2017.09.06  安倍9条改憲を許さず
 護憲派が大同団結して新組織結成

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 安倍首相が「憲法9条改定」に突っ走る中、それの阻止を目指す護憲派が大同団結して新しい護憲組織を結成した。「安倍9条改憲NO!全国市民アクション」といい、9月8日(金)午後6時30分から、東京・中野区の「なかのZERO」大ホールでキック・オフ(発足)集会を開く。今後、3000万人を目標に「9条改憲に反対する署名運動」を全国で展開する。

 「安倍9条改憲NO!全国市民アクション」の結成は、その発起人らが9月4日に衆院第1議員会館で記者会見して発表した。
 それによると、「安倍9条改憲NO!全国市民アクション」は、発起人19人の呼びかけに応えた団体・個人が参加して8月31日に結成され、実行委員会が発足した。

 発起人19人は、有馬頼底(臨済宗相国寺派管長)、内田樹(神戸女学院大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)、落合恵子(作家)、鎌田慧(ルポライター)、鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)、香山リカ(精神科医)、佐高信(ジャーナリスト)、澤地久枝(作家)、杉原泰雄(一橋大学名誉教授)、瀬戸内寂聴(作家)、田中優子(法政大学教授)、田原総一朗(ジャーナリスト)、暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)、なかにし礼(作家・作詞家)、浜矩子(同志社大学教授)、樋口陽一(東北大学・東京大学名誉教授)、益川敏英(京都大学名誉教授)、森村誠一(作家)の各氏。
 実行委員会には、総がかり行動実行委員会(正式名称は「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」)に加わる19団体のほか、九条の会、それに立憲デモクラシーの会、安全保障関連法制に反対する学者の会、安保関連法制に反対するママの会の有志が参加している。九条の会が他団体と共闘するのは初めてという。 

 発起人の1人によると、今回の「全国市民アクション」結成のイニシアチブをとったのは総がかり行動実行委員会という。安倍政権が成立を図った、集団的自衛権の行使を可能にするための安保関連法案を阻止するためにつくられた組織で、その中核をなすのは旧総評系の「戦争をさせない1000人委員会」、共産党系団体が中心の「戦争する国づくりストップ!憲法をまもり・いかす共同センター」、市民団体の「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」の3団体である。そして、同実行委はこれまで、安保関連法に反対して国会周辺で大規模な集会・デモを繰り返し展開したほか、毎年5月3日の憲法記念日には、横浜や東京で大規模な護憲集会を開いてきた。

 発起人の1人が続ける。「安倍政権がいよいよ9条改憲に乗り出してきたので、総がかり行動実行委としては、安倍政権の攻勢に対抗するためには運動の幅をもっと拡大しなくては、と考えたのではないか。九条の会などが加わるとなると、運動の幅はこれまでよりさらに広くなるので歓迎したい」

 総がかり行動実行委が安保関連法案廃止を目指して全国で展開している署名の目標は2000万筆だ。これに対し、これまでに集めた署名は1580万筆。こんどの全国市民アクションの「9条改憲に反対する署名」の目標は3000万筆。果たして、達成できるかどうか。
 全国市民アクションは、署名運動のほかに、11月3日などに大集会も予定している。全国各地で学習会も開催するという。
2017.08.30 東海原発再稼働を許すな!! 子どものために! 未来のために!
韓国通信NO534

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

 天候不順だった今年の夏もおしまい。茨城県東海村の老朽化した、日本原電の東海第2原発が再稼働しそうだ。「8.26原発いらない茨城アクション実行委員会」主催の集会にでかけた。
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 集会は8月26日、東海第2原発に近い公園で開かれた。雨と猛暑が予想されるなか、近県から千人を超す市民たちが集まった。日本の原発の「発祥地」といわれる東海村で日本原子力開発史上初の死者を出した事故(民間ウラン加工施設JCO東海事業所での臨界事故、1999年)があったことは記憶に新しい。その上、2011年3.11の東京電力福島第1原発の事故が今なお収束していないのに、耐用年数40年を超える東海第2原発を再稼働するとは信じがたい。
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 原発のある鹿児島や愛媛、福井に出かけるには時間があっても経済的負担が大きい。隣県の原発なら地元の人たちと一緒に汗をかくのも悪くない。なにしろ自宅から直線距離にして100キロもないところだ。
 そんなところに出かけて行っても「あまり意味がないんじゃない? 」といわれそうだが、本人も自信はない。
東京電力福島第1原発の事故以来、自分の気持ちを体と声で確かめている。他にやれる能力がないのでこれが精一杯。集会の後、原発を包囲するために一時間程行進して汗を流した。<写真・上は集会の模様、下はデモ行進>

<スポーツクラブで>
メタボと高血圧対策にスポーツクラブに通い始めてから十数年になる。運動もひとりでは長続きしそうもないので、お金を払って健康を買っている。
先日、そのクラブの女性インストラクターが、私を含めて30人の生徒の前で福島県浪江町に家族旅行をしたことを話した。死んだような町を見て「原発の恐ろしさを実感した」と話すと、会場がシーとなった。深刻に受け止められて、話した本人はびっくりしたようだ。
我孫子市は4億円に近い損害賠償を東京電力に請求した(8月21日)。市の請求には住民1人ひとりの被害は含まれていない。子どもたちの健康についても不安を残したままだ。市議会は「再稼働反対」の意見書を2年前に採択した。「風化」したように見えて市民は原発の恐ろしさを忘れてはいない。

<常磐線イマダニ復旧セズ>
東京と仙台をつなぐ常磐線は、福島第1原発の事故から6年たっても不通のままだ。津波の被害と原発の被害が重なった。山手線が10分遅れても駅の電光掲示板に表示されるのに、常磐線の不通は知らされない。原発事故を忘れさせたい政府に鉄道各社が「忖度」しているように見える。

2017.08.25 クルド人国家独立への住民投票迫る(下)
自治区首都アルビルで交渉つづく

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)


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クルディスタン(クルド人の主な居住地域―英語版ウイキペディアから)

