2007.09.29 「ヤメ検」弁護士と金 (上)
内田雅敏 (弁護士)

――元公安調査庁長官緒方重威氏の「詐欺事件」に思う――

 酷暑の夏、とにかく暑い、どうしてこんなに暑いのか。
 東京は小菅、東京拘置所在監32年のA君からも暑中見舞いの葉書が届いた。同じフロアに朝鮮総連本部建物売却をめぐる詐欺事件で逮捕勾留されている元公安調査庁長官、同広島高検検事長緒方重威被告が居るという。
 「……意外と元気そうですが、それにしても32年間も経るといろいろなことが起こるものですね。……」と葉書にある。
 A君は、1974年8月30日昼、死者8名を含む多数の死傷者をだした東京丸の内、三菱重工爆破事件を皮切りとする一連の企業爆破事件で1975年5月、逮捕された。その後、起訴、裁判、判決という過程を経て、現在死刑確定囚として東京拘置所に居る。逮捕が1975年5月だから獄中32年ということになる。
 私は1975年4月弁護士登録、いろいろないきさつがあって、弁護士1年生ながら三菱重工爆破事件の弁護人となり、以来、A君とは32年の付き合いである。
 三菱重工爆破事件を引き起こすにいたってA君らの思想は、一言で言えば、日本の近・現代史における戦争責任、植民地支配の責任の未清算というところにあるが、そのことについては、私はこれまでしばしば書いてきており、本稿では触れない。

2007.08.13 「家族ぐるみ、呼びかけに応えて ― 小田実氏の死を悼んで」(下)
伊藤 三郎 (ジャーナリスト)


 小田さんが逝く直前、私が読み急いだ『終わらない旅』に話を戻す。これは小説だから主人公ツヨシはもちろん小田さん本人ではないが、そのことばは紛れもなく小田さんのそれであり、この小説の登場人物のほとんど全員が入れ替わり立ち代り小田さんの思想・哲学・主張を語る、という内容。その結果、この小説は小田さんの「遺言集」となった。そこで、この遺言の中からさわりのところをごく一部抜粋してここに紹介する。いまさら無粋なコメントなど添えるよりも、原文そのままを提供することが小田さんへの供養になる、と信ずるからだ。

<遺言その1 ― ツヨシが娘・久美子へ>
 『・・私がそのころ両親とともに住んでいた大阪は、戦争末期、一九四五年三月の夜間空襲に始まって、六月からは、もう日本には抵抗する力はなくなったとみきわめたにちがいない、昼間空襲に切り替わった米軍機による爆撃を何度も受けた。日本近海まで来た機動部隊の艦載機による空襲もあったが、大阪の市街を根こそぎ破壊し、焼き尽くし、住民を殺戮したのは、「北爆」のB=52 爆撃機の先行機に当たる、当時の世界最大、最強のB=29「超空の要塞」爆撃機が三百機、四百機、五百機と来襲しての大規模爆撃だった。結果として地上を覆う黒煙、白煙のダンダラ縞のぶ厚い雲の広がりだ。それは上空の爆撃機から見ていればただの雲だが、そう見えたに違いなかったが、なかは火炎が燃えさかり、渦巻き、建物が破壊され、焼け落ち、人が倒れ、焼け死ぬ現場だった。
 「久美子、戦争は対立する、敵対する勢力が、お互いの持つ武力を使って戦うことだ。しかし、もうそのときには、日本はアメリカ軍のその爆撃に対するだけの武力、戦力を完全なまでに失っていた。初めのうちこそ、少しは高射砲を射ち、戦闘機も舞い上がっていたようだったが、じきにそうしたはかない抵抗はすべて姿を消した。あれは、もう戦争ではなかった。ただの一方的な破壊と殺戮だった。私はその一方的な破壊と殺戮の中にいた。なかは、久美子、当然、地獄だ。」 』
2007.08.12 「家族ぐるみ、呼びかけに応えて ― 小田実氏の死を悼んで」(上)
伊藤 三郎 (ジャーナリスト)


