2015.04.18 佐藤賢一著 『ラ・ミッション  軍事顧問ブリュネ』文藝春秋
発行年月日: 2015年2月25日、 定価¥1850E 

雨宮由希夫 (書評家)


慶応3年(1867)1月、ナポレオン三世は徳川幕府からの要請を受け、フランス軍事顧問団(ラ・ミッション・ミリテール)を日本に派遣した。シャノワーヌを団長とする一行15名の軍事顧問団は幕府陸軍の近代化に貢献した。
砲兵中尉(リュートナン)のジュール・ブリュネは、フランス軍事顧問団の副団長として来日し、フランス軍事顧問団解散後も日本に留まり、戊辰戦争の最終局面、箱館・五稜郭の戦いを榎本武揚や土方歳三らと共に戦ったフランス士官である。また、画才豊かだったブリュネが遺した細密画のようなスケッチ200枚は幕末の日本の風景を克明に伝え、かつ史料性、情報的価値も高いものとしてつとに知られている。

ブリュネが登場する〈幕末もの〉歴史小説は、綱淵謙錠の『乱』をはじめとして少なくないが、フランス人ジュール・ブリュネを主人公として、激しく揺れる幕末の日本を、主に鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦いまでの戊辰戦争をブリュネの視点から描写した歴史小説は本書がはじめてであろう。

物語のスタートは慶応4年(1868)1月6日。大坂城に到着したブリュネはただならぬ血の匂いに内戦が勃発したことを知るとともに、城内で尋常ならざる人物に会いまみえる。髻を切って日本人であることをやめ、フランス式戦法を習得したいと熱望するこの人物こそ新選組副長・土方歳三であった。その土方をブリュネは「イジカタさん」と連呼し、土方に「イジカタ? 俺はヒジカタだ」と切り返されるのだ。幕末の日本人はフランス人がHを発音できないことを知らない。フランス人にとって、ヒジカタはイジカタであり、ハコダテはアコダテとなる。土方との出会いシーンから早くもフランスに造詣の深い作家の作風が表れており、興味深い。

1月3日にはじまる鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が部下を見捨てて敵前逃亡し大坂より逃げ帰って江戸城西の丸に入ったのは1月12日の午前10時。これより城内で連日のごとく評定が繰り広げられる。フランス軍事顧問団も江戸城に呼びつけられ、評定の場にあった。強硬に徹底抗戦を唱える勘定奉行・小栗上野介忠順を前にして、いたたまれなくなった慶喜が退席しようとするのに、小栗が慶喜の袴の裾をつかんで離さず、怒った慶喜が罷免を申し渡したという有名なエピソードが伝わるが、本書では、小栗忠順罷免の現場にブリュネが居合わせたとするシーンが造形されている。

「徳川慶喜といえば、小栗の登場に愉快ならざる表情だった。部外者の目からも察せられたところ、この高官は必ずしも主君に愛顧されているわけではなかった。」とブリュネが分析した上で、慶喜がなおも食い下がる小栗に、「わしの心は最初から決まっておる。朝廷には恭順の意を伝える。」と吐き捨てる。
「通訳されても、最初は理解が及ばなかった。つまるところ恭順というのは、降伏の意味ではないのか」と解するブリュネは、「戦う気がないなら、どうして我々を評定に読んだのか」と慶喜に対する不信を露わにする。
「フランス軍事顧問団の任を解く」の通達が幕府より下るのは2月13日(その前日に、慶喜は上野寛永寺での謹慎生活に入っている)。勝海舟の登場となるが、勝という人物はブリュネの眼には「一筋縄ではいかない怪しげな奸物」「あの老獪な男」「政治屋」と映る。江戸城内の評定の席における勝海舟は、一説には、「始めは軍艦を率いて駿河湾および摂海を奇襲する策を立てたが、慶喜の恭順の意が固いのを見て、前言を翻して和平解決を図ろうとし、大久保一翁とともに主戦論に反対した」(吉田常吉『幕末 乱世の群像』)とされる。慶喜の顔色しか観ていない勝海舟が研究者の世界にもいる。
「トバフシミにはじまるヨシノブ陛下の行動」は誰にも予測不可能だった。「一切の抗戦を放棄して、あんな風に降伏してしまうなんて」信じられないブリュネは慶喜の恭順も、フランス軍事顧問団の解任も、勝の一存なのではないかと疑う。作家による「勝の一存」というこの造形は維新史の真実を探るうえで極めて重要な意味を持つ。

慶喜と勝が狂わせたのはタイクン政府やそれを支持してきた勢力、はたまた日本という国の運命だけでなく、駐日フランス公使として、薩長を支持するイギリスに対抗し幕府を支持するというレオン・ロッシュが進めてきた外交も破綻した。一貫して親幕派であったロッシュは幕府が近代化し政権を維持する上でのさまざまなアドバイス・援助を惜しまず、横須賀製鉄所の建設、横浜仏語伝習所の設立、軍事顧問団の派遣などに貢献してきたが、それら一切が無に帰する危機をもたらした。

この日本の動乱を前にして個人としていかなる態度をとるべきか。
榎本武揚や土方歳三らとの関わりのなかで、日本人の士道(エスプリ)に心をうたれたブリュネは、「ほんの緒戦きりで徳川慶喜が降伏して恭順の態度に徹し、その意を受けた勝海舟が江戸を無血開城しても、そのまま日本人という日本人が、薩長の野望にあっさり屈して、薩長によるミカド政府を認めてしまうはずがないことを知り、イギリスによる属国化を許せず、フランス軍事顧問団が手ずから指導して育てた伝習隊の兵士たち、教え子たるあの精鋭たちこそ力づけたいと思うなら、フランス政府の方針など関係ない、一個の人間として行動せんと腹を決める。かくして、エリート士官のブリュネは、母国で約束されているフランス軍人としての輝かしい将来を捨て、母国からの帰還命令にあえて背き、“勝たねばならない戦い”に身を投じるべく、ブリュネが品川沖の榎本艦隊開陽丸に乗り込む。

部外者として日本の動乱を傍観できず、戊辰戦争に参加するにいたるまでのブリュネの葛藤が丁寧に描かれている本書は一味ちがった〈幕末もの〉歴史小説である。フランスから見た日本という視点で幕末が描き出されているところが新鮮である。駐日イギリス公使のパークスは鳥羽伏見の戦いの勃発を薩長の暴走と観、戦えば敗色濃厚と判断していて、それゆえに「局外中立」を掲げて西郷に江戸無血開城を強要したが、タイクン政府が崩壊の道をたどるばかりで、後は残党を始末すればよい情勢となるとみるや「局外中立」に縛られていること自体がイギリスの足枷となったことなど、視点を変えることで、歴史の真実が浮かび上がり見える世界が広がってゆく。 

勝と小栗の人物造形が面白い。小栗上野介はフランスとの経済提携を推進したが故に「親仏派」といわれるが、あくまでも幕府を守るという責任ある立場から発言し行動した幕府衰亡期における最も傑出したエリート官僚である。勝には「カツ・アワ」として章立てているが、小栗の章はなく、「小栗上野介こそ政府におけるフランス軍事顧問団の後ろ盾だった」とあるのみである。当然あるべき慶応4年閏4月6日の小栗の死に関する記述はなく、ブリュネの小栗理解は「小栗上野介が上州の領地に下がるまでは知っている」にとどまっている。

明治維新は「外国の傀儡である一部の者が、謀略において権力を奪取する不正義」の上に成立したとみるのが作家の歴史理解のようである。勝と西郷による江戸無血開城神話を茶番と看破している。
ラストシーンでは、もしや死に場所を探しているのではないかとブリュネが危惧する土方歳三がよもやの形で再登場する。これから本書を手にする読者のために、奇想天外なストーリー展開とだけ、と記しておこう。
土方歳三は歴史小説の世界ですでに復権して久しいが、小栗上野介の名誉回復が果たされたとは言い難い。佐藤 賢一(1968年山形県鶴岡市出身)は東北大学大学院で西洋史学を専攻し、作家としてデビュー以来、主に中世から近世にかけてのヨーロッパを舞台とした歴史小説を多く書いている直木賞作家である。フランス語史料を駆使し、小栗を主人公とした歴史小説を期待したい。

2015.04.01 満州国演義 9残夢の骸
船戸与一著 『満州国演義 9残夢の骸』 新潮社¥2200E

雨宮由希夫 (書評家)