イラクのクルド人自治区政府が9月25日に予定している、独立の可否を問うクルド人住民投票についてのイラク政府・与党と自治区政府代表団の交渉は、14日から20日まで1週間、首都バグダッドで行われ、さらに2週間以内に、自治区の首都アルビルで再開することになった。
クルド代表団側は、イラク政府・与党が求める住民投票延期の可否についての最終的決定は、あくまで9月25日実施を主張しているバルザーニ議長(大統領)の下、アルビルで行わなければならないと主張。政府・与党側も同意したという。クルド代表団のシャゥエイス代表は20日、双方の立場はこれまで以上に近づいたと記者団に語った。
一方、イラク政府与党・代表団のクザイ代表は、「双方の立場は近寄りつつあるが、これ以上の交渉はアルビルで行わなければ進まないだろう」と語った。
クルド代表団に近いロイター通信は、クルド代表団の発言として、「相手側は、独立投票の延期をあくまで求め、その代わりに政治的、経済的譲歩を行うと主張している」と伝えている。
政治的譲歩とは、すでにクルド自治政府が独立国並みに得ている行政的、軍事的決定権さらに周辺諸国や国連機関との交渉権限を拡大することであり、経済的譲歩とは国家予算の配分の確定と石油輸出の問題など。石油については、世界的な油田地域キルクークからトルコのジェイハン港に輸出する原油収入の取り分の確定とその実行問題だ。何度も書いたが、イラク国家の1州であるキルクークをモスルに続いてIS(イスラム国)が占領し、クルド人武装勢力がすぐに取り戻し、そのまま自治区が編入した既成事実をどうするか。自治区政府は、来るべき独立住民投票にキルクークを含めているが、イラク政府はとうてい認められないだろう。今回のバグダッドでの交渉でも、キルクーク問題が協議された形跡はなく、棚上げされたままなのかもしれない。
 (主なクルド人居住地域クルディスタン)イラク、トルコ、シリア、イランにまたがる山地がクルド人の歴史的居住地域。面積は日本の1.5倍の約50万平方キロ。
クルディスタンのクルド人の正確な人口は不明だが、英語判ウイキペディアによるCIA(米中央情報局)の最近の国別推定人口はー
トルコ 1,450万人
イラン   600万人
イラク   500~600万人
シリア   200万人以下
計2,800万人に近い。どの国も、イラクでのクルド国家独立に反対している。
他に国外移住者が150万人うち半数はドイツ。ロシア、コーカサス・中央アジア諸国に40万人。

2017.08.24 安倍政権の危うい大学入試「改革」
-センター試験後の大学入試-

小川 洋 (大学非常勤講師)

はじめに
 第2次安倍政権下の大学入試改革は、13年秋の教育再生実行会議の提言から始まった。その後、元慶応大学塾長の安西祐一郎氏を長とする中央教育審議会(中教審)に移され、一年余りの審議を経て14年末に最終答申が出された。その答申は部会長自身が「今後の検討に期待する」と言い放ったほど雑なものであり、各方面から具体化の可能性を危惧する声が上がった。
答申を受けた文科省はワーキンググループ(WG)を設置し、この7月、最終的な「実施方針などの策定」が発表され、センター試験の名称も「大学入学共通テスト」と変え、4年後に全面実施されることとなった。今後は、この方針にそって実施に向けて準備が進められていくことになる。しかし、結論から言えば、最初のボタンの掛け違いが最後まで尾を引き、作業は遅れ、示された「策定」さえも、実施までには多くの困難を抱えたものとなっている。

安西中教審の答申の骨子は、以下のようなものだった。

(1) 思考力・判断力・表現力を中心とした評価
(2) 教科別試験に加えて総合型の導入
(3) 記述式の導入
(4) 年複数回実施
(5) 段階別表示(一点刻みの排除)
(6) 英語の四技能(読む、聞く、書く、話す)の評価と民間の資格・検定試験の活用

(1)は問うべき学力観を示し、(2)~(6)がその具体策である。現状の入試が、記憶力を測ることに偏り、高校以下の教育が「知識注入型」になっている、という見方が根本にある。現状のままでは、グローバル化が進展する新しい時代に求められる人材を育てられないとして、センター試験を全否定するかのように、その廃止も明言してしまった。しかし現状のセンター試験が万全ではないとしても、よく工夫された良質なものであることは、多くの教育関係者が認めるところである。誤った現状認識をもつ人物が部会長に就いたことが、そもそもの間違いだったと言わざるをえない。具体策を一つずつ点検していこう。

総合型テスト
高度な理解力や判断力を判定するには、教科単位ではない総合型のテストが有効ではないかというのだが、素人考えというしかない。テストとしては意味がないどころか、関係者を混乱させるだけである。例えば国語(日本語)や英語を交えながら社会科の内容を問うテストを考えてみよう。受験生の得点は、日本語能力、英語力と社会科の学力のいずれを反映しているのか不明である。数学と物理を組み合わせでも、最終的な得点が示すものが、数学の知識や技術のレベルなのか物理の知識や技術レベルなのか判然としない。物理の知識を確かめたい学部・学科は、個別の問の正答率を確認する作業が必要になるだろう。それなら、初めから物理の試験を課せばよい。中教審答申では、「当面は教科型と総合型を並行させ、将来的には総合型に一本化」としていたが、WGの作業過程において、この方向性は完全に否定され、教科型に落ち着いた。

記述式について
字数をめぐる議論の果てに、国語と数学で80~120字程度書かせることになった。この字数で「表現力」を測れると考える人は皆無だろう。ある程度の文章を書く経験をしている者には自明のことであるが、論理的な文章(散文)の表現力を確かめるには、原稿用紙3枚(1200字)程度以上の分量を書かせる必要があろう。実際に地方公務員試験や教員採用試験では最低でも800字程度以上は書かせる。しかし、そのためには相当な試験時間を割く必要があるうえ、50万人以上の採点には、膨大な人員と大規模な施設・設備の確保が必要となる。

このわずか百字前後の記述式回答も、その採点は民間業者へ委託する方針が示されている。想定されている民間業者とは、小学6年と中学3年を対象に実施している全国学力調査の採点を引き受けているベネッセなどを念頭に入れているのであろう。しかし実際の採点作業は、一定以上の学力をもつ大量の非正規雇用の労働者を動員して行われているものである。政府はこのため、数十億円の予算を毎年のように支出しているが、大学入試の場合は、「受益者負担」として、受験料の引き上げ要因となるだろう。

複数回実施
年数回行われているアメリカの進学適性検査(SAT)をイメージしているのであろう。「一発試験」の重圧を経験してきた多くの国民にとっても響きのいいアイデアである。しかし臨教審でも取り上げられ、その困難さが指摘されて消えてきた経緯もある。フランスやドイツなども受験機会は基本的に一回である。

アメリカは何が違うのか。アメリカの初等・中等教育は植民地時代から地域に委ねられてきた。開拓民たちが自前で積み重ねてきた学校教育が前提にある。したがって、中等教育の内容に統一基準を示すことは不可能であり、大学入学希望者の教科知識の習得レベルを高校修了時に問うのは不可能だ。その代替として、潜在的な学習能力を測る検査が発達してきた。

 日本では教育内容は学習指導要領に詳細に指定されている。ただし各教科・科目を何年生に置くか、また採択する教科書も学校の裁量に委ねられている。例えば物理や化学を1,2年生で終わらせる学校もあれば、2,3年で履修させる学校もある。教科書によって単元の並べ方も異なる。3年生の年度途中に全国一斉テストをすることは不可能である。教育研究者や文科省のスタッフの助言を聞いていれば、このような無意味な提案は避けられたはずだ。これもWGの作業のなかで早い段階で否定され、現状の入試センター試験とほぼ同時期の一回の実施という結論となった。

段階評価について
「一点刻み」の否定は俗受けしやすいだろう。しかし一点刻みがなぜ発生するのか考えれば、理由は定員制に行き当たる。大学側に受け入れ人数に関する裁量が認められていれば、一点刻みは発生しない。各大学が教員数や施設・設備の条件の範囲内で合格者数を決められれば、学力水準(段階)で合格者を決定できるのである。