 先月半ばの10日間、ある調べもののため久しぶりに米国ワシントンDCを訪ねた。その出発直前小田実さんの最後の小説『終わらない旅』を、なぜか急き立てられるように読み通した。そして帰国後1週間、時差ボケが漸く解けた7月30日、小田さんの訃報が ― そうか、小田さんのただならぬ病状を知っていた自分は、この小説を彼の遺言として読み急いだのだ、と気付いた。
 8月4日、東京・青山葬儀所での葬儀に家人とともに参列した。評論家の加藤周一さんは弔辞の中で「彼の呼びかけは格別の説得力を持っていた」と評した。葬儀のあと、追悼デモに参加し、青山一丁目駅近くまで歩いた。葬儀委員長を務めた鶴見俊輔さんに連なり、「憲法9条を守ろう」と叫び、懐かしの反戦歌" We shall overcome. "を合唱しながら、小田さんのデビュー作『何でも見てやろう』(1961年)以来、自分は何と長い間、小田さんの呼びかけに応え続けてきたかを想った。それも家族ぐるみで。
 「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)をはじめとする数々の市民運動の先頭に立って叫び続けた小田さんの顔とは別に、家族に優しい家庭人の顔が強く印象に残っている。西宮市に小田さんの自宅を訪ね、初めてインタビューしたとき、小田さんの第一声がこうだった。
 「このあいだ、僕のこども(ならちゃん=当時小学校低学年=伊藤・注)が僕の顔をじっと見つめて、お父さん、何を考えごとしてるの、と聞かれて、われに返ったことがあった。その時自分は、こどもの顔を見つめながら、この子が大きくなったら世界は一体どうなっているんだろう、と途方にくれていた。そこをこども心に見抜いたんだろうね。どうも途方の暮れ方が深そうだ、父親の自信喪失は深刻だ、とね(笑い)」
 1992年1月、米ソ冷戦の終結に続いて、ソ連・東欧の社会主義国家の連鎖崩壊。その激動を踏まえ『社会主義のゆくえ』(「朝日新聞」連載)というインタビューをした時のことだ。資本主義、社会主義、第三世界というそれまでの「三極構造」が崩れた後の混沌状態に、さすがの小田氏も世界の先行きを展望しかねていた当時である。
2007.08.10 朝青龍処分  相撲協会さん、お気を確かに!
田畑 光永 (ジャーナリスト)

暴論珍説メモ(18)

 正直なところ、相撲の話は得意ではない。だから今回の朝青龍処分にしても当初はさほど関心がなかった。しかし、1日の処分決定から朝青龍本人の状態やらそれをめぐる様々な議論を見聞しているうちに、どうも釈然としない点が出てきたので、あらためて考えてみた。

 まず、朝青龍本人の行動であるが、「腰の疲労骨折」という医師の診断書を提出して、相撲協会の公式行事である夏巡業を休ませてもらうことにしながら、故郷のモンゴルでサッカーに興じていたというのは、「ずる休み」にほかならず、この点では朝青龍に弁明の余地はない。

 そこで相撲協会が朝青龍を処分するというのも組織としては当然であろう。問題はその内容である。「2場所出場停止・九州場所千秋楽まで117日間の謹慎・30%減俸4ヶ月」という処分はいかにも過酷である。減俸はともかく、出場停止と長期間の謹慎、とくに謹慎には相撲協会が蒙った損害を賠償させるということを超えた「こらしめ」を感じさせる。

 どうやらその背景には、日本の「国技」である相撲の最高位に立つ横綱は「心・技・体」ともに完成されたものでなければならないという前提があるようである。しかし、技と体はいいが、心のありようまでを問題にするのはいかがなものか。しかも、横綱の心はどうあるべきかという規範が明らかにされているならともかく、それなしに「ずる休み」をするとは「心」がなっていないと決めつけるのは、相撲協会が力士の心のありようまで支配する権威を持つようで、第三者には不可解である。
2007.08.10 原水禁運動を活気づけた「久間発言」  8・9長崎から
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 62年目の「長崎原爆の日」を迎えた8月9日を中心に長崎市で原水爆禁止を目指すさまざまな催しが行われたが、長崎県は原爆投下を「しょうがない」と述べた久間章生・前防衛相の出身地とあって、久間発言に対する怒りや憤りの声が相次いだ。このところ、停滞気味だった原水爆禁止運動が、核兵器使用を容認するものと受け取られた久間発言によって活気づけられた格好だ。

 7日から9日にかけて同市内で開かれた平和団体や市民団体の大会や集会では、久間発言への言及が目立った。

 7日、県立総合体育館で開かれた、連合、原水禁、核禁会議共催の「核兵器廃絶2007平和ナガサキ大会」には3700人が集ったが、主催者を代表して挨拶した高木剛・連合会長は「久間防衛大臣の核兵器容認発言は、言語道断である。被爆者や、核兵器廃絶を願う多くの人々の気持ちを踏みにじるもので、心から反省を求める。暴力や核兵器容認をゆるさず、核兵器廃絶への意思をたかめよう」と述べた。
2007.08.07 鳴り響け!平和の鐘
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「長崎原爆の日」の8月9日、原爆が投下された午前11時2分に全国の20余の寺や教会で、「長崎を最後の核兵器使用の場とし、これからは核のない世界を築こう」との祈りを込めた鐘がいっせいに鳴らされる。長崎出身の作家、鶴文乃さん(茨城県つくば市)が提案した「平和の鐘、一振り運動」に寺や教会が応えたものだ。

