2017.01.19 日本山妙法寺、平和運動でのさらなる精進を誓う
藤井日達山主の33回忌法要で

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 日本山妙法寺の藤井日達山主の33回忌法要が1月9日、千葉県鴨川市の同寺清澄山道場であった。「恩師行勝院日達聖人第三十三回忌」と題された法要には、厳しい寒さの中、同寺の僧侶、信徒をはじめ日蓮宗各宗派代表、インド、スリランカなど各国代表、海外の平和団体関係者ら約400人が参列したが、参列者たちは口々に山主の業績をたたえ、「山主の遺志を継ぎ、戦争への道を阻止するために平和運動を一層推進しよう」と誓い合った。

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「千葉県鴨川市の日本山妙法寺道場で行われた藤井日達山主の第33回忌法要」

 第2次世界大戦後が終わって70年余になるが、この間、日本をはじめ世界各地で「反戦平和」「核兵器反対」を掲げる運動があるところでは、黄色の僧衣を着て、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、うちわ太鼓をうち鳴らす僧侶の集団があった。日本山妙法寺の僧侶たちである。
 日本山妙法寺の僧侶たちが参加した運動は、日本国内に限ってみても、東京・立川の米軍基地拡張反対運動、原水爆禁止運動、被爆者救援運動、日米安保条約改定阻止運動、ベトナム反戦運動、沖縄返還運動、成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)、イラク戦争反対運動……と数え切れないくらいだ。 最近では、脱原発運動、憲法9条擁護運動、安保法制廃止運動などの現場で僧侶たちの姿をみかける。
 もちろん、その活動は地球全域に及ぶ。今でも、戦火が絶えないところ、紛争が続くところには、必ずといってよいほど同寺の僧侶の姿がある。

 藤井日達山主は、その日本山妙法寺の開創者である。1918年(大正7年)に日蓮系の一宗派として最初の日本山妙法寺を中国・遼陽に開創、1924年(大正13年)には静岡県内に日本最初の妙法寺を建立、以後、全国各地に同様の寺を建立し続けた。
 日達山主はその生涯を通じて膨大な法話を残しているが、その中で一貫して説いたのは、釈尊の教えの核心は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」にあるという点だ。一言で要約すれば、「人を殺すな」ということだという。
 最大の殺生は人が人を殺す戦争である。そこから、日達山主は絶えず「世界平和」「核兵器廃絶」「軍備全廃」を訴え続けた。しかも、「絶えず行動を起こすこと」を説き、自ら平和運動の先頭に立った。老齢で歩行が困難になると、車イスで平和行進の先頭を歩んだ。

 世界各国の平和団体、宗教団体、先住民団体との交流・連帯にも力を注いだ。
 1982年は反核、軍縮を求める運動が世界的に高揚した年だった。同年6月にニューヨークの国連本部で国連主催の第2回国連軍縮特別総会が開かれたためだ。日達山主は、この総会に向けて米国大陸を横断する平和行進を提唱、日本山妙法寺の僧や信者が西海岸からニューヨークまで歩いた。車イスの山主はニューヨークで行進団を出迎え、さらにニューヨークのセントラルパークで開かれた国際NGO主催の100万人反核集会に参加して演壇から核兵器廃絶を訴えた。この時、山主は96歳だった。

 日本山妙法寺の平和運動は徹底した非暴力を基本としているが、それは、徹底的な非暴力運動でインドを英国からの独立に導いたマハトマ・ガンジーから学んだ。日達山主は1933年(昭和8年)10月にインドでガンジーと会見しており、山主自身、その著書『仏教と平和』の中で「ガンジーの非暴力に学んだ」と語っている。
 また、共通の目的を持つすべての人々が手を取り合うことの大切さをひたすら説き続け、平和運動の大同団結のために奔走した。日本国内では、分裂していた原水爆禁止運動の統一のために力を尽くした。

 日達山主の27回忌(2011年)に際し、日本山妙法寺は『報恩』という冊子を発行したが、宗教学者の山折哲雄氏は「日本山妙法寺」と題する一文を寄せ、その中でこう書いている。
 「藤井日達上人は百歳の長寿を全うした人である。その足跡はインドをはじめとして全世界に及び、平和運動と伝道活動に献身した稀にみる国際的な仏教者だった」
 「昭和二十年の敗戦以後、日本の仏教諸教団はこぞって平和主義を宣揚し、そして例外なく平和運動の戦列についた。しかし、そのときから今日にいたるまでの半世紀をふり返るとき、その平和運動の持続性と徹底性において、藤井日達の日本山妙法寺に及ぶものは一つもなかったといっていいだろう」

 33回忌法要では僧侶らによる読経の後、来賓のあいさつがあったが、S・R・チノイ・インド大使、D・G・ディサーナーヤカ・スリランカ大使らは、日達山主が仏教普及や日本と両国との友好親善で果たした功績をたたえた。
 米国から参加した平和運動家でカトリック神学者のジェイムズ・W・ダグラス氏(『ジョン・F・ケネディはなぜ死んだのか』)という大著があり、寺地五一・寺地正子訳で2014年に同時代社から出版された)は「私たちは1980年にワシントン州シアトル近郊のトライデント原潜基地の近くに『非暴力行動のためのグラウンド・ゼロ・センター』をつくり、トライデント核ミサイルに対する抗議活動をしたが、そこに藤井日達師が見えられ、共に祈ってくださった。おかげで、センターには希望と歓喜の明かりが灯された」と話した。

 英国の著名な平和運動家、ブルース・ケントCND(核軍縮運動)元会長は、メッセージを寄せた。そこには、こうあった。「藤井聖人の素晴らしいお言葉が、今も私の家の机の前に掲げられています。それは次のようなものです。『文明とは電灯のつくことでもない。飛行機のあることでもない。原子爆弾を製造することでもない。文明とは人を殺さぬことであり、物を壊さぬことであり、戦争をしないことである。文明とは相互に親しむことであり、相互に敬うことである』」

 法要では、吉田行典・日本山妙法寺大僧伽首座の「導師法話」があった。
 首座はその中で、次のように述べた。
 「日本政府の政策を見ていると、この国は変わり始めた。日本では、今、戦争への道が準備されている。集団的自衛権の行使、相次ぐ軍事的な立法、軍備増強、憲法改悪等を通じてだ。日本国民は再び甚大な苦難を経験することになるかもしれない。われわれは、平和憲法を守らなくてはいけない」
 「われわれは、世界の紛争を解決するためには、対話を通じて平和的で友好的な関係を確立しなければならない。人類は今、絶滅の淵にいる。われわれは、藤井日逹聖人の教えを思い出し、戦争のない真に平和な世界を創造することを誓う必要がある。お題目を唱え、平和のために一層行動することを互いに誓い合おう」

2016.12.13  スライス危険!「生前退位」をめぐる議論
    暴論珍説メモ(153)

田畑光永 (ジャーナリスト)