 船戸与一畢生の大作『満州国演義』が第9巻『残夢の骸』をもって遂に完結した。第1巻『風の払暁』の刊行は2007年4月であった。「週刊新潮」での連載開始から数えて約10年の歳月を要し、原稿枚数は7,500枚を超えるという。しかも作家は2009年以来、癌との闘病を強いられていた。
『満州国演義』は明治・大正から昭和という激動の時代を生きた実在の人物群像を登場させ、満州国の成立から消滅までの実際をあますところなく活写することによって、国家と個人、組織と人間、日本とは何か、日本人とは何かに踏み込んだ歴史小説である。この傑作『満州国演義』の主人公は、しかし、実在の人物群像ではなく、戊辰戦争時に奇兵隊として活躍した長州藩士の祖父をもつ東京府零南坂の敷島家の四兄弟、むろん、創作上の人物である。
 「敷島四兄弟」を主人公とした作家の狙いは、四兄弟による4つの視点、複眼的な視点によって、昭和3年から昭和20年の敗戦に至る激動の昭和史を捉え描くことにある。現代史は歴史小説になじまないといわれるが、作家が選んだ歴史小説の著述の方法は性格も立場もまったく異なった「敷島四兄弟」を造形し、個別的な彼らの行動を追い、時に交叉させながら、それぞれの生き方を時局の中に同時進行的にとらえて「戦争と人間」を描き出すという手法である。
四兄弟のアウトラインは以下のとおりである。 
長男 太郎――東京帝大法学部卒の外交官で満州事変勃発時には、奉天総領事館の参事官であったが、満州国国務院外交部政務処長として敗戦を迎える。
次男 次郎――19歳で日本を飛び出し、馬賊稼業に身を投じた大陸浪人。四兄弟の中で最も愛国心とは縁のなかったが、インパール作戦で囚人部隊を率いての特殊行動を引き受ける。
三男 三郎――陸軍士官学校出の関東軍将校。陸軍機動第2連隊第一中隊長少佐として満州での対ソ戦に備える。ソ連が雪崩を打って満州の原野に殺到する日は近く、いずれは戦わなければならない宿命にあると覚悟する。
四男 四郎――無政府主義を信奉する早稲田文学部の学生だが、魔都と呼ばれる上海へ。満映勤務を経て関東軍特殊情報課第四班の嘱託になった。
関東軍特務の間垣徳蔵は陰の主人公というべき人物で、小説としての筋書づくりにおいて重要な役割を演じているが、最終巻の本書では、死神のように四兄弟に付きまとう徳蔵の素性がついに明かされる。四兄弟と徳蔵は従兄弟同士であった。第1巻『風の払暁』の冒頭「慶応4年8月」の章に『会津戊辰戦史』が引用された意味が最終巻ではじめて了解される。
   破局の構図はすでに見えている。前巻ではミッドウェイの大敗からインパール作戦へと迷走する大日本帝国が描かれたが、本巻では昭和19年から21年までの国内外の情勢を背景として、「東条英機暗殺計画」の顛末から敗戦による満州国解体および敗戦前後の絶望的な混乱の数々————回天、玉砕、特攻隊、本土決戦、東京大空襲、原爆投下、ポツダム宣言受諾、敗戦の詔勅、玉音放送———までが、四兄弟の生き様を通して描いている。
    四兄弟の運命やいかに。四兄弟が破顔一笑し一堂に会する日は果たして来るのか、と多くの読者は手に汗握り期待したものだが、インパールの“白骨街道”で飢えと病で死に瀕していた次郎の最期を本巻の冒頭で確認せざるを得ないのは無念である。
 三郎は通化事件に巻き込まれ、無惨な死を遂げる。日本の敗北後、満州の利権をめぐって蔣介石の国民革命軍と毛沢東の八路軍が激突するのは不可避で、最初の激突の地が通化であって、多くの日本軍人が通化で繰り広げられた国共内戦の犠牲になった。太郎はシベリアへ抑留され、強制収容所(ラーゲリ)で自殺に追い込まれる。屈辱と忍苦で人間性を日々剥ぎ取り非業の死を強いるのがラーゲリであり、奇しくも同じラーゲリに収容された徳蔵は「人間としての最低の誇りを失うな」と従弟たる太郎を叱咤しつつ、自らをソ連兵の銃口の前に晒し死んでゆく。一番人間らしい生き方をしたのは陰の主人公というべき徳蔵であったと読むべきであろうか。極限状態にこそ人間の本性が明かされるというのが『満州国演義』の命題のひとつであるとはいえ、ラストエンドはあまりにも悲惨、無惨すぎる。
日清・日露の二つの戦争で獲得した国外の権益を守ることに始まった明治日本の夢と欲望はやがてとどまるところを知らないものとして溢れ出す。韓国を併合し、台湾を割譲させ、満州国をでっち上げて、なにもかもが怒涛逆巻く濁流に呑み込まれていくように流され、昭和20年の破局を迎える。日本が西欧列強と闘った結果として、「あの戦争」があり、戦火は満州に始まり中国大陸全土に広がり、太平洋全域に及んだ。この大日本帝国のアジア侵略の歴史ほど、現代日本にとって、史実として重いものはなく、虚構の入る余地はない。したがって、あの戦争ほど小説になりにくいものはないが、作家の筆はさまざまな人々の想念と記憶が織りなす歴史の重層性を掘り起こしつつ、戦争自体の是非を超えて、その時その場所に置かれた人々の姿を描いている。
本巻の巻末に、実に13ページに及ぶ参考文献リストが掲載されている。作家が参照した文献の種類と量に圧倒されるが、個別の歴史事象・事件について作家は必ずしも自分の解釈や見解を明示していない。また、作家はこの歴史小説を書くにあたり、かつて、「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。これが本稿執筆の筆者の基本姿勢であり、小説のダイナミズムを求めるために歴史的事実を無視したり歪めたりしたことは避けてきたつもりである」と述べたことがあった。
 わずか80年に満たない間に生じた日本の民族主義の興隆と破摧。そのような時代に生まれあわせ、呑み込まれ死んでいく兄弟たち。四兄弟の置かれている凄惨な極限状況を本質的に抉り、日本人の流した血と汗の意味は何であったかという問題を後世の者が賢しらに問う形ではなく同時代人の目線で受け止めるべく、作家は読者につきつけている。本書から読者は歴史を史実のみで見るのではなく、心底に眠っている民族心理で分析することの重さを読み取るべきであろう。
作家がまた、次なる言葉を登場人物に言わしめていることも注目すべきである。「欧米列強による植民地化を避けるためにはアジアを植民地化するしかない。吉田松陰の『幽因録』が示す通りで、結局は民族主義の問題だった」と太郎の友人である同盟通信の香月信彦に語らせ、一方、徳蔵には「多くの日本人が夢見た満州は理想の国家の欠片さえ失って重い重い鉄鎖でしかなくなった」と吐かせている。これらは作家がまれに自らの解釈を吐露したものとみなされる。
 週刊誌連載に際して、作家は「満州のすべてが丸ごとわかるような作品を書きたい」と抱負を述べたことがあったが、その願いは十分に成就したというべきであろう。歴史的事象に対する作家自身の想像力によって歴史の真実に迫り、日本の興亡を巡る壮大なドラマを総合的な戦争文学として記述しようという意思、使命感が読者に伝わってくるからである。
戦後70年という節目の年に、〈昭和もの〉歴史小説の傑作というべき歴史小説が生まれたことを嘉したい。
戦後50年の際には、「50年、半世紀」を機会とした「戦後」からの脱却、「戦後」の切り捨てが盛んにいわれたものだが、20年後の今日、国際的には歴史認識をめぐって中国・韓国との間で争いの種の尽きることはなく、国内的には「憲法第9条」をめぐって支持・共感と批判・改正の論議が絶えない。これらの問題の根は一つで、「あの戦争」であることはいうまでもない。「戦後」はますます脱却不能のものとなっている感がある。このような時代であるゆえに、本書が「戦争と平和」を考える多くの人々に読まれ継がれることを祈りたい。
2015.02.17  書名『死に支度』
          著者 瀬戸内寂聴  発売 講談社
          発行年月日 2014年10月30日  定価 ¥1400


雨宮由希夫 (書評家)

 この私小説的長編小説の主人公は91歳の誕生日を目前にして、夜も眠らず年がら年中仕事に追いまくられている女性作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん。舞台は主人公が1974年に京都・嵯峨野に開山した「曼陀羅山 寂庵(じゃくあん)」である。物語は、そうした作家の超多忙な日常を見るに見かねた、長年付き添った女性スタッフたちが涙ながらに、「私たちを養って下さるためにお仕事が減らせないのです。どうか先生のお好きな革命をもう一度なさって、この際思いきって暮し方を変えて下さい」と突如やめると言い出す場面から始まる。残されたのはモナという名の一番若い66歳年下の孫娘のような20代の女性一人だけであった。主人公いうところの「春の革命」の勃発である。
 本書を手にして、まず、タイトルと白地に金箔の表紙装幀に驚く。あの寂聴さんもいよいよか……と思いつつ、急ぎページを括ったが、「本音を言えば、この小説を書いているうちに私は必ず死を迎えられて、この小説が今度こそ最後の作品となってくれるだろうと考えていた。ちょうど1年間書いたが(初出は『群像』2013年8月号から2014年7月号である)、どうやらまだ死にそうもなく、それでいて、今夜死んでも何の不思議もない私に愛想をつかして、“死に支度”なんて、小説の中でも、実生活の中でもやめようと決意した」と書かれているのを読んでホッと胸をなでおろした次第である。時に「どうして私、死なないんだろう、もう生き飽きたよう!」と口走る寂聴さんと、時に「92歳って、死の上に張った薄い氷に乗っているような感じなのです」と泰然自若な寂聴さんにお目にかかれるのが不遜ながら愉しい。
 「自分の死についてあれこれ考えだしたのは、70歳頃からだった」という寂聴さんは、今こそ自分の臨終の用意のために『往生要集』を丁寧に読み直している……。そのかたわら、日々、記憶の中から、知己たちの死に際を思い起こしているが、近親者の死。とりわけ二人姉妹の姉の死を綴った一文には心打たれる。「中尊寺で剃髪の場に付き添ったたったひとり」の姉は、かつて、結婚できない人と付き合っている妹に、「どうしてもその人の子どもを産みたかったら産みなさい。私の籍に入れて、私が育ててあげる」と言ってくれた姉であった。5歳年長の姉と仲良しであった作家は「私のように恥も外聞もなく、心をさらけ出しては生き延びてくる蛮勇のなかった姉」を何度も偲んでいる。
 大正11年(1922)5月15日に徳島市の神仏具商の家に生まれた作家は今年で御年満93歳となる。司馬遼太郎をして「天性の作家」と言わしめた寂聴さんは、稀有にして偉大な私小説作家にして歴史小説作家である。
 平成19年(2007)5月15日を奥付として上梓された『秘花』(新潮社)は能の大成者・世阿弥を主人公とし、謎に包まれた晩年の世阿弥がどのように逆境を受け止め、老いと向き合い、死を迎えたかを描いたものである。「72歳といえば、もう充分生き過ぎた命ではないか」と自らを慰めながら配流の地・佐渡に生きる世阿弥が活写されている。『秘花』は当時85歳の作家が自らの命を注ぎ込んで世阿弥の生涯82歳をみずみずしく書き上げた伝記小説であり、渾身の歴史小説である。
 本書『死に支度』の帯に「死に支度は、生き支度。今すべての世代へ贈る、限りなく自由で温かい“生と死の知恵”」とあるが、本書が幅広い世代に、多様な読まれ方をしているというのもうなずける。舞うように生き、生きることが舞うことだった世阿弥の生きざまを鮮やかに蘇らせた『秘花』より8年。作家の筆はおいてなおますます軽やかである。どうしてこんなに平易でみずみずしい文章が書けるのかと脱帽せざるを得ない。書くことに関して、本書には「どうせ死ねないのならば死ぬ日までペンを握って、机にうつ伏して死にたいと切望している」。「今、こうまで生き永らえて、何が嬉しいかと言えば、小説を書くことだけである。どんな短いものでも、新しく産み出した小説が仕上がった時くらい全身に喜びが満たされることはない」とある。
 座右の銘は「生きることは愛すること」だというが、本書には、「いつでも生きた、書いた、恋したの生涯」で、「私なりにいつでも全身全霊で、思い残すことはない」と言い切る。わが生涯に未練なしと言い切れる、そのこと自体が羨ましいが、そもそも、寂聴さんにとって、書くことは生きることであり、寂聴さんは書かずにはいられない真の意味でのモノカキなのだ、と思い知る。
 寂庵は昭和43年(1973)に中尊寺で出家した寂聴さんが1年後に嵯峨野の小倉山の麓に結んだ庵(住まい)であり、寺(修行の場)である。「40年ほど前から棲みついた京都のこの嵯峨は、王朝の物語に出てくる嵯峨野の余薫のようなものをどことなく残していたが、今では恐ろしいほどの勢いで、そうした情緒は日々打ち砕かれている」。嵯峨野の変貌の激しさを作家はこのように綴っているが、その寂庵では20代のモナとアカリ、91歳のセンセが日々を送っている。時に「死ぬのは怖くないが呆けるのが恐ろしい」「赤恥をかかない前に、一に都も早く断筆宣言をすべきではないか」と老いに悲観的にもなるが、新米秘書たちと笑いころげ、冗談を言い合う寂庵での暮らしもつぶさに描かれている。生命力と無邪気なまでの愛らしさにあふれる瀬戸内さんの素顔に引きつけられる。
 私事ながら、瀬戸内さんの素顔といえば、私は1度きりだが、寂聴さんにお会いしたことがある。平成10年(1998)秋、当時、私は神田神保町のS堂の本店長であったが、『現代語訳源氏物語 全10巻』(講談社)の完成を記念しての「瀬戸内寂聴サイン会」の開催を依頼するや、快諾してくださった。寂聴さんは当時のことを、「国内外の講演や展覧会に駆け回り、休む暇もなく、達成感の昂揚と骨身にしみた疲労の最中にあった」と回想されている。当時76歳の寂聴さんが、あえてサイン会に応じてくださったことを今にして思い知る。事前打ち合わせの席上、色紙へのサインをお願いすると、私の禿げ上がった頭を凝視しつつ、微笑みながら悠然と筆で色紙上に大きな円(マル)描いてくださったことも忘れがたい。
 「正直に言えば、私はもうつくづく生き飽きたと思っている。わがままを通し、傍若無人に好き勝手に生き抜いてきた。ちっぽけな躰の中によどんでいた欲望は、大方私なりの満足度で発散してきた。最後のおしゃれに、確実に残されている自分の死を見苦しくなく迎えたい。人は自分の生を選び取ることはできないけれど、死は選ぶことが許されている」としつつも、「人間に自分の定命(じょうみょう)が知らされないのは恩寵だろうか、劫罰だろうか」とも。なんと奥深いことばであろうか。92歳の寂聴さんの明日も、66歳年下のモナの明日も、私たち読者の明日も、誰にも分からない。たしかに、それこそが恩寵なのである。
 「51歳で出家」という表現が何度も出てくる。「出家は生きながら死ぬことだから、ほんとはもう死んでいる。今ある現身は仮の姿」とある。臨終をどう迎えるか、誰もが避けて通れず心によぎる思いを主題としながら、作家として、宗教者として、人間としての生き様を晒して、死への思いを福々しい晴れやかさで語りかけ細やかに綴った本書はかけがえのない一冊である。
 「次作は」との声に、寂聴さんは「次のタイトルは『神も仏もない』にしようかしら」と応じたという。ありがとうございます、寂聴さん。たのしみにしております。「次の東京オリンピックを見ることもないだろう」などとおっしゃらず、いつまでもお元気でいらして下さい。
    (平成27年2月9日 雨宮由希夫 記)
2015.01.20 太田和彦著 『居酒屋吟月の物語』
太田和彦著 『居酒屋吟月の物語』 日本経済新聞出版社 定価¥720E