 鶴さんはこれまで長崎原爆をテーマとした小説やノンフィクションを書いてきたが、しばらく前から、8月9日に長崎で何があったかを知らない人たちが増えてきたことが気になり、どうすれば長崎に原爆が投下されたという事実を認識してもらえるだろうか、どうすれば平和な社会を築く行動を起こしてもらえるだろうか、と考え続けてきたという。
 その結果、鶴さんが思いついたのが「平和の鐘、一振り運動」である。すなわち、神社、寺、教会、公舎などにお願いして、長崎に原爆が落とされた8月9日の午前11時2分に、鐘や鈴、あるいはサイレンを「一鳴らし」してもらうという運動だ。これを耳にした人たちは、おそらく「いったい何だろうと」と考えるにちがいない。運動側が運動の趣旨を説明すれば、やがて、その「一鳴らし」が、核兵器の恐怖を伝える警鐘であり、長崎原爆の犠牲者への鎮魂と「核なき社会」実現への祈りを込めた響きであることを理解してくれるだろう、というのだ。

 鶴さん一人では限界がある。だから、運動の趣旨に賛成した人が自ら神社、寺、教会、公舎などに足を運んで「一鳴らし」を頼んでほしい、と呼びかけている。「こうすれば、ヒロシマ・ナガサキを被爆者のみの問題とせず、被爆国の国民として、平和を自らの問題としてとらえることができるはずです」と鶴さん。そこには「平和運動は、特定の地域や特定の人たちに委ねるのでなく、日常生活の中でだれもが無理せず関われるものでなくてはならない」との鶴さんの思いが投影している。

 鶴さんや、鶴さんの提案に賛成した人たちの奔走によって、8月9日の「一鳴らし」に賛同してくれたところは、7月23日現在、茨城、千葉、東京、静岡、長崎、宮崎の6都県で計22カ所。仏教のお寺、天理教の教会、カトリックの教会などだ。9日までにはまだ増える見込みという。
 鶴さんは、この運動を世界に広めたいという。

 問い合わせは、「平和の鐘、一振り運動」と件名を明記して下記へ。
umezono-fumino@w6.dion.ne.jp
2007.08.06  憲法擁護の訴えが目立つ  62年後のヒロシマ
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 62回目の広島原爆の日の8月6日、広島市では、さまざまな記念行事や、原水協・原水禁など平和団体による大会・集会が行われたが、これらを通じて例年通り「核兵器廃絶」への努力が強調される一方、「平和憲法擁護」の訴えが例年になく目立った。これは国民投票法が制定されるなど、安倍内閣と自民党による改憲のスケジュールが急テンポで進んでいることへの国民の危機感を反映したものとみていいようだ。

 この日の広島市は「8・6」にしては珍しく午前7時ころから豪雨があったが。が、市主催の平和記念式が始まった午前8時には雨が上がって曇り空になった。
 会場の平和記念公園には、開会前から全国から多数の参列者がつめかけ、開会時には4万人が会場を埋めた。
 原爆が投下された午前8時15分には、参列者全員で黙とう、直後に秋葉忠利・広島市長が「平和宣言」を読み上げた。

 平和宣言は、まず「運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB−29の爆音。青空に開く『落下傘』。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)ーー静寂ーー阿鼻叫喚(あびきょうかん)」と切り出し、次のように続けた。
 「落下傘を見た少女の眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷きになり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人ーー辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの『地獄』でした」
 広島市の平和宣言が、被爆時の悲惨な状況を述べたのは異例である。これは、久間章生・前防衛大臣が原爆投下を「しょうがない」と発言するなど、原爆投下正当論が公然と語られることを憂慮し、今こそ原爆投下によっていかに悲惨なことが起きたかを改めて認識しようとの意図があったものと思われる。

2007.08.03 「グローバルヒバクシャ」という言い方
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

「やめたい『唯一の被爆国』」再論

 7月8日付の本欄で「やめたい『唯一の被爆国』」と題する小論を書いたが、これは、その続編である。
 前回、私が小論で書いたのは「日本は『唯一の被爆国』という表現を使うと、原爆による被害者は日本国民だけという認識が定着し、外国人、例えば朝鮮人にも多数の原爆被害者がいたという事実が忘れ去られてしまうおそれがある」ということだった。そして、私はその小論の中で、こうした点への反省から十数年前には原水爆禁止運動関係者や報道関係者の間で「原爆被害に関する認識をミスリードする、日本は『唯一の被爆国』という言い方はやめよう 」という機運が高まり、代わって「日本は『被爆国』」あるいは「日本は『世界最初の被爆国』」といった表現を使うようになったこと、ところが、最近また元に戻ってしまい、各方面で「唯一の被爆国」といった言い方がまかり通っていることを紹介し、こういう言い方はぜひやめたいと提案した。