「象徴としてのお勤めについての天皇陛下のおことば」が今年8月8日に国民に伝えられてからすでに4か月が過ぎた。「おことば」を受けて政府はその間、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井敬経団連名誉会長)を設置し、11月には3回に分けて合わせて16人の専門家の意見を聞いた。そして12月7日の会合から論点整理に入った。有識者会議では14日にも論点整理を続け、年明けにそれを公表する段取りと伝えられる。
 私はことの進み方のゆっくりさに驚くと同時に、この間の経緯は天皇の「おことば」が提起した問題を解決するというよりも、第二次大戦後に制定された「日本国憲法」が規定するいわゆる象徴天皇制を、この機会に別のものに変容させていこうとする動きが表面化してきた期間であったように見える。 
 そのことは後で考えるとして、私自身が「おことば」を聞いてまず感じたのは、自らの身体能力の衰えを冷静に見つめ、なおかつそれを自分以外は言い出せないことを斟酌して、自ら地位を退く意思を明らかにするというのはなかなか出来ないわざだということであった。とすれば、「生前退位」に関する規定がないとしても、なんらかの方策を講じて、それを実現する条件を早急に整えるべきだ、というのが私の考えである。
 ところが、その後の事の進み方は丁寧といえば聞こえはいいが、実際は結論を出したくないのではないかと勘繰りたくなるほどゆっくりである。有識者を集めて「有識者会議」を設置したのだから、その人たちが知識を出し合って、せいぜい1か月くらいで結論を出すのだろうと思ったら、その前に今度は専門家を読んで1人ずつ意見を聞くことが始まった。それも16人もの専門家を3回に分けてというゆっくりペースである。
 そしてその16人専門家の意見というのを報道で見て驚いたのは、天皇が示唆された「生前退位」に賛意を表した人が意外に少なかったことである。私の計算では(だから間違っている可能性もあるが)、16人中5人に過ぎない。逆に否定的な人は8人、どちらなのかよくわからない人が3人であった。
 無識な私が憲法の「第一章 天皇」と「皇室典範」を読んだ限りでは、皇室典範の第三章「摂政」の条文を改正すれば、ことは簡単に思える。そこにはこうある、「第三章 摂政 第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。(第2項)天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。」
 つまり天皇の生存中に代理(摂政)を置かねばならないときにはそうすることを皇室典範も予期しているのである。ただその条件として第1項が未成年の場合、第2項が精神または肉体の事故または病気の場合、を想定している。制定時には現今の高齢化社会は想定されなかったとしても不思議はないのだから、天皇の高齢がその中に入っていないのは自然であって、高齢化社会の今、高齢による身体状況の不適を加えても何ら不都合はないはずである。
 ところが意見を聞かれた専門家には、この摂政の条件を緩和するという案は概して評判がよくない。勿論、それでいいという人もいるが、反対意見は高齢ゆえに公務から離れた天皇と摂政が並立する場合、その期間が長引く可能性があり、それは「象徴の二重性」を生んだり「国民統合の象徴」が分裂したりする、というのである。
 すでにある摂政という制度を使わないとすれば、あとは新しい取り決めをつくるしかないわけだが、そうなると特例法でいいか、恒久法にすべきか、と話はややこしくなる。
 それはそれで有識者に考えてもらうとして、専門家とされる人たちに先に書いたように「象徴天皇制」を別物にしようとするかのような発言が散見されるのが目についたことを取り上げたい。
それはどういう発言か。
 「天皇家は続くことと、祈るという役割に意味がある。それ以上のいろいろなことを天皇の役割と考えるのはいかがなものか」(平川祐弘氏)、
「天皇の仕事は昔から第一の仕事は国のため、国民のために祈ることだ」(渡部昇一氏)、
「歴代天皇は、まず何よりも祭祀を重要事と位置づけ、国家・国民のために神事をおこない、その後に初めてほかのもろもろのことを行った。・・・天皇はなにもしなくてもいてくださるだけでありがたい存在でることを強調したい。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来はない」(桜井よし子氏)
 天皇は言うまでもなく国家機関である。そして憲法20条は政教分離の原則を明確に規定している。天皇の役割の第一を祈ることとする考え方は、戦前の天皇制の「現人神」を引き継ぎ、日本を神国とすることに通ずる。それは八紘一宇から大東亜共栄圏へと拡大し、戦争の思想的バックボーンとなったのは歴史的事実である。
この思想は日本国憲法によってなくなったはずであるのに、時折、不死鳥のように姿を現す。2000年5月、当時の森喜朗首相が「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であるぞということをしっかりと国民に承知していただくために我々(神道政治連盟)は頑張ってきた」と発言し、おおきな物議を醸した。
今また天皇の生前退位の議論に紛れてこういう発言が出てきた。憲法第7条の「天皇の国事行為」には10の行為が列挙されていて、その10番目に「儀式を行ふこと」というのがあるが、これは引用した論者たちが言う「祈り」ではないはずだし、まして天皇の第一の仕事ではない。
有識者会議が論点整理の中でこうした発言をどう扱うか、よもや象徴天皇を現人神にもどそうとする議論の拡散に手を貸すことのないよう見張っていなければなるまい。     (16.12.11)


  ✧ 今年の女性文化賞が決まりました 最終回です ✧

今年の第20回女性文化賞はフリーライターの森川万智子さんに授賞が決まりました。

・森川万智子さんは1992年から、韓国人の文珠珠(ムン・オクチュ)さんが連行された戦地ビルマで預けていた軍事郵便貯金の支払いを求める運動を展開しました。95年からビルマの現地調査を始め、その間、文さんが問わず語りに話した「慰安婦」時代の体験を記録しました。文さん没後の97~98年、ビルマ(ミャンマー)に15ヵ月間滞在し、200人以上の現地の人びとへの聞き取りと、慰安所とされた建物の調査を行いました。
元「従軍慰安婦」だった女性たちの物語が、軍事郵便貯金原簿の写しや日本軍の正史ともいえる『戦史叢書』、ビルマ現地の日本軍兵補の思い出、慰安所関係者の当時の日記などで証明された例はきわめてまれで、貴重です。
著書に『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(1996年、梨の木舎)、『ビルマ(ミャンマー)に残る性暴力の傷跡』(1998年、自家版)、映像作品『ビルマに消えた「慰安婦」たち』(1999年、ビデオ塾)、『ビルマの日本軍「慰安婦」』(2000年)、『シュエダウンの物語』(2006年)。

・森川万智子さんは1947年3月福岡県太宰府市生まれ。山口県立下関南高校卒。66年から郵便局員として働き、労働運動を16年間続けました。86年退職、出版社・印刷会社勤務を経て、現在フリーライター。福岡市で小規模な老人介護施設を経営しています。
・連絡先は🏣811-1313 福岡市南区日佐4-23-9 

・女性文化賞は1997年に創設された手作りの賞です。文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者をはげまし、支え、またこれまでのお仕事に感謝することを目的としています。賞金は50万円、記念品として女性画家によるリトグラフ一点を贈ります。
・女性文化賞を20年間続けてきましたが、健康上など諸般の事情で今年をもって終わりにいたします。この志を継いでくださる方を期待しています。   2016年12月9日

〒152-0023東京都目黒区八雲3-29―20―104 電話・ファックス 03-3723―0483
                       高良留美子

2016.10.21 反戦のスタンディングをして逝ったスポーツ記者
むのたけじさんの影響か

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月15日から新聞週間が始まった。これに先立つ同月8日、東京・日比谷の日本プレスセンター内の日本記者クラブで、元朝日新聞記者・川島幹之(かわしま・もとゆき)さんを偲ぶ会があった。「日本報道界の拠点」といわれる同プレスセンターで行われる報道関係者を偲ぶ会と言えば、著名なジャーナリストを対象としたケースが大半だから、いわば無名の記者だった川島さんを悼む集いがここで開かれたことは特筆に値する。彼がいかに多くの報道関係者に愛され、慕われていたかを示す集いだったと言っていいだろう。

 川島さんは1945年6月、両親が疎開していた埼玉県加須市で生まれたが、母の父は七代目林家正蔵、弟は初代林家三平。いうなれば川島さんは林家三平の甥である。
 立教大学を卒業すると1969年に朝日新聞に入社し、甲府、福島、北埼玉の各支局員を経て北海道支社報道部員に。この間、甲府支局時代に結婚。その後、東京本社と西部本社の運動部員、東京本社整理部員、名古屋本社運動部次長、大阪本社運動部次長、東京本社運動部次長、大阪本社運動部長を歴任した。
 2005年に定年を迎えたが、その後もシニアスタッフとして鹿島(茨城県)支局長、横手(秋田県)支局長を務め、2012年8月、朝日新聞社を退社した。

 これらの社歴からも分かるように、川島さんは専ら運動部記者だった。運動部とはスポーツを取材する部署。つまり、ほぼスポーツ記者一筋だったわけである。現役時代の記事には『スポーツ界列伝』『スポーツ小噺』といったものがある。
 仲間同士の宴会では落語を披露することもあった。だからだろう。あだ名は「サンペイさん」だった。

 偲ぶ会には、かつての上司、同僚、後輩、それにリタイアしてから参加した市民団体の関係者ら約90人が集まった。特に印象に残ったのは、追悼の言葉を述べたすべての人たちが、口々に川島さんの人柄を讃えたことだった。そればかりではない。会場で配られた『ありがとう川島さん―川島幹之追悼集』に追悼文を寄せた人たちも皆、こぞって彼の人柄をほめていた。
 