雨宮由希夫 (書評家)


 「小説仕立ての映画評論」であるといえば、ひとは一瞬、なにそれ?というに違いないが、本書は気ままなひとり暮らしを愉しむ役所勤めの青年「私」を主人公とした小説であるとともに、その「私」による映画評論集なのである。
休日のとある日、「ある市」に住んでいる青年が自転車にまたがって、「ある町」へと迷い込むことから物語は始まる。
その町の商店街では「そこに住む人が、そこに住む人の店で買い物をする当り前の光景が繰り広げられ」ており、主人公はこの商店街に懐かしさを覚える。
 黄金座(こがねざ)という映画館はその商店街の一角にある。一日一回の上映で、しかも上映されるのはなぜか古い日本の映画ばかり。ポスターやスチール写真用のウィンドーには、
『歌女おぼえ書』
監督 清水宏
出演 水谷八重子 上原謙
と、手書きのビラが一枚だけ張ってあるだけの、「さびれているがまだ続いている映画館」である。黄金座で古い日本の映画を見はじめてから、「私」は知らない過去に懐かしさを覚え、「自分の中の何か」が呼び起こされていくことを気付く。そして、映画を見た帰りにたまたま入った居酒屋「吟月」が青年の生き方を変えてゆく。もともと「私」は出世や結婚にも興味がなく、他人と付き合うよりは一人でどこかの居酒屋で酒を呑むことを好んだが、その日以来、黄金座で映画を見た帰り、居酒屋吟月で一杯やるというのが休日の過ごし方となる————という筋立てである。
 紺地に「吟月」と染めた暖簾が下がっている居酒屋吟月で、「私」が出会う人々がこの小説の登場人物となる。
加東大介似の吟月の大将(主人)木村。笠智衆似の初老の紳士・平山先生。平山先生の娘の紀子は原節子似。キャバレーの用心棒の松永は三船敏郎似、と登場人物は揃いも揃ってまるで映画から抜け出たような役者似だが、とりわけ、「私」とは父ほどに年齢が離れている平山先生との出会いが、「私」を「本来の姿かもしれない、もう一つの自分」に変えてゆく。大学教授で挨拶代わりに海軍式の敬礼をする平山は独自の映画の見方を持っていて、「私」が観て気付かなかったところを拾い上げて解説するなど「私」に古い映画の面白さを教えてくれる。黄金座で映画を見て、居酒屋吟月で先生と一杯やりながら見てきたばかりの映画の話をするのが「私」の楽しみとなる。かくして、「私」と平山先生の会話そのものが集成された映画評論となっていく————という構成である。
黄金座で「私」が出会った古き日本映画19本が、それぞれ個別に章立てされている。「昭和5年から15年頃は戦後の25年から35年と並ぶ日本映画の黄金期だった」とのことだが、戦後である昭和24年製作のもの2本を除き、他の17本はみな昭和9年から昭和16年に作られたものである。
また、19本のうち、清水宏監督によるものが6作品と圧倒的に多い。「私」に仮託した著者・太田和彦によると清水宏は「人物が風景に同化する構図を好んだ」「きわめて日本的な映画作家なのだ」という。清水宏の映画の魅力を語る「私」の口調は熱い。それにしても、「人間が風景に同化する」とはなんと奥深い表現ではないか。
 昭和初期の田舎の村の佇まいから、「私」は自分の生まれる前の時代の空気を吸い込み、昔の日本への限りない郷愁を感じて、自分の知らない記憶がよみがえってゆく。「記憶の中にしかない町並みや風景が映画の中に残っている」ことを確認して、「遠いけれど確実に自分はその頃に繋がり、そこからやって来た」という意識を持ち、「ほの暗いかすかな遠くに現実味のあるルーツが見える」と。
 「昭和初期のひなびた山の温泉場」「日本家屋の障子は灯をともすと、家全体が行灯になり、開け放たれた玄関から往来へこぼれる灯」……。映像が失われた時代の美しさをキャッチし、「明治の女の古風なつつましさ」「新天地を求め満洲へと旅立つ青年」……。映像がその時代を生きたひとびとの息づかいを映し出す。
 歴史から取り残されたような北関東の過疎の村に生まれ育った評者(わたし)にとって、昭和30,40年代の故郷の山々はまさにここでいう「昭和初期のひなびた山」そのものであり、身近には、教育はなかったが教養のあった女性だったと今にして思う明治生まれの祖母がいて、その祖母は満洲で敗戦を迎えシベリアに抑留されて音沙汰のないわが子(私にとっての叔父)の帰りをひたすら待っていた。祖母の背中に背負われて育った私は祖母の背中のぬくもりを今でもかすかに覚えているが、その時、祖母ははるかに遠い異国の地シベリアで生きる叔父のことを思っていたのだろう。
 本書の文庫解説を担った映画評論家の佐藤忠男は「今とは時代が違う古い映画が面白いのは、映画は歴史のようにただ事実だけを再現してくれるのではなく、人々の幸不幸の気分や感情まで、目に見え耳に聞こえるものとして再現してくれるからである」と述べている。歴史の事実はもろく、消えやすく、風化され忘れ去られていくものだが、意識的に記録され保存されることによってのみ、はじめて生き延びることができる。記録保存の手段は文学が至上と思っているが、映画もまた有力な手段であることを革めて思い知らされた。
古い日本映画をほとんど知らない戦後生まれの私にとって、本書は最適の指南書となった。
白黒の古い日本映画の中にこそ「当時の人々のものの考え方や感情がそこにある」。ゆえに古い日本映画の面白さはそこにあり、「強い懐かしさの感情が呼び起こされるのは、「人が生後だけではなく、父や祖父の記憶をも受け継いでいる」からなのだと著者はいう。まさにその通りであろう。
また、目から鱗の指南もある。「映画は現実を消した暗闇で見るものだから、例えば昭和13年も今も鑑賞条件は変わらない。タイムスリップして昭和13年にもどり、映画館に入ってみる作品と今見る作品は同じだ」。なるほどそうか。「現実を消した暗闇」の中であれば父や祖父たちと共生できる。テレビでビデオ映画を観るのではなく、映画はスクリーンで観るものだと、本当の映画の見方を教えられた。
 映画の批評評論そのものとは別に、居酒屋吟月に集える人々の訳ありの人生模様がまた可笑しい。懐かしい日本映画の場面の数々とはまた別に、黄金町で現に今起きているその人生模様が映画のようなストーリーとして物語のラストまで繰り広げられ、読者を引っ張るのだ。原節子似の紀子にひそかな恋心を抱いているらしい三船敏郎似のやくざな松永のシャイな生き様がわびしくもあり滑稽でもある。
 読者はいつしか映画評論と小説そのものが融合した、太田和彦が創り上げた不思議な世界に入り込むとともに、太田によって紹介された1930、40年代の日本映画そのものを見たくなるであろう。
太田和彦は昭和21年(1946)生まれ。グラフィックデザイナーであり、居酒屋探訪家である。北京に生まれ、信州で少年期を過ごした太田は東京教育大学(現・筑波大学)教育学部芸術学科に学び、資生堂に入社。資生堂宣伝部アートディレクターを経て、独立。資生堂在籍時より、居酒屋巡りに目覚め、日本各地を旅してはふらりと地元の居酒屋を探訪し、多くの著作をのこしている。
本書は2001年3月に刊行された『黄金座の物語』(小学館)を加筆・改題して文庫化したもの。文庫化への経緯は、著者による文庫「あとがき」に詳しいが、著者自らが「旧知の編集者Sさん」と呼ぶ担当編集者氏は、著者の娘か姪のような世代であろうが、本書に登場する白黒映画19本すべてを見直して著者の文を校正したとある。かくして、初刊行から14年ぶりの復刊となった。まさに「幻の名著復活」の裏に名編集者あり!である。
2015.01.14 書評 『日本史 ほんとうの偉人列伝』
岳 真也 著 『日本史 ほんとうの偉人列伝』 みやび出版 ¥2000E

