2014.10.09 〔書評〕山本兼一著 『修羅走る関ヶ原』 集英社
発行年月日 2014年7月30日、定価 ¥1800E

雨宮由希夫 (書評家)


『利休にたずねよ』(2009年第140回直木賞受賞作)や『信長死すべし』など数々の歴史・時代小説の名作を著した山本兼一は今年2月13日、病により57歳という若さで亡くなった。本書は山本兼一の遺作である。「小説すばる」2011年1月号から2012年11月号にかけて 連載された作品で、肺の病に冒されながら執筆され、作者の急逝によって、連載時そのまままの姿で刊行されたと知る。これが遺作かと寂しい気持ちばかりが先に立つ。 あまりにも早すぎる別れである。一字一句しっかりと噛みしめながら読了した。
 関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ヶ原町)は北方に伊吹、南方に鈴鹿の山系を控えた東西4キロ南北2キロの盆地であり、原野の中央を東西に中山道(東山道)が貫き、南北にそれぞれ伊勢街道、北国街道が走る要衝の地である。
慶長5年(1600)9月15日、この地で、世に言う「天下分け目の戦い」――関ヶ原の戦いが繰り広げられた。家康率いる東軍と石田三成率いる西軍のあわせて15,6万の将兵が真正面から激突した日本合戦史上最大の戦いを、「天下分け目の関ヶ原」と一言で片づけると、関ヶ原の戦いは家康の政権奪取という野望実現のための戦いとみられがちだが、本書、山本兼一の『修羅走る関ヶ原』は、そのわずか一日の戦いで決着してしまった模様を、修羅に生きた東西両軍の武将たちそれぞれの視点から描く。
 「目次」はなく、表紙扉をめくると「石田三成」と章立てされている。32章・視点人物17人の構成である。
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2014.09.29  書名『花くらべ』 著者 堀田あけみ 発売 日本経済新聞出版社           発行年月日 2014年8月5日 定価 ¥700E
雨宮由希夫 (書評家)

 6つの短編と1つの中編を納めた時代小説集。私は寡聞にして堀田あけみという作家の存在を知らなかったが、いずれも作家としての個性が光る作品揃いと言い得るであろう。
堀田あけみは『1980アイコ十六歳』で昭和56年(1981)、中村高校在学中に文学賞を受賞。17歳という当時の史上最年少の受賞であり、堀田は〈名古屋の天才女子高生〉として時の人となった。以来、堀田は堀田自身が育った名古屋を舞台とする小説を書いてきた。特に初期の作品には名古屋弁を使ったものが多いとのことだが、初の時代小説である本書でも名古屋弁がふんだんに使われている。
名古屋といえば、きしめん、ういろう、味噌煮込みうどん、そして「……だぎゃ、……だで」の名古屋弁。名古屋独自の事柄があふれている名古屋は明らかに東京とも大阪とも異なるが、京都ともまた別の文化圏を形成している。名古屋は信長、秀吉、家康と天下統一の英雄を出すことはあっても、歴史上一度も王城の地になったことがない。にもかかわらず、名古屋には京都、東京と較べて遜色ない雰囲気がただよっている。名古屋を東京、京都(西京)と並べて中京というのはただ単に名古屋が両都の中間に位置するからだけではないであろう。
名古屋を「中京」に押し上げた人物の筆頭として、徳川宗春(とくがわ むねはる)(1696~1764)をあげることは当を得ているであろう。御三家の雄、尾張徳川家7代藩主の宗春は8代将軍徳川吉宗の享保年間、質素倹約を強いるばかりの幕府に真っ向から対抗して、遊興を奨励するなどの大改革で、尾張名古屋に空前の繁栄をもたらした人物である。「遊芸、音曲は勝手たるべきこと、芝居興行も自由、遊郭も各所に設けよ」と、享保15年(1730)、宗春は藩祖以来禁止されていた遊郭の設置を認めたので、名古屋城下には全国から1000人を超える遊女たちが集まり、江戸、上方の役者が流入したという。
本書はその宗春治世下の尾張名古屋を舞台とした時代小説である。江戸でもなく、京・大坂でもなく、かといってまったくの田舎でもない尾張名古屋。町全体が未成熟であるにもかかわらず、宗春によってもたらされたバブルに沸く町の雰囲気や人が巧に描かれている。
主人公は尾張宗春時代に尾張に生きた女性たちで、当然ながら年齢も職業も背景も違う。
「花咲か」のヒロインは京の遊郭から尾張に流れてきた遊女・はなさき。愛想のない遊女であるが、京女は廓が公に認められた当初には最上級とされた。
「角の紅」のおさよは小間物屋の娘で、母に代って小間物を商う小店の店番をしている。
「葉桜」のおみねは遊女から菓子屋の後添いになった。
「徒花」のヒロイン桔梗屋のおれんは、わがままいっぱいに育った商家の娘。芝居の役者に恋をする。
「此岸の花」は材木屋を生家として裕福な娘時代を送り、武家の男に淡い恋心を抱いたこともあったが、いまは呑み屋を営む独り者の老女おうめが主人公。
「此の花咲くや」は「藻くぐり」とよばれる地元出身の比較的若い2人の遊女のライバル物語。三浦屋のことぶきともんじ屋のこのはなは、値が張るばかりと敬遠される京女にかわり、尾張名古屋で一番の美女を争っている。なお「藻くぐり」とは熱田の海から上がる脂ののった新鮮な魚になぞらえた言葉である。
 このように、短編のヒロインたちは商家の娘と遊女たちである。商家の娘も、今を盛りの娘から元娘まで、遊女も亰から流れてきた者から地元で育った遊女まで、と幅広い。彼女たちの世代の違いは深刻で、同じ宗春時代とはいっても、微妙な世相の違いに影響されて、それぞれの生き方があることを読者は知る。
 本書において宗春は様々な娯楽を尾張の町に呼び込んだ歓迎すべき「新しい殿様」として登場するが、やがて、遊興が日常茶飯事となり、若者の士気が格段に落ちるや、謹厳実直を旨としていた尾張藩の美徳を損なった殿様として批判されると造形されている。「公方様の怒りを買い藩主が変わり、名古屋は再び静かな町に」は宗春時代の終焉を意味する。
 名古屋を空前の繁栄に導いたが、風俗は紊乱。宗春は藩の士風は乱れたため、享保20年(1735)ごろ、乱れた藩の士風を引き締めるべく、藩士の遊郭出入りを禁止し、遊郭を整理するが、元文4年(1739)失脚、隠居を命じられる。享保の改革を批判された将軍吉宗の宗春への憎しみは深く、宗春の墓石には埋葬された死者が罪人であることをあらわす金網がかぶせられたと史書は伝える。
いちばん読みごたえがあるのは末尾に置かれた中編「花影」である。「花影」は6つの短編の集大成の意味を持っている。
「花影」のヒロインは、商家の娘でも遊女でもなく、しぶしぶ商家に嫁いだプライドの高い武家の娘・秋江(あき)。「町が華やぎ、町人、特に商家の羽振りが良くなった昨今」、尾張藩士である父・岡谷広之進の思惑で、有名な大店、長者町の呉服屋富士屋の跡取り息子・庄兵衛に嫁ぐ。たとえ商家に嫁いでも、心は武家の娘としての誇りを忘れまいと、心に決めていた秋江にとって、初夜の床で早々に眠ってしまい、婚礼の翌日には廓郭通いをする夫庄兵衛の行動は理解しがたいものだった。廓には初菊という馴染みの「藻くぐり」がいた。
一方、秋江には互いに惹かれあう従兄が存在する。尾張藩御台所奉行、橘源之助の弟の橘究(たちばな きわむ)である。究は部屋住みの次男坊。究は剣の道に励む男を武士の鑑と尊敬する女子こそが妻とするに相応しいと、自分の生き方を貫いているが、世の中は究の望まぬ方へ流れていく。武士の中にも、好いた惚れたを主題とする芝居や浄瑠璃にうつつを抜かしたり、遊郭に上がったりする者が現れ、また、殿様の宗春までが、それを奨励し、殿様の派手な出立を真似にする役者も出現する。
江戸時代、次男以下で家督を相続できない者を部屋住みといった。歴史の皮肉といおうか、宗春も吉宗も部屋住みであった。宿命のライバルである二人は相似した生い立ちを持っている。思いもよらぬ経緯から、ひとりは将軍の座に、もうひとりは尾張藩主の座についている。作家が橘究に同時代人の宗春と吉宗を投影している風はないが、歴史の背景を想いつつ、この物語を味わうことは愉しい。
秋江と究、従兄妹同士の恋情を冷めた眼で見る庄兵衛が運命を受け入れて精一杯に生きようとしている妻秋江の心と体を弄ぶシーンは底知れぬ不気味さがただよう。夫婦の交わりが頻繁ではない分、秋江の性の歓びは深い。喘ぐ妻を翻弄しつつ、「これで、しばらくは御無礼するでなも」と庄兵衛は事もなげに言い放つのである。現代では「さようなら」の挨拶言葉で常用される「御無礼する」という名古屋弁の使われ用に言いようのない深遠さを味わってゾッとする。
物語の進展に沿って次第に浮かび上がってくるものは女という性、女という生き方そのものであり、揺れ動く女心の絶妙な心理描写が作家堀田あけみの世界そのものといえる。
日経文芸文庫の一冊として刊行された本書は、「17年前に書いた小説の文庫化」である。単行本として本書は名古屋の海越出版社から平成10年(1998)4月に刊行されている。なお、宮城谷昌光を世に送り出したことでも知られる海越出版社は中京地区の文化のシンボルの一つとされたが、平成11年(1999)8月に自己破産している。
名古屋づくしの本書の帯に、「もう一つ、女の花を咲かさずにおくものか」とあるが、「女の花」は「名古屋の花」とも読める。思い入れたっぷりの「あとがき」「解説」も読みどころの一つである。
(平成26年9月13日  雨宮由希夫 記)
2014.09.06  書評『墨染の桜 更紗屋おりん雛形帖』  篠 綾子著 
雨宮由希夫 (書評家)