 曰く「いつも穏やか」「思慮深く温厚」「明るく、さわやか」「洒脱な人柄」「粋で潔い」「無類の人の良さで、私たちを魅了した」「何ごとにも誠実だった」「正義感あふれる心優しき男だった」「生き様を通して、人間としての優しさと強さを教えて下さった」・・・
 偲ぶ会で、かつての同僚の1人は「川島さんが人の悪口を言うのを聞いたことがない」と話した。大阪本社運動部長時代の部下も、追悼集に「(川島さんは)いつも泰然自若として、大人の風格。・・・一癖も二癖もあり『俺が、オレが』意識の強い新聞社にあって、貴重なおおらかさを有していた」と書いている。
 一般的に言って、新聞記者は他人をほめることが少ない。むしろ、他人に対する論評は痛烈無比だ。そういう世界を生きてきた者からすると、特定の記者に対するこれほどの絶賛は聞いたことがない。
 こうした賛辞が通りいっぺんのお世辞でないことは、私が保証する。なぜなら、私もまた、これまで彼の人間性に接する機会がたびたびあったからである。

 私が初めて川島さんに会ったのは、1974年3月、朝日新聞北埼玉支局(埼玉県熊谷市)でだった。当時、朝日は埼玉県北部で販売部数を増やそうと、それまでの熊谷通信局(1人勤務)を支局に格上げし、支局長と支局員5人の計6人を投入して北埼玉版づくりに当たらせていた。支局員が異動し、新たに甲府支局からに赴任してきたのが川島さんで、私は支局長だった。もっとも、その後、私は社会部で、川島さんは運動部でそれぞれ働くようになったから、同じ新聞社社内にいても疎遠な間柄になった。
 ところが、それから39年後の2013年、私が参加している朝日OBの集まりに川島さんが加わったことから、つきあいが復活。翌14年の3月、私が関わる団体が企画したキューバ・ツアーに誘ったら、「一度行ってみたかった国だから」と即座にツアーに加わり、私たちは一週間、旅を共にした。
 しかし、帰国後間もなく、川島さんは肺がんを患い、今年5月2日に亡くなった。70歳だった。だれもが驚いた急逝だった。

 結局、支局での付き合いも、朝日OB会での付き合いも極めて短期間であったわけだが、そこで私が得た川島さんについての印象を言えば、偲ぶ会で同僚や後輩が話したり、追悼集に寄稿している人たちが抱いた印象と同じであった。
 
 それにしても、私にとって最大の驚きは、川島さんが、横手支局長を退任して埼玉県越谷市へ移って以降、脱原発の集会に参加したり、安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定や安保関連法案に反対する行動に参加していたことである。
 追悼集によると、川島さんが参加していた行動の一つが「南越スタンディング」。市民一人ひとりが「9条壊すな!」「戦争させない」「アベ政治を許さない」などと書かれたプラカードを掲げて週2日、越谷駅頭に立つ。肺がんが発症してからも、川島さんはスタンディングを止めなかった。
 
 偲ぶ会には、一緒にスタンディングをやっていた市民2人がかけつけ、「リハビリもしているというので、たとえ車いすになっても、いつの日かスタンディングに復帰してくれると思っていました。川島さんの逝去はあまりにも早すぎます。今の政治を立て直すため、まだまだ一緒に行動してほしかった」などと、早世を惜しんだ。

 彼は、私とのつきあいの場では政治に関して語ることはなかった。それだけに、こうした彼の一面を知って私は驚いた。そして、何が彼をこうした行動に突き動かしていたのだろうかと考えてきたが、追悼集を手にして納得がいった。
 
 秋田県横手市と言えば、去る8月21日に101歳で亡くなった反骨のジャーナリスト、むのたけじさんが在住していたところである。よく知られているように、戦意高揚のための記事を書いた責任を痛感し、敗戦の1945年8月15日に朝日新聞社を去り、郷里秋田県の横手市で週刊新聞『たいまつ』を発刊しながら反戦平和を訴え続けた人だ。
 追悼集によれば、川島さんは横手支局在任中にたびたび取材でむのさんを訪れ、その話に大変感銘を受けたという。よく「とってもかなわないや、すごい人だよ、いくとはっぱをかけられるんだよ」と話していたという。同じ新聞社の先輩、後輩としてウマが合ったのかもしれない。
 
 先輩記者だった武田文男さんが、追悼集に書いている。「(川島さんが入院前に病躯を押して“戦争法案”反対デモに加わったのは)百歳を超えて、なお反戦を唱える むのたけじ先輩へのエールだったのでしょう」
 むのさんの影響もあって、川島さんもまた、1人の人間として日本の前途に危機感を募らせていたのではないか。だから、病身にもかかわらず、その危機感を行動に移していたのだろう。そこにまた、私は彼の「誠実な生き方」を見た思いだった。  

2016.10.18 脱原発が県民に広く浸透
新潟県知事選で再稼働慎重派が勝利

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 10月16日におこなわれた新潟県知事選で、医師で原発の再稼働に慎重姿勢の無所属候補、米山隆一氏=共産、社民、自由推薦=が、同県長岡市の前市長で無所属候補の森民夫氏=自民、公明推薦=らを破って初当選した。この結果、安倍政権の原発推進政策は見直しを余儀なくされるのは必至で、衆院選を控えた野党共闘にも影響が出そうだ。

 新潟県知事選では、当初、これまで東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に慎重だった泉田裕彦知事が4選出馬すると思われていた。これに対し、原発推進派の森氏も出馬を表明、このため、知事選は泉田氏と森氏の対決になるとみられていた。ところが、泉田氏が突然、不出馬を表明したことから、一時は森氏の無投票当選もあるのでは、との観測も出たほどだった。このため、全国の原発推進派は安堵し、一方、脱原発は泉氏の4選を期待していただけに落胆も大きく、危機感を深めた。
だが、次期衆院選新潟5区の民進党候補に内定していた米山氏が知事選告示1週間前の9月23日に民進党を離党し、知事選に立候補することを表明。これに対し、市民団体と共産、社民、自由の野党3党が米山氏を支援することを決定、最大野党の民進党は自主投票となった。民進党を支持する連合が森氏を支援することになったためだった。

 かくして、知事選は森氏と米山氏による事実上の一騎打ちとなった。争点は、原発の再稼働への賛否だった。なぜなら、同県には柏崎市と刈羽村にまたがる地域に巨大原発、すなわち東電柏崎刈羽原発(7基)があり、東日本大震災による東電福島第1原発の事故以来、稼働停止中だが、東電と政府はこれの再稼働を急いでいるからである。
 県知事に原発の再稼働を止める権限はないが、知事の同意が得られないと原発停止が長引く可能性がある。したがって、東電と政府は何としても知事の座に原発推進派をすえたかったわけである。一方、全国の脱原発派は、何としても泉田氏の再稼働慎重路線を継承する候補に勝ってもらいたかったわけだ。かくして、両派による激烈な選挙戦が戦われたのだった。
 
 組織力と資金力で劣る原発再稼働慎重派がなぜ勝利できたか。
一つには、市民団体と野党3党の共闘があったからと思われる。新潟県では、7月の参院選(1人区)で、野党統一候補が自民党候補を僅差で破って当選しており、その時の市民団体と野党の結束がまだ生きていて票固めで力を発揮した、と見て差しつかえないだろう。野党統一候補として当選した森裕子参院議員を知事選の選対本部長にすえたのも効いた。自主投票を決めた民進党が選挙終盤に蓮舫代表を送り込んだことも、少しは影響したかもしれない。

 それに、県外の脱原発派からの応援も勝利に貢献したのではないか。全国の脱原発団体は、傘下の人たちに、新潟県の友人、知人に米山候補に投票するようハガキや、電話、電子メールで依頼しようと呼びかけた。選挙運動を支援するために現地に人を派遣した団体もあった。こうした県外からの支援が新潟の有権者をふるい立たせたということもあったのではないか。

 でも、最大の勝因は、新潟県民の意識の変化ではないか。
 真の勝因を知りたくて、新潟市在住の元新聞記者に聞いてみた。彼は即座にこう言った。
 「原発再稼働慎重候補が勝った理由は、ひと言でいえば、新潟県民の意識の変化ですよ。県民意識の変化のきっかけは東電福島第1原発の事故です。新潟は福島の隣県。とても近いから、この5年の間に、県民は原発事故による被害の実態を知ったんですね。とりわけ、新潟県には福島県から避難してきた人たちが今なお3000人もいることが大きい。県民はその人たちとじかに接する中で原発事故がいかにひどいものかを知ったんですね」
 「中越地震の時、東電柏崎刈羽原発で火災が起きたことが決定的だったと言っていいでしょう。この時以来、多くの県民はこう思うようになったんです。あの程度の地震で原子力発電所で火災が起きた。もっと大きな地震がきたら、えらいことになるな、と」
 「要するに、原発事故で県民の意識が変わったんですね、原発の再稼働には反対だ、と。今度の知事選、言ってみれば県民の力の勝利ですよ」