雨宮由希夫 (書評家)


人生の上で心 通わせることの出来る知友を幾人持つことができるかが人の幸せをはかる目安となろうが、歴史時代小説の読者にとっては、心惹かれた歴史上の人物を何人数え上げることができるかもまた幸せ基準の1つとなろう。
本書は古代の大和時代から戦後まで、1500年にわたるわが国の歴史を、蘇我馬子から平塚らいてうまで40人の「偉人」の伝記を書くことによって俯瞰された〈日本通史〉である。しかも、歴史時代小説を手掛ける一人の作家によって、物語られるところに意義がある。
「偉人」とは何か。『大辞林』(三省堂)によれば、「世のためになるような立派なことを成し遂げた人。偉大な人」ということになるが、「日本の歴史を隅から隅まで点検し」、「従来の価値観や偏見を極力排し、善いか悪いか、勝者か敗者か、有名か無名か、すべて関係なしに〈偉人〉〈傑物〉と呼ぶにふさわしい人間たちを選んだつもり」と作家 岳真也(がくしんや)は語り、日本史を三部に区分して40人を登場させている。

第一部の「古代から中世」は蘇我馬子、大伴旅人、長屋王、行基、大墓公阿弖流為、藤原薬子、空海、平将門、藤原清衡、源範頼、夢窓疎石、世阿弥、太田道灌の13人。第二部の「戦国時代から近世」は松永久秀、村上武、お市、明智光秀、織田有楽斎、吉川広家、前田利常、池田光政、安藤昌益、塙保己一、伊能忠敬、歌川広重の13人。第三部の「幕末から近現代」は岩瀬忠震、小栗上野介忠順、横井小楠、河井継之助、橋本左内、相馬主計、山岡鉄舟、広沢安任、福沢諭吉、中江兆民、津田梅子、河口慧海、尾崎行雄、平塚らいてうの14人。
作家の選出方針が2点、「はじめに」にて書かれているので、それを紹介したい。
「偉人伝といえば必ず思い浮かぶような人物」————ex.聖徳太子、頼朝、尊氏、信長、秀吉、家康、龍馬、西郷はすべて省いたが、「(作家岳が)個人的に思い入れを持つ人物」———ex.空海、福沢諭吉などは外せず、「その意外な素顔を浮き彫りに」しようとつとめたこと。もう一点は、「史上名だたる大物や大事件の陰に隠れた無名の逸材」、「名前は知られていても、その実態については、ほとんど知られていない人物」、「悪名ばかりがとどろいて、〈その功績や素晴らしい側面〉が切り捨てられてしまったような人物 」をとりあげ、「彗星のごとく、一瞬のまばゆい光芒を放って散っていった人物」も含めたことである。
女性は4人が選出されている。「歴史上の人物をとらえて〈悪女〉とよぶとき、そこには〈女のくせに〉という、極めて男性中心的な偏見があるように思う」とした作家は「勝者と敗者、偉人と悪人の差は、そんなに大きくはない。ほんのわずかな差なのである。もしも薬子の企てが成功していたら、藤原薬子は中大兄皇子や中臣鎌足のような、英雄になったかもしれない」という。
「悪人」と「敗者」が本書のキーワードである。
蘇我馬子。馬子は昭和37年(1965)1月に刊行され始めた海音寺潮五郎の『悪人列伝』でも巻頭を飾っている。馬子から入鹿に続く蘇我氏は古代史上“最大の悪人”とされてきたが、それは「でっち上げ、捏造」であると喝破した作家は「馬子にいたっては、わが国の古代史を語るうえで、欠くことの出来ない傑物であり、日の本の根幹をつくった諸政策はほぼすべて馬子が手がけたもの」と断じている。
松永久秀。久秀を“悪人”と決めつけたのは信長である。客人家康の面前で久秀をさらし者にした信長の口言葉には毒があり、矮小な信長の性格が露呈してあまりあるが、久秀を単純に梟雄と批判するのは当たっていないとする岳は久秀の死に様に久秀一流の美意識を観、「彼には特有の美学があった。けだし、これこそは信長が久秀にとうてい勝てなかったところではなかろうか」としている。
「歴史上〈敗者〉となった人物は、往々にして正当に評価されない」「数奇な運命を生きなければならない人間。その人生には魅力がある」とも作家は語る。

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)。「新生日本での〈不在〉が惜しまれる勝海舟のライバル」の大見出しがつく忠順には上野介の官名がついている。これまでに刊行された偉人伝の類いは完璧に海舟が採用され、小栗上野介は無視、排除されてきた。吉川弘文館の「人物叢書」ではいまだに候補にも挙がっていないという。わが国の近代史を語るうえで、欠くことの出来ない傑物であり、大隈重信が指摘する通り、明治国家の根幹をつくった諸政策はほぼすべて小栗上野介が手がけたものであるが、小栗はこれまで不当に評価されてきた。その最たるは、同時代を生きた勝海舟との比較で、幕臣ながら勝は国際感覚にすぐれた稀代の政治家であるに対し、三河譜代の典型的な幕臣の小栗は時代の変化に対応できなかった頑迷固陋な幕吏に過ぎないというものであろう。
幕末小説の優劣をはかる目安のひとつは、小栗をどう描くかにあると思うが、岳には小栗を主人公とした歴史小説『修羅を生き、非命に死す 小説小栗上野介忠順』があり、小栗の人となりを描く上で、キーパーソンとして深く刻み込んだ人物が二人いる。岩瀬忠震(いわせただなり)と福沢諭吉である。二人とも、本書で「ほんとうの偉人」として取り上げられている。諭吉については前ふりは不要であろうが、岩瀬忠震は「近代日本」の最初の扉をひらいた外国奉行である。
万延元年(1860)の遣米使節のとき、諭吉は護衛艦・咸臨丸の提督・木村摂津守喜毅(よしたけ)の従者として乗り込み、かの地の白人娘とならんで写真に納まっている。小説では、そうした諭吉を忠順が「実に愉快で面白い男」とみなし、一方、諭吉は身分的には遙かに遠く雲の上の存在であるはずの忠順を「進取の気性に富み、やる気充分の大身の旗本」と評価し、「小栗さん」と西洋流に「さん」づけで呼ぶと造形している。「門閥制度は親の敵でござる」と回顧するのは明治の諭吉だが、また小説では、大身の旗本である小栗が豊前国中津藩の下士の出であるに過ぎない自分を対等に遇してくれることに感謝しつつ、「脱亜論」のさわりを小栗に披瀝する諭吉が描かれている。
生きた時代の巡り会わせで、福沢諭吉や勝海舟のように二つの時代を生きた人物もいれば、小栗上野介や岩瀬忠震のように一つの時代しか生きられなかった人物もいる。
明治日本で忠順や忠震が果たしてどのような生き方をしたのか知りたい。
2014年春『ブックレットmyb』(みやび出版 編集発行責任・伊藤雅昭)に幕末維新を生きた反骨の会津人・広沢安任を書いたのが本書執筆の直接のきっかけであるという。本書の刊行は同年12月であるから、驚異的な短い期間の中で書き上げたことになる。もちろん、書き溜めていたものもあったであろうが、「偉人」の中には名声に比して史料が少ない人もいれば、天下に名を馳せ、すでに多くの伝記が書かれている人物もいる。時代が違えば場所も環境も異なる。歴史の隔たりがある。歴史事象についての解釈の相違があり、歴史的評価はさまざまである。作家には確かな歴史観、人物造形の妙、挿話の面白さ、文学性を持った伝記としての切れ、これらすべてが求められている。一人で日本通史を書くことのむずかしさがここにある。
著者の岳真也は1947年、東京都生まれ。中上健次、村上龍、浅田次郎と同世代の作家だが、慶應義塾大学経済学部に在学中に作家デビューし、50歳を過ぎてから福沢諭吉、河井継之助、村上武吉、 橋本左内、小栗忠順、土方歳三、近藤勇、 中江兆民、岩瀬忠震などを主人公とした多くの歴史時代小説を発表している。
こうして観ると、本書は作家岳真也が共感できる人物、主人公にして小説を書きたいと思わせる人物を「ほんとうの偉人」として取り上げ、彼らの生き様を描いていると知る。敗者の生き様、勝者の死に様。古代であれ、幕末であれ、人はどう生き、どう死んだか、作家の筆にはそれ以外にない。取りあげられた偉人たちの痛みと悲しみに書き手が温かく寄り添っていることが行間から伝わってくる。作家の全人格の投影といえる本書を読むたびに新しい発見があり、いろいろと想像の翼を広げることができて面白いことこの上ない。簡潔な経歴伝に飽き足らない読者諸氏には彼らを主人公とした歴史小説をひもとき岳真也の世界を満喫することをお勧めするとともに、作家にはまだ小説化されていない偉人たち————とりわけ、「〈能〉を通じての〈生〉、生きることそのものを見ていた」と作家が評する世阿弥————の執筆を求めたい。

2014.12.31  書名『うつけの采配(上・下)』
著者 中路啓太 
発売 中央公論新社
発行年月日  2014年10月25日
定価  各¥700E

雨宮由希夫 (書評家)
 
