爆投下は正しかった。戦争の早期終結で米兵と日本人の多くの生命が救われた。感謝されるべきだ」という見方が世論の大勢だという。が、オバマ大統領がプラハ演説で「原爆使用の道義的責任」に言及してから、世論が変わってきたという。「原爆投下は正しかった」という人が1945年には85~90%だったのが2009年(プラハ演説の年)には67%、2015年には56%になった。「米国大統領の演説の世論への影響力は絶大。今度の広島演説の影響も期待できるのではないか」と秋葉氏。

 一方、反核平和運動の側の受け止め方は、総じて、オバマ大統領の広島訪問そのものは歓迎するものの、演説の中身については極めて厳しい意見が相次いだ。
 4日開かれた原水禁国民会議の「被爆71周年原水爆禁止世界大会・広島大会」開会総会で、あいさつに立った川野浩一議長は「大統領は、71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降りてきた、と美しい表現で原爆投下を語ったが、被爆の実相はそんなものでなく、悲惨極まるものだった。大統領は就任に当たって『核なき世界』を、と演説し、世界の注目を集めた。間もなく大統領の任期が切れるが、この間、これといった核軍縮政策を進めることがなかったばかりか、米国の核兵器の性能を高めるために多額の予算を計上した」と批判した。

2016・8・6岩2
                   平和記念式典の参列者は式場からあふれた
 5日に開かれた、市民グループによる「8・6ヒロシマ平和へのつどい」で開会あいさつをした被爆二世の木原省治・原発はごめんだヒロシマ市民の会代表は「大統領は原爆投下について謝罪しなかった。過去は水に流してくださいということだろうが、そんなことは断じて容認できない。それに、大統領というポストにありながら、これまで核軍縮については何もしてこなかったし、しようともしない」と述べた。

 6日に開かれた、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会、NO DO(劣化ウラン兵器禁止)ヒロシマ・プロジェクト共催の「8・6ヒロシマ国際対話集会――反核の夕べ」でも、大統領の演説に対する批判が噴出した。
 小寺隆幸・原爆の図美術館理事長・京都橘大学教授は「オバマ大統領の広島訪問に当たって、日本側に、原爆犠牲者への謝罪はなくてもいい、この際、日米とも未来志向で行こうという論調があったが、これはおかしい。原爆投下は天災ではない。天から降ってきたわけではない。人間が落としたものだ。人間が核というものを持ってしまったことに原因がある。こうした過去のことをきちんと総括しないと、人類の未来は開けてこない」と話した。
 さらに、米国から参加したピーター・カズニック・アメリカン大学教授は「大統領の広島訪問自体はいいことだった。が、もっと早く来るべきだった。それに、大統領はプラハで『核なき世界を』と演説しながら、その後、核問題で何もしなかった。核兵器を削減するどころか、すべての核兵器を近代化して使いやすくしようと、巨額の予算を使って核の利用を推進してきた。結局、大統領は、広島を訪問することで、中国を見捨て日米同盟強化を通じて自国の安全保障を図るという政策を進める安倍首相に自信を与えた」と批判した。

2016・8・6岩1
          反核平和集会には高校生の姿もみられた(8・6ヒロシマ平和へのつどいで)
 2日から4日まで開かれた、日本原水協(共産党系)の「原水爆禁止2016年世界大会国際会議」は宣言を採択したが、そこには、オバマ大統領の広島訪問とその演説への言及はなかった。どちらも評価に値しない、ということだったのだろう。

 原爆による被害者、被爆者はオバマ大統領の広島訪問と演説をどう受け止めたか。被爆者の全国組織である(被団協)は6月に東京で開いた定期総会でこの件に関する決議を採択している。そこでは「『空から死が降ってきた』と、自然現象のような言葉で、アメリカの責任を回避する表現だった。大統領としての責任は一切語らなかった」「具体的な課題の提起もなかった」と批判、「原爆投下に対する謝罪の証しとして、核兵器廃絶への責任と行動を一層深く求める」としている。

これからの運動目標――国際署名、原発再稼働反対など
 反核平和運動として、これからどんな目標を掲げ、いかなる運動を展開したらいいのか。この点をめぐっても議論があった。
 どの団体、組織の論議でも共通していたのは、現在ジュネーブで行われている、核兵器のない世界を実現するための「具体的で効果的な法的措置」、すなわち核兵器禁止条約の締結を議論する国連の公開作業部会をなんとしても成功させ、核兵器禁止条約の実現を図りたい、という発言だった。
 このため、日本原水協も原水禁国民会議も、被団協がこの春から進めている「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」に協力しようという方針を打ち出した。被団協は、この署名運動で世界中から数億人の署名を集め、国連に提出したいとしている。