「将軍継嗣問題」といえば、江戸幕府13代将軍家定(いえさだ)の継嗣をめぐる政治的対立が想起されるが、実は幕政史上まことに有名な、というか奇怪な、もうひとつの「将軍継嗣問題」があった。
4代将軍家綱(いえつな)(3代家光の子)は多病にして世子がなかった。下馬将軍の異名を馳せた時の大老・酒井忠清(さかいただきよ)は「鎌倉幕府の先例にならい、有栖川宮幸仁(ありすかわのみやゆきひと)親王(後西院天皇の第二皇子)を京師より迎え、擁立せん」と画策したが、老中堀田正俊や徳川光圀らに阻まれ実現せず、かくして、5代綱吉(つなよし)(家綱の異母弟)が誕生するのであった。
この宮将軍擁立の一件は徳川幕府の正史『徳川実記』に明記されているにもかかわらず、歴史学の世界における研究者の多くは「確実な史料的根拠がない」、「信憑性に乏しい」、「ありそうもない話」、「風説にすぎない」、「後世の創作」として退けている。思えば不思議なことである。
 本書がこの4代家綱にかかわる将軍継嗣問題を史材とした歴史・時代小説であると知って一気に読んだ。
綱吉といえば元禄時代。元禄時代といえば赤穂浪士————。と歴史・時代小説の世界では相場が決っているが、綱吉の時代を舞台背景とするにあたり、家綱将軍継嗣問題から説き起こそうとする作家の視点は尋常ではないことにまず注目したい。
 時代小説である本書の主人公は作家が造形した京の老舗呉服商「更紗屋」のお嬢はん「おりん」であり、もう一人の主人公として「清閑寺家(せいかんじ)の熙姫(ひろひめ)」が配置されている。
 将軍綱吉の側室に大典侍(おおすけ)の通称で知られる女性がいた。勾当内侍(こうとうのないし)として宮中に仕えていたが、大奥総取締・右衛門佐(うえもんのすけ)の紹介で江戸へ下向して大奥上臈となり、その後綱吉の寵を受け、その側室となり、綱吉の死後、落飾して寿光院(じゅこういん)を名乗った人物である。「大納言清閑寺熙房(せいかんじひろふさ)の娘」であることは確実な史実であるが、本書ではその名を熙子(ひろこ)と名付けている。実在の人物「清閑寺家の熙姫(ひろひめ)」の生涯の進行が、本シリーズ「更紗屋おりん雛形帖」のストーリーの展開軸となるものと予想される。
おりんにとって清閑寺家の熙姫は身分こそ違えども、唯一の友と呼べる人である。有栖川宮家の縁者である清閑寺家への世間の風当たりは、将軍代替わりの直後は厳しかったし、清閑寺家に肩入れする更紗屋は将軍継承争いの後、羽振りが悪い。
延宝9年(1681)1月下旬。16歳のおりんが江戸へ旅立つことから物語は動き出す。おりんは6歳の時に母おいとを失い、つい先ごろ父吉兵衛をも失って、江戸にいる叔父善次郎を頼っての旅立ちであった。亰のすべてを捨てて、見たこともない江戸へ、おりんは歩き出す。
別れに際し、おりんが熙姫から譲り受けた「淡墨桜」の打掛は、おりんの亡き母おいと手作りの一品で、更紗屋から清閑寺家の熙姫に納められたものであった。
 ただ単に、亡き母が作った品というだけではない。熙姫が涙を呑んで手放し、おりんに譲ってくれた品であった。「これだけは何があっても手放さへん」とおりんは大切にするが、「淡墨桜」の打掛は数奇な運命をたどる。
「淡墨桜」の打掛の江戸での最初の持主となった「越後屋の主人三井八郎兵衛」とのかかわりあいが物語の流れを作っている。
「新興であるにもかかわらず、店を出して数年で江戸で一、二を争う呉服商に成りあがった越後屋」「“丸に井桁三”を白く染め抜いた紺色の暖簾の大店」、とある。
 三井家の家祖・三井高利(みついたかとし)が江戸本町一丁目に呉服店を開いたのは延宝元年(1673)のことである。三井家同族組織の代表名前は「八郎右衛門」であって、「八郎兵衛」ではないが、この「八郎兵衛」を名乗る人物は「年齢は50代であろうか」とあるから、高利であろう。
おりんは「越後屋の主人」とともに、大奥総取締右衛門佐と会う。右衛門佐は将軍御台所鷹司信子(たかつかさのぶこ)の信頼厚く大奥の取締を任されている人物である。おりんは右衛門佐から、熙姫が大奥に入る、と知らされる。また熙姫の兄清閑寺熙定(ひろさだ)は元禄14年(1701)3月、殿中松の廊下において、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみ ながのり)が高家吉良上野介義央(よしなか)に刃傷に及んだ際に、江戸に下向していた院使(霊元上皇の使者)として知られる。
かくて、登場人物の役者はそろった。
赤穂浪士の事件が兄とのかかわりから、いかに展開するのか。越後屋がいかにして幕府の御納戸呉服御用、御為替御用となっていくのか。そもそも綱吉とはどのような将軍であったのか。
有力な公家の姫として生まれ、初めて知った恋に夢中になっていた熙姫は将軍綱吉の側室となる。亰の老舗呉服商の娘に生まれ、何不自由のない暮らしを送っていたのに大店の娘という境遇を失ったおりんは更紗屋の再建を目指す。将軍継嗣問題が起こり、江戸の将軍が変わるという、二人の若い亰娘にとって、ほとんど関係のない出来事によって、そのふたりの運命が変わる。
貞享元年(1684)春、大奥へ入ることが決まった熙子が日本橋に到着するシーンで、本巻は終わっている。歴史・時代小説には「大奥もの」というジャンルがあるが、大奥の女たちの愛憎劇だけではない何かが本書からはただよう。次巻以降がたのしみである。(文芸春秋社 2014年7月刊 600円+税)
篠綾子(しのあやこ)は1971年埼玉県生まれ。東京学芸大学卒。第4回健友館文学賞受賞作『春の夜の夢のごとく―新平家公達草紙』(健友館)でデビュー。『義経と郷姫』(角川学芸出版)、『浅井三姉妹————江姫繚乱』(NHK出版)などの著書がある。
2014.08.16  元東芝エンジニアによる脱原発論
     書評 小倉志郎著『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(彩流社)