 彼の話を聞きながら、私は、最近見た2つの光景を思い出していた。1つは、今月5日に目にした福島県の原発被災地の荒涼たる風景である。生き物が全くいないゴーストタウンと化した住宅街、朽ち行く家屋、雑草地と化しつつある稲田・・・。私は、その場に立ってこう思ったものである。原発被災地の惨状を知ったら、だれしも原発を再稼働させよなんて言い出せなくなるのではないかと。そして今、新潟県知事選の結果を見た私の心に浮かんでくるのは、「新潟でも原発被災地に思いをはせる人たちが増えつつあるのだ」という思いだ。

 もう一つの光景は、9月22日、滝のように降りしきる豪雨の中を「脱原発」を掲げて東京・代々木公園に全国から集まってきた人たちの姿である。約9500人。新聞・テレビはごく一部を除いてこの脱原発全国集会を報道しなかった。脱原発運動なんかやって何になるだろうと、軽視しているからだろう。
 でも、新潟県知事選の結果を前に私はこう思う。「脱原発運動は、鹿児島県知事選に続いてまた成果をあげた。これを機にさらに力をつけるにちがいない」と。

2016.10.13 原発事故から5年半の福島を見る
遅々たる復興、進む荒廃

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから5年半たったのを機会に10月5日、原発事故被災地の福島県を訪れた。原発事故被災地・福島の現地見学は2015年2月、同年10月に次いで今回が3回目。被災地のごく一部を垣間見たに過ぎなかったが、今回の総体的な印象を言えば、「被災地の復興は遅々たるもので、むしろ一部では荒廃が進んでいる」という感じであった。

 最初の現地見学は、東日本大震災で被災した東北の人たちへの支援活動を続けている「NPO法人大震災義援ウシトラ旅団」が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現した。2回目は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉OB会)が主催した「福島ツアー」に加わっての現地見学。今回は、埼玉ぱるとも会と東京ぱるとも会(パルシステム東京OB会)が共催する「福島ツアー」に加わっての現地見学だった。

 今回のツアー参加者は生協の元役員、組合員ら総勢29人。バスでさいたま市――福島県いわき市――広野町――楢葉町――富岡町――いわき市――さいたま市のコースを回った。

 いわき市で、同市在住の「NPOふよう土2100」の里見喜生・理事長と合流、以後、里見理事長の案内で被災地を回った。
 同理事長によれば、今なお原発事故で避難を余儀なくされている人は福島県内だけで約12万人を数える。同理事長にいただいた資料によれば、いわき市の人口は約34万9000人だが、うち約2万4000人が福島第1原発に近く被害が甚大だった双葉郡(大熊町、双葉町、富岡町、楢葉町、広野町など)から避難してきた人たちで、仮設住宅だけでも3500戸以上にのぼるという。

 バスは四倉港に立ち寄った後、いわき市内の久之浜地区の「浜風商店街」へ向かった。
 東日本大震災で、いわき市の太平洋沿岸も津波に襲われたが、久之浜地区では、住民60人が津波に呑み込まれて死亡し、火災も発生した。家屋586棟が全半壊し、商店街を形成していた商店38軒も全滅。半年後、うち9軒が久之浜第一小学校の敷地内に仮設商店街をつくって営業を始めた。これが「浜風商店街」である。
 魚屋や食堂、酒店、理髪店など9軒。ところが、この商店街も来年3月には解散する。このままでは明るい展望がもてないからだという。商店街の人たちは私たちツアー一行を歓待してくれたが、その表情は心なしか寂しそうだった。
 私たちはとかく原発による被害に目がゆくが、東日本大震災の津波による被害もまだ回復せず、その後遺症はなお深刻であることを突きつけられた思いだった。

 いわき市から北上する。広野町を過ぎ、楢葉町に入る。楢葉町役場があり、そのわきの広場で仮設の商店街が営業していた。ちょうど1年前にもここに立ち寄ったが、商店街は昨年と同様人影もまばら。1年前と変わったことと言えば、商店街の外に「移動焼き鳥店」が駐車していたぐらいだった。
 そこから、さらに北上すると、道路の両側に田んぼが広がるが、どの田んぼも一面雑草に覆われ、すでに稲田の面影はなく、まるで原野のようだ。放射能に汚染されたため、稲作が不可能となったのだ。ちょうど1年前にもここを通ったが、この1年で、田んぼの原野化がいっそう進んだように思われた。
 加えて、野天に積まれた、放射能に汚染された廃棄物を詰めたフレコンバッグが増えたように思えた。里見理事長がいう。「放射能に汚染された廃棄物は、無害化することができません。ただ移動させるだけなんです」
 このあたりは、かつて福島県でも有数の米作地帯だった。美田のあまりにも変わり果てた姿に心が痛んだ。

 楢葉町は、福島第1原発から南へ20~12キロ。このため、原発事故後、同町の大半は、立ち入り禁止の「警戒区域」に指定され、住民は避難を強いられた。が、2012年8月、「避難指示解除準備区域」となり、昨年9月、避難指示が解除された。ただし、里見理事長によると、この1年で避難先から町に戻ったのは約800人。原発事故以前の町の人口は7500人だったから、帰還者は約1割ということになる。里見理事長が語る。
 「町民の心情をひと言で言えば、『戻りたくない』ではなく、『戻れない』ということでしょう」
 「町民が帰還に二の足を踏んでいるのは、第1に、子どもへの影響を懸念しているからです。残留放射能が子どもの健康に影響するのではという不安ですね」
 「第2の懸念は、病院、美容院、スーパーなどが不足していることです。これでは生活できないと」
 「まだあります。すでに他の市町村で就職してなんとか暮らしてゆけるようになった。帰還するとなると転職しなくてはならない。果たして働き口があるか不安なんです」
 同理事長の話を聞きながら、「避難指示が解除されても住民が町に戻らない。そうなれば、町は自治体として成り立たなくなるのではないか」と思わざるをえなかった。

 さらに北上すると、富岡町である。同町は福島第1原発から約10キロのところにあり、大震災では津波に襲われた上、原発爆発による放射性物質が降り注くというダブルパンチを被った。人口はただ今ゼロ。事故当時は約1万5000人が住んでいたが、放射線量が高いために今も全町民避難という事態が続いており、町役場も郡山市へ退避したままだ。

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富岡町の双葉警察署わきの公園に設置された線量計は「0.281マイクロシーベルト」 を示していた

 ここでは、まず、JR常磐線の富岡駅へ向かった。ここは昨年も訪れたが、その時はすでに駅舎は取り壊され、白っぽいプラットフォームだけが、かつての駅の面影を残していた。駅前には、津波で半壊した商店や住宅が、目を背けたくなるような無残な姿をさらしていた。
 それから1年後、駅前は一新していた。商店や住宅の残骸は取り払われ、更地になっていたからだ。これから先、その更地に何が造られるのだろうか。新しい街づくりの構想を示した看板等は見当たらず、復興の将来展望は見えてこなかった。
 駅前から少し離れたところに、かなりの数の、建築したばかりの瀟洒な住宅が立ち並んでいた。もちろん、人は住んでいない。
 「津波・原発事故の直前に建てられたものなんです。おそらく、ローンで建てたものでしょう。せっかく借金してマイホームを建てたのに、避難指示によりそれに住めない。しかも、避難先では借家暮らしだから家賃を払わなければならない。ローンと家賃の二重払い。避難民の苦難は、こんなところからもうかがえます」と里見理事長。

 富岡駅跡から、夜の森地区へ。ここも昨年訪れたところ。見事な桜並木が続き、それを挟んで住宅街が広がる。住宅街は、立ち入り禁止の「帰還困難区域」と、住民に一日のうち一定の時間のみ立ち入りを許される「居住制限区域」に分けられており、私たちは「居住制限区域」の中をバスで通り抜けた。
 そこは、昨年もそうだったが、完全な無人地帯で、さながらゴーストタウン。犬一匹、猫一匹見当たらず、空には鳥の姿もない。住家の庭には雑草が茂り、半ば朽ちかけた家も。
 