 同時に、各団体とも、安倍政権への批判を強める構えだ。というのは、日本政府が、核問題ではダブルスタンダード(ある大会参加者は「二枚舌」と言い換えた)を取り続けているからだ。すなわち、日本政府は、国際舞台では核兵器廃絶を唱えながら、米国の「核の傘」に頼る安全保障政策を続けているほか、ジュネーブの国連作業部会では、米国の意向をくんで核兵器禁止条約の締結に異議を唱えているからである。各団体とも、日本が米国の「核の傘」から離脱するよう安倍政権に求めて行く、としている。

 安倍政権が原発再稼働を推進していることに対しても、強い懸念が表明された。これは、原水禁国民会議の大会でとくに目立った。とりわけ、鹿児島県の九州電力・川内原発に続き愛媛県の四国電力・伊方原発が8月12日にも再稼働される予定であるところから、「脱原発への運動を強めよう」との発言が目立った。

2016.08.03  新たなヘリパッド建設―なるほど、今度は機動隊500人か
 
宮里政充 (もと高校教員)

      
 いま日本政府は沖縄で何をしているのか。私はこの数日、「リベラル21」にその様子を書こうとして、思い悩んできた。憤懣やるかたない思いでいっぱいで心かき乱され、書きたいことも山ほどあるが、何をどう順序立てて書けばいいのかまとまらない。そこで今日のところは、沖縄が置かれている状況と安倍政権の政治手法について考えるときの参考にしていただくために、資料の一部を提示するにとどめておきたい。
 まずは、7月22日沖縄防衛局が、沖縄本島北部の東村(ひがしそん)と国頭村(くにがみそん)に広がる米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)で新たなヘリパッドの建設工事に着手したと発表した件についてである。

地元の東村長、建設容認を再表明(沖縄タイムス+プラス 7月21日)
 東村の伊集盛久村長は20日、村高江周辺のヘリパッド建設について「北部訓練場過半が確実に返還されることで基地の整理・縮小につながる」と容認する姿勢を示し、「ヘリパッド工事は安全確保したうえで進めていただきたい」と述べた。東村役場を同日訪ねた県議会与党会派15人に見解を示した。
 一方、ヘリパッドを使用するオスプレイに対しては41市町村の首長で配備反対を訴えた「建白書」や「機体の安全性が確認できていない」ことを理由に反対の立場を強調。その整合性について「よく矛盾と言われるが、オスプレイの安全性が確認されるまでは容認できないといっている」とした。
 ヘリパッド建設の工事車両が高江集落内を通る可能性については「沖縄防衛局は集落内道路は使わないと言っている」と否定。また、県道70号上で機動隊による一斉検問があったことには「私の権限外で言える立場にない」とした。

沖縄県議会、建設中止を求める意見書を可決(沖縄タイムス+プラス 7月21日)
 県議会(新里米吉議長)は21日、6月定例会最終本会議で、米軍北部訓練場の一部返還に伴う東村高江周辺のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設に対し、建設中止を求める意見書を賛成多数で可決した。意見書を提案した与党3会派の26人が賛成し、野党の自民の15人は反対、中立の公明と維新の計6人は退席した。

沖縄タイムス記事(7月25日)
 「辺野古・高江」をめぐる安倍政権の強権的な振る舞いは尋常でない。官邸サイドには、国と県の関係を正常な軌道に引き戻す意思がまったく感じられない。キャンプ・シュワブの陸上部分の工事も近く再開する、という。現状はあまりにも異常だ。
福岡高裁那覇支部や国地方係争処理委員会(総務省の第三者機関)が、それぞれの立場から「話し合い解決」を求め、県も協議の継続を要望したにもかかわらず、政府は22日、県を相手取り違法確認訴訟を起こした。
 同じ日、政府は県外からおよそ500人の機動隊を投入し、住民を強制的に排除してヘリパッド建設に着手した。緑豊かな東村高江周辺では22日以来、人と車の自由な行き来が制限され、戒厳令のような状態が続いている。
翌23日には、埋め立て予定地に近い久辺3区(辺野古・豊原・久志)と沖縄防衛局の懇談会が開かれ、名護市を通さずに直接、補助金を交付する「再編関連特別地域支援事業」を次年度以降も継続することを確認した。
 威圧、恫喝(どうかつ)、強制排除、分断策。やりたい放題である。こうした強硬策が何より問題なのは、選挙で示された沖縄の民意を完全に無視しているからだ。参院選では「辺野古・高江」の工事強行に反対する伊波洋一氏が、安倍政権の現職閣僚に大差をつけて当選。県議選でも翁長県政の与党は議席を伸ばした。
 今や沖縄選挙区で当選した自民党の議員は衆議院にも参議院にも1人もいない。(中略)
事態は、危険水位に近づきつつある。悪夢を現実化させてはならない。安倍政権の暴走をだれが止めるのか。
 それを食い止める一義的な責任を負わなければならないのは政治家だが、野党はあまりに非力で、与党は安倍官邸をチェックする機能も意欲も失っている。
 結局のところ、沖縄のこの状況を変えることができるのは、主権者である国民しかいない。状況を変えることができるかどうかが、本土・沖縄の未来の関係を規定する。