戦国の英雄・毛利元就(もおりもとなり)を祖父に、名将・小早川隆景を叔父に持つ吉川広家((きっかわひろいえ)を主人公とし、広家の視線で関ヶ原の戦いを描いた歴史時代小説である。
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の併せて15万を超える将兵が激突した、世に言う「天下分け目の戦い」――関ヶ原の戦いには多くの謎がある。西軍は兵力においても、陣地の配置においても圧倒的な有利さを誇ったにもかかわらず敗れた。何故か。吉川広家は大坂城に在る西軍総帥の毛利輝元の代理として美濃表に出陣し、戦いの当日である慶長5年(1600)9月15日には、輝元の養子秀元を奉じて南宮山の山中に布陣していたが、両軍が激突しているにもかかわらず不戦観望し、西軍は敗走する。西軍から観れば明らかな裏切り行為に他ならない。
物語は文禄2年(1593)広家33歳の朝鮮在陣(文禄の役)の頃より始まる。
 吉川家は小早川家と並び、「毛利の両川」と称された家柄である。文禄の役において毛利軍の実質的な総大将である小早川隆景は甥の広家の器量を見抜いていて、うつけを自称する広家の心境を思いやるとともに、「毛利の命運を背負え」と負託する。元就や元春(広家の父)の死後、毛利を守るべく、ひとりで家政の舵取りをした叔父・隆景を尊敬してやまない広家だが、叔父の真似をするつもりも、またそのような器量がうつけである自分にはあるとも思っていない、と広家は造形されている。
 隆景の死。隆景の遺言は、上方で乱が起きた際、輝元を安芸広島城から出してはならない。恵瓊に毛利の命運をゆだねてはならない、の2点であった。毛利本家の輝元は広家から観れば8歳年下の従兄弟に当たるが、天下を嘱望すべき経綸も器量をも持ち合わせていないと隆景はみなしていたのだ。安国寺恵瓊は毛利家一族の使僧(外交を専門とする僧侶)で、秀吉の中国大返しの時、小早川隆景と共にその追撃に反対して秀吉に恩を売った人物で、その結果、毛利家は豊臣政権下で殊遇されることになる。
 本書で描かれる広家と恵瓊、二人の人物造形は鮮烈である。恵瓊から観れば、広家は毛利一族ながら家康に媚びようとする世間知らずの若者にすぎない。一方、広家は恵瓊を、毛利一族でもなければ正式な家臣というわけでもないただの謀略数奇の怪僧にすぎないとみている。恵瓊には己れの才覚を持って、毛利輝元に天下を取らせるという夢があり、この俺こそ、毛利の運命を決めるべき男であるという自負があった。それに対し広家は、「毛利は輝元のものでも、恵瓊のものでもない」と気を引き締める。毛利の命運を背負うということは恵瓊と対峙することでもあった。
毛利を背負うという宿命から何度も逃げ出そうとする広家を諌めるのは京の色町の遊女・夕霧である。
「うつけの殿……御身のうつけぶりをまっすぐに見つめるのが恐ろしいから、大酒を飲み、死にかけた女郎のもとへなど押しかけてきて、ぐずぐずしておられるのです。……御身がまことにうつけと申されるのなら、うつけぶりを存分に発揮して、堂々としくじればよいのではありませぬか」
広家にとって、この夕霧の諌めは心にしみた。かくして、広家は隆景亡きあとの最も毛利家にとって舵取りが難しい時期に、一族の采配をとると腹を括る。
 実在の人物隆景と架空の人物夕霧。この二人の人物の設定が実に絶妙で、広家が毛利の屋台骨を背負わざるを得なくなる当時の状況があますことなく描きつくされている。広家を取り巻く実在の人物としては小早川隆景の独特の存在感と名将ぶりが際立ち、架空の人物としては夕霧と伊知介が印象に残る。
では、「うつけ」を自称する広家の振るう采配とは————如何に!?
おのれの天下を打ち立てるために暴慢な挙動を繰り返す家康の姿は、広家にとっても面白いものではない。かといって、輝元が、天下の覇権を賭けた戦に巻き込まれるのを黙って見過ごしてもいられない。恵瓊はかねてより昵懇にしている石田三成と謀り、毛利家を西軍に属させようと工作している。輝元の信任厚い恵瓊が、秀頼の身柄を押さえ、その名を持って天下に号令すれば毛利は徳川を倒せると本気で考えていたとすれば、お家にとって危うい、家康には勝てない、勝てる見込みがない、と考える広家は輝元に直言する。
「憚りながら、上様(輝元)はいままで、ご自身で采を振られたことはござらぬ。備前宰相殿(宇喜多秀家)もご若年。治部少輔殿(石田三成)にいたっては、先の高麗の戦においても、ほとんど故太閤殿下のおそばにて、畳の塵でも払うておられた御仁。戦のことなどおわかりにならぬ方々ばかりよ」
 ここに、「高麗の戦」つまり朝鮮出兵の苦い体験が語られていることに注目したい。本書巻頭で文禄の役が活写されていることとつながっている。秀吉の無謀な朝鮮出兵で、豊臣家中には武将たちと吏僚らの対立が生まれ、秀吉の死後、両派の確執はにわかに深刻化し、関ヶ原の戦場にのっびきならぬ影響を与えている。
主家の力量を見抜き野心を諌めた隆景の遺言にしたがい、天下をめぐる戦乱の最中には輝元を毛利氏の本拠である広島城に閉じ込めておこうとした広家の目論見は失敗する。恵瓊らに唆され、みずからが次の天下人だと思い上がる輝元はすでに軍勢を率いて大坂城西の丸を占拠するや反徳川の総大将に祭り上げられてしまったのだ。
輝元の大坂入りを止められなかった広家は家康に密書を送る。輝元は三成に与するふりをしているが、実は密かに徳川方に有利になるよう動いていると。家康が広家の密書を全面的には信じてはいないと知りつつ、けれども、広家には嘘をつくよりほかに手はなかった。この嘘をうまく突き通すには、輝元を大坂城に閉じ込めておく必要があり、関ヶ原の戦場では、毛利軍をその場から一歩も動かさないことが必要であった。しかもこれらを輝元はもとより恵瓊や三成に覚られずにやり遂げなければならない。偽りの書状を家康のもとに届ける使命を帯びるのは 藤谷伊知介である。これがうつけの采配であった……。
 西軍の敗因は毛利家指導部の不思議なまでの消極性と、それゆえの毛利一族の不統一にある。大坂城にある西軍総帥の毛利輝元が秀頼を奉じて出陣してくれば、家康に勝ち目はなかった。徳川に与した福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが、秀頼に矢を向けることはないからである。故に、広家が毛利家の安泰を図るならば、輝元に秀頼を奉じての決戦を進めるべきであった、さすれば毛利氏が父祖の地である安芸を失い中国120万石から36万石に減封されることはなかったとする見解がある。検証すべき歴史のイフであろうが、本書における吉川広家は、三成に属することは毛利家を滅ぼすことになる、徳川家康に勝てる見込みはないと踏む人物として描かれている。
 三成に属することとはとりもなおさず豊臣政権の継続延命路線に甘んじることである。家康に勝てぬとは戦の上だけではない。家康はすでに秀吉晩年の豊臣政権を見切っていて、〈関ヶ原以後〉の国家構想を描いている。このことで広家は家康に通じる考え方————秀吉と豊臣家に対する深い失望と幻滅————を有していたと作家はみなしているのであろう。家康の口から発せられるのは作家自身の独自な歴史解釈である。
 「(秀吉を)愚かな男だ、と家康は思っている。日本を平定して後、その卓越した富や武威、智慧、そして精力を、内治と後継体制の確立に注いでいれば、豊臣政権のありさまはずいぶん変わっていただろう。」
吉川広家は裏切り者という忌むべき存在であるという先入観があった。が、西軍の主力である毛利軍の事実上の総指揮官として広家が南宮山に陣を構え観望し、一戦も交えずに、東軍勝利を確認するや、戦場を離脱しているのは裏切りでもなんでもなく、したたかな信念で戦い以前から決めていたことであったと読者は知らされる。毛利元就の血筋を引きながら天下を夢見ることなく、毛利輝元の軽挙妄動、安国寺恵瓊の野望を抑え、毛利家の名を残すべく奔走して、家康に賭けた男、吉川広家が清々しい。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋(隆景の養子)の裏切りばかりがクローズアップされるが、一般にはほとんど注目されていない吉川広家を主人公とし、その苦悩と葛藤を余すところなく描いた本書は史材の選択というだけでもすでに出色である。
 中路啓太((なかじけいた)は1968年東京都生まれ。代表作に『裏切り涼山』、近著に『もののふ莫迦』がある。学究の出ながら歴史時代小説の本流に位置される作家で、歴史の非情と狂気を、単なる歴史読み物ではなしに、薫り高い文学の域にまで昇華して描きつくす<戦国もの>歴史時代小説を書き続けている。
本書は単行本として2012年2月に刊行されたものの文庫化である (「解説」は本郷和人 東京大学史料編纂所教授)。
2014.12.24  書 評  近藤誠氏のがん治療関連著作
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

近藤 誠著『抗がん剤は効かない』(文芸春秋、2011年)、同『がん治療で殺されない七つの秘訣』(文春新書、2013年)、同『がんより怖いがん治療』(小学館、2014年)
1990年代初頭から現代のがん治療にたいする疑念表明と問題告発を続けてきた放射線医師、近藤誠氏の最近の著作である(初期の著作は、1994年に発刊された『がん治療「常識」のウソ』朝日新聞社、1996年に発刊された『患者よ、がんと闘うな』文藝春秋)。近藤氏の著作は相互に重複する部分が多いが、最新著『がんより怖いがん治療』は、定年まで勤め上げた慶應大学を退職した後に書かれたもので、かれこれ20余年間に、大学や学界から受けた圧力や嫌がらせを詳細に記述したところが、これまでの著作にない部分である。
 以下、近藤氏の主張の主要部分を私なりに解釈・紹介しつつ、私見を記したい。