ところが現在の国立大学では、それは許されない。定員以上の応募者があっても、大学・学部の教育に耐えると判断できる応募者が少ないために定員を下回る合格者数とすれば、大学はペナルティを課される。私立大学であれば経営上の理由から許されない。答申では段階評価とすることを提案したが、定員制度のもとでは「最後の一人」を判定するためには、いずれかの資料の「点差」によるしかない。例えば地元優先を選抜方針に掲げる公立大学が段階評価で一塊になったグループから、最後の一人を選ぶとすれば、大学からの距離(1メートル刻み)で決定することになるだろうか。「策定」でも、採点は一点刻みとする結論になった。

民間検定の活用(英語)
 具体的に指摘されているのはTOEICと英語検定である。TOEICは基本的にビジネス・英語の運用能力試験である。990点満点の5点刻みで結果が示されるが、現状のTOEICが大学教育を受けるに必要な英語力を測るのに相応しいと考えるものは少ないだろう。また英検では5級から1級までの7段階(準1、準2がある)しか示されない。大学側としては選抜資料としての利用するうえで不便を強いられることになる。「策定」では、当面、センター試験と外部資格試験を併用するとしている。

結論
以上のように安西氏の掲げた新たな大学入試の構想は、その具体化策のほとんどが否定され破綻している。「策定」公表後、文科省の担当者(7月段階では大学入試センター副所長)は「一歩一歩着実に進んでいる」(「月刊高校教育」8月号)としているが、なにか自嘲的な響きさえ感じさせるのである。

当の安西氏が何を考えているのか知りたいところだが、「策定」の公表の直前に発足した竹中平蔵氏が代表を務める「教育改革推進協議会」の発会式に名前を連ねている。竹中氏といえば、小泉政権下で派遣労働の規制緩和する法制整備の中心にいて、その後、自ら労働者派遣企業の顧問に納まり、多額の報酬を得ていることが知られている。発会式には教育情報企業も参加している。大学入試の一部が「民間」に委ねられることになる。彼らのビジネスチャンスということだろう。大学入試改革も、国家を私物化し、国家解体を進める安倍政権の姿勢をよく示している。

2017.08.19 「日本人は歴史に学べ」
作家の半藤一利さん、終戦記念日に語る

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「過ちを繰り返さないために、日本人は歴史に学ばなくてはいけない」。昭和史研究の第一人者とされる作家の半藤一利さん(87歳)が、73回目の終戦記念日の8月15日、東京・池袋の映画館であった、自作の『日本のいちばん長い日』について語るトークで、日本は再び戦争を起こしてはいけないと熱弁をふるった。
半藤一利トーク 002
新文芸坐のスクリーンの前で自作について語る半藤一利さん(左)、右は聞き手の立花珠樹さん

 8月14、15の両日、池袋駅東口の映画館「新文芸坐」で第6回新藤兼人平和映画祭が開かれた。『原爆の子』や『一枚のハガキ』をつくった映画監督として知られる新藤兼人・監督を偲び、その思いを継承しょうというイベントで、2012年にスタート。毎年8月に開催しており、今年で6回目。主催者はテレビ番組制作会社ディレクターの御手洗志帆さんだ。

 今年は14日に新藤監督の2作品を上映したが、15日は『日本のいちばん長い日』の新旧2本立て上映だった。いずれも、半藤さんが1965年に執筆したノンフィクション『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』(文藝春秋刊)を原作とするもので、最初の映画化は1967年で、監督は岡本喜八、製作は東宝。2回目の映画化は2015年で、監督は原田眞人、製作は製作委員会である。
 今年の映画祭でこの作品を取り上げた理由について、御手洗さんは「毎年、8月6日、広島原爆の日に開催してきた映画祭ですが、今年は終戦記念日を中心に開催する運びとなりました。戦争とは何か、失われた命とは何だったのか、日本国憲法施行70年の機会にぜひ皆さんと一緒に考える機会に出来ればと思っております」と述べている(映画祭の入場者に配られたパンフから)

 太平洋戦争を始めた日本は、1945年8月15日に無条件降伏したが、これは、平穏裡に実現したわけではなかった。というのは、米、英、ソ連3国首脳が発したポツダム宣言(日本に無条件降伏を要求)をめぐり、これを受諾するかどうかで御前会議・閣議が紛糾したからだ。とくに陸軍は徹底抗戦を主張し、まとまらなかった。結局、聖断(天皇裁決)で、ポツダム宣言受諾が決まるわけだが、これに反対する陸軍の若手将校らがクーデターを起こし、近衛師団長を殺害し、宮内省の職員らを軟禁する。さらに、天皇の「終戦の詔書」を録音した玉音放送のレコードを奪おうとNHKに侵入する。が、クーデターは失敗し、若手将校は自害を遂げる。

 映画『日本のいちばん長い日』は、こうした終戦をめぐる8月14日から15日にかけての日本中枢の緊迫した動きをドラスティックに描く。新旧2作の一挙上映だから、上映時間は午前10時から午後4時に及んだ。その後、スクリーンの前で、半藤さんのトーク。聞き手は共同通信社の立花珠樹・編集委員兼論説委員。266の客席は満席。

 半藤さんは聞き手の質問に答える形で まず『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』をめぐるエビソードや内幕を語った。
 それによると、この本を書き始めたのは1965年の正月からだが、当時35歳で、文藝春秋の社員だったから勤務中に書くわけにはゆかず、毎朝4時に起きて出勤前に書いた。出来上がった本は会社で出版してくれたが、印税は払ってもらえなかった。「取材で会社の金を使っているだろうから」というのが、会社の言い分だったという。さらに、出版当初は著者名に自分の名はなく、大宅壮一編になっていた。「お前は無名。有名な大宅壮一氏の名前なら売れるだろう」というのが会社の説明だったという。
 執筆のきっかけは、ある座談会で一緒になった人の発言だった。それは「戦争中のことが、多くの人に知られることもなくどんどん風化してゆく。あの戦争で何があったかをぜひ若い世代に伝えてゆかねば」というものだった。その時、「過去を忘れないように自ら努力しなくてはと思った」と、半藤さん。
 執筆にあたっては、60人くらいに取材した。最初の映画化にあたっては、撮影現場に立ち合った。

 その後も半藤さんのトークが続いたが、とくに印象に残った発言をいくつか紹介する。
 
 「終戦当時の人物でとくに私が好きな人物は、首相の鈴木貫太郎だ。彼は終戦の日の8月15日の夜7時のラジオ放送で国民に語りかけたが、その時の放送の草稿が私の手元にある。その中に『私モ老兵ノ一人トシテ存スルトコロデス」という個所がある。この一文により、彼が生命を賭けて日本を終戦に持ち込もうとしていた覚悟のほどがうかがえる。陸軍には、玉砕を叫ぶ者がいた。そして、近衛師団長は殺害された。間一髪で同じようなことになるかも知れなかった。そんな中で、鈴木はよく日本を終戦に持ち込んだと思う」
 