基礎的・基本的なこと
 私は沖縄への修学旅行を計画している学校へ出向いて、事前学習のための講演をおこなっている。これまで東京・神奈川・茨城などの中学校や高校で話をした。私が沖縄戦の体験者であることから、学校側は「平和学習」のテーマを要望することが多い。学校によって事前の取り組みは様々で、グループごとにレポートを書かせて発表させるところがあるかと思えば、社会科の授業で教師が簡単に触れるだけのところもある。私としてはそういう学校の状況の如何に関わらず、ともかく沖縄を選んでくれたことに敬意を表しながら、いそいそと出かけていく。(ある私立中学校で、ひめゆりの塔の前で慰霊の意を込めて合唱するために練習してきたという童謡『てんさぐの花』(鳳仙花の花)を披露してくれた時には涙が出た。)
 私は講演の中で私自身の戦争体験や悲惨を極めた沖縄戦について語るのだが、その前に必ず次の内容を取り入れることにしている。それは沖縄が日本本土やアメリカとどういう関わりをもちながら今日に至っているかという歴史の問題である。ポイントを6つにしぼる。

①1429年に始まった琉球王国は、日本・朝鮮・東南アジア諸国との中継貿易を通して発展した。特
  に中国(明・清)とは冊封関係にあり進貢貿易によって琉球王国は多くの利益を得た。
②1609年の島津軍は軍3000で侵攻し、琉球を幕藩体制へ組み入れた。
③1879(明治12年)、明治政府は警官160名余と軍隊300名余を投入して廃藩置県を強行した(琉
  球処分)。皇民化教育の徹底。
④沖縄戦(米軍の日本本土進撃を食い止める防波堤とする。軍民区別のない凄惨な上陸戦とその
  犠牲)
⑤戦後、米軍統治下に置かれる。銃剣とブルドーザーによる米軍の土地接収と基地化。
⑥米軍基地はそのままで、1972年に本土復帰。

 これらの流れを短時間で説明するのは至難の業であるが、流れの節々に何があったかを記憶し、今後沖縄について考えるときの基礎的・基本的な判断材料にはなりうると思っている。
 私は沖縄について語るとき、これらの項目をはずすことはできない。辺野古や高江の問題はこれらの項目と切り離しては存在しえないからだ。

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              7月22日(金)

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             琉球新報・号外(7月22日)

2016.06.20   「第五福竜丸を世界遺産に」の声も
    開館40周年を迎えた展示館

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京駅からJR京葉線に乗る。数分で四つ目の駅、新木場に着く。駅舎を出ると、北に向かって車道が延びる。明治通りだ。その歩道を数分歩くと、右手の木立の中に、本をやや開いて立てたような形をした、焦げ茶色の建物が見えてくる。都立第五福竜丸展示館である。それが、6月10日で開館40周年を迎えた。
 
 ここに展示されているのは木造船の第五福竜丸。140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートル。敗戦直後の1947年、和歌山県の古座町(現串本町)で建造された。木造船の寿命は15年から20年とされているが、第五福竜丸は建造から今年で69年。敗戦直後に造られた木造船としては現存する唯一の船とされる。

 同船は建造後、数奇な運命をたどる。
 建造された時はカツオ漁船だったが、その後、所有権が静岡県焼津市の船主に移り、マグロ漁船に改造される。ところが、1954年3月1日未明、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から北東の海上で調査操業中、米国がビキニ環礁で行った水爆実験ブラボー(爆発力は広島原爆の1000倍)に遭遇する。実験によって生じた放射性降下物の「死の灰」が同船に降りかかり、これを浴びた乗組員23人全員が放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。水爆による世界初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、同様の被害を受けた。

 これが、ビキニ被災事件で、衝撃的なニュースとして世界を駈けめぐった。これを機に日本では、東京都杉並区の主婦たちの間から原水爆禁止署名運動が起こり、それは燎原の火のように全国に波及、署名は3200筆を超えた。こうした国民的規模の盛り上がりを背景に、1955年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。