抗がん剤はなぜ効かない
 心臓から送りだされる人間の血液は40秒前後で体を一巡する。だから、点滴された抗がん剤もまた、40秒前後で体をくまなく巡る。薬剤ががん組織に長時間、留まることはない。とくに血流が激しい肝臓や肺などの臓器に薬剤が留まることは難しい。がんの種類ごとに、抗がん剤は多数存在するが、どの抗がん剤をとっても、どれほどの分量が腫瘍組織に入り、そこにどれほどの時間留まるのかについて、誰も答えることができない。確かなことは、抗がん剤という毒薬が体全体に散らばることだけである。要するに、がん組織に薬剤が効く効率は非常に悪い。だから、抗がん剤を体内に入れれば、健康組織が壊れるか、がん組織が壊れるかの競争になる。
 抗がん剤が直接作用する白血病や悪性リンパ腫のような血液がんに抗がん剤が有効なことは理屈に合う。しかし、幼児期の白血病が「寛解」と判断されても、成人した後に抗がん剤使用の副作用が出る事例が報告されているから、抗がん剤という毒剤を体内に取り込むことは、「寛解」と判断されても、完全に無害で副作用がないとは言えないのだろう。
 抗がん剤の効率性の悪さから、「分子標的薬」と称した抗がん剤の開発が進められているが、実際のところ、がん細胞だけに作用する抗がん剤は存在しない。「分子標的薬」も劇薬指定されており、肺がん治療の「夢の」分子標的薬と宣伝されたイレッサが、死亡事故を起こして訴訟問題になっていることは、周知の事実である。
 近年、抗がん剤の使用を拒否する人々が増えている。補完的な治療法や統合治療、あるいは生活の質(QOL、quality of life)を重視する考え方が、医師の間でも広がりつつある。「がんは縮小しました、しかし患者は苦しみながら亡くなりました」というのでは、本末転倒の医療行為だからである。

「がんもどき」論
 良性腫瘍と悪性腫瘍(がん)の区別は簡単ではない。良性腫瘍とは転移しない腫瘍であり、自然に消滅するものもある。人間の細胞の生成(DNA転写)過程において、転写ミスがそれなりの確率で生じることが知られている。加齢とともに転写ミスの確率も高まるが、免疫システムが有効に機能していれば、転写ミスによる細胞変異が淘汰され、生体機能を脅かすことはない。しかし、免疫システムが弱化し、変異した細胞を淘汰できなくなれば、それが制御不能な悪性腫瘍に転化すると考えられる。
 さて、問題はここから始まる。現代のようにがん検診制度が盛んになると、良性か悪性かの区別ができないまま、腫瘍が発見されればすぐに治療が開始される。組織の病理検査のために生体検査が行われる、あるいは良性腫瘍でも、一定の大きさがあれば、医師はすぐに手術や抗がん剤治療を勧める。ほとんどの人は「まだがんが小さいうちに治療するのが最善」と考えるが、治療が不要なものに手術や抗がん剤を施せば、副作用に苦しむことになる。
 近藤理論の一番重要な点は、転移しない良性腫瘍は治療しないで、放置しておくのが最善の治療法だという点にある。このような転移しない良性腫瘍は「がんもどき」と名付けている。「がんもどき」は治療する必要はなく、可能な限り、副作用のない治療法や対症療法で十分だというのが、近藤理論の核心である。

検診不要論
 近藤理論が医学界に与えた最大の脅威の一つに、「がん検診不要」論がある。現代の医療ビジネスの中で、「がん検診」の占める位置は大きい。ところが、近藤理論を認めれば、がん検診は無駄だということになる。なぜなら、転移する悪性腫瘍であれば、検診で発見される大きさになるはるか前に転移が始まっているから、発見部位を治療しただけでは、がんを治療したことにはならない。また、検診によって、良性腫瘍に不要な治療が施され、それが生活の質を下げたり、治療の副作用によって、かえって健康を崩してしまう可能性がある。
 最近の欧米の研究では、種々のがん検診で、検診を受けたグループと受けなかったグループの間のがん死亡率に、有意な違いが認められないと報告されている。ところが、日本では、逆に、検診対象のがんの範囲を広げる方向に進んでいる。
 近藤氏が「がんもどき」論を発表された後に、所属の慶応大学医学部教授会から論文撤回・謝罪を求める働きかけがあり、近藤氏が対応に苦慮した状況が詳細に描かれている。幸い、暗黙の辞職勧告はあったが、暴力的に近藤氏の言論活動を圧殺することはなかった。不遇の中の唯一の救いである。

がんは局所的な病ではない
 近藤氏の「がんもどき」論は、がんという疾病の本質を突いている。「がんもどき」論を別の形で表現すれば、「がんは局所的な疾病ではなく、生体の組織全体にかかわる疾病である」と言い換えることができる。もしがんが局所的な疾病であるなら、その部位を治療すれば済むが、そうでないところに、がん治療の難しさがある。
 もし良性腫瘍であれば、これは局所的な疾病だから、全身に毒を入れるような抗がん剤治療は百害あって一利なしだ。腫瘍が大きくなって生活に不都合が出た段階で、対症療法的な治療を施せばよい。
 ところが、悪性腫瘍の場合、発見された時にはもうすでに転移が始まっているから、局所的な治療では治療の効果は期待できない。ただ、この場合も、転移がすぐに生命を脅かすことはなく、生命維持の中枢臓器の機能が弱り始めてから、生命が脅かされる危機段階に入る。問題は、転移が確認されたらすぐに抗がん剤治療を始めるべきか否かである。近藤氏はもちろんこの段階でも、抗がん剤や外科手術のような標準治療が延命効果をもつとは考えない。逆に、苦しむ時間を増やすだけだと考える。
 それなら何もしないのだろうか。これまで、近藤氏は相対的に副作用の小さい放射線治療を勧めてきた。しかし、近藤氏は今その放射線治療からも撤退している。それほど優位点が認められないからである。
 近藤氏がもう一つの代替療法と考えているのは、焼灼(しょうしゃく)法である。近藤氏はこの分野に明るくないらしく、「ラジオ波による焼灼法」で具体的な何を指しているのか説明していない。
 いずれにしても、がんが局所的な疾病でないとしたら、腫瘍組織が一時的に縮小したことだけで治療の効果を測るのは、まったく無意味だ。局所的治療で転移を留めることはできないし、抗がん剤を止めれば再び腫瘍が大きくなる、あるいはいったん外科手術で除去したはずの腫瘍が再発する。このため、最近では、免疫療法を謳う治療法が幅を利かせるようになっている。自らの血液を採取して培養し、癌細胞にたいする抗がん細胞を増殖してから、再び患者の体内に戻す免疫治療法だ。しかし、現在のところ、それほど成果がでていない。免疫療法のみならず、最新治療と称するもののほとんどが非常に高価で、その割に効果がないのが現状である。

がんとどう向き合うか
 一昔前は、がんと診断されると人生の終わりだと思われたが、今は患者の考えも変化しつつある。若い人が悪性腫瘍に罹患するのは悲しいことだが、年配者ががんと診断されても、無暗に悲しむことはない。人の死はいろいろある。交通事故で突然亡くなることもあれば、くも膜下出血、脳溢血、心筋梗塞で突然に死ぬこともある。徐々に命を失っていくのが良いのか、突然に命を失うのが良いのか、人それぞれに思いは異なるだろう。しかし、少なくとも、突然に亡くなるより、一定の時間的猶予があり、残された時間のなかで人生を整理し、必要な事柄を家族に伝えて死んでいく方が、本人だけでなく家族にとって幸せではないだろうか。突然に失われた命には、常に後悔が伴う。
がんという疾病が加齢に伴う必然的な現象だとすれば、それとどう付き合っていくかという人生観や終生観が必要なだけだと思う。少なくとも、生命維持にとってクリティカルな臓器に転移し、その状態が悪くなるまで、がんは人を殺さない。治療で苦しんでも治るなら良いが、治療しても生きる時間が限られているなら、もっと生活の質を維持して死にたい、無駄な手術で苦しむことを避けたいと考えるのは、自然なことである。
 近藤氏は、本物のがんなら、早期に発見されるよりは、末期に発見された方が良いと主張する。ぎりぎりまで人生を全うすることができるし、緩和ケアを行えば老衰のように死を迎えることができる。すべてがそういう訳にはいかないだろうが、大切なことは、がんという病にたいする理解を深め、がん治療にたいする明確な意思をもつことである。

温熱療法の可能性
 近藤氏は大学を定年退職して、「セカンドオピニオン外来(http://kondo-makoto.com/)」を開いた。治療をおこなわず、がん患者への相談とアドヴァイスを行っている。既述したように、近藤氏は一定の留保を付けて、焼灼法の有効性を認めている。ただ、その内容が明瞭でない。
 焼灼法は対象部位を焼き切る技術である。広義にはアブレーションと呼ばれる高温による組織の焼灼技術であるが、腫瘍の焼灼に有効なのは、腫瘍に複数の電極を挿入して、直流(ガルバーニィ)電流を流して腫瘍部位を焼き切る方法である。体内の腫瘍組織を焼く場合には開腹手術が必要だが、これは患者に大きな負担を与えるし、悪性腫瘍が局所的なものでないとしたら、腫瘍部位を組織破壊(ネクローシス)しただけでは外科手術と同じ効果しかもたない。ここにも、がんという疾病の難しさを見ることができる。
 がんに侵された組織を熱で破壊するという医療行為は、ヒッポクラテスの時代から存在するもっとも古いがん治療法である。中世では焼きごてを表面がんに近づけて、放射熱で治療する方法が存在した。しかし、電磁気理論が確立される19世紀までおよそ2500年間、温熱療法はプリミティブな域を出るものではなかった。現在もなお、プリミティブな理解が蔓延している。
 現代の温熱治療は、開腹することなく、体内の腫瘍組織に熱を発生させることを目的としている。しかし、悪性細胞のみに熱を作用させるという集束性の実現は、技術的に非常に難しい。日本のメーカーが京都大学工学部の先生方と30年前に開発した高周波温熱がん治療器は、がん組織を高温で組織破壊(ネクローシス)するものだが、高い出力は患者に大きな負担を与え、かつ周辺組織をも熱してしまう。また、腫瘍組織近辺の温度を測定するために温度センサーを刺し込むことを奨励している。ハンガリーの物理学者サース・アンドラーシュが開発した加温技術(オンコサーミア)は低出力・非侵襲的な方法で、がん組織への熱エネルギーの集束性を高め、がん細胞のアポトーシスを誘発する手法である。体に優しいがん治療器として、世界30カ国で治療に使われている*。
 がん治療に奇跡的な手法は存在しないが、自然の摂理にかなう方法で、がん細胞のアポトーシスを促す温熱療法は、痛みを和らげる副作用のない治療法である。アポトーシスの復位が、免疫効果を活性化させることも分かっている。このような体に優しい現代技術に、もっと注目すべきだろう。近藤氏にもこの分野への視野を広げてもらいたいものだ。

