2008.05.10 黒澤明全作品30作の放映(7)
 ―B29空襲下の『続姿三四郎』―

半澤健市 (元金融機関勤務)


《米機空襲下での公開》
 黒澤明の第三作『続姿三四郎』の公開は45年4月26日である。正篇公開の約2年後であり敗戦の3カ月半ほど前である。日本全国、米軍爆撃機B29の焼夷弾爆撃と艦載機グラマンと戦闘機P51の機銃掃射を雨あられと受けていた頃である。『姿三四郎』正篇のときにならい同時期の簡単な年譜を掲げる。

1944年(昭和19年)
 10月24日 レイテ沖海戦(〜26日)、25日航空特攻「神風特別攻撃隊」始まる
 11月24日 米爆撃機B29東京初空襲
1945年(昭和20年)
  2月19日 米軍、硫黄島上陸(3月17日 守備隊玉砕)
  3月 9日 東京大空襲(死傷者12万人)
  4月 1日 米軍、沖縄本島に上陸(6月23日 守備隊全滅)
  4月 7日 戦艦大和、沖縄出撃時の途次米軍機に撃沈される
  4月25日 国際連合創立総会(米サンフランシスコ)
  5月 7日 ドイツ軍、連合国に降伏
  6月 6日 最高戦争指導会議、本土決戦の方針を採択

《帰ってきた三四郎》
 姿三四郎(藤田進)は2年間の国内修行を終えて矢野正五郎(大河内伝次郎)の修道館へ戻ってきた。そこへ檜垣源之介(月形龍之介)の二人の弟鉄心(龍之介の二役)と源三郎(河野秋武)が兄の仇をとりにくる。二人は空手の使い手である。長兄源之介は三四郎の力を知っており勝負は無益と諭すが兄弟は受け入れない。矢野の道場で無礼を働き三四郎を挑発する。矢野の門弟にはケガを負わせる。三四郎を慕って入門した少年大三郎まで重傷を負う。一方、学士柔道に職を奪われた柔術家関根は米国人拳闘家との「日米親善試合」に出場して無残な負け方をする。三四郎に米人拳闘家への復讐心が生まれる。
三四郎が稽古にはげみ強くなることは矢野一門のエスタブリッシュメント化と並行していた。敵が次第に増えていくのである。三四郎はそれに矛盾を感じて柔道を辞めたいという。修道館の掟は許可なしの他流試合や興行出演を禁じていたが三四郎の心情は次第に檜垣兄弟との決闘に傾いていく。矢野の求道論や人間形成論の旗を黒澤は降ろしていない。他流との対立が深まり敵が増えるのは「お互いに大きな道に達する為」なのである。矢野は三四郎にいう。

▼闘争とは新しい統一への道程なのだ。妥協や苟合のなかに真の平和はない。途上の荊棘を怖れてはならぬ。私は柔道をかく信じて闘争の真唯中に飛び込みました。柔道と柔術は名称の争いをしたのではない。況んや、一矢野正五郎の功名でもなければ、一姿三四郎の勝利でもない。いや、柔道の勝利でもないといってよい。そこには、日本武道の勝利があるばかりなのだ、わかるな、姿。

2008.05.07 黒澤明全作品30作の放映(6)
―回帰すべき第一作『姿三四郎』が登場したころ―

半澤健市 (元金融機関勤務)


《『姿三四郎』とガダルカナル「転進」》
 『姿三四郎』は1943年3月25日に公開された。その時代はどういう時代であったか。「大東亜戦争」の戦局における同年前半の重要項目を挙げれば次の通りである。

 2月 1日 日本軍はニューギニア島ブナ、ソロモン群島ガダルカナル島より撤退開始
 2月 9日 大本営はその撤退を「転進」と発表
 4月18日 連合艦隊司令長官山本五十六戦死(5月21日発表、6月5日国葬)
 5月29日 アッツ島の日本軍守備隊全滅、「玉砕(ぎょくさい)」の始まり

太平洋戦争は前年6月のミッドウェー敗戦で彼我の戦力は逆転した。しかし人々は隠蔽された真実を知らずに、『ハワイ・マレー沖海戦』の戦勝場面に酔っていたのである。開戦1周年を記念して42年12月に公開されたこの作品は、黒澤明の師匠である山本嘉次郎監督の戦意昂揚映画の「傑作」であった。