 「戦争というものは、始めるのは簡単だが終わらせるのが難しい。太平洋戦争でも、どうやって終結させるか陸軍も海軍も政治家も相談しなかった。終結の方法を考えないで戦争に突入した。だから、日本は、戦争を止めて平和な国家にすることがものすごく難しかった。でも、鈴木貫太郎はあの戦争を終わらせた。偉いと思う」

 「終戦の時、私は15歳だった。大人たちは、アメリカ兵が日本にやってきて、男たちを奴隷にして米国に連れて行き、女性たちをめかけにするに違いないと話していた。だから、私は、そうなる前に楽しいことをやっておこうと、友だちと防空壕の中でタバコを吸ったりしたものだ。そしたら、おやじにどなられた。アメリカが日本人の男を奴隷にしたとしても、米国まで運ぶ船がないし、日本の女性をめかけにしたら、アメリカの女性が黙っていないよ、と」

 「歴史は繰り返さない。しかし、歴史をつくるのは人間だ。だから、人間が変わらないと、人間はまた同じことをやる。したがって、私たちは歴史から学ばなくてはいけない。日本人はこれまでどういうことをしてきたかを学びたい。歴史を学ぶ上で映画も役立つ」

 「日本国憲法は押しつけられたものと言う人があるが、そんなことはない。この憲法が出来た時、国民は歓迎し、これからの日本はこれで行く以外にないと思った。そのことを思い起こしたい」 

2017.08.09 核兵器禁止条約に不参加の日本政府を糾弾
被爆72年の「8・6広島」を歩く

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 8月6日は、米軍機が広島市に原爆を投下してから72年。この日を中心に、今年も広島では原爆の犠牲となった人々を悼む慰霊の行事や、核廃絶を求める集会が繰り広げられた。酷暑の炎天下、全国から多くの人々がこれらの行事や集会に集まったが、核兵器を全面的に禁止する核兵器禁止条約が国連で採択された直後とあって、行事や集会では、この条約をめぐる議論が熱を帯び、条約採択を歓迎する一方、条約の交渉会議に参加しなかった日本政府を批判する声が相次いだ。
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8月6日朝の原爆ドーム

 昨年の「8・6広島」は、オバマ米大統領の広島訪問直後とあって、各種の行事、集会での焦点は「オバマ大統領の広島訪問をどうみるか」一色だった。今年は、一転して核兵器禁止条約をめぐる論議が盛んだった。広島は、その時々の国際情勢に敏感に反応し、議論を通じてつむぎ出した「広島の訴え」を世界に発信してきたわけである。

 核兵器禁止条約は、7月7日、ニューヨークで開かれた国連の会議で122カ国(国連加盟国の6割)の賛成により採択された。その内容は「条約締結国は、いかなる場合も、核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵のほか、核兵器やその管理の移譲、核兵器の使用、使用するとの威嚇、核兵器を自国内に配置、設置、配備することを行わない」とするもので、核兵器を全面的かつ厳密に禁止する画期的、歴史的な条約とされている。今年9月20日から国連加盟国による署名が始まり、署名国が50を超すと発行する。
 条約交渉会議を主導したのは非核保有国や非同盟諸国で、米、露、中、英、仏のほか、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮などの核保有国と、米国の「核の傘」に自国の安全保障を委ねる日本やNATO(北大西洋条約機構)加盟国は交渉会議に参加しなかった。

 6日に平和記念公園で開かれた広島市主催の平和記念式典。紺碧の空から強烈な夏の日差しが照りつける中、被爆者、国連と80カ国の代表、各都道府県別の遺族代表、一般市民ら約5万人(広島市発表)が参列した。参列者数は前年と同じだが、参列者は今年も式典会場からあふれ、平和公園を埋め尽くした。親子連れ、小・中・高校生の参加が目立ち、ヒロシマが若い世代に受け継がれつつあることを強く印象づけた。
 松井一実・広島市長は「平和宣言」の中で核兵器禁止条約に言及し、「国連では、核保有国や核の傘の下にある国々をのぞく122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は『核兵器のない世界』に向けた取組を更に前進させなければなりません」と訴え、さらに、「特に、日本政府には、『日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う』と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と求めた。
2017広島 029
広島市主催の平和記念式典の会場を埋めた人たち

 日本原水爆禁止協議会(原水協)の原水爆禁止2017年世界大会・国際会議は8月5日、国際会議宣言を採択したが、そこでは、核兵器禁止条約を「被爆者と世界の人々が長年にわたり熱望してきた核兵器廃絶につながる画期的なものである」と高く評価しつつ、「被爆国である日本政府が、核兵器禁止条約への参加を拒んでいることに、被爆者をはじめ失望と憤りが広がっている。我々は日本政府が、アメリカの『核の傘』から脱却し、すみやかに条約に調印することを訴える」と書き込んだ。
 
 4日開かれた原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の「被爆72周年原水爆禁止世界大会・広島大会」開会総会で、あいさつに立った川野浩一議長は、冒頭で核兵器禁止条約問題に触れ、「あろうことか、唯一の戦争被爆国である日本が、米国の要請で条約交渉会議に参加しなかった。安倍首相は、いったいどこの国の首相なのか。日本政府がとった行為を見て、70年余にわたる我々の核廃絶の訴えは何だったのかと悲しくなった。今こそ、日本国民は怒りをもって米国の『核の傘』から脱却しよう」と述べた。

 核問題に詳しい秋葉忠利・元広島市長は「被爆72周年原水爆禁止世界大会・広島大会」の分科会で講演したが、その中で「これまで核兵器の使用は、道徳(モラル)の面から論議されることが多かったが、核兵器禁止条約が国連で採択されたことにより、これからは、核兵器の使用は国際人道法の原則に反する法律違反行為とみなされることになる。核兵器禁止条約の意義はここにあり、核保有国と『核の傘』依存国を追い詰める有効な手段になりうる」「核兵器廃絶はいまや射程距離に入った。ここまで来れたのは世論の力だ」と話し、「日本がこの条約に参加するには政府が署名し、国会が批准することが必要だ。だから、これからは国会議員が問題のカギをにぎる。国会議員に条約の批准を働きかけよう」と訴えた。

 同じ分科会で講演した湯浅一郎・ピースデポ副代表は、核兵器禁止条約締結後の核兵器廃絶運動の具体的課題、とりわけ米国の「核の傘」から脱却するための運動課題として「東北アジア非核地帯化」を挙げた。日本、韓国、北朝鮮、それに米国、中国、ロシアを加えた「東北アジア非核地帯構想」は決して夢のような話ではなく、実現可能だと力説した。

 6日に開かれた、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会など共催の「8・6ヒロシマ国際対話集会――反核の夕べ2017」では、核兵器禁止条約交渉会議に参加した川崎哲・ピースボート共同代表が条約をめぐる経過と条約の概要を報告し、「条約は、核は悪であると明確に規定している。これは、条約に背を向けた核保有国に政治的・経済的圧力となるだろう。なぜなら、核兵器開発が国際人道法に違反するということになると、銀行はそれに金を貸すだろうかと思うからだ」と述べた。
 