半澤健市 (元金融機関勤務)

《頭が真っ白になったエンジニア》
  2011年3月11日の午後、一人の元エンジニアが都内中央区立月島社会教育会館で平和運動の紙芝居を見ていた。そこへ大きな揺れがきた。東日本大震災の始まりである。当日は横浜の自宅に帰れず、その建物に泊まった。テレビは東電福島第一原発が電源を失い原子炉が冷却不能と伝えていた。「非常用ディーゼル発電機があるはずだ。それも地震か津波でやられたのか」。エンジニアはそう考えて頭が真っ白になった。福島第一原発6基中、5基の炉心冷却系のポンプの技術取りまとめを、担当した人物だったからである。
 そのエンジニアの名前は小倉志郎(おぐら・しろう)、『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(2014)の著者である。1941年生まれ、慶大工学部の学部・大学院を経て「日本電子力事業(株)」(のちに東芝に吸収合併される)に入社。35年間、一貫して原子力発電所の見積・設計・建設・試運転・定期検査・運転サービス・電力会社社員教育を仕事とした。退職後の2012年には国会事故調の調査員として報告書の作成にも関わった。

《「放射能の存在」と「全貌理解不能」》
 本書は、元原発エンジニアによる脱原発論である。
 脱原発の論拠を突き詰めると、「放射能の存在」と「原発の複雑さ」になる。すなわち、「原発が装置としてどれほど完全であったとしても、高レベルの放射能を溜め込んだ使用済核燃料が存在するかぎり、極めて危険であること」、「世界中をさがしても原発の複雑なシステムおよび機器の全貌を一人で理解できる技術者はいないこと」。これが小倉脱原発論の原点である。あまりに当然といえば当然である。
 委細は本書に譲るが、私は、著者の貴重な経験に基づく、脱原発にいたる論理の展開に感銘を受けた。著者は企業の「本部」と「現場」の両方―俗っぽくいうと「エリートコース」と「叩き上げコース」―を経験し、更には日本の企業社会と官僚世界の習俗を仔細に観察した。そこが説得力の源泉である。しかも小倉脱原発論の源泉は技術者の知見だけではない。むしろ万人に備わった「良識」と「人間性」に発していると私は感じた。3/11直後に脱原発にカジを切ったメルケルのドイツに通ずるものがある。

《我々は原発について何も知っていない》
 3/11以来、人々は随分と原発に関する情報を得たと思っている。我々が見てきた映像や読んできた活字の数はたしかに多い。しかし、本書の示す福島第一原発事故の実態―十分に原因も現状も分かっていないという実態―を知るにつけ、真実を隠蔽して原発再稼働を進める「原発推進共同体」の暴走を知るにつけ、あらためて我々は何も知らないことを痛感する。著者の真摯な考察と将来見通しに、正直、私はかなり絶望的な気分になった。事態があまりに深刻でリアルだからである。著者は、「日本の滅亡」、「国破れて山河なし」という言葉を使っている。現状のままで事態が進行すれば、その言葉は杞憂といえないのである。

《この本は「遺書」のつもりで書いた》
 原発を推進した尖兵が今になって何をいうか。この問いが当然出てくるだろう。著者はいう。「読者のみなさんのなかには、〈原発をつくった人間が何を今さら善人ぶりやがって!〉と思われる方もいるだろう」。それを意識している。贖罪の思いを込め「遺書」のつもりで書いたといっている。この言い分には異論があるかも知れない。
 しかし、2002年の退職―勿論3/11以前である―後に始まった著者の脱原発活動を知った私は、批判的にはなれない。むしろその勇気と決断に敬意をもつ。

 2007年に、著者がある季刊誌に書いた論文「原発を並べて自衛戦争はできない」は、原発の危険を軍事的な文脈からみた洞察力に富む労作である。50基の原発にミサイルが飛んできたら日本は壊滅するというのだ。その通りだと思う。この指摘は、安倍晋三の集団的自衛権による抑止力論を打ち砕く。