 森閑とした住宅街にも人の気配がするところがあった。住宅の除染作業がおこなわれていたからだ。今回のツアーに参加した私の友人はツアー中、至るところで放射線量を測っていたが、彼の線量計は、この住宅街周辺では毎時0.53~0.58マイクロシーベルトを記録した。環境省が示している一般人の放射線量の基準が毎時0.23マイクロシーベルト以下であることを考えれば、夜の森地区は異常に高い値だ。
 「こんなに線量が高くては、この地区の住民は当分、いや、かなり長期にわたって我が家に帰ることはできないだろう。なのに、政府は住民を帰還させることを前提に住宅の除染を続ける。この落差はいったいどういうことなのか」。そんな疑問が募った。

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無人の住宅街では除染作業がおこなわれていた=富岡町夜の森地区で

 夜の森地区の近くに、JR常磐線の線路と夜ノ森駅の駅舎があった。1年ぶりに見た線路と駅舎は、前年よりもいっそう荒涼とした姿をさらしていた。低い丘と丘の谷間を走る線路は伸び放題の雑草と雑木に覆われて、もはや線路が目に入らない。駅舎もジャングルのような雑木の中に埋もれてしまっていた。常磐線が再び開通することはあるのだろうか、と思った。
 夜ノ森駅周辺には、広大な田んぼが広がっていた。しかし、見渡す限り雑草の生えた田んぼと化し、秋だというのに、黄金の穂並みはなかった。「もう稲作は無理」と、農民たちはこの土地を利用した大規模なソーラー発電を計画中という。

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雑草地と化した田んぼ=富岡町夜の森地区で

 ツアーを終え、さいたま市へ帰るバスの中で、参加者全員が感想を述べ合った。
 「現地に来て、初めて原発事故の惨状を理解できた。百聞は一見にしかず。帰ったら、周りの人に福島を訪れるよう勧めたい」
 「原発事故はまだ収束せず、被災地の復興も進んでいないのに、安倍政権は原発の再稼働に躍起になっている。そんなこと、とても認められない」
 「被災地に来た大臣や国会議員が極めて少ないことを知った。原発事故による被害の実態を知るために、大臣や国会議員はもっと現地を訪れるか、現地に住むべきだ」
 私は「原発再稼働が推進される一方で、福島では棄民政策が進行しているという感じを受けた」と発言した。

2016.09.30  献身無私のオルガナイザー
    平和運動家・進藤狂介さんを悼む

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 戦後71年。この間、ひたすら平和運動に携わってきた人の訃報が相次ぐ。先日も平和運動家・進藤狂介さんが病没したのを知り、「これでまた1人、平和運動を裏方として支えてきた活動家がいなくなったか」と、惜別の情を覚えた。5月29日に死去、82歳だった。

 進藤さんに出会ったのは1966年である。私は当時、全国紙の社会部記者で、この年から「民主団体担当」になった。「民主団体」なんて今では死語だが、当時は革新系の大衆団体のことをそういった。「革新系」というのも今や死語と言っていいが、当時は社会党(社民党の前身)、共産党、総評(労働組合の全国組織。すでに解散)などをひっくるめて「革新陣営」あるいは「革新勢力」と呼んだ。そして、その影響下にある大衆団体を「民主団体」と呼んだのだった。

 私が取材で足を運ぶことになった民主団体は、具体的には平和運動団体、労働団体、学生団体、女性団体、国際友好団体などだったが、その中に、原水爆禁止関係団体があった。それは、3つあった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、民社・同盟系=どちらもすでに解散)だ。

 このうち、東京・港区御成門にあった原水協にいたのが進藤さんだった。当時、進藤さんはそこの専従事務局員で組織部に属していた。原水協の取材でお世話になった人の1人が進藤さんだったわけだが、ここで進藤さんと一緒に仕事をしていた同僚によると、進藤さんは山口県出身で、ここに来るまで山口県原水協の事務局員だった。抜群の事務能力を買われて原水協本部にスカウトされたのだという。 

 組織部での仕事は、原水協が主催する原水爆禁止世界大会の準備とか、核兵器問題や軍縮問題の資料集づくりとか、会議の議事録づくりとかいうものだったようだ。進藤さんと一緒だった元事務局員の1人は「原水協時代の彼の功績は、何といっても被爆問題国際シンポジウムの成功に寄与したことだろう」と語る。

 被爆問題国際シンポジウムとは、正式の名称を「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」といい、国際準備委員会と日本準備委員会の共催で1977年7月21日から8月9日まで、東京、広島、長崎を結んで行われた。これには、海外から22カ国69人の専門家が参加し、日本側からも学者・研究者らが多数参加した。シンポジウムは、広島・長崎の被爆者を対象に調査を行い、その結果を医学的、社会的、文化的な見地から検討し、原爆が人間と社会もたらした影響を明らかにした。被爆の実相と被爆者の実情が総合的な見地から国際的に明らかにされたのは初めてだった。
 いわば、日本にとっても世界にとっても画期的なイベントとなったわけだが、このシンポには、当時、対立・抗争していた原水協・原水禁の両組織も全面的に協力し、両組織に距離を置いていた市民団体も協力した。このことが1つの契機となって、この年、原水協、原水禁、市民団体が統一して世界大会を開くなど、3つのブロックの共闘が実現する。

 このシンポで、進藤さんは日本準備委員会の事務局員を務めた。シンポの後に刊行された報告書の中で、日本準備委員会事務局長を務めた川﨑昭一郎氏(当時、千葉大学教授。現公益財団法人第五福竜丸平和協会代表理事)は「日本準備委員会の事務局を支えてくださった多くの方がたのなかで、とくに進藤狂介・・・の各氏にたいし、心から謝意を表したい」と述べている。  

 そんな進藤さんにとって、1984年、思いがけない転機が訪れる。この年、共産党が、原水禁、市民団体との共闘を推進してきた原水協執行部に「原水禁・総評と共闘してはならない」との方針を示し、これに従わなかった吉田嘉清・代表理事を、共産党の意向を体した原水協の全国理事会が解任したからである。原水協事務局の何人かは「共産党のやり方は納得できない」として吉田氏と行動を共にした。進藤さんも原水協を離れた。
 吉田氏らが、新たな活動の場として「平和事務所」を立ち上げると、進藤さんもこれに加わった。平和事務所が開催した「草の根平和のつどい」で、よく進藤さんを見かけた。
 また、吉田氏らが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で被ばくしたバルト3国の国民を支援するための「エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金」を創設すると、そのメンバーになった。バルト3国の被ばく者代表が来日すると、彼らを長崎に案内したりした。
 
 そのころの進藤さんの活動でとくに印象に残っているのは、神奈川県の生活クラブ生協の組合員グループを“引率して”8月6日を中心に「広島行動」をやっていたことだ。進藤さんとともに広島を訪れた女性組合員たちが、原爆関係の遺跡を見学したり、平和集会に参加して討議に熱心に耳を傾けていた光景を思い出す。1990年前後のことである。組合員たちが広島へ行く前には事前学習会があった。それをアレンジしたのは、もちろん進藤さんである。

 15年ぐらい前だったろうか。進藤さんは郷里の山口市へ帰った。がんを患ったため、その治療のためだったようだ。しかしながら、私はその後もほとんど毎年夏に、広島か長崎で進藤さんに出会ったものである。彼が8月6日には広島の、8月9日には長崎の反核平和集会に姿をみせていたからだ。その時の進藤さんは元気で、とても病身とは思えなかった。そのころは、「軍縮問題研究者」とか「被爆問題研究者」と名乗っていた。
 ただ、昨年、歩行中に倒れ、以来、外出もままならない日々だったようだ。

 「勉強家だった」「軍事問題や軍縮問題にくわしかった。文章も書けた」「いつも裏方に徹していた」「人と人を結びつけるのが得意で、根回しに長けていた」「とくに若い人を組織するのがうまかった」「献身無私の人」「けんかをすることもあったが、心がきれいな人だった」・・・進藤さんと一緒に仕事をした人たち、進藤さんと付き合いがあった人たちの進藤評である。
 平和運動家のほとんどがそうであったように、進藤さんもまた、その生活を支えたのは奥さんだった。進藤さんの奥さんが言った。「脇目も振らず平和運動一筋に生きた一生でした」。
 なんでそんなに平和運動に熱心だったのか。その理由を聞く機会はついになかったが、幼いころ、戦争を体験したのだろうか。残念ながら、今となっては分からない。遺体は、遺言により山口大学医学部に献体された。死してもなお世のため他人のために役立ちたい。いかにも進藤さんらしい最期と思った。
2016.09.23  「『もんじゅ』廃炉は脱原発運動の勝利だ」
    豪雨の中、東京で「さようなら原発」集会