 5日に市民グループが開いた「8・6ヒロシマ平和のつどい 2017」は「市民による平和宣言」を採択した。その中で「私たちは安倍首相の退陣を強く要求します」としているが、その理由の一つに集団的自衛権容認の閣議決定、強権的な沖縄米軍辺野古新基地建設、第5空母航空団の厚木から岩国への移転、がむしゃらの原発再稼働、「共謀罪法」の制定などとともに「核兵器禁止条約への敵対」を挙げている。
2017広島 025
広島の市民グループが開いた集会に参加した長崎の高校生たち

 そのほか、私が会った広島市民の中には、「日本は被爆国なのに、日本政府は国際社会の流れに背を向けて、核兵器禁止条約に参加しない。被爆国の国民として世界の人々に対しなんとも恥ずかしい。そうした政府を支持している日本国民が少なくないことを思うとやりきれない」と語る人もいた。

 こうした動き対して安倍首相はどう対応したか。
 首相は広島市主催の平和記念式典であいさつしたが、その中では「真に『核兵器のない世界』を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です」と述べるにとどまり、核兵器禁止条約には言及しなかった。そして、式典後の記者会見で「核兵器禁止条約は、核兵器国と非核兵器国の立場の隔たりを深め、核兵器のない世界の実現をかえって遠ざける。わが国のアプローチと異なる」として、「条約に署名、批准はしない」と明言した。
 
 日本の核兵器廃絶運動は、果たして日本政府の核政策を変えることができるだろうか。そう思いながら、広島を後にした。

2017.07.19 稀代の弁護士・池田眞規さんを悼む
              核兵器廃絶と被爆者救援に献身

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 国連の会議で核兵器禁止条約が採択されたというニュースに接したとき、私の脳裏に浮かんできたのは、昨年11月13日に88歳で亡くなった池田眞規・弁護士のことだった。池田さんこそ、全身全霊を込めて平和憲法擁護と核兵器廃絶、被爆者救援に奔走した稀代の弁護士だったからである。「池田さんも、あの世で核兵器禁止条約の採択を喜んでいるに違いない」。そんな思いに私はしばし浸った。

 核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会(略称・日本反核法律家協会、JALANA)の機関誌『反核法律家』の最新号である第91号(2017年 春号)に、特別企画「池田眞規前会長を偲んで」が掲載されている。同号58ページのうち21ページがこの特別企画。大特集と言ってよい。これをベースに池田さんの生涯を紹介したい。

 池田さんは1928年(昭和3年)に韓国・大邱で生まれ、釜山で育った。敗戦後、日本に引き揚げ、1953年に九州大学法学部を卒業。風早八十二弁護士事務所の事務員となり、1966年に弁護士登録。

 弁護士登録とともに、池田さんは百里基地訴訟の弁護団に加わり、やがて、その事務局長になるが、これは、航空自衛隊基地建設をめぐる憲法訴訟だった。1950年代半ば、政府は茨城県小川町(現小美玉市)にあった旧海軍航空隊の跡地を買収し、航空自衛隊の基地を建設しようとした。これに対し、地元の反対派農民が、自衛隊を憲法9条違反として土地買収の無効を主張し、土地所有権をめぐる裁判となった。結局、1989年に最高裁が憲法判断を回避して国の所有権を認める判決を下し、農民側の敗訴となった。

 池田さんはそのかたわら、長沼ナイキ基地訴訟の弁護団にも加わる。これも自衛隊の合憲性が問われた訴訟だった。北海道長沼町に航空自衛隊のナイキ地対空ミサイル基地を建設するため政府が1969年に国有保安林の指定を解除、これに対し地元の住民が、「自衛隊は違憲、したがって保安林指定解除は違法」として、処分の取り消しを求めて起こした訴訟だ。一審の札幌地裁は初の違憲判決で処分を取り消したが、二審の札幌高裁は一審判決を破棄。住民側は上告したが、最高裁は1982年、憲法には触れず、原告適格がないとしてこれを棄却した。
 
 百里基地訴訟、長沼ナイキ基地訴訟は、北海道の恵庭事件と並んで自衛隊の憲法違反を問うた裁判であった。池田さんは、憲法第9条がうたう「戦争放棄」「戦力不保持」を実現するためひたすら奔走したわけである。
 その延長だろう。1991年に湾岸戦争が勃発し、海部政権が多国籍軍に91億ドルを支出すると、市民有志が「湾岸戦争国費支出違憲訴訟」を起こしたが、この時、池田さんは弁護団の団長格としてこれを支えた。

 1970年代後半からは、原爆被爆者との交流が始まる。百里基地訴訟の控訴審がきっかけだった。池田さんは、医療関係団体の機関紙上で語っている。「私が被爆者と出会ったのは1977年の百里基地訴訟一審判決がきっかけでした。その判決は『自衛のために防衛措置をとることを憲法は禁止していない』という最悪のものでした。『これは裁判官が“政府の行為によって再び戦争の惨禍をくりかえさない”という憲法の立場で9条を解釈していないからだ』と私たちは考えました。そこで 控訴審では『戦争の惨禍』を裁判官の頭に叩き込もう、と法廷での証人を被爆者にお願いしたのです。人類初の核兵器に苦しむ、戦争の最大の犠牲者ですから」。その時、証言台に立ったのは、この3月に亡くなった被爆医師・肥田舜太郎さんだった。

 被爆者たちは、1970年代初めから、国家補償に基づく被爆者援護法の制定を政府に求め続けた。これに対し、厚生大臣(今の厚生労働大臣)の諮問機関の原爆被爆者対策基本問題懇談会が、1980年に「原爆も戦争被害であるから受忍すべきだ」とする援護法制定の必要性を否定する報告書をまとめた。怒った日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)と市民団体が「核兵器の非人道性を告発する国民法廷」を全国で展開すると、池田さんは他の弁護士と共にこれを全面的に支援した。

 その後、池田さんの活動は国際的な団体との連帯を深めてゆく。なかでも、池田さんが大きな役割を果たしたのは「世界法廷運動」だ。
 1992年のことだ。国際平和ビューロー(IPB)、核戦争防止国際医師の会(IPPNW)、反核国際法律家協会(IALANA)、世界保健機関(WHO)といった国連専門機関が、世界法廷運動を提唱する。国際司法裁判所(IJC、オランダ・ハーグ)に「核兵器の使用は国際法違反」との決定を出させようという運動だった。
 日本にその情報をもたらしたのは池田さんだった。なぜなら、池田さんは1989年にハーグで開かれたIALANAの設立総会に参加していたからである。

 この提唱に日本の原水爆禁止関係団体は積極的な反応を示さなかったが、池田さんの呼びかけに応えた日本被団協や日本生活協同組合連合会を中心とする市民団体が、IJCへの要請署名に取り組み、集めた310万筆の署名をIJCに提出した。
 1996年7月、IJCは「核兵器の使用・威嚇は一般的には国際法、人道法の原則に反する」とした国連への勧告的意見を発表、核軍縮史上の画期的な出来事として世界的な反響を呼び起こす。今回の国連会議における核兵器禁止条約の採択も、この世界法廷運動の延長線上にあると言ってよい。条約には「ヒバクシャおよび核実験の被害者にもたらされた容認しがたい苦難と損害に留意し」と書き込まれた。