《1943年邦画の戦時色》
 1943年に公開された邦画で注目すべきものは次の諸作である。()内は監督と公開月。
『阿片戦争』(マキノ正博、1月)、  『姿三四郎』(黒澤明、3月)
『望楼の決死隊』(今井正、4月)、  『花咲く港』(木下恵介、7月)
『決戦の大空へ』(渡辺邦男、9月)、 『熱風』(山本薩夫、10月)
『無法松の一生』(伊丹万作、10月)、 『海軍』(田坂具隆、12月)

これらの作品には濃淡はあれ戦時色が滲み出ていた。マキノ正博は阿片戦争を日本人俳優だけで、今井正は「鮮満国境」の警察官の活躍を、山本薩夫は八幡製鉄の増産態勢を、田坂具隆は特殊潜行艇の真珠湾攻撃を、それぞれ描いた。渡辺邦男の名前は忘れられても主題歌「若鷲の歌」(予科練の歌)は生き延びるであろう。木下恵介のデビュー作『花咲く港』は一儲けを企むペテン師が日米開戦によって愛国心に目覚める話である。伊丹万作だけが軍人の未亡人に恋する車夫の哀切を描いて戦時色から遠かったのである。

2008.04.30 黒澤明全作品30作の放映(4)
―5月は初期の作品を観る貴重な機会―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 08年5月のNHK・BS2で放映される黒澤作品は次の8本である。
『椿三十郎』、『野良犬』以外は、処女作から戦後第2作までの全作品であり観る機会の少ない作品が並んでいる。
 
放映日     開始時刻   タイトル (製作年)
・5月 3日(土) 21:00 『椿三十郎』    (1962年) 
・5月 5日(月) 21:15 『野良犬』     (1949年)
・5月 6日(火) 21:15 『姿三四郎』    (1943年)
・5月 7日(水) 21:15 『続・姿三四郎』  (1945年)
・5月 8日(木) 21:15 『一番美しく』   (1944年)
・5月 9日(金) 21:15 『虎の尾を踏む男達』 (1945年)
・5月10日(土) 21:15 『わが青春に悔なし』 (1946年)
・5月24日(日) 21:00 『素晴らしき日曜日』 (1947年)
 (日時は正確を期していますが新聞番組表などでご確認ください)

 『椿三十郎』は『用心棒』の続編。娯楽性が前面に出たもので三船の殺陣とストーリー展開の面白さを楽しむ映画である。
2008.04.28 黒澤明全作品30作の放映(3)
『用心棒』
 ―黒澤明が自賛した娯楽時代劇―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《宮川一夫のパンフォーカス》
 『羅生門』で初めて組んだカメラマン宮川一夫を『用心棒』で黒澤は再び起用した。
宮川一夫(1908〜1999)は、93年のインタビューで「『羅生門』から11年ぶりに私は『用心棒』で黒澤さんとまた御一緒に仕事をさせてもらうことになりました。私は常に映画監督とキャメラマンは夫婦の関係だと思っていますから、この場合、昔の旦那のもとへ戻って来たようなものでした」と語っている。
宮川とのコンビはこの二作だけである。宮川一夫は1926年に日活京都に入ったが、初期の作品では『無法松の一生』(稲垣浩・1943年)がよく知られている。戦後では溝口健二の『雨月物語』、『山椒大夫』、『近松物語』、市川崑『炎上』、『おとうと』などが私の印象に強く残っている。
個人的な好みをいえば、『雨月物語』における朽木屋敷の描写、『山椒太夫』のラストシーンなどは20世紀映像美の極致だと私は思っている。溝口作品では総じて柔らかな画面をつくったが、黒澤との2本ではコントラストの強い画面を作り上げた。
宮川自身は、居酒屋の窓から向かいの絹問屋まで長焦点でピントを合わせるパンフォーカスの難しさ、空っ風の吹く街道の撮影―風が強すぎると向こうが見えず弱いと迫力が出ない―の苦心を語っている。
山田洋次は渡辺浩による宮川の評伝『宮川一夫の世界 映像を彫る』(1984年)の表紙オビに「宮川一夫は、日本の映画人の誇りであり、憧れである。日本映画界の宝、という言葉はこの人のためにあるようなものだ。宮川芸術を克明に書き出したこの本を読みながら、私たち映画人は興奮せずにいられない。」と書いている。映画人にとって宮川というカメラマンはこのような伝説的な存在であったし現在もあり続けているのである。
2008.04.21 黒澤明全作品30作の放映(2)
―『羅生門』にベネチア映画祭グランプリ―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《黒澤も知らなかったベネチア映画祭参加》
 『羅生門』(1950年)は公開時から絶賛されていたわけではない。評価はさまざまであった。それでも映画専門誌『キネマ旬報』のベストテンの第5位に入っている。第1位から第4位までを挙げておく。カッコ内は監督。
第1位 『また逢う日まで』(監督・今井正)
第2位 『帰郷』(大庭秀雄)
第3位 『暁の脱走』(谷口千吉)
第4位 『執行猶予』(佐分利信)
なお外国映画の第1位はデ・シーカ監督のイタリア映画『自転車泥棒』であった。