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「さようなら原発 さようなら戦争大集会」と銘打った集会が、9月22日、東京・代々木公園で開かれた。秋雨前線による豪雨が降りしきる中、全国各地から約9500人が集まり、「高速増殖炉『もんじゅ』の廃炉が決まったが、これは、私たちが長い間求め続けたきたことであって、脱原発運動にとって画期的な成果」「政府の原子力政策は明らかに曲がり角を迎えた。さらに運動を強化して原発のない日本、核武装とは無縁の日本を実現しよう」と気勢をあげた。

 東京で「脱原発」を掲げる大規模な集会が開かれたのは、今年3月26日にやはり代々木公園で開かれた「原発のない未来へ!つながろう福島!守ろういのち!3・26全国大集会」以来。主催は、作家の大江健三郎、落合恵子、作曲家の坂本龍一さんらが呼びかけ人となって生まれた「『さようなら原発』一千万署名市民の会」。

 開会は正午からだったが、その前から、JR山手線原宿駅から、レインコートに身を包んだり、傘をさして雨の中を会場の代々木公園にへ向かう人の列が続いた。
 会場に着くと、公園の野外ステージの前の広場には脱原発団体をはじめ労組、生協、市民団体などの旗やのぼりが林立し、色とりどりの無数の傘が広場を埋めていた。
 労組では、自治労、日教組、国労、JR総連、私鉄総連、全港湾など旧総評系の組合旗が目立ち、参加組合は北海道から九州にまで及んでいた。生協ののぼりは、パルシステム生協や生活クラブ生協など。もちろん、個人や仲間と連れだってやってきた思われる一般市民の姿もあった。
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             代々木公園の野外ステージ前広場を埋めた集会参加者

 第1部では、東京電力福島第1原発事故で被害を受けた福島県飯舘村の村民が、被災地の現状と課題を報告した。村民は「事故から5年半。メディアは東京の豊洲市場問題一色で、福島のことはほとんど報道されない。たまに報道されると、福島では復興が進んでいる、除染も進んでいるという話ばかり。しかし、まだ多くの県民が避難生活を余儀なくされており、行き場のない、除染廃棄物を入れたフレコンバッグが山積みになるばかり。原発事故による汚染水の処理問題も未解決で、そればかりか台風の影響で汚染水が増えている。これでは、復興が進んでいるとは言えない」と訴えた。
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          野外ステージから原発事故被災地福島の現状を訴える飯舘村の人

 第2部では、「市民の会」呼びかけ人で作家の澤地久枝さんが主催者あいさつをしたが、その中で澤地さんは、まず「きょうの新聞の一面で、高速増殖炉『もんじゅ』を廃止することになったと報じられている。これまで多くの人がやめるよう訴えてきただけに、これは歴史的なことだ」と「もんじゅ」の廃炉を歓迎。言葉を継いで「でも、安倍政権は原発再稼働を推進するばかりか、事故を起こした福島第1原発の廃炉費用を消費者の電気代に上乗せしようとしている。廃炉費用は東京電力が負担すべきであって、消費者にしょわせるなんてとんでもないことだ」と政府と東電を批判、「原発をなくすために、これからも力を合わせましょう」と呼びかけた。

 次いで、福島から参加した武藤類子さん(ひだんれん共同代表)や、詩人のアーサー・ビナードさん、俳優の木内みどりさんらが発言。
 ビナードさんは「広島を訪れたオバマ米大統領は、帰国後、核の先制不使用を言いだした。広島で話したことを具体化しようとしたのだろう。すると、安倍首相がこれに異議を唱えた。安倍さんは被爆国の首相ではないか。こんなこと許されることではない」と述べた。木内さんは「大雨の中、こんなに多くの人たちが集まった。天はなぜよりもよってきょう雨を降らせたのでしょうか。君たち、ほんとうにやる気があるのか、と私たちに問いかけたのではないか」と話した。

 最後に登壇したのは「市民の会」呼びかけ人でルポライターの鎌田慧さん。
 「安倍政権はようやく『もんじゅ』の廃炉を決めた。実に遅すぎた決定だが、それが持つ意味は重大で、日本の原子力政策がターニング・ポイントを迎えていると言いてよい」
 「ただ、政府が『もんじゅ』を廃炉にしても、高速炉の研究を維持すると言っていることに注目しなくてはいけない。それは、イコール核燃料サイクルをやめないということだからだ。そのことは、青森県六カ所にある、原発の使用済み核燃料の再処理工場の稼働を続けると言っていることで明白だ。この再処理工場はこれまで30年間にわたり22回も試運転を繰り返したのにいずれも中止に追い込まれたのに、まだやろうとしている」
 「なぜ、政府は核燃料サイクルをやめないのか。それは再処理工場でプルトニウムを取り出すためだ。プルトニウは原爆の材料になる。つまり、日本の核武装を目指しているからなのだ」
 「日本の原子力政策は破たんしつつある。脱原発を求める国民の声に耳を傾けない安倍独裁政権を打倒しよう」
 
 集会の後に予定されていたデモ行進は雨のため中止となった。
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                のぼりを持って集会に参加した大学生

2016.09.09  脱原発運動、反転攻勢へ
    9月22日(秋分の日)に大規模集会へ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 「さようなら原発 さようなら戦争大集会」と銘打った集会が、9月22日(木、秋分の日)、東京・代々木公園B地区・けやき並木で開かれる。原発の再稼働を推進する安倍政権と電力業界に対し再稼働停止を迫ろうという狙いで、脱原発を掲げる大規模集会は今年3月26日にやはり東京・代々木公園で開かれた「原発のない未来へ!つながろう福島!守ろういのち!3・26全国大集会」以来だ。

 主催は「さようなら原発」一千万署名市民の会。これに、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲行動実行委員会、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会が協力する。集会では、次のスケジュールが予定されている。 

12:00 第1部 トーク&ライブ
   報告:福島の現状と課題 長谷川健一(ひだんれん)他
13:30 第2部 トーク
   呼びかけ人あいさつ:鎌田慧(ルポライター)、澤地久枝(作家)
   発言:アーサー・ビナード(詩人)、木内みどり(俳優)、武藤類子(ひだんれん)
15:00 デモ出発
   渋谷方面コース:代々木公園~渋谷駅~神宮通公園
   原宿・青山方面コース:代々木公園~原宿~表参道~明治公園周辺

 この時期に脱原発団体が大規模な集会を計画したのは、安倍政権と電力業界が、昨年から、ますます原発の再稼働に突進しているからだ。
 東京電力福島第1原発の事故から5年余になるが、事故はまだ収束していない。そればかりでない。東電が原発建屋に流れ込む地下水を遮断する対策の切り札としてきた凍土遮水壁方式の破綻が、いまや明らかになりつつある。
 にもかかわらず、安倍政権と電力業界は昨年8月には九州電力・川内原発(鹿児島県)1号機を再稼働させ、続けて同10月には川内原発2号機を、今年1月には、関西電力・高浜原発(福井県)3号機を、2月には高浜原発4号機をそれぞれ再稼働させた(ただし、高浜原発4号機は再稼働直後にトラブルで自動停止。これに続き、今年3月には、高浜原発3、4号機に対する大津地裁の運転差し止め仮処分決定を受け、3号機が停止)。さらに、安倍政権と電力業界は、8月12日に四国電力・伊方原発(愛媛県)3号機を再稼働させた。
 稼働中の川内原発1、2号機については、こんなこともあった。三田園訓・鹿児島県知事が、熊本地震を受けて県民の不安の声が高まっているなどとして、8月26日、九州電力に「原発を直ちに停止し、安全性を再検証するよう」要請したことである。川内原発に関しては画期的なことだが、九州電力は9月5日、「直ちに停止する」との求めには応じず、10月以降の定期検査入りまで稼働するとの方針を知事に伝えた。