 この運動を進める中で、池田さんは日本反核法律家協会(JALANA)の創設に主導的役割を果たし、1994年の協会設立時には事務局長に就任。2004年から2010年まで会長を務めた。

 晩年における最大の功績は、原爆症認定集団訴訟の弁護団長を務めたことだろう。
 被爆者は、原爆による放射線が原因の病気やけがについて全額国の負担で医療の給付が受けられるが、そのためには、病気やけがが原爆の障害作用によるもので、現に治療を要するという厚労相の認定を受けなければならない。しかし、国は2003年当時、被爆者27万人のうち約2200人(0.81%)しか原爆症と認定せず、多くの認定申請を却下してきた。このため、2003年から全国各地で原爆症認定集団訴訟が起こされ、裁判は17の地方裁判所に及んだ。各裁判所は国の認定行政を批判し、原告・被爆者側の「連戦連勝」に終わった。2009年には、麻生太郎首相・自民党総裁と日本被団協との間で「一審判決を尊重する」などとする、集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書が調印された。

 2011年に被爆者の体験記、証言集、被爆者運動の資料などを収集して後世に残そうという「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」が発足すると、池田さんは副会長を引き受けた。

 「眞規さんは被爆者にしっかり寄り添っての生涯を全うされた。感謝の気持ちで一杯だ」。前日本被団協事務局長の田中熙巳さんは、『反核法律家』の特別企画「池田眞規前会長を偲んで」に寄せた追悼文でそう書いている。  
 池田さんは、被爆者との交流を深める中で、原爆被害の悲惨さを知り、被爆者の声に耳を傾けなければならない、何としても核兵器はなくさなければならない、との思いを強めていったのではないか。晩年には、よく「被爆者は神様だ」と話していたという。おそらく、それは「被爆者こそ、人類が核時代を生きるための道標を示す預言者のような存在」という意味だったろうと私は思う。

 私の記憶の中の池田さんは、いつも万年青年と思える黒々した髪をしていて、声は弾み、大きな目をしていた。人なつっこく、しかも他人に対し面倒見がよかった。
 ただ、その長話、長電話に悩まされた人もいたようで、特別企画でも、2人が長話、長電話をめぐるエピソードを語っている。私が池田さんを取材したのは「世界法廷運動」が始まったころのことだが、その時も、深夜、よく自宅に電話がかかってきた。それは、とうとうと自説を述べ、それへの賛同を求める長電話だった。

 特別企画は、池田さんと親交があった反核国際法律家協会関係者からのお悔やみメッセージ」で締められている。冒頭にあるのは、C・G・ウィーラマントリー判事(スリランカの最高裁判事を務めた後、1991年から2000年まで国際司法裁判所の裁判官を務め、副所長も歴任。2017年1月、死去)からのものだ。
 そこには「池田先生は、核兵器が全類にとっての脅威となって増大していることを、世界の民衆に知らしめる偉大な役割を果たしました」とある。
 池田さんは世界的に注目されていた人物だったのだ。
2017.07.15 チャージとケンブリッジを考える
              小山の教育通信 [2017.7月-2]         
 
小山和智 (グローバル化社会の教育研究会事務局長)

日本の学校は、夏休みに入っていきます。社会人にとっても、夏休みは大事な“充電 (charge)”の機会ですね。「charge」の語源はラテン語の「carrus (荷馬車)」で、“荷物を積む (load), 込める (fill)”のイメージが基礎にあります。電子工学の“負荷をかける”という訳語も、同じ発想から生まれました。

他方、「charge」は、相手に対価や貢献を要求したり 襲ったりする意思の表現でもあり、軍隊なら“突撃”です。「Charge bayonets!」(着剣!=歩兵銃に銃剣を装着) も実質的な“突撃用意”。山岳部の用語でも、リーダーが言う「用意しとけよ!」は出発の号令……それがわかるまで、新参者は出遅れ慌てることになります。また、サッカーでチャージは、身体で敵を押しのけて攻め込んだり守ったりすることです。

英語圏への留学・研修などを考える時、「Cambridge」がついた用語の多いことに驚かれるでしょう。
ギリシア神話の「アマゾン族 (Amazones)」は、黒海沿岸に住む女の狩猟部族(huntresses) です。古代ローマ建国に活躍した女傑カミーラもアマゾン族で、ローマ人がブリテン島のグランタ川を占領した際、彼女にちなんで「カム (Cam)」と名づけました。カム川が瘤<こぶ>のように蛇行する高台に 砦(+橋) を設けた場所は、「Cam-bridge」と呼ばれます。13世紀初め、オクスフォードの地元住民と学生との紛争があり、そこから逃れた学者たちがここに住み着き、研究・教育活動を始めたことが、ケンブリッジ大学の起源です。

アメリカでは1638年に、清教徒派のJ・ハーバード牧師が、マサチューセッツ州ボストン郊外の「新町 (Newtowne)」にあった広大な土地と膨大な蔵書を遺贈し、大学が設立されました。ハーバードも初代校長も、当時の在ボストン総督も皆、英国のケンブリッジ大学OBでしたので、町の名前は「ケンブリッジ」に改名されました。現在では、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)をはじめとする60以上の大学が集まり、全米一の研究学園都市となっています。
ちなみに、ケンブリッジを中国語で「剣橋 」と書くのは、オクスフォード(牛津)と同様、日本語からの借用です。

それでは、例によって他のニュースも。
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ASIA-NET 第5回クロス・ナレッジセミナー

日 時  7月20日(木) 午後7時~8時半
場 所  南部労政会館 (東京都品川区大崎1-11-1 ゲートシティ大崎)
テーマ  『主張のテクニック・反論のテクニック』 講師:吉村 章 ((株)クロスコスモス代表)
※ 議論の主導権をとるテクニック、ビジネス折衝のシナリオの作り方など“現場力”を鍛えます。
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日本能率協会 第一回 教育施設リニューアル展

日 時  7月19日(水)~21日(金) 午前10時~午後5時
場 所  東京ビッグサイト(東京都江東区有明3-11-1)
※ アクティブラーニング推進による教育プログラムの質向上と学習者の能力開発の支援により、新たな地域空間を。
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サッカーではルール上、チャージの際に肘を上げてはいけません。しかし、脇を締めるどころか、相手のユニフォームをつかんで引っ張ることが、国際試合で横行しています。紳士のスポーツ という気はないのでしょう。

アメリカ独立戦争当時(18世紀)の米ケンブリッジは、浅瀬を歩いて上陸しなければならなかったため、英国軍の士気は下がったそうです。アヘン戦争当時の上海の黄浦江も同じでしたが、直ぐに「外灘 (The Bund)」(築堤・埠頭) が整備されます。

今回、九州北部を襲った集中豪雨では、大きな被害が出ています。被災者の皆様には 心よりお見舞い申し上げます。海面温度の上昇が 異常気象の原因とされますが、さらに上昇中…… 私たちは今、何ができるかを考えましょう。

七夕の7日、核兵器禁止条約が国連で採択されました。核兵器の非保有国 122ヶ国の賛成ですが、日本政府は反対表明。被爆国として核廃絶の先頭に立っていたはずですけど、どうなっているのでしょう?