《本書は必読の一冊である》
 本書は、まことに真面目な論調によって、読者を納得させる力作である。あえて必読の一冊と結んでおく。(2014.8.12記す)

■小倉志郎著『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(彩流社、2014年7月)、1700円プラス税
2014.07.30 舞台装置が小出しで、読者に自由な想像が可能な新シリーズ
〔書評〕芝村凉也著『素浪人半四郎百鬼夜行(一)鬼溜まりの闇』、『素浪人半四郎百鬼夜行 (二) 鬼心の刺客』(講談社、両巻とも¥640+税)

雨宮由希夫 (書評家)


田沼意次が老中であった頃の江戸。四谷慈眼寺門前、丹兵衛(にへえ)長屋に榊(さかき)半四郎なる若き浪人者が住んでいた。身に暗い翳(かげ)がまとわりつき、深い空虚を抱える半四郎は東雲(しののめ)藩の元藩士で、江戸に出てくる前の名を神ノ木二郎左といった。
五俵扶持の最下級藩士であった半四郎は、藩公認の剣術会で堂々の立ち会いの末、近習として藩主のそば近くに仕える上士を打ちまかして不具にしてしまった。半四郎に非はなかったにもかかわらず、彼は脱藩を選択して江戸に出ざるを得なかった。
奥州のとある小藩の名もなき下級藩士にとって、江戸中期とはいかなる時空間であったのか、読者は早くも作家のつむぎだす世界に惹きこまれる。

命を捨てる覚悟でいた半四郎は己れの終焉を迎える腹づもりで出府したのであったが、江戸では一つとしてやるべきことが思い浮かばず、「このまま死ぬるのか」と自暴自棄になりかける。無為な日々を送るばかりのある日、半四郎はつぎつぎと怪異な出来事に遭遇し、それら事件の解決を通じて、生きがいらしきものを見出し、江戸の市井で生きていくというのがシリーズ『素浪人半四郎百鬼夜行』の大筋であるらしい。
歴史ミステリーの主人公として、榊半四郎ほど不可思議なキャラクターはないであろう。半四郎は文庫書き下ろし時代小説にしばしば登場するヒーロー的な剣豪でもなければ、自らの意志と正義を敢然と貫く世直し侍でもない。

「第一巻 第一話 鬼火」。半四郎が際野(みぎわの)聊異斎(りょういさい)と名乗る得体の知れない老人とその老人の連れの子供の捨吉と知り合い、青梅街道脇の雑木林で、火の玉に出くわすという今まで出くわしたことのないほどの奇妙な夜を体験する。

 不思議な老人と知り合ってすぐの頃、半四郎はまた、屋敷の中で赤子が消えるという奇妙奇天烈な事件に巻き込まれる(「第一巻 第二話 表裏の家」)。芝の田町に立つ商家、呉服太物商・喜勢屋の生まれたばかりの息子太一が子守のお清と一緒に居なくなる。神隠しではない。商家の中庭で起こったのだ……。
 
表題から夢幻的でやわらかい雰囲気が漂うが、しかし、超常的な怪異譚は少なく、「第二巻 第二話 産土神(うぶすながみ)の愛でし女」に代表されるように、むしろ、人為によってもたらされる怪異、常ならぬ変事に関わる事件が多い。得体の知れない人間の〈業〉に勝る化け物はないということであろうか。

 奇怪な出来事が半四郎の身の回りで起こり巻き込まれるのが常態となるが、中国清代の怪異小説集『聊斎志異』を連想させる名の不思議な老人をはじめとし、半四郎が江戸で出くわす人々は皆一風変わった者ばかりだが、彼らとは事件を経るごとにかねてからの腐れ縁とも呼びたい仲になっていくのには奇妙な味わいがある。

 時代ミステリーに捕物的要素は欠かせないが、腐れ縁の代表的登場人物は 北町奉行所の臨時廻りの愛崎哲之進である。半四郎より一回り以上年上の40男の愛崎は摩訶不思議な出来事など容易に認められぬという頑なな態度を取り、事件をもたらす半四郎を胡散臭く見ていたはずが、四角張った哲之進がやがて半四郎最良の朋友、庇護者となっていくところは何やら微笑ましい。

 慈眼寺の住職・道明も、心愉しい人物である。道明は半四郎が住む長屋の家持ちであり、半四郎の江戸での身元保証人でもあり、当然ながら半四郎脱藩の経緯を承知している。そのうえで、半四郎の先に待っているのは修羅魔道の棘路であるかもしれぬと予言している。半四郎の未来に何が起こるのか。

 志津という女がいる。「いた」というべきか。すでにこの世の人ではないが、常に半四郎の心を占めている。ゆえに志津は「いる」。志津とは許婚と互いに認め合っていた仲だが、半四郎21歳の時に、志津は家老の倅浦山某に見初められ嫁いだがまもなく命を絶った。半四郎には、志津に対して何もできなかったとの悔いが今も残っている。

 半四郎の住処の丹兵衛長屋は東雲藩の中屋敷にほど近い。半四郎が自藩の傍近くに逃げ隠れもせず平然と居るということは、藩主にとっては「躬(み)を嘲笑うておるような不遜なる振る舞い」であり、よって「憎い。断じて許せぬ」ということになる。独善的で矮小な権力者による人騒がせな藩命である。藩士たちはこの理不尽な藩命にひれ伏し半四郎を付け狙うほかない。

半四郎が打ちまかした相手の家老の倅浦山某は藩主の寵臣であり、志津の夫でもあった。東雲藩は一度はお構いなしとした半四郎に刺客を差し向ける(「第二巻 第一話 討手来襲」)。北町奉行所の同心愛崎の制止を受けて東雲藩は表向き鳴りを潜めたが、実際に半四郎へ手出しをすることを諦めたかどうか。
 
芝村凉也は1962年宮城県生まれ。双葉文庫で刊行中の「返り忠兵衛」シリーズは好評で現在までに13巻を数えるが、「半四郎百鬼夜行」は作者渾身の新シリーズとのことである。
ただならぬ説得力を持った筆致で、周到に考証された江戸の世界が描かれている。一連の事件の背後に半四郎脱藩の秘密を絡ませることで、悩みつつ生きる半四郎の生きざまにも焦点を当てているので、人間ドラマとしても読ませる。

徳川260年は国内的には天下泰平、戦争のない平和な時代であったと言えるが、六十余州260藩のほとんどがすでに江戸中期には財政が破綻していた。大名経済は町人や農民の犠牲によって維持されていたが、半四郎のような下級藩士も犠牲者であった。

主人公・半四郎の行く末や如何に。当時の時代性を取り込んでどう展開するのか。シリーズものであるが故に、半四郎を取り巻く舞台装置は小出しである。小出しであるが故に、読者は自由な想像が可能である。たのしみなシリーズがまた一つ増えたといえる。幕末のような変革期を生きた群雄たちの虚実を紡ぎだし歴史の真実に近づくのも歴史・時代小説の魅力の一つだが、太平の世に生きる名もなき人々の生きざまをよみがえらすのもまたもう一つの魅力であることを改めて思い知った。