 翌51年9月にベネチア国際映画祭へ出品されたことを多くの製作関係者は知らなかった。イタリア映画の輸入業者をしていた女性の熱意が『羅生門』を母国の映画祭へ送ったのである。黒澤は荻昌弘とのインタビューでこういっている。「実は僕、あの写真がベネチアへ送られたことも知らなかったのですよ。あれを向こうへ送ってくれたのは、ほんとにイタリフィルムのストラミジョリさんの功績です。受賞祝賀会のときにも僕は言ったのだけどね、日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった、その日本映画を外国に出してくれたのは外国人であった。これは反省する必要はないか、と思うのだな」。
2008.04.05 黒澤明全作品30作の放映
―20世紀の日本を描いた巨匠―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 4月5日の『羅生門』を第1弾としてNHKのBS2で黒澤明全作品が放映される。
日本を代表する映画監督黒澤明(1910年〜1998年)は、処女作の『姿三四郎』(1943年)から遺作の『まあだだよ』(1993年)までの半世紀に30本の映画をつくった。NHKの放映は12月25日の『まあただよ』で終わる。月により放映本数は異なり上映順序は製作順ではない。
 黒澤全作品を鑑賞する機会はそれほど多くない。名画を上映する映画館は少なく民放テレビでの放映はCMが感興をそぐ。一体、「世界のクロサワ」の作品の多くを見ている人は意外に少ないのである。

《黒澤作品を観ることは日本を見ること》
 黒澤の作品は『生きる』や『七人の侍』ばかりではない。
 読者は勤労動員の女子工員を鮮やかにを描いた『一番美しく』をご覧になったであろうか。尾崎秀実と滝川幸辰を描いた戦後第1作『わが青春に悔なし』をご覧になったであろうか。
 焼跡から立ち上がる恋人を描いた『素晴らしき日曜日』をご覧になったであろうか。
 舞台を札幌に置き換えたドストエフスキーの『白痴』をご覧になったであろうか。
 メデイア批判を早々と先取りした『醜聞(スキャンダル)』をご覧になったであろうか。
 こんなことを言っていたら全作品を挙げねばならなくなる。
 この機会にこれらの知られざる傑作群を含めた全作品を是非ご覧になっていただきたい。日本映画フアンの私は、黒澤明を知ることは20世紀の日本を知ることだと思っている。黒澤だけが日本映画の監督ではないし、私はNHKの宣伝マンではないが、巨匠の没後10年を記念してのこの快挙に拍手をおくりたい。
2008.03.09 映画『明日への遺言』を観る
―大岡昇平の真意はどこまで伝わるか―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《大岡昇平の『ながい旅』の映画化》
08年3月1日から各地で上映中の『明日への遺言(あしたへのゆいごん)』(小泉堯史監督)は、作家大岡昇平(1909年〜1988年)のノンフィクション『ながい旅』(1982年)の映画化である。
B級戦犯裁判の被告元陸軍中将岡田資(おかだ・たすく)の横浜法廷における法廷闘争を描く。東海軍(名古屋など中部地区を統括する方面軍)の司令官であった岡田は米爆撃機B29搭乗員38名を処刑した容疑でB級戦犯容疑者となり横浜法廷で裁かれる。岡田はこれに抗して、米軍機の無差別爆撃は戦争犯罪でありその処罰したのだと抗弁する。それを自ら「法戦」と名付ける。1923年のヘーグ「戦時法規制委員会」で米・英・仏・伊・蘭・日6カ国が行った宣言は「爆撃は軍事的目標に対して行われた場合に限り適法とする」と決めていた。