 こんどの「大集会」は、これらの動きに抗議し、改めて全ての原発再稼働に反対する意思を示すためのものだ。
 さらに、先の参院選中は、大規模な脱原発集会を開きたくても開けないという事情もあった。脱原発団体に参加している組織の中には精力を参院選に集中せざるをえないところもあって、そうした組織は、選挙中は脱原発のための集会にエネルギーをさけない、というわけだった。「参院選は終わった。次は脱原発だ」。そんな声も聞こえる。
 それに、参院選では、市民諸団体と野党4党の共闘が初めて実現したが、双方が合意した選挙政策は「安保関連法の廃止」「立憲主義の擁護」「安倍政権打倒」などで、「脱原発」は入っていなかった。野党の中に「脱原発」ではまとまれない政党があったため、合意項目に「脱原発」を加えることができなかったわけである。いずれにせよ、そうしたことが、この時期、脱原発団体の動きを鈍くしたとという面があった。

 テント強制撤去に抗議して経産省包囲へ

 「経産省前テント」が国の提訴により撤去されたことも、脱原発団体関係者を勢いづかせている。
 経産省前テントとは、脱原発を訴える市民団体が東電福島第1原発の事故から半年たった2011年9月11日に東京・霞が関の経済産業省の敷地内に設置したテント。市民団体のメンバーがここに常駐して国の原発政策を批判する看板を掲げ続けた。脱原発運動の象徴的な場所として知られるようになったが、国は立ち退き訴訟を起こし、団体メンバーに撤去と土地使用料の支払いを命じる判決が、7月28日、最高裁で確定した。それを受けて、8月21日未明、東京地裁によりテントの強制撤去が行われた。

 市民団体「経産省前テントひろば」は、9月11日(日)15時から「テント設営5周年 脱原発9.11・怒りのフェスティバル」を経産省周囲一帯で行う。18時45分からは、経産省包囲ヒューマンチェーンを行うという。
 このフェスティバルは、テントの強制撤去前からテント設営5周年記念行事として企画されていた。が、強制撤去を受けて、フェスティバルは抗議の行動となりそうだ。
2016.09.03  色あせない山本宣治(やません)の訴え
 87年前に右翼に刺殺された労農党代議士を偲ぶ

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 8月は、誰しも物故者と“出会う”月である。今年も8月にはお盆があったから、その期間中はあの世から里帰りしてきた祖先に“出会えた”し、加えて、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日と続いたから、私たちは戦争で亡くなったおびただしい人びとに思いをはせることができた。私も多くの故人に“出会えた”が、最も印象に残ったのは、「やません」こと山本宣治である。

 8月6日の広島原爆の日関連の行事や集会を取材した帰り、私は京都に途中下車し、そこで京都在住の友人(大学の同級生)と落ち合い、JR奈良線で宇治駅へ向かった。目的は、宇治市内にある平等院を見学することだった。私がまだ平等院を見たことがないのを知った友人が、案内を買って出てくれたのだった。

 宇治駅で下車すると、友人が「平等院へ行く前に見せたいものがあるから」と、宇治川川畔へ向かった。ついてゆくと、豊かな緑に囲まれた和風の国際観光旅館に着いた。「花やしき浮舟園」だった。友人は旅館の受付で何ごとか交渉しているようだったが、やがて青年が現れて、旅館の周りに茂る樹木の中の小道に私たちをいざなった。ついて行くと、古い蔵に突き当たった。古い表札がかかっており、そこには「山本宣治記念資料館」とあった。

 「山本宣治」と聞いても、今の若い人はどんな人物か知らないだろう。が、私の年代の者には「ああ、あの人物か」と思い出す人が少なくないに違いない。私は、学生時代に先輩からその存在を教えられて覚えていた。しかし、その生涯については詳しくは知らず、知っていることと言えば「戦前の労農党の代議士で、治安維持法の改正に反対して活動中、東京・神田の旅館で右翼に刺殺された」「その闘いは孤立したもので、彼の最後の演説も『山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆がいるから』というものだった」ということぐらいだった。
 「いまや伝説的な人物と言っていい山本宣治に関する資料をこの目で見られるとは」。私は思わぬ奇遇に胸の高鳴るのを覚えながら、薄暗く、人気のない蔵の中に陳列されている彼のデスマスク、胸像、著作物、揮毫などを見て回った。

 資料館に備え付けられていたパンフレット『山本宣治(やません)墓碑、資料館早わかり』(2016年3月改訂版・宇治山宣会発行)によれば、山本宣治の生涯は次のようなものであった。

 1889年(明治22年)、京都市新京極のアクセサリー店の一人息子として生まれた。両親はクリスチャンだった。宣治は京都市内の高等小学校を卒業し、神戸の中学校へ進むが、胸を患って中退。両親は宣治のために宇治川川畔に別荘(これが後に「花やしき浮舟園」となる)を建て、宣治はここで養生生活を送る。
 17歳の時、上京。大隈重信(明治・大正期の政治家で総理大臣を歴任。早稲田大学の創立者)邸に住み込んで園芸を学ぶ。1907年(明治40年)、カナダへ渡航し、家事手伝い、新聞配達、開墾、鮭捕りなどの労働に携わりながら、ハイスクールで学ぶ。ここで、自由と民主主義を尊ぶ科学的なものの見方を身につけたとされる。
 1911年(明治44年)に帰国し、同志社普通学校へ編入学。1914年(大正3年)、そこを卒業し、旧制第三高等学校へ。この年、丸上千代と結婚。1917年(大正6年)には東京帝国大学に進み、動物学を専攻する。東京・小石川に妻、子ども2人と住む。
 1920年(大正9年)、32歳で東京帝国大学を卒業し、京都大学大学院へ入学。そのかたわら同志社大学予科講師となり、「人生生物学」を教える。翌21年には、京都大学医学部講師、次いで同大学理学部講師になる。
 1922年(大正11年)。この年、日本共産党が創立される。宣治は、この年、米国の産児調節運動家サンガー女史が来日したのを機に労働者・農民への産児調節教育を始める。さらに、自由大学・労働学校の講師を務めるなど、労働者を対象とする教育活動に携わる。1924年(大正13年)には、鳥取市で産児制限に関して講演中、立ち会いの警察官から「弁士中止」を受け、演壇から引きずり下ろされる。これが原因で京都大学理学部講師を辞めさせられる。
 
 1925年(大正14年)、普通選挙法と治安維持法が公布される。これ以前の選挙は一定額以上の税金を納めた者にだけ選挙権を与えるという制限選挙だったが、普通選挙法により、25歳以上の男性は選挙権を得た。ただし、女性は除外されていた。年ごとに高まりを見せていた普通選挙を要求する国民の声に政府がようやく応えたのが、この法律だった。
 一方、治安維持法は「国体(天皇制)を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したり、これに加入した者を10年以下の懲役または禁固に処す」という法律であった。要するに、共産党(当時は非公然)をはじめ労働者や農民の政治的活動を取り締まるための法律であった。政府は、アメとムチの法律を同時に施行したわけである。

 こうした状況の中で、1926年(大正15年)、無産政党の労農党が結成され、宣治は労農党京滋支部に参加する。翌年、労農党京都府連委員長に選出される。1928年(昭和3年)には第1回普通選挙が行われ、宣治は京都府第2区から労農党候補として立候補し当選。当選者466人中、無産政党からの当選者は8人。宣治はその1人であった。
 その直後、共産党員とその支持者、労農党員ら約1600人が治安維持法違反で検挙されるという「3・15事件」が起き、宣治は犠牲者救援に奔走する。

 1929年(昭和4年)、治安維持法改正案が帝国議会に上程される。処罰の量刑を「10年以下の懲役または禁固」から「死刑または無期もしくは7年以上の懲役もしくは禁固」に引き上げるというものだった。宣治はこれに強く反対し、議会でもそれを表明しようとするが、発言を封じられ、改正案は3月5日、可決、成立する。
 その夜、宣治は常宿としていた神田の旅館光栄館で、「労働者だが、ストライキのことで相談したい」と身分を偽って訪ねてきた右翼団体の黒田保久二に短刀で刺殺された。39歳10カ月だった。
  
 遺体は東京で荼毘(だび)にふされ、遺骨が宇治の「花やしき浮舟園」に移された。そこで1週間にわたって通夜が行われた。日本が、いわゆる「15年戦争」に突入するのは、それから1年半後のことである。

 「花やしき浮舟園」は、その後も宣治の遺族によって経営されている。墓は宇治市内にある。墓には大山郁夫(戦前、早稲田大学教授から労農党委員長に就任。戦争中は米国に亡命、戦後、同大学教授に復職)の筆で「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから」と刻まれているという。

 宣治が右翼のテロに倒れてから87年。宣治はもう遠い過去の歴史に埋もれてしまった人物だろうか。同パンフをめくっていたら、宣治が1929年の第1回普通選挙に立候補した時に掲げた政見が載っていた。それは以下のようなものだった。
 立毛差押立入禁止反対。耕作権の確立
 失業者の生活国庫保証と最低賃銀の制定
 所得税の免税点の引上及その高率累進賦課
 生活必需品の関税及消費税の廃止
 言論集会出版結社の自由
 選挙法の徹底的改正
 働く農民に土地を保証せよ!
 労働者に仕事と食を與江(あたえ)よ !
 税金は大地主大資本より出させよ!
 すべての人民に自由を與江よ!