2014.07.01 「上野」、「皇室」、「大震災」を重ね、ホームレスと被災者の痛苦をつなぎ合わせて描く
〔書評〕柳美里著『JR上野駅公園口』(河出書房新社、¥1400+税) 

雨宮由希夫 (書評家)
 

「あゝ上野駅」という唄がある。作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・伊沢八郎で、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)の5月に発表された。
♪♪……どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ……
 就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す ……♪♪
中学卒業と同時に集団就職列車に乗って上京し「金の卵」と呼ばれた若者を題材にしたこの唄は、高度成長期の世相を描いて大ヒットした。

 高度成長期の産物として集団就職があり、また高度成長期に出稼ぎ農家が増大した。
東北の農家の子弟は働き口を求めて集団就職や出稼ぎを選ばざるを得なかった。彼らは,東京をはじめとする首都圏で,それこそ脇目も振らず働いてその収入の大部分を家族のもとに送金した。彼らが最初に降り立った「北の玄関口」である上野駅は、かくして「おいらの 心の駅」となった。

「あゝ上野駅」より50年。『フルハウス』(1996年)や『家族シネマ』(1997年)など家族のあり方を問う作品を多く発表してきた作家・柳美里(ゆう みり)(1968年横浜生まれ)が『JR上野駅公園口』を書いた。
執筆のきっかけとなったのは12年前、上野駅でホームレスの男性を見かけたことだった。白紙からの取材だったという柳は、上野恩賜公園のホームレスは東北出身者が多いことを知る。

 本書の主人公は、上野恩賜公園を居場所とする東北出身のホームレスである。
福島県南相馬郡八沢村(現・南相馬市)の農家に、昭和8年(1933)、8人兄弟の長男として生まれた主人公は、12歳で敗戦を迎え、国民学校を卒業するや、いわきの小名浜港に出稼ぎに行き、東京オリンピックの前年、30歳で出稼ぎのために上京し、オリンピック用の体育施設建設現場で土木作業員として働いた。

この小説にはさまざま仕掛けが講じられている。
ひとつ、“上野”という場所を舞台としたこと。
上野公園や動物園などが配されている上野の山は江戸の初めに、全山、徳川将軍家の菩提所たる東叡山寛永寺の境内となり、幕末には最後の将軍・徳川慶喜の寛永寺大慈院謹慎蟄居や彰義隊の戦いなど260余年続いた江戸時代最後の歴史的舞台となった。上野の山には、西郷隆盛の銅像があれば、傍らには彰義隊士の墓もある。

春には、寛永寺の創建者・天海僧正が吉野山から移植した“上野の桜”が戊辰戦争で敵対した両者を包み込むかのように咲きほこる。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)3月の東京大空襲の際には、上野公園は多数の羅災者が逃げ込み避難場所の役割を果たしている。明治16年(1883)開業の上野駅の場所には、江戸の昔、寛永寺の子坊11ケ寺が在った。このように、上野では歴史が地層のように積み重なっている。

JR上野駅の公園口からお山の中に入ってゆくと、ブルーシートの「コヤ」が見え、そこに住むホームレスの人たちの世界が広がっているが、「通勤や通学で毎日決まった時間にこの公園を通り抜けている人々」は彼らの生きざまに思い遣ることはないだろうかと作家はシグナルを送っている。

 ひとつ、主人公が今上天皇と同じ年、昭和8年(1933)の生まれであるとしたこと。さらに妻の名は貞明皇后(大正天皇の皇后)の名と同じ漢字の節子とし、皇太子の生まれた日(昭和35年2月23日)に生まれた長男は、浩宮徳仁親王の「浩」の一文字をとり「浩一」と名付けている。

 ひとつ、主人公の出身地を福島県南相馬郡としたことで、「3・11」(平成23年3月11日の東日本大震災)の悲劇が出稼ぎの上に重なり合っていること。
主人公の先祖は文化3年(1806)、加賀越中(富山県)からの真宗移民であった。相馬といえば、相馬野馬追祭で有名だが、御先祖様は先住の相馬の「土着様」から「加賀者」と蔑(さげす)まれ、こっぴどく痛めつけられながらも「荒れ地」を開拓したというくだりは、原発と出稼ぎの歴史的背景を一気に江戸の後期まで遡らせて興味深い。

 かつての浜通りには、東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所もなかった。かの地に原発を誘致する以前は、一家の家長たる父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったのである。そこに「3・11」が起き、多くの人々が津波や原発事故で避難を余儀なくされた。

さらにこれら「上野」、「相馬」、「皇室」、「大震災」が交差し、重なり合って、出稼ぎでありホームレスである男の日常の中に、ポリフォニックな「あの音」が沸き起こり、こだまする。
「あの音」とは上野公園内のチェーンソーや草刈りの音、上野駅構内のアナウンスや列車の奏でる機械音、街の中の見知らぬ男女の会話、都会の喧騒、「天皇陛下万歳」の叫び声であり、東京オリンピックの開会を宣言する昭和天皇の声であったりする。これらは作家のメッセージであり、小説の背景描写でもある。

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2014.06.12 悟りを求めるのも我欲―阿弥陀仏への帰依と口称(くしょう)念仏を勧めた仏教歴史小説の傑作
〔書評〕梓澤 要著『捨ててこそ空也』(新潮社、¥2000+税)                       
                 
雨宮由希夫 (書評家)


 廃(すた)れ皇子の五宮(ごのみや)常葉丸————醍醐天皇が後宮の更衣に生ませた皇子でありながら、宮中から追い出され、存在そのものが闇に葬られ、親王宣下もされぬまま自ら失踪……。
空也といえば、錫杖をつき、口から6体の阿弥陀仏を吐く六波羅蜜寺の肖像彫刻で有名だが、空也の出自が、そのようであったとは露知らないことであった。
梓澤(あずさざわ)要の『捨ててこそ空也』は、平安時代中期の浄土教の先駆者である空也上人(903~972)を主人公とした渾身の歴史・時代小説である。

空也は延喜3年(903)に生まれ、21歳、尾張の国の国分寺で得度し、空也と名乗った。天慶元年(938)36歳、都に姿を現し、洛中を廻って念仏を勧め、「市の聖(いちのひじり)」の名をほしいままにしたのは史実であるが、「醍醐天皇の子」とも、「仁明天皇の皇孫」ともいう空也の出自を皇統とする説について大方の研究者は「不詳」としている。