海外研修や留学だけでなく、国内の林間学校やキャンプなどに出かける人も多いでしょう。準備の最終点検を…… とくに海外では 「THC」(大麻) の表示に注意するよう 再確認を怠りなく。
どこにも出かけない人も、熱中症にはご用心を。ごきげんよう。

小山 和智 ( OYAMA, Kazutomo)

 http://www.toshima.ne.jp/~kyoiku/
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(過去のニュースは 下記をご覧ください。)
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2017.07.12 青年の教養が向上しない本当の理由について       
    ――八ヶ岳山麓から(226)――
              
阿部治平 (もと高校教師)


すでに2ケ月余り前になるが、文部科学省が小中学校の教員の勤務実態調査を公表した。10年前と比較して勤務時間が4時間から5時間余り長くなり、中学では週63時間18分だ。いわゆる「過労死ライン」に達する計算となる週60時間以上の勤務は、小学校で3人に1人、中学では6割近くにのぼる(毎日2017・04・29)。
この統計の中身には、部活動指導時間が無視できない位置を占めている。以下これについて述べる。

中学高校の教師になると、だれでも部活動「顧問」をやらされる。むりやり顧問にさせられた結果どうなるか。経験のないスポーツ部をあてがわれ、生徒にばかにされたことのある教師はごまんといるだろう。最近の悲劇的な例は、栃木県高校山岳部の合同冬山訓練で雪崩によって亡くなった若い教師である。彼は登山経験がなく、積雪斜面のもつ危険が全然わからないまま生徒を「引率」して、ともに死に至ったのである。私は「山屋」としてことばがない。
スポーツ科学を含めて、その指導法をまともに修得した教師がどのくらいいるだろうか。有名指導者(監督)でも、たいていは練習内容は自分の経験から一歩も出るものでなく、「千本ノック」などの反復練習と「根性教育」が主流にならざるをえない。過度の練習は、生理上も技能向上のうえでも不合理であることは定説になっている。高校大学時代練習に明け暮れた体育教師は、30過ぎるとたいてい自己の身体にそれを感じているはずである。

小中高の教育は「ゆとり」すなわち「ひま」が十分になければならぬ。「昨日の授業はまずかった」とか「今日あの子はふさいでいたがなぜか」と反省し、明日の準備を十分にやって、はじめて生徒に学ぶ楽しさを体験させることができるというものである。
ところが、教員勤務評定では部活動指導が「指導熱心」と評価される。教師の中には功名心をくすぐられて勝つことのみを生きがいにし、なかには1年365日全然休まなかったことを「誇り」にするノーテンキが出る。体は丈夫だが、脳みそはオカラ状態だ。授業はいいかげん、生活観察もおろそかになる。
ひと昔まえ「ゆとり教育」が試みられた。これは近頃テレビへの露出著しい京都造形芸術大学芸術学部マンガ学科教授の寺脇研氏が文部官僚時代に主唱したものである。だが「ゆとりの時間」はたちまち塾通いに変じ、現場からも不満たらたらで数年でとりやめになった。もし大学入試制度の改革と教師の「ゆとりの時間」がこれにともなっていたら、寺脇氏は改革者として称賛されたであろうに。

近年は学校外のスポーツクラブから有力選手が輩出するようになったが、いまでも、かなりの程度スポーツ選手の養成を学校が負担している。問題はその他大勢が参加するスポーツ系部活動のありかたである。
中学では、高校入試で部活動が重視されるからという理由で、70~80%くらいの生徒を加入させる。親も生徒も部活動を義務だと思い込んでいる。私の勤務した高校のひとつに全員参加という学校があった。理由は、放課後ワルどもが何をするかわからない。そこで教師の勤務時間が終わる5時までは学校に閉じ込めておくという趣旨であった。だが全員参加したらどの部もパンクする。高校を少年刑務所と錯覚した発想だった。

スポーツ系とは限らないが、たいてい練習は放課後4~5時間、さらに授業が始まる前の「朝練」がある。生徒は疲れて授業時間に居眠りする。予復習も宿題もできない。私は退職前の数年間進学高校にいたが、そこでも野球部など名の知れた運動部に参加している生徒は、授業中公然と寝ていた。私の授業では運動部の生徒はいなかったが、それに付随した応援団とかブラスバンドのメンバーがいた。彼らもまた苛酷な練習に疲れはてていた。
毎年春の全国高校野球大会のころから梅雨まで、授業期間の平日にスポーツ系の地区や県の大会があった。各種の大会が二、三重なると、教室に生徒がそろわないから授業を進めることができない。生徒からすれば、いったん勝ちすすめば負けるまでの期間、授業をほとんど受けられない。そのうえ県大会出場ともなると、関係のない生徒でも応援にかりだされる。県教委はこれに対して、授業時間を確保せよというが、そのために具体策を示したことはない。もちろん大会開催は土日だけという地方もあった。だが休日がなくなるからこれも好し悪しである。

さらに野球とかサッカーとか、人気があって注目度の高い部活動は特権が許される。運動部顧問(監督)の中には、高校をプロ選手の養成所と心得ている者がいて、私学はもとより公立高校でも中学まわりをして優秀な生徒を入学させようとする。
 野球部の予算は学校やPTAの会計の中で最大である。それだけでは不足だから、後援会をつくって経費をまかなう。甲子園大会ともなれば、地区大会から特別仕立てのバスで選手を運ぶ。内外から不満の声が起きるが、校長もPTA会長もこれを無視して大勢に従う。異議申し立ては玄関払い。共謀罪が通過した国会のようなものである。

メディアはスポーツ系の部活動で好成績を上げると「文武両道」などと持ち上げる。ところが部活動には、しばしば生徒間の暴行・恐喝・喫煙・飲酒などの非行がつきまとう。だが、発覚してもたいていは隠蔽される。大会出場が危うくなるし、程度によっては部が閉鎖されるからである。
指導教師の暴力はかなり普遍的現象である。近頃は、被害生徒の自殺といった悲劇によって、ようやくその一部が明るみに出るようになった。だが私の知るかぎり、かなりの学校がいまだ公務員法に反して教師の非行も隠蔽している。
いうまでもなく、スポーツ関連の部活動問題を日本社会全体として考えるためには、マスメディアの役割は決定的に重要だ。だがメディアはヒーローを作り出すのには熱心だが、部活動の学校教育における問題に迫ろうという気はない。
たとえば「毎日」や「朝日」も、野球部活動の現場をリアルに記事にしたり、スキャンダルを明らかにすることはきわめて少ない。両新聞社はそれぞれ日本高校野球連盟とともに春と夏の全国高校野球大会の主催者だからであろう。
この稿が皆さんの目に触れるころは、どの県でも夏の甲子園の地区大会・県大会のトーナメントがすでに始まっているだろう。地元の情報サイトやテレビ局が県大会から実況放送をする。そこでは例年の如く、視聴率のためか、商業主義のためか、美談をつくり目立つプレーヤーを称賛しヒーロー扱いするだろう。
高校生の若さでちやほやされれば、たいていはスポイルされるが、それをメディアが問題視することはない。だが、たまには「甲子園」の問題点を分析、反省してみてはどうかね?あらためて「文武両道」などちゃんちゃらおかしいことが確かめられるだろう。