 続編では、近年、「唯一の被爆国」に代わる「グローバルヒバクシャ」という言い方を始めた人たちを紹介する。
  
 2004年、「グローバルヒバクシャ研究会」という研究グループが発足した。1954年に起きたビキニ水爆被災(太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で日本の漁船・第五福竜丸の乗組員や、周辺の島々の住民らが「死の灰」を浴びた事件)を研究している高橋博子さん(広島市立大学広島平和研究所助手)と竹峰誠一郎氏(早稲田大学・大学院生)らが、ビキニ水爆被災から50年を機に創設したものだ。
 「広島・長崎への原爆投下から60年経っても、核兵器は廃絶されていない。さらにヒロシマ・ナガサキにとどまらず、核被災は地球規模の広がりをみせている。ヒロシマ・ナガサキを含めたグローバル・ヒバクの実態は隠蔽される傾向があり、明らかにされたとはいえない。グローバル・ヒバクシャたちからは、被害の認知と補償要求がなされている。このような現状をふまえて、広島・長崎の被爆の実相を含む、世界に広がる様々なヒバク実態を多角的な視点から横断的に解明しつつ、普遍化、理論化、思想化を進めていく」のが目的という。
 グローバルヒバクシャ研究会は2006年6月、東京でシンポジウム「<被爆・敗戦60年を越えて>いま日本政府に戦争責任を改めて問う――広島・長崎原爆、東京大空襲、重慶爆撃から」を開いたが、同年10月、そのシンポジウムの記録『いまに問う ヒバクシャと戦後補償』を凱風社から刊行した。
2007.07.13  元防衛相に読ませたい  伊藤明彦著の「夏のことば ヒロシマ ナガサキ れくいえむ」
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 久間章生防衛大臣が原爆投下を「しょうがないなと思っている」と講演で述べたと聞いた時、私の脳裏に一瞬ひらめいたのは、この4月末に刊行されたばかりの一冊の本だった。伊藤明彦著の『夏のことば ヒロシマ ナガサキ れくいえむ』である。

 「ある一事に生涯を賭ける」という言葉がある。特定の仕事に全身全霊を打ち込んだ人を生き方を紹介する時によく使われるが、これほど言うはやすくして実行しがたい言葉もない。が、世の中にはそうした生き方を実際にしている人が、まれにいる。本書の著者、伊藤明彦氏もその一人だろう。
 伊藤氏は1936年生まれ。録音機をかついで原爆被爆者を訪ね、被爆体験を語らせ、それを収めたテープやCDを全国の図書館や平和資料館などに寄贈しつづけているジャーナリストである。そうした活動を始めたいきさつ、活動の中で出合った困難、そして、活動を通して知った被爆の実相と被爆者の心情を伊藤氏自らが書きつづったのが本書だ。
2007.07.08 やめたい「唯一の被爆国」
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

外国人被爆者を忘却させ、「日本だけ被害」が浸透

「またか」。一度定着した表現はなかなか改まらないな、とつくづく思う。久間章生防衛大臣の「原爆発言」をめぐる動きや報道で氾濫する「唯一の被爆国」という表現である。 

原爆ドーム 周知のように、久間防衛相は6月30日、千葉県柏市での講演で「原爆を落とされて長崎は無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったのだ、という頭の整理で今、しょうがないなと思っているところだ」(7月1日付毎日新聞)と発言した。これに対し、被爆者団体、平和団体、野党、政治家らから一斉に「米国による原爆投下を容認するものだ」と抗議の声が上がり、マスメディアも批判的な論説を展開した。このため、当初辞任の意思はなかった久間防衛相も7月3日、ついに辞任に追い込まれた。

 ところで、私にとってやりきれなかったのは、抗議の談話や批判の論説の中で「日本は『唯一の被爆国』」という言い方が目についたことだ。
 例えば――7月1日付朝日新聞によれば、国民新党の亀井久興幹事長は6月30日の記者会見で「唯一の被爆国として核廃絶に向かって主張と行動を続けていくのが我が国のあるべき姿だ」と述べたという。テレビでは、与党の政治家が、やはり久間発言を批判する発言の中で「唯一の被爆国」という表現を使うのを聴いた。
 また、7月3日付朝日新聞によれば、全国保険医団体連合会などが安倍首相らに送った抗議文には「世界で唯一の被爆国政府の官僚がこのような発言をするのはあるまじきこと」とあったという。