空也が本書の描くように醍醐天皇の皇子であったとすれば、朱雀・村上の両天皇は空也の異母弟にあたる。醍醐天皇の延喜、村上天皇の天暦の間は「延喜・天暦の治」と賛美された「聖代」だが、その間にはさまった朱雀天皇時代は「承平・天慶(てんぎょう)の乱」(平将門と藤原純友の乱)が勃発した混沌の時代であった。作家は空也を「聖代」と「混乱」の時代を生きた人物として描いている。

奇しくも菅原道真が非業の死を遂げた年に生まれたが故に、五宮の誕生は父醍醐天皇の歓迎するところとならず、疎外されたとして物語はスタートしている。父の疎外、母との確執を経て、空也は全てを捨てて都を出奔、野辺の骸(むくろ)を弔いつつ世の辛酸を知り尽くしていく。かくして、真の救いを探し求めて諸国を遍歴、平将門の首に祈りを捧げ、比叡山の権威にも屈しなかった……と、空也の生きざまがつづられる。「将門」、「道真」、「遍歴」は本書を読み解くキーワードであることにまず目を向けたい。

 空也を取り巻く人物として、藤原実頼(さねより)、猪熊(いのくま)、喜界坊(きかいぼう)らがあり、彼らの人物造形が空也という「出自不詳」の人物の輪郭を明らかにしている。実在の人物である実頼は藤原北家忠平の嫡男で、師輔、師氏、師尹らの兄でありながら、「摂関家」の栄華は弟・師輔の手に帰してしまう(師輔の子が兼家、孫が道長である)ことになるが、本書では幼馴染の実頼と空也との交誼は終生続いていて、心なごむ。

 独創的な脇役は何と言っても猪熊である。空也は、13歳のある日、五条河原で、野棄の亡骸を燃やしている山伏とも乞食僧ともつかぬ風体の男たちを見かける。喜界坊を長とするその集団の中にいた、空也より二つ三つ年かさの少年が猪熊で、彼は初対面ながら、空也が抱えていた苦しみを察し、受け入れる。後年、空也は「猪熊と出逢わなんだら、生涯をただむなしく無為に費やしていたろう、出会ったときから、自分の真の人生が始まったのだ」と回想することになる。

火葬をしたり、橋を架け、井戸を掘り、堤を築いたりしながら畿内各地を転々とする彼らと行動をともにしたことで、空也は庶民の生々しい生と死を初めて知り、自分は何を為すべきかを思う。やがて、喜界坊の集団から別れた空也は、西国から坂東、陸奥へと夢中で歩くこと15年、「自分が進むべき念仏の道」を見出し、仏の救いと生きる意味を探し求め、再び京へ戻って、猪熊と再会する……。

猪熊との出会いから最期の別れはこの小説におけるひとつのクライマックスであろう。「畿内各地を巡る集団」といえば聞こえがいいが、実は社会の底辺に呻吟(しんぎん)し、やむに已まれぬぎりぎりの生存上の必要から移動せざるを得なかった非農民、アウトローの群れであり、再会した猪熊は国家の秩序から零れ落ちた無惨な犯罪者に堕していた。その死と相対峙した猪熊を空也はわが身に換えて救おうとする。若き日のあの時助けてくれたから、「市の聖」と慕われる今の自分がある。今度は自分が猪熊を支えるのだ……と。

 
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2014.06.06 「政(まつりごと)の栄枯盛衰や一家の毀誉褒貶に惑わされるな」
〔書評〕浅田次郎著『黒書院の六兵衛』(上・下) (日本経済新聞出版社、各¥1500+税) 

雨宮由希夫 (書評家)


慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府軍に引き渡された。15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて逃げ帰ってきてから丁度3カ月目のできごとであった。城主たる徳川将軍家に成り代わり、接収に立ち会ったのは御三家筆頭の尾張藩であった。本書はこの史実を題材にした歴史・時代小説である。

 本書には主人公が二人いる。一方の主人公は、江戸城明け渡しに先んずる官軍の俄(にわか)隊長を命ぜられた尾張徳川家江戸詰徒組頭(かちぐみかしら)・加倉井隼人である。たまさか勝海舟と西郷隆盛の談判が成り、江戸は不戦開城と決した。その江戸城に異変がないかどうか偵察して来い、というのが官軍のお達しである」というのが本書の設定である。

尾張藩士でありながら、官軍の洋式軍服と赤熊の冠り物を着用させられ、「官軍将校」として江戸城に送り込まれた加倉井は、西の丸御殿で、旧幕側の代表たる勝海舟に会い、勝から、「実はこの西の丸御殿の中に“江戸城明け渡し”をどうしても料簡できぬ侍がひとりだけおる」と告げられる。その侍こそ、本書のタイトルとなっている「黒書院の六兵衛」こと、直参旗本で御書院番士の的矢(まとや)六兵衛、もう一方の主人公である。

御書院番士の多くは上野寛永寺大慈院に蟄居(ちっきょ)謹慎している慶喜の警護に当たるか、あるいは「脱走」して東北戊辰戦争にかかわるか、彰義隊として上野の山に立て籠もるかで、幕臣としての意地を見せているが、六兵衛はそれらいずれの道をも歩まず、開城談判が成った途端、ひたすら御城内の持ち場である宿直部屋にじっと座りはじめ、梃子でも動かない。六兵衛の「沈黙の反乱」はいつ果てるともなく続く。

六兵衛が踏ん張っている限り、西郷隆盛との開城談判が成ったとは言い切れない。力ずくで事を運べば、西郷との談判の信義に悖(もと)ると考える勝は、六兵衛の一人の稚気によって江戸が戦場となるやもしれぬとやきもきする。当初はさしたる「異変」でもないと軽視していた隼人であるが、六兵衛をいかにスムースに城内から撤去願うかが隼人に課せられた任務となる。
 
史実にはない滑稽なフィクションとしてかたづけることは容易であるが、まずもって、主人公二人の人物造形が並はずれていることに作家の意図を感じねば、浅田次郎が仕掛けた創作世界のレトリックと対峙することはできない。
加倉井隼人は「官軍将校」だが、「寝返った尾張の侍」であるということ。

 幕末史は尾張藩及び第14代藩主徳川慶勝(よしかつ)の寝返りで、倒幕から討幕へと一気に流れが加速したといっても過言ではない。御三家筆頭たる尾張大納言家はそれほどまでに幕末政治に絶大なる影響力を保持していたのである。しかも、慶勝は会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)、桑名藩主で京都所司代の松平定敬(さだたか)の実兄であり、最後の将軍慶喜の従兄でもあった。
戊辰戦争勃発以前は江戸詰の尾張藩士として名古屋城以上に江戸城に徳川氏の居城としての親しみを感じている隼人は、慶勝のような人物を将とした組織に組み込まれて生きなければならないのである。なお、城山三郎に慶勝を主人公とした歴史小説『冬の派閥』(昭和57年刊、新潮社)があり、慶勝をリーダーに仰いだ幕末の尾張藩の命運、悲喜交々が描かれている。併せ読みたい。
 