 * 千葉大学付属病院では2年前から末期の食道癌患者にたいするオンコサーミア温熱治療の臨床研究が行われている。また、来年2月からは富山大学付属病院で、呼吸器系腫瘍、消化管・消化器系腫瘍、乳癌・産婦人科系腫瘍、耳鼻咽喉科領域の腫瘍、整形外科領域の5つの診療科で、臨床研究が始まる予定である。
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2014.12.22 書評 鳴神響一著 『私が愛したサムライの娘』 角川春樹事務所
2014年10月8日発行  ¥1500E

雨宮由希夫 (書評家)

 物語の主要舞台は八代将軍徳川吉宗(よしむね)治世下の長崎。尾張徳川家に仕える甲賀・忍者の雪野(ゆきの)は七代尾張藩主・徳川宗春(むねはる)の密命を帯びて長崎の出島に潜入する。丸山遊郭の太夫・滿汐(みちしお)と名を変えた雪野の任務は出島蘭館の医師・ヘンドリックを彼女自身の肉体で籠絡することにあった。
運命的に出会った雪野とヘンドリック。やがて二人は互いに惹かれあい恋に落ちてゆく……。
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以上が大まかなストーリー展開であるが、この時代小説は作家による周到かつ実に興味深い構想のもとで描かれている。
まず、この小説はジャンル的には〈忍者もの〉時代小説と位置付けられるであろう。忍びとは文字通り人としての感情を耐え忍んで生きるものと教わって育った雪野。忍びとして生を享けた女は忍びとして生き忍びとして死ぬのが忍者の掟であるが、雪野は愛に目覚め、真実の愛を知ってしまった。運命を受け入れて与えられた場所で精いっぱい生きようと思っていた雪野の心が揺れ動く。〈忍者もの〉時代小説の面白さの一つは主人公の超人的な忍者としての活躍にあるが、一途な女忍びの哀しみと虚しさ、運命の変転を観るのも、また一つの面白さである。
しかし、本書の醍醐味は「忍者」のみにとどまるものではない。「吉宗・宗春の時代」と「長崎」を組み合わせて題材にしたことが本書を魅力ある作品に仕上げた最大要因である。一般には大岡忠相との名コンビで〈名君〉とされる吉宗に対し、吉原での遊蕩生活など不羈奔放に生きたという宗春。幕府と尾張藩の確執と争いを背景とし、宿命のライバルとしての二人を対比して多くの小説が書かれてきたが、本書では「長崎」が絡んでくるところが出色である。
「長崎」は古来より対外交易の窓口としてまた架け橋として大きな役割を果たしてきた。江戸時代、天領としての長崎は鎖国政策下において異国との交易を許された貿易都市であり、来日した異国人相手の遊興都市でもあった。長崎の丸山遊郭は江戸の吉原、亰の島原など日本の他の地域の遊郭と較べて決定的な違いがあった。娼妓を異国人に提供する性格を帯びた長崎の丸山には「唐人行」「阿蘭陀行」「日本行」の名称がある遊女が存在した。〈奉公対象〉別に特定の名称で呼ばれた彼女たちと異人たちの交感が長崎独特の艶めかしい光景とエキゾチックな風景を生みだしたのである。また、一口に「長崎」といっても、江戸初期と江戸中期、幕末では長崎の面相はそれぞれ異なることはいうまでもない。「唐人行」はやがて「からゆきさん」となり、幕末明治の「洋妾」(ラシャメン)に引き継がれる。なおかつ、近世における長崎は多くの悲劇を生み出した漂流者の受け入れ窓口であったことも忘れてはならない。
「吉宗・宗春」「長崎」に加え、「忍者」「遊女」「漂流者」「異国人」のキーワードが軸となっている本書は、キーワード各自単独で時代小説が自在に描ける要素が渾然と溶け合い〈蜃気楼〉的世界を創り上げている。
「異国人」のヘンドリックは阿蘭陀人医師として登場するが、物語の進展で、丸山遊郭の太夫・滿汐が女忍び望月雪野の仮の姿であるのと同様に、出島蘭館の上外科医は仮の姿で、実はエスパーニャの情報将校で諜報員であると知れる。
ヘンドリックは滿汐の正体が尾張の忍者と知って衝撃をうける。一方、最初から遊妓として近づいた滿汐はやがて太夫としての擬態、忍びとしての忍辱、武士の娘としての誇り一切が剥がれ落ちていくのを感じる。互いに仮の姿であることを明かした二人は一対の生ある男女として互いを受け入れる……。
読者は、自分の血統をひた隠しにして日本に潜入した異国人として、この小説の時代から凡そ90年後の文政6年(1823)に、出島阿蘭陀商館付医師として来日し、日本人女性との間に女児(楠本イネ)を生したドイツ人シーボルトをヘンドリックに重ね合わせることができるであろう。
 この時代小説は単なる女忍びの物語ではなく、日本とイスパニアの諜報員同士のラブストーリーという形を取った異文化交流の物語として読める。
「漂流者」の嘉兵衛は伊丹の酒を積んで摂津北浜を船出して江戸を目指すも、遠州御前崎の沖合で大嵐に遭い漂流遭難した樽廻船(たるかいせん)の沖船頭。やっとの思いで帰還した嘉兵衛は国禁を犯すものとして捕らえられ、公儀目付方の手で葬り去られようとするが、宗春に救われる。宗春にとって嘉兵衛は海外事情に明るい貴重な人材であり、己れの野望実現のために必要であった……。
「宗春」は八代将軍吉宗の時代に政権転覆を狙った尾張藩主として、「吉宗」は海外侵攻の意図を抱く将軍として描かれる。「世を治めるには誰もが愉しみ、生き生きと暮らす世を目指すほかに途(みち)はない」と常に人の情を治世の要と考える宗春は質素倹約、質実剛健を標語とするばかりの吉宗による享保の改革の限界を痛感している。その上に、吉宗が海外侵攻の意図を抱いていることを察知するにいたり、宗春は「あんな男にこの国を任せておくわけにはゆかぬ。あまりにも窮屈な治世でこの国を疲弊させ続ける将軍家を弑する」と明言する。
かくして、幕府転覆を謀る徳川宗春の野望はオランダ商館医師・ヘンドリックに対し、驚くべき計画を持ちかける……。
作家による独自の宗春像は鮮烈である。宗春は尾張一国ではなく、日本という国を見据えていた為政者であるとし、「享保17年(1732)の時点で、宗春ははっきりと公儀転覆の考えを持っていたと思われる」とした上で、「仮に宗春が九代将軍となり国政に才覚をふるっていれば、江戸時代後期の歴史は大きく変わっていたはずである。あるいは、明治維新を待たずして、日本は近代国家への足取りを辿っていたかもしれない」と述べている。泰平の世に武力でもって天下を狙うなど時代錯誤も甚だしいとの批判もあろうが、このくだりは〈歴史エッセイ〉として留め置きたい。
時代小説における独自の人物造形に成功した「宗春」には雪野とヘンドリックにも勝る主役級の存在感がある。宗春との出会いが言葉も通じ合えない男女の遊興から始まった二人の運命をかえることになるのだから、それは当然のことであるともいえる。幕府転覆を謀る尾張藩主・徳川宗春に仕え暗躍した忍びたちの運命は、宗春の失脚によって文字通り運命づけられてしまうが、とりわけ、宗春の大望を実現するため己を捨てて戦った雪野の運命やいかに?
日本人の海外渡航が公式に解禁されるのは慶応2年(1866)のことであるが、鎖国時代下において、国禁を犯して、唐天竺南蛮に流れ出ていった長崎の遊女がいないはずはない。彼女たちの生き様を雪野の出国に重ね合わせたい。
鳴神響一(なるかみきょういち)は1962年東京都生まれ。デビュー作の本作で第6回角川春樹小説賞(選考委員 北方謙三、今野敏、角川春樹)を受賞。受賞時のタイトルは「蜃気楼の如く」であったという。鎖国下における日本とスペインの交渉など皆無に近いとするのが歴史の常識であろうが、蜃気楼のごとく確かにあったと作家は言いたいのであろうか。構想の斬新さ、奥行の深さ、人物を見つめ歴史をとらえる目の確かさを持った大型新人の登場に拍手喝采したい。
 (平成26年12月5日  雨宮由希夫 記) 

2014.11.22  書評『冬を待つ城』 安部龍太郎 著
雨宮由希夫 (書評家)