 その中に「言論集会出版結社の自由」があったのが、ひときわ私の目を引いた。「そうだ。宣治が命をかけて治安維持法に反対したのは、言論・集会・結社の自由をなんとしても守りたかったからだ」。そんな感慨に襲われた。
 戦後に制定された日本国憲法は「集会・結社・表現の自由」を保障している。が、安倍政権になってから、特定秘密保護法が制定された。これについては今なお「国家機密を拡大し、国民の知る権利が制約されかねない」との批判が強い。
 そればかりでない。この7月には、自民党が教育現場で政治的中立性を逸脱する教員の事例がなかったかを把握する実態調査への協力を、ホームページ上で募っていたと、共同通信などが報道した。また、参院選前の大分市で、野党を支持する労組などが入る建物の敷地に警察署員が無断で立ち入り、ビデオカメラを設置する、といった出来事があった。そのうえ、安倍政権は、過去に廃案となった「共謀罪」の成立要件を絞り込んで「テロ等組織犯罪準備罪」を新設することを柱にした組織犯罪処罰法改正案を今秋の臨時国会へ提出する構えだ。

 「言論集会出版結社の自由」が、また侵されつつあるのだ。山本宣治の訴えは決して古くさび付いたものではなく、現代日本にも通ずるのではないか。そう思わずにはいられない。そればかりでない。彼の政見の中には、87年後の今もまだ実現していない項目がいくつもある。そのこともまた、彼の訴えが今なお古くはなっていないことを感じさせる。
2016.08.27  毎週金曜日 国会前に立ち続ける武藤先生(91才)
          韓国通信N0497

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 小学校時代の恩師の年賀状が欠けていることに気づき電話をした。「年賀状を出したはずなのに」という元気な声が聞こえ、ホッとした。今年の正月のことである
 「武藤先生ですか」と声をかけると耳に手をあてて「そうですが…」。
 官邸・国会前の反原発デモ。千人近い参加者のなかに武藤先生を見つけた。
 武藤徹先生は私の恩師ではない。学校も違う元都立戸山高校の数学の先生である。先生が国会前のデモに参加しているのを知って手紙を書いた。三冊の本とともに返事が来た。先生の名前を覚えていたのは、戸山高校の友人たちから何回も噂を聞かされていたからだ。
 8月19日、隣に立ってシュプレヒコールを続ける小柄な老人が「ひょっとして」と思い、思い切って声をかけてみた。私たちは旧知のように固い握手を交わした。
 その3日前、いただいた本の礼状を書いたばかりだった。
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 武藤 徹様
 (略) 先日は手紙と図書までお送りいただき大変恐縮しております。『きらめく知性・精神の自由』『朽ち果てぬ知恵を求めて』、興味深く拝読しました。戸山高校の教育を知るうえで、また現在の教育問題、私たちが置かれている社会を知るうえで貴重で刺激に溢れたものでした。(略)
 戸山高校と同じく、私が在籍していたころの新宿高校も、とても自由な雰囲気で、大学受験のことを別にすれば天国のようなところでした。ただ残念なことに学校の教育方針などを聞く機会もなく、「自由放任」も同然で、ただ好き勝手に過ごしたという記憶しかありません。
 私が幸運だったのは戸山高校に進んだ友人たちと(略)酒も飲まずに夜遅くまで「如何に生きるか」といった青春論をいつも語り合ったという記憶があります。それはまさに「きらめく知性・精神の自由」がほとばしる世界でした。先生の薫陶を受けていた彼らからその「おこぼれ」にあずかっていたような気がしています。その後音信は途絶えていますが、高校という垣根を越えて先生の弟子が私の人格形成に大きな影響を与えたことは確かです。
 実は私は数学が大の苦手で、努力もせずに数学の先生に対して「こんな謎解きのようなことを勉強する気がしない」と開き直り、文学書ばかり読んでいました。(略)私自身が数学に偏見を持っていたことに気づいたのは40才を過ぎてからのことです。武藤先生に出会っていたら私の人生も変わっていたかも知れません。
 文系人間とばかり思っていたのに文章もロクなものしか書けません。文章は「技術」ではない、人間の「中身」が問題と悟り、目下人間修行の最中です。同封した新聞は個人新聞最新号です。「きらめく知性」を失いつつある友人たちは呆れているようですが、500号を折り返し点にして1000号を目指しています。「考える」「伝える」そして「ともに考える」。それを目指しています。いつまでもお元気に活躍してください。
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 著書『きらめく知性・精神の自由』(2013年桐書房)の出版記念シンポジウムが昨年2月、かつての教え子らによって開かれた。その模様が『朽ち果てぬ知恵を求めて』(2015年)として記録集にまとめられた。それを読むと先生の人柄が浮かび上がってくる。
「ファシズムが闊歩する社会」に危機感を募らせ、平和憲法の大切さを訴えた先生の挨拶に続き、教え子による記念講演、市川須美子氏(1968卒)の「日の丸・君が代裁判」と浜矩子氏(1971卒)の「アホノミクス」論はどれも武藤先生の教育と重ね合わせ語られた。
 収録された会場の声も先生の教育と各人が抱える問題が率直に語られたものばかりだ。260人もの元生徒らが集まり、「平和」「民主主義」「教育」についてこれほど熱く語られた「集まり」は他に例がないだろう。

 本の余韻が残っていたせいか、一度も会ったことのない先生に声をかけてしまった。私の横で先生は静かに立ち続けている。体調を聞くのが精一杯、その他の月並みな言葉は浮かばなかった。
 私には91歳まで生きられる自信は全くない。もし生きられたとして、自分の姿を想像してみる。自力で歩けるだろうか。「原発はイラナイ」「フクシマを返せ」「戦争反対、平和が一番」と叫び、拳をあげられるだろうか。
 「ボクたちが後を引き受けます。先生はゆっくりお休みください」と話しても、私の「偽善」に武藤さんは耳を貸すことはないだろう。「先に生れたのが先生」という言葉がある。あまり良い意味では使われない。黙々とデモに参加する姿を見ていると、先に生れて、「先を生きる」先生のすごさが胸に伝わってくる。また先生に会いに行こうと思う。

<ブランデージ会長の提言>
 IOC(国際オリンピック委員会)のアベリー・ブランデージの名前を記憶している人は多い。名前を聞くのもウンザリするほど1952年から20年間も会長を務めた。彼の評判は至って悪い。「反ユダヤ」「親ナチ」主義者といわれたにもかかわらず、何故長期にわたってIOC会長をやれたのか不思議だ。その彼が会長時代に一貫して主張していたことがある。
 1953年の理事会を皮切りにオリンピックの表彰式で国旗と国歌を禁止する提案を続けた。「ナショナリズム高揚への懸念」を表明し、オリンピックは「国家間の対抗試合ではなく、あくまでも個人が争う大会」というのが彼の信念だった。さらにオリンピックを「商業主義政治主義」から守り抜くことも訴え続けた。提案は否決され続けたが、退任の直前1968年の第67回総会で執念が実り、国旗掲揚と国歌の演奏の禁止が賛成34反対22で多数を占めるまでになった。3分の2を得られなかったため「否決」扱いとなったが、世界の常識は国旗掲揚と国歌演奏禁止が多数派となった。
 ひたすら「日の丸」と「君が代」に感動するのは世界の趨勢とかけ離れている。「ニッポン ニッポン」を絶叫し続けるアナウンサーはこのことを知っているのだろうか。