中学高校の部活動は、学習指導要領で「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と定められている。 つまり法制上は自主活動とされ、体育を含めた教科教育は必須だが、部活動はあってもよし、なくてもよしの存在である。
学校がわが国民の文化水準の維持向上に果たす役割は決定的である。学校教育は教科教育を主として成り立っている。現状は部活動と教科教育の優先順位が逆転しているために、選挙権をもった市民というにはいささか知識不足の青年をかなり大量に社会に送り出す結果となっている。これを学校教育制度の「溶解」といわずしてなんといおうか。(2017・07・06記)
2017.07.07 公文書について考える
        小山の教育通信 [2017.7月-1]        

小山和智 (グローバル化社会の教育研究会事務局長)

 7月1日で「公文書等の管理に関する法律」(平成21年法律第66号)の公布から満8年です。
この法律は、行政機関の諸活動や歴史的事実の記録が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、国民が主体的に利用し得るようにするものです。「将来の国民に説明する責務が全うされるように」と冒頭に掲げられています。

動詞の「book」は“記帳・登録する, 予約・契約する”といった意味です。元はドイツ語の「buch」で、紙のない時代に「ブナ (Beech)」の樹皮や薄板 (注:製材すると白い) に文字を刻んだことに因みます。マレー語の「buku」は“節・関節”ですが、昔は 竹簡 (buku buluh。注:節と節の間) に記録していたので、“本・ノート・経典”の意味にもなりました。

「White book, liber alubus (白書 )」は 表紙が白色の装丁の公式報告書のことですけど、たとえ白い表紙でも、慣習として別の色で呼ぶ公文書があります。
例えば、「Blue book」は 英国では“議会 or 枢密院の報告書”、米国では“政府職員/紳士録”。英国外交委員会の報告書が青表紙だったことに因み、日本でも「外交青書」と呼ぶ慣習になっています。「Red book」は スペインの公式報告書で、英国では“貴族名簿”です。「Yellow book」は フランスの公式報告書。「Green book」はイタリアと英領インドの公式報告書。そして、「Black book」は“閻魔帳, 成績記録簿”です (表紙など付けず密かに保管されるはずですけど…)。

なお、日本の江戸時代の「人別帳」では、犯罪を犯しそうな乱暴者に 付箋 (book-mark) を付けていました。いわゆる「札付き」です。他方、商品に掛値なしの価格を表示する札は「正札」ですが、「正札附き」は(値段に見合った)品質の証明の意味でした。後に“本当のワル”の意味にも使われて、なんともはや……。

6月30日(金)、第60回グローバル化社会の教育研究会(EGS)が、いつもの聖学院中学・高校(東京都北区) で開かれ、同校の伊藤豊 高等部長に『21世紀型教育の現状--- 思考力を育てる取り組み』のテーマで、話題提供をしてもらいました。
学校改革の出発点は「生徒達の持っている力の中に 従来 評価されてこなかった部分があるのでは? 例えば、自分で知識を獲得していく力や仲間の能力を引き出す力など」という問題意識だったとのこと。「21世紀型教育」の柱であるアクティブラーニング(双方向授業)も 課題解決型学習(PBL)も、その評価の元となる「ルーブリック (Rubric)」(学習到達度を示す評価基準の観点を縦軸、尺度<(到達度>を横軸にとった評価表)を策定することが鍵となったようです。

ともすると日本の生徒は自己肯定感が低いといわれ、学年が上がるほど下がっていくといわれますが、それは社会と関わる意識の度合い、接する機会の頻度に関係してもいるそうです。聖学院の教師陣が生徒評価のあり方を見直し、生徒に到達目標を明確に理解させることで、生徒たちの自己評価も大きく改善されていった様子がよく分かりました。
なお、児浦良裕先生の 高3数学の授業も、見学させてもらいましたが、数学があまり得意ではなさそうな生徒も楽しそうに取り組んでいる姿が印象的でした。

それでは、例によって他のニュースも。
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日本旅行医学会 登山医学セミナー 2017年

日 時  7月 8日(土) 午前10時20分~午後4時
場 所  東医健保会館 (東京都新宿区南元町 4)
テーマ  『雪崩の科学--- その実態と現状対策』『アウトドア活動・高齢者における低体温症』 ほか
※ 栃木県の高校生ら8名が死亡する雪崩事故---自然災害ながら正しい知識は必須です。米スタンフォー大の P.S.Auerbach教授の講演は貴重な機会です。翌9日(日)、大阪医科大学(高槻市)でも開催されます。
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国際文化フォーラム 30周年記念事業「学校のソトでうでだめし」第1回

日 時  9月 9日(土)・10日(日)・30日(土)・10/1日(日)の4日間。午前10時~午後5時(10/1は6時半)
場 所  TJF国際文化フォーラム(東京都文京区音羽1-17-14)
テーマ  『ことばの世界を服で表現してみたら?』ナビゲーター:川口 知美(舞台衣装家)
※ 服づくりの経験は不要。詩を味わいながら 高校生同士で“舞台衣装”を作ります。「ことばをモノで表現する ⇔モノで表現したことをことばにしてみる」の試みです。申込み受付:7月12日(水)まで。
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情報公開法の施行 (2001年4月) の前に、大量の行政文書が廃棄されました。当時の日本には、公文書管理法がなく、文書公開請求は「存在する文書」のみが対象だったので、将来に禍根を残さないようにと……。10年後、公文書管理法が施行されましたが、「遅くても、ないよりはまし」です。

『新・海外子女教育マニュアル(改訂版)』が発行されました。渡航前から帰国にいたるまでの教育のあり方について羅針盤の役割を果たしてきた基本書です。
初版(1985年) の制作中に、書名を巡って議論したことを思い出します。「マニュアル」は“品がない”と、財団上層部に極めて不評だったのですが、結局、駐在員家族の皆さんに好評ということで決まりました。

『くまのパディントン』(英1958年)のマイケル・ボンドさん(満91歳)が6月27日に亡くなりました。BBCのカメラマンながら、多くの短編を書かれ、異文化の狭間で揺れる子どもたちを 励ましてくださいました。

幼い頃の夏の思い出と重なる花「ネジバナ(Spiranthes)」……桃色の小さな花が 茎の周りに螺旋状 (spiral)に並ぶので「ねじれ草」と呼んでいました。最近は 滅多に目にしませんね。
「絶滅危惧種」と聞くたびに、いずれなくなるだろう職業のことが気になります。羅宇屋、指物屋、道具屋、荒物屋…… 落語でも滅多に聞かなくなっています。印刷屋、レコード針屋も、風前の灯ですね。

それでは皆さん、ごきげんよう。

小山 和智 ( OYAMA, Kazutomo)

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