 九戸政実の乱とは今から約400年前、天正19年(1591)3月、南部氏一族の有力者で南部家の重臣九戸(くのへ)政(まさ)実(ざね)が、南部家当主南部(なんぶ)信(のぶ)直(なお)および豊臣秀吉に対して起こした反乱である。
 注目すべきは、この乱を平定するために、北条氏を滅ぼし天下統一を完成させたばかりの秀吉が軍勢15万を超える奥州再仕置軍を編成したことである。討伐軍は徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、石田三成、佐竹義重、蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)、浅野長政らの武将で編成され、伊達政宗、最上義光、秋田実季、津軽為信ら東北の諸将達も参戦を強いられた。なぜ秀吉は奥州最北端の小城一つを落とすのに、錚々たる歴戦の武将を駆り集めたこれほどまでの大軍を動員したのか。
 九戸政実は現在の二戸市に所在した難攻不落の九戸城(岩手県二戸市福岡字城ノ内)に5千の兵とともに籠城した。奥州再仕置軍は圧倒的な軍勢と装備を保持し、九戸城を完全に包囲しながらも苦戦を強いられた。しかし、乱の結果はあっけないものだった。同年9月、豊臣軍は謀略をもって政実を欺く。城を明け渡せば将兵の命は助ける、との豊臣軍の謀略により九戸城は落城。政実は降伏条件を真に受けて降伏したが、総大将・豊臣秀次の陣営にて処刑され、城内に残っていた城兵と婦女子は二ノ丸に押し込まれて撫で斬り(皆殺し)にされ、火をかけられた。助命の約束は反故にされたのである。
 九戸政実の乱勃発にいたる歴史背景を略述したい————。
 天正18年(1590)7月、豊臣秀吉は全国制覇の総仕上げとしての小田原攻めの後、奥州に下向、会津黒川まで陣を進め、世にいう「奥州仕置」を実施した。小田原に参陣しなかった大崎義隆・葛西晴信の所領30万石は没収され、秀吉の家臣木村吉清に与えられた。また、陸奥三戸城主の南部信直に対して、秀吉は検地や刀狩を強行するよう命じた。南部信直は秀吉の小田原攻めに際し北部奥州諸家でいち早く参陣し、その功により南部7郡を安堵されていたが、それ以前、南部領内に割拠する南部一門はほぼ対等で、合議によって統治を進める同族連合の状況であった。奥州仕置により秀吉が公認した南部信直を主君とすることにより同族連合は否定され、有力一族も宗家の家臣として服属することを求められた。妻子を人質に出し九戸城を破却して三戸城下に移るよう信直より命ぜられ、独立領主としての立場のすべてを否定された政実は反発し信直と激しく対立する。折しも、同年10月から陸奥国各地で、葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発していた。奥州仕置の名の下、領主の配置換えや検地などで奥州の制圧を進める豊臣政権の強引なやり方に反発した武士たちが一揆を結んで各地で蜂起した。政実はそうした一揆衆の側に立って挙兵したのである————。
 物語は天正19年(1591)正月、九戸城主の九戸政実が南部信直の居城三戸城で催される毎年恒例の新年参賀を欠席し、南部本家への反意を明らかにするところから始まる。
 本書の主人公は久慈四郎(くじしろう)政則(まさのり)。九戸家の四男で、29歳の時に九戸家と久慈家との関係強化のため久慈家の婿養子となっている。政則は南部家と九戸家との諍いが秀吉にお家取り潰しの格好の口実を与えると危惧し、兄政実の真意を確かめるべく、久慈(現・岩手県久慈市)から政実の居城九戸城に向かう。久慈から九戸城に至る山中の描写は雪深い奥州の厳しい自然の摂理を甘んじて生きる人々の生の姿を活写していて、巻頭より読者は安部龍太郎の世界にひきこまれるであろう。
 『蒼き信長』『天下布武』『生きて候』『下天を謀る』『レオン氏郷』『等伯』など戦国期を史材とした数多くの名作を著してきた安部龍太郎の描く「九戸政実」の安部たるゆえんのものは、九戸政実の乱を小田原攻めと文禄の役の間にある歴史事実を踏まえ、関白秀吉が九戸政実の乱の平定に15万もの軍勢を動員するという異常なばかりの掃討作戦を実施したのには、二つの意図がある、としていることである。
 ひとつは、「人狩り」つまり朝鮮出兵の際に人足とする者たちの徴用であり、もうひとつは、奥州の山々をしらみつぶしに調べて、硫黄の鉱山を探し当てることである。奥州仕置の陰のプランナーである石田三成が朝鮮出兵を見据えて、敵国にいるような想定のもとで訓練し、寒さに強い奥州の領民を人足として徴発するという周到な計画を立案していることを、政実がさる筋から知るにはじまり、この二つの意図が物語をラストエンドまで一筋の流れとなって引き継がれる構想は秀抜である。
 刀狩りで抵抗力を奪われ、検地の末に過重な年貢を課され、朝鮮出兵のために人足徴用されれば、奥州は疲弊のどん底に突き落とされる。関白秀吉の仕置を辞めさせるしかとるべき道はない。さもなければ、奥州藤原氏の頃に築かれた蝦夷の王国の伝統および連綿と受け継がれた奥州の大義が失われる。戦を避けなければ九戸家は滅ぼされるという危機感をいだくが、政実は蝦夷の誇りと奥州の大義を守り抜くことに命を賭ける。そこで九戸家の命運、奥州の命運を賭けて一揆の側に立ったのだ。
 狐が熊に勝つ方法は一つしかない。手の内を覚らせずに相手を攪乱し、とどめを刺せる場所まで誘き出さねばならない。狐の政実にとって、熊とは秀吉であり三成であって、南部信直ではない。信直は南部の漢であると政実は信じている。熊を斃すためには信直に手の内を明かすわけにはいかない。狡猾な秀吉は南部と九戸の共倒れを待っているのだ。
 戦いには勝てはせぬ。中央の強大な力に抗しきれず、滅ぼされることを政実は覚悟している。だが九戸城に立て籠もり、人狩りの中止を条件に和議を結ぶ他に道はなかった。秀吉が人狩りを中止し、家臣領民の命を助けるなら、城と所領と共に和議の引出物として九戸四兄弟の首を差し出すと決めている政実はただひたすら冬が到来し南部が雪に閉ざされるのを待つ。奥州を閉ざす厚い雪が東北の山河を最強の砦に変えるのだ。書名『冬を待つ城』の由来はここにある。
 終末の局面で、人狩りの中止を条件に和議を結んだと三成に覚られることを懸念する豊臣軍の大将・蒲生氏郷が、15万の大軍が何のためのものか、謀略の全てを南部信直に明かす。ここにいたって、信直は奥州の大義に殉ぜんとした政実の考えが正しかったと骨身にしみて分かる。死装束に身を包んだ政実と対面した信直が、南部のために起たねばならなかった政実の心中を思いやるシーンは本書最大の読みどころである。政実が南部の漢(おとこ)であるように、信直も南部の漢であったのだ。
 「日本及び日本人にとって、奥州とは何か、東北とは何か」が本書の主題である。
 安部龍太郎の確たる戦国史観に裏付けられ描写により、政実や信直がどのような生き方をしたのかが鮮やかによみがえる。
 平成7年(1995)、九戸城二ノ丸跡から斬首された女の人骨など十数体の惨殺死体が骨となって発見された。九戸政実の乱の犠牲者であることは明らかである(百々幸雄等著『骨が語る奥州戦国九戸落城』東北大学出版会)。
 臣下の礼など取った覚えもないのに、秀吉は最初から政実ら陸奥の武士の心など無視し陸奥を自分の領地と決めつけて「仕置」していた。「仕置」には罪人処罰の意味がある。政実らは罪人ではない。秀吉がしたことはまさにかつての内裏が蝦夷にしたことであり中央政府の理不尽さのあらわれである。坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征伐、源義家頼義父子の前九年の役・後三年の役、頼朝による奥州藤原氏の征伐等々、連綿と繰り返されてきた東北の悲劇は、九戸政実の乱の後、幕末維新の東北戊辰戦争へと繋がる。東北人は先祖と同じ戦いを強いられて古代から現代に至っている。
 九戸政実を描いた小説は数少ないが、先行作品として渡辺喜恵子の『南部九戸落城』(1989年刊)、高橋克彦の『天を衝く』(2001年刊)がある。それに安部の本書が加わった。三者三様の東北に寄せる思い入れが伝わる秀作であるが、奇しくも三者とも直木賞受賞作家であることも興味深い。三者による競演を併せ読みたい。
                  
新潮社刊 定価 ¥2000円 
2014.10.31 書評 安住洋子著『遙かなる城沼』小学館
発行年月日 2014年10月1日 定価¥1400E

雨宮由希夫 (書評家)


 江戸後期の群馬県館林(たてばやし)を舞台とした時代小説である。
 館林は躑躅(つつじ)の名所として知られる。県立つつじが岡公園には10万株40種類以上の躑躅の木が群生している。地元の人々が花山と読んでいるこの公園はこの物語では躑躅ヶ崎という名で描かれている。また利根川と渡良瀬川にはさまれた館林の低湿地には城沼(じょうぬま)、多々良沼、近藤沼などの小湖沼群がある。書名の『遙かなる城沼』の「城沼」とは固有名詞で、霊狐の導きで縄張りを行ったという伝説を持ち尾曳城(おひきじょう)の別名がある往時の館林城が天然の要害として利用していた城沼のことである。 
上野国館林藩(こうずけのくにたてばやしはん)の立藩は、豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に移封された徳川家康がその家臣で徳川四天王のひとりに数えられた榊原康政に館林10万石を与えたことに始まるが、5代将軍綱吉が将軍となる以前に藩主であったこと、また、6代将軍家宣の弟である松平清武を家祖とする越智松平家(おちまつだいらけ)が藩主であったことなど、小藩ながら徳川家と深い関わりをもった譜代藩であった。しかし、同一大名家による長期にわたる支配がなく、大名家7家が入れ替わり統治して明治維新を迎えている。
本書の主人公は村瀬惣一郎。館林藩越智松平家の下級藩士である村瀬源吾を父とする。惣一郎には芳之助、千佳の弟妹があり、母を含めた家族4人は尾曳城外堀近くの組長屋に住んでいる。組長屋には梅次、寿太郎という幼馴染がおり、住まいからほど近い城沼へはしばしば連れ立って遊びに行く。鷺が青く澄み渡る湖上を舞う城沼には青龍がいて城沼と館林を守っていると言い伝えられているが、若者は「心に青龍を持て」と育てられる。
 一歳年下の弟の芳之助は私塾から藩校、さらには江戸の昌平坂学問所に進むほどの秀才で家中の宝と将来を嘱望されている。そうした芳之助を寿太郎は妬み、喧嘩を売って、惣一郎から離れていく。気が強く女だてらに剣術道場や塾に行く妹の千佳も、惣一郎に長男としてのわが身のふがいなさを嘆かせる存在となっているが、悩みつつも、日々やれることを精一杯頑張ることが青龍につながるのだと惣一郎は自分に言い聞かせている。
平穏な日々を送っている惣一郎だが、藩の徒目付の職にある父・源吾には秘められた過去があった。かつて牢番の任にあった源吾は罪人の牢破りを許したことで責任を問われ家禄を減らされていた。 
 当時、巨額の借金にあえいでいた館林藩は財政難を解消すべく藩札を作ったが失敗していた。筆頭家老の岸田はその責任を兵頭実篤という学者一人に負わせ処刑しようとした。見かねた源吾は同僚の佐久間利文とはかり、家老の失政の責任を押し付けられた学者を逃がしてやったというのが事の真相であったが、  命と信念に関わることゆえに、父は多くを語ることなく、あえて汚名に甘んじ家族にさえ明かすことはなかったと惣一郎は知るに至る。なお、裏表なく穏やかで、いつも微笑みを絶やさない綾は佐久間利文の娘で惣一郎の大事な幼馴染でありやがて妻となる女性である。
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