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2014.05.03  信長・秀吉・家康の時代、九鬼守隆の水軍とその目に映った三人を淡々とした筆致で描いた
〔書評〕加藤 廣著『水軍遙かなり』(文藝春秋、¥1850+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 
 近世への幕開けをめざした信長にとって、最大の敵は武田氏でも毛利氏でもなく石山本願寺であった。中世的権威を振りかざす本願寺第11世宗主・光佐顕如は石山本願寺を拠点に信長包囲網を敷き、各地で一向一揆を蜂起させた。天下布武の旗を掲げる信長と顕如の石山合戦は前後11年の長きにわたった。

 本願寺救援の毛利水軍のために散々な敗北を喫した織田水軍であるが、信長の命により巨大な鉄甲船(てっこうせん)を作り、毛利水軍を破るのに大貢献をした人物こそ、九鬼 嘉隆(くき よしたか)(1542~1600)である。熊野の別当・湛増(たんぞう)の末裔と言われる嘉隆は信長・秀吉時代を生きたが、関ヶ原の戦では西軍に与して東軍に与した嫡子・守隆(1573~1632)と干戈を交え、戦後、自害している。

 歴史小説であるこの物語は、天正7年(1579)1月、「我は海の子」、海を眺めるのが大好きな8歳の守隆が、世界の果てはどうなっているのだろうかなどと水平線の彼方を見つめていると、第二次木津川口の戦いに勝利した父嘉隆が鳥羽に帰還したことを告げるべく九鬼家の家臣が少年守隆のもとにかけつける~というシーンに始まる。そして、慶長20年(1615)7月、守隆が「そなたと二人きりで、この国のありようを腹蔵なく語りたい」という大御所家康の要請を受けて海路駿府を訪ね、「家康の海外進出戦略論」を拝聴するところで終わっている。

 このように、本書の主人公は嘉隆ではなく、関ヶ原の戦後、鳥羽藩5万6石の初代藩主となる九鬼守隆なのである。九鬼家の当主として、嘉隆は信長・秀吉に仕え、守隆は家康に仕えた。信長・秀吉・家康と、中央の情勢が劇的に転換する中で、「伊勢志摩という小宇宙」の一領主にすぎなかった九鬼氏が水軍を率いて時に翻弄されながらも、中央情勢についての諜報活動などを駆使して身を処すべくいかに立ち向かったかを描いている。

 天下人三者三様それ自体を主人公とした歴史小説は数多いが、彼ら三者とかかわりをもたざるを得なかった人物を前面に押し出した作品は珍しい。作家は「定説」となった戦国時代晩期を今までと違った角度から俯瞰しているともいえる。

「定説」への懐疑、否定はまず「鉄甲船」である。
 天正6年(1578)11月、石山合戦のターニングポイントとなった第二次木津川口の戦いで、嘉隆は大鉄砲を搭載した鉄甲船6艘を率い、毛利水軍を撃破したことは史実であるが、鉄張りの船の詳細は詳らかではなく、未だ定説を見ていない。

  この鉄甲船問題の真実究明に作家がいかにたちむかっているのかは本書の読みどころの一つであるが、作家の視点は、むしろ、黒潮の3大難所である熊野灘・遠州灘・相模灘の実状を把握していた九鬼水軍が黒潮の激流がもたらす危険を熟知し、航海技術や造船技術で瀬戸内水軍など他の水軍より抜きん出ていたことに着目している。

 いわゆる戦国3大英傑の時代において、本能寺の変と関ヶ原の戦は当時を生きた武将たちにとって避けて迂回することのできない人生の岐路であった。いずれの側に就くべきか、仕える主人の選び方次第で浮沈を味わうことになる。
「信長は非情の将ではあるが、九鬼一族にとっては杖とも柱とも頼む」存在であった。「水軍がまだ海賊呼ばわりされている頃、嘉隆を全国区に引き出し、『水軍』として売り出してくれたのは信長」であり、その信長軍団の中にあって、嘉隆は「古豪・村上水軍を傘下に従えるような日本一の水軍の大将になる」ことを夢見ていた。

 その信長が天正10年(1582)6月、本能寺の変で「消えた」。
信長から秀吉へ————。無人の地を行くように天下人への坂を駆け上る頃の秀吉はともかく、変直後、信長の後継者の地位を掴もうとする頃の秀吉と嘉隆の関係は、九鬼家内部のいざこざへ関与する瀧川一益、本能寺の変の真相を知っていたのではないかとみられる家康との複雑な絡みもあり、読み応え充分である。

 山崎の合戦で嘉隆は秀吉の九鬼水軍出動要請に即応していない。家康に就くべきか。秀吉か。この段階で嘉隆が家康を仕えるべき主人の選択肢のひとつとする情況情勢の造作は作家・加藤廣の独壇場である。
 なおまた、『信長の棺』『秀吉の枷』などの読者であれば先刻承知のことであるが、信雄・信孝の出生順序、秀吉の出自、「お国替え」に潜む秀吉の家康追放作戦、淀の方の不倫と鶴松誕生の奇妙な噂などなど、加藤廣の秀吉を巡る「数々の不思議」に対する視点がとてつもなく新鮮かつ愉快である。

 心ならずも秀吉政権にとりこまれた嘉隆は外様であり、「豊臣水軍の中における自らの位置の低さ」を思い知る。秀吉は豊臣水軍のメインに村上水軍を考えていたのである。
 天正18年(1590)の「北条攻め」で、瀬戸内の水軍は「10年前の瀬戸内の海戦で、九鬼水軍の『鉄甲船』にダマされ、敗戦の煮え湯を飲まされた記憶を忘れておらず」、九鬼水軍を「成り上がりの水軍」と蔑んでいる。
嘉隆は慶長2年(1597)の第二次朝鮮出兵の慶長の役には出陣していない。「参加を許されなかった嘉隆は、これを恥として」、家督を守隆に譲って隠居した。

 秀吉から家康へ————。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際しては、「水軍について、家康が信長、秀吉にはないものを持っている」、ゆえに「徳川さまについていく」という守隆の主張が通り、「九鬼水軍の徳川方への参加が正式に決定」する。しかし、隠居の身でありながら、嘉隆は独断で九鬼水軍の帰属先を大転換してしまう。その挙げ句に、守隆に「父の自決という悲劇」がもたらされる。九鬼父子の選択は、どちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったとする説があるが、「この世の権力闘争の難しさを思い知った」はずの嘉隆にとっての大誤算は、関ヶ原の戦が「わずか二刻(4時間)」で決着してしまったことであろう。ちなみに、山崎の合戦にいたっては「わずか一刻(2時間)」であった。