《マルチカメラによる法廷場面の迫力》
法廷では、米機の都市攻撃が無差別爆撃か否か、日本軍による米兵処刑に正当性があったか、処刑の責任者はだれか、などが争点となった。裁判官、検察官、弁護団、岡田ほか20名の被告、傍聴する家族、という登場人物を三台のカメラが映し出す。黒澤明晩年の弟子小泉は師匠のマルチカメラ撮影を継承している。ゲルニカの画面から無差別爆撃の国際法を説明し法廷場面へ続く導入部が素晴らしい。飛び交う法律用語と法廷戦術は馴染みやすくはないが、米人の検察官と弁護士による証人尋問が続くと裁判の焦点があきらかになっていく。緊張感に溢れた展開である。実際の法廷でも無差別爆撃が証明されたときに満場はシーンとなつたという。映画もよくその雰囲気を伝えている。法廷は、岡田の「法戦」が勝利に近づくさまを描いていく。検察官、裁判官までが岡田に対して好意的、同情的な誘導尋問をするようになる。しかし岡田は始めから一人で全責任を負う覚悟であった。家族への手紙で彼は次のようにいう。

《岡田の「法戦」論・映画と原作》
私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ。
問答の合間々々に、上面の星条旗を見つめる。そしてその背後の白壁を眺めて居ると、心の影が、文字となつて浮び上る。
○すべての執着を排除すれば、私が智慧は自在也。
○心身の精力は仏の賜、供給は無限也。
○菩薩は難問答に巧也。
○敵も味方もなく、只慈悲を以て。
○法戦は身の防衛に非ず。部下の為也。軍の最後を飾らん為也。
等々、随分勝手なものかも知れん、呵々。

「判決は御勝手にだ、米軍にても都合のある事ゆゑ」は死の覚悟の表明である。
文章から分かるように岡田の信念を根底から支えたものは日蓮宗の信仰であった。
2008.02.15 多様な表現形式を追求した「巨匠」
―映画監督市川崑のへ追想―

半澤健市 (元金融機関勤務)

「巨匠」が92歳で逝った。一映画好きとしての追想を書きたい。
「キネマ旬報」の市川作品一覧によれば第1作は『東宝千一夜』(1947年、以下19は省略)だが、一般には『花ひらく』(48年)がデビュー作で通っている。孤高の女流作家野上弥生子の小説『真知子』の映画化である。長編『迷路』を代表作とする野上は、左翼への同調的態度を通したが、本質は個人主義者であつたと思う。『真知子』はブルジョアの娘が革命青年に失望する物語である。学生(上原謙)と真知子(高峰秀子)の関係と破局の描写は、私の見た限り異様に暗い感じのする不思議な作品であった。東宝争議の分裂組合として独立した新東宝作品でのデビューという背景もあったのであろう。イデオロギー的思考に馴染まない市川の体質が困惑したのでもあろう。

第2作の『三百六十五夜』(48年)は上原、高峰のコンビに山根寿子がからむ絢爛たるメロドラマであった。同名の主題歌とともに市川は一挙に第一線に躍り出たのだった。50年代の都会的、社会風刺的な作品は市川モダニズムともいうべき作風で邦画界に新風を吹き込んだ。同時代の映画青年は、今井正や山本薩夫などの独立プロ系の社会派に魅力を感じる一方で市川の都会的洗練にも惹かれていたのである。
ここでは『プーサン』(53年)、『青色革命』(53年)、『億万長者』(54年)、『満員電車』(57年)などのタイトルを挙げるにとどめる。私個人には『青春銭形平次』(53年、人間国宝中村雀右衛門が大谷友右衛門の名前で出ている)、『愛人』(53年、森本薫の戯曲『華々しき一族』の映画化)が好みの作品である。一方で市川は文学作品にも強い関心を示して名作、佳作をつくった。漱石の『こころ』(55年)、竹山道雄の『ビルマの竪琴』(56年と83年)、谷崎の『鍵』(59年)と『細雪』(83年)、藤村の『破戒』(62年)、三島の『炎上』(58年)などである。
2008.02.13 神々しい吉永小百合だけでよいのか
―山田洋次監督の『母べえ』(松竹・2008年)を観る―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《治安維持法下のインテリ家庭》
映画の舞台は太平洋戦争開始前後の東京郊外。ドイツ文学者一家の物語である。左翼運動によって治安維持法違反の疑いで検挙された野上滋(坂東三津五郎)の留守宅には、妻佳代(吉永小百合)、娘の初子、照美が慎ましく暮らしている。お互いを「父(とう)べえ」、「母(かあ)べえ」、「初べえ」、「照べえ」とユーモラスに呼び合うインテリ一家である。節を折らない拘置所の夫へ差し入れに行く佳代は刑事から屈辱的な言葉を受けるが笑顔でお茶を入れる。周囲の視線を気にする女三人の生活だが向う三軒両隣は一家をなにかと支えてくれる。滋の教え子の青年山崎(淺野忠信)、滋の妹である画学生の久子(壇れい)、奈良から出てきた現実主義者の佳代の叔父、隣組組長の炭屋、地方の警察署長である佳代の父、滋の批判をする大学の恩師。こういう人々からの熱い協力、人々との交わりと人々への反発、その中で彼女は夫を信じて生きていく。夫の獄死と山崎の出征で暗転する画面は、戦後の佳代の死の床に変わる。夫への愛の言葉をキーワードにしながら静かな「反戦劇」に終幕ロールが流れる。