 これに先立つ55年7月には、哲学者バートランド・ラッセル、物理学者A・アインシュタイン、物理学者湯川秀樹ら世界の著名な科学者11人連名で「将来の戦争では核兵器が必ず用いられるから、各国間の紛争は平和的手段によって解決されるべきだ」とする「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。これを受けて、核軍縮を目指す科学者の国際的な集まりである「パグウオッシュ会議」が発足する。
 こうした経緯でも分かるように、第五福竜丸の被ばくが、グローバルな原水爆禁止運動を引き起こしたわけである。

 被災した第五福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学の練習船となるが、老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場となっていた東京湾の夢の島に廃棄された。1968年、みじめな福竜丸の姿に心動かされた都内の会社員、武藤宏一さんがつづった、保存を訴える投書が朝日新聞に載ったことから、原水爆禁止運動団体などによる保存運動が起こり、1976年には、公園化された夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成、同年6月10日に開館する。東京都が船体を買い上げ、永久保存を図るという形で決着をみたのだった。
 展示館の管理は、公益財団法人第五福竜丸平和協会(川﨑昭一郎・代表理事)にゆだねられた。以来、第五福竜丸は、「ビキニ被災事件の生き証人」として、ヒロシマ、ナガサキにつぐ「第3の核被害」の実相を訴え続けてきた。  
 
 第五福竜丸平和協会によれば、展示館開館以来の入館者は延べ530万人。年平均で13万余人。入館者は各年代に及ぶが、小・中・高校生の学校単位の見学が多いという。修学旅行や、社会見学、平和教育の訪問先としてここが日程に組み込まれるようだ。外国人の入館者も年々増えているという。
 
 来館者ノートには、入館者の感想がつづられている。例えば――
 「ぼくはこのふねをみて、せんそうのかなしみがよくわかった。ぼくがおとなになったときにはせんそうをぜったいにおこさないようにしたいです」(幼稚園年長組)
 「福竜丸をひとつひとつ見ていくと戦争はやりたくないと訴えていた。福竜丸のおもいが世界じゅうの人にとどいてくれるといいな」(小学6年、女)
 「すいそばくだんをつくった人たちは、ひがいにあった人たちがかわいそうだと思わなかったのですか。わたしはそんなことをしないよのなかにしたい」(大分、小学2年、女)
 「過去はもう変えられないものです。福竜丸をおそった悲劇は真実です。しかし、未来は私たちの手で作り出していくものです。私達からはじめて世界中にげんしばくだんや戦争のない平和な世界がひろがってゆけばいいと思います。この大切な命をいつまでも守っていきたいと思います」(岩手、中学3年、男)
 「水爆実験をしたこと自体怒りを感じる。それをもみ消そうとした政府(アメリカ・日本も)、そして放射能検査を打ち切ろうとした日本政府の行いは国民として恥ずかしい!」(東京、男)
 「小中の社会科で第五福竜丸のことを教わりました。しかしビキニの島の人々も被曝し苦しんでいることは知らされていませんでした。核のきょう威、大国のごうまんを知るためにもビキニの人々のことを児童生徒に教えるべきだ」
 「われわれは福竜丸を参観して、いかに核兵器が恐ろしいかを知りました」(アムステルダムから来たオランダ人)

 これらは入館者が抱いた感想のほんの一部だが、これらを通じて、展示館内の福竜丸をはじめとする展示物が、多くの人々に「核兵器はつくるべきでないし、使用すべきでない」「戦争は絶対に起こしてはならない」との思い抱かせてきたことが分かる。第五福竜丸展示館が、核兵器廃絶の世論を内外で形成する上で大きな役割を果たしてきたことは確かだろう。

 5月29日、東京・神田の学士会館で、第五福竜丸平和協会主催の「展示館開館40周年記念レセプション」があった。
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         東京・学士会館で開かれた展示館開館40周年記念レセプション

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    記念レセプションであいさつするトム・キヂナー駐日マーシャル諸島共和国大使

これまで協会の活動を支援してきた各界の人たち約120人が出席したが、来賓のトム・キヂナー駐日マーシャル諸島共和国大使は、あいさつの中で「福竜丸は核兵器による悲劇を訴え続けるシンボルである。これからも、世界の人々によって記憶され続けるだろう」「私たちは、今こそ、原水爆の被害はわたしを最後にしてほしい、という久保山愛吉さんの言葉を思い起こしたい」と述べた。
 出席者からもさまざまスピーチがあったが、東友会(東京都在住の被爆者によって結成された団体)の役員からは「福竜丸は、人類にとって永久に保存されるべき貴重な遺産。ぜひユネスコの世界遺産に登録されるよう努めようではないか」との発言があり、会場から拍手がわき起こった。