 本書は海賊大名の異称をとった父子鷹の物語である。むすこの守隆にとって父嘉隆は「根が仕事好き、それも戦(いくさ)大好き人間の困った父」であり、嘉隆が「ただの荒くれ男」でないことを知っている。一方、嘉隆にとって守隆は「自慢の息子」であり「トンビが生んだタカ」であった、と作家は人物造形している。ほほえましいほどの父子愛ではないか。

 その守隆の眼に映った3人の天下人の殿(しんがり)に登場するのは、家康である。
 将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府から万事一切に目配りした晩年の家康が、守隆に語りかける「この国のありよう」に、読者はこれが家康か、と驚くであろう。概して傭兵的な性格が強かった水軍を、「陸の軍団と切り離した独自の軍団と認め、将来の南蛮水軍の襲来に対処しようとした」のも家康であるという。新しい家康像の創出である。

 中世、「海賊衆」と呼ばれた「水軍」は江戸時代の「船手組」を経て、近代以降の「海軍」となる。家康による海洋国家日本の未来図を思い描くと、鎖国下の日本が外洋航海を習得する機会を喪失せしめ、造船技術が貧弱になっていったことが惜しまれる。もし仮に家康があと10年健康を保持してくれたなら、と夢想させる。まさに「水軍 遙かなり」。

 寛永9年(1632)に守隆が死去すると家督争いが起こり、幕命によって鳥羽藩九鬼氏は2分割され、丹波綾部2万石と、摂津三田3万6千石に転封され、家名は明治まで残るが、九鬼水軍は滅びる。
 信長・秀吉・家康の時代を生きた九鬼守隆の生涯を描くとともに、守隆の目に映った三人の天下人を描いた本書は、淡々とした筆致でものされた味わい深い一冊である。
               
2014.04.16  幕末維新の波間で押し流されつつも下町で懸命に生きる姿を活写する
 〔書評〕河治和香著『どぜう屋助七』(実業之日本社、¥1600+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 表紙のカバーの装画が美しい。左に白富士、右に五重塔、「どぜう」の赤提灯と柳が揺れる大空に、広重の『名所江戸百景』「駒形堂 吾嬬橋(あづまばし)」から抜け出てきた時鳥(ほととぎす)が舞うように飛んでいる。
浅草・駒形にある老舗「駒形どぜう」は江戸時代から 210余年続くドジョウ屋だが、本書はその「駒形どぜう」を舞台に、3代目当主越後屋助七こと渡邉元七を主人公にした歴史時代小説である。

 安永5年(1776)、武蔵国北葛飾郡松伏領(まつぶしりょう)広島村 (現在の埼玉県吉川市南広島)に生まれた助七は、 寛政の頃、江戸へ出てきて丁稚奉公を務め、享和元年(1801)、浅草の駒形にドジョウ汁の一膳飯屋を開業した。店の前の道は浅草寺への参道であり、吉原への道でもあり、また水戸や奥州へと続く街道でもあった。

 ドジョウは旧仮名遣いでは「どぢやう」と書く。 四文字は「死文字」に通じ、偶数は忌み嫌われたことから、 縁起のいいとされる奇数の「どぜう」を思いついた 助七は、店の戸口にかけた五巾(いつはば)の暖簾の真ん中に、太々と「どぜう」と染め抜いて掲げたところ、これが受けた。
この店では代々当主は〈越後屋助七〉を名乗ることになる。

 主人公3代目助七の生きた時代は幕末維新である。世の中は黒船来航に始まり、安政の大地震、コロリ騒動、雷門火事、御一新と目まぐるしく動いていく。殺伐とした雰囲気の中、3代目を核とした親子3代の〈助七〉が店で働く雇人たちと力を合わせながら、食い物商売である家業を守り立てていくというのが、ストーリーの大筋である。

 嘉永7(1854)年4月、黒船の再来航で騒然となる江戸は浅草、駒形の“どぜう屋”を16歳の田舎娘、伊代が訪ねてきたところから物語はスタートする。江戸近郊荏原郡世田ヶ谷村小山で育った伊代には、浅草で耳目にするものすべてが新鮮で戸惑うことばかりだった。
 浅草寺は〈かんのんさま〉、駒形堂は〈こまんどう〉と土地の人々は愛着を込めて発音することを伊代は知る。また当時、店の前には牛馬を繋いでおくための専用の柵があり、牛馬の糞尿を片付ける専従の者がいて、これを〈牛番〉といったが、これも伊代の仕事の一つとなる。
かく言うと、あたかも伊代が主人公のように思えるがさに非ず。伊代がどのような生涯を送ったかは、本書を読んでのお愉しみである。なお、伊代には後に新選組隊士となり「明治維新」のドサクサで悲劇的な最期を遂げる信太郎という兄がいて、時代背景をより鮮明にしているとだけ紹介しておこう。

 元七の妹で駒形小町と異名をとるヒナは店の看板娘。元七、ヒナの父親で先代助七の平蔵。別居中の柳橋の芸者だった元七の妻、登美。登美との間にできた倅の七三郎が元七の家族である。女中頭のハツ、実直な煮方の巳之吉(みのきち)などの奉公人も個性的。ヒナに岡惚れしている火消し〈と組〉の銀次、大のどぜう汁好きの伝法院の宗圓僧都(そうえんそうず)など店に集う人々の生きざまも面白いが、意地を張りあう親子三代の意思疎通の悪さがおかしい。

 隠居の平蔵は養子であることからなんでも保守的で、実直に家を守りたい一心から時に堅実な訓示を垂れる。元七はそのような平蔵の消極的な態度をもどかしがって反発する。客観的に物事を進めようとする元七の倅(せがれ)七三郎は、時として肝心の店の仕事はほったらかしにしては線香花火のような思いつきで行動する極楽とんぼの父元七よりも堅実な祖父平蔵になついている。

 「親が子にしてやれる最後のことは……我慢することだよ」とは平蔵の言葉である。何と味のある言葉であろうか。それにしても、この時の平蔵はまさか子の元七に先立たれ、孫七三郎(4代助七)の後見役として、隠居の身でありながらまた店先に立つことになるとは思ってもいなかったにちがいない。

 まぶしいまでの生命力、したたかな江戸っ子の生きざま。読み出したら止められないのは、浅草の往来の喧騒と息吹、江戸の下町に生きる人々の息づかいやにおいまでが感じられ、「『親の意見と冷や酒はあとできく』って教えてやりゃあよかったなぁ」といった江戸っ子の言葉が聞こえてくるからである。

 酉(とり)の市や三社祭(さんじゃまつり)といった江戸情緒をくすぐる行事の描写もあるが、何と言っても登場人物の造形の巧みさが物語を盛上げている。作家は人間を描いている。
 実は元七はたいした趣味の持主なのである。粋な新内流しであるとともに、剣は浅蜊河岸の鏡心明智流、桃井(もものい)春蔵の道場〈志學館〉に通って道場目録の腕前である。生半可なものではない。
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