《山田洋次の製作意図は》
山田洋次はNHKテレビの「100年インタビュー」という番組で『母べえ』の製作動機について「〈銃後〉を語り残すことが自分の世代の責務」だと語っていた。当時の庶民生活を細部まで再現しようとしたこの意図は見事に達成されている。銃後の生活は戦争一色ではなかったことも描き込まれている。山崎が佳代に淡い恋情を抱くのを知って広島へ帰郷する久子(彼女は被爆して死ぬ)。応召を知らせに来た山崎。山崎との別れに手を取る佳代。これら万感の想いを俳優たちは抑制された演技で美しく表現している。松竹大船調の伝統のなせる業でもあろう。
この映画から私は何を感じとったか。
銃後の庶民の再現、家族の絆の強さ、母親の逞しさ・優しさ・美しさの表現に私は泣いた。山田自身が意識していた『おかあさん』(成瀬巳喜男監督・1952年)や『ママの想い出』(米、ジョージ・スティーブンス監督・1948年)に優るとも劣らない傑作の誕生だと思った。
と同時にこの完成度の高さに私はある抵抗感をもった。理念化されすぎた「母べえ」(ある映画評は「吉永の神々しい美しさ」とまで書いている)への違和感である。「母べえ」の戦後が不在であることへの不満である。総じてこの作品の「自己完結性」への疑念だ。
2008.01.26 安楽死を巡るディスカッションドラマ
―民芸の新作公演『選択 一ヶ瀬典子の場合』を観る―

半澤健市 (元金融機関勤務)

『選択 一ヶ瀬典子の場合』(木庭久美子作、渾大防一枝演出)は、東京裁判を題材にした木下順二の『審判』やフルトヴェングラーの戦争責任を問うたハーウッドの『どちらの側に立つか』などと並んで民芸のディスカッションドラマの系譜に優れた一本として加わることになるだろう。

《殺人罪に問われる女医一ヶ瀬典子》
医師一ヶ瀬典子は末期ガン患者に塩化カリウムを注射して安楽死させる。殺人罪に問われた典子は、患者の妻村石ハルから安楽死の処置を依頼されたと主張するがハルはそれを否定している。典子の行為は考えた末の行為であった。患者のこと、家庭環境のことを良く知っていた。患者の息子は交通事故で妻を亡くしたうえ勤務先からリストラされタクシー運転手に転職していた。村石家に「不幸が束になってやってきた」(ハルの台詞)時期であった。三年の看病に疲れきったハルは「主人を早く楽にしてやってください。早く、早く天国に送ってやってください」と言った。それを聞いたとき、典子にはアルツハイマーで娘を判別できない自分の母親の顔が浮かんだ。町医者だった実直な父親の記憶も典子の生死観に影響していた。総合病院を経営する兄壮太郎との会話で彼女はこう言う。

典子 あたしは、医学生の頃、父の手伝いをしていたから、よく知っているのよ。お父様は、末期癌の患者さんを安楽死させてた。
壮太郎 今とは時代がちがうんだ。親父は、医師としては、実に真面目な男だった。人の命を軽々しく扱うような医者ではなかった。
典子 死の迫った病人を安らかに死なせることが、生命を軽々しく扱うことになるんですか?
壮太郎 安楽死は、日本の現状では、認められていないんだ。親父の名誉に関わることを軽々しく口にするな。