2014.12.24  書 評  近藤誠氏のがん治療関連著作
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

近藤 誠著『抗がん剤は効かない』(文芸春秋、2011年)、同『がん治療で殺されない七つの秘訣』(文春新書、2013年)、同『がんより怖いがん治療』(小学館、2014年)
1990年代初頭から現代のがん治療にたいする疑念表明と問題告発を続けてきた放射線医師、近藤誠氏の最近の著作である(初期の著作は、1994年に発刊された『がん治療「常識」のウソ』朝日新聞社、1996年に発刊された『患者よ、がんと闘うな』文藝春秋)。近藤氏の著作は相互に重複する部分が多いが、最新著『がんより怖いがん治療』は、定年まで勤め上げた慶應大学を退職した後に書かれたもので、かれこれ20余年間に、大学や学界から受けた圧力や嫌がらせを詳細に記述したところが、これまでの著作にない部分である。
 以下、近藤氏の主張の主要部分を私なりに解釈・紹介しつつ、私見を記したい。

抗がん剤はなぜ効かない
 心臓から送りだされる人間の血液は40秒前後で体を一巡する。だから、点滴された抗がん剤もまた、40秒前後で体をくまなく巡る。薬剤ががん組織に長時間、留まることはない。とくに血流が激しい肝臓や肺などの臓器に薬剤が留まることは難しい。がんの種類ごとに、抗がん剤は多数存在するが、どの抗がん剤をとっても、どれほどの分量が腫瘍組織に入り、そこにどれほどの時間留まるのかについて、誰も答えることができない。確かなことは、抗がん剤という毒薬が体全体に散らばることだけである。要するに、がん組織に薬剤が効く効率は非常に悪い。だから、抗がん剤を体内に入れれば、健康組織が壊れるか、がん組織が壊れるかの競争になる。
 抗がん剤が直接作用する白血病や悪性リンパ腫のような血液がんに抗がん剤が有効なことは理屈に合う。しかし、幼児期の白血病が「寛解」と判断されても、成人した後に抗がん剤使用の副作用が出る事例が報告されているから、抗がん剤という毒剤を体内に取り込むことは、「寛解」と判断されても、完全に無害で副作用がないとは言えないのだろう。
 抗がん剤の効率性の悪さから、「分子標的薬」と称した抗がん剤の開発が進められているが、実際のところ、がん細胞だけに作用する抗がん剤は存在しない。「分子標的薬」も劇薬指定されており、肺がん治療の「夢の」分子標的薬と宣伝されたイレッサが、死亡事故を起こして訴訟問題になっていることは、周知の事実である。
 近年、抗がん剤の使用を拒否する人々が増えている。補完的な治療法や統合治療、あるいは生活の質(QOL、quality of life)を重視する考え方が、医師の間でも広がりつつある。「がんは縮小しました、しかし患者は苦しみながら亡くなりました」というのでは、本末転倒の医療行為だからである。

「がんもどき」論
 良性腫瘍と悪性腫瘍(がん)の区別は簡単ではない。良性腫瘍とは転移しない腫瘍であり、自然に消滅するものもある。人間の細胞の生成(DNA転写)過程において、転写ミスがそれなりの確率で生じることが知られている。加齢とともに転写ミスの確率も高まるが、免疫システムが有効に機能していれば、転写ミスによる細胞変異が淘汰され、生体機能を脅かすことはない。しかし、免疫システムが弱化し、変異した細胞を淘汰できなくなれば、それが制御不能な悪性腫瘍に転化すると考えられる。
 さて、問題はここから始まる。現代のようにがん検診制度が盛んになると、良性か悪性かの区別ができないまま、腫瘍が発見されればすぐに治療が開始される。組織の病理検査のために生体検査が行われる、あるいは良性腫瘍でも、一定の大きさがあれば、医師はすぐに手術や抗がん剤治療を勧める。ほとんどの人は「まだがんが小さいうちに治療するのが最善」と考えるが、治療が不要なものに手術や抗がん剤を施せば、副作用に苦しむことになる。
 近藤理論の一番重要な点は、転移しない良性腫瘍は治療しないで、放置しておくのが最善の治療法だという点にある。このような転移しない良性腫瘍は「がんもどき」と名付けている。「がんもどき」は治療する必要はなく、可能な限り、副作用のない治療法や対症療法で十分だというのが、近藤理論の核心である。

検診不要論
 近藤理論が医学界に与えた最大の脅威の一つに、「がん検診不要」論がある。現代の医療ビジネスの中で、「がん検診」の占める位置は大きい。ところが、近藤理論を認めれば、がん検診は無駄だということになる。なぜなら、転移する悪性腫瘍であれば、検診で発見される大きさになるはるか前に転移が始まっているから、発見部位を治療しただけでは、がんを治療したことにはならない。また、検診によって、良性腫瘍に不要な治療が施され、それが生活の質を下げたり、治療の副作用によって、かえって健康を崩してしまう可能性がある。
 最近の欧米の研究では、種々のがん検診で、検診を受けたグループと受けなかったグループの間のがん死亡率に、有意な違いが認められないと報告されている。ところが、日本では、逆に、検診対象のがんの範囲を広げる方向に進んでいる。
 近藤氏が「がんもどき」論を発表された後に、所属の慶応大学医学部教授会から論文撤回・謝罪を求める働きかけがあり、近藤氏が対応に苦慮した状況が詳細に描かれている。幸い、暗黙の辞職勧告はあったが、暴力的に近藤氏の言論活動を圧殺することはなかった。不遇の中の唯一の救いである。

がんは局所的な病ではない
 近藤氏の「がんもどき」論は、がんという疾病の本質を突いている。「がんもどき」論を別の形で表現すれば、「がんは局所的な疾病ではなく、生体の組織全体にかかわる疾病である」と言い換えることができる。もしがんが局所的な疾病であるなら、その部位を治療すれば済むが、そうでないところに、がん治療の難しさがある。
 もし良性腫瘍であれば、これは局所的な疾病だから、全身に毒を入れるような抗がん剤治療は百害あって一利なしだ。腫瘍が大きくなって生活に不都合が出た段階で、対症療法的な治療を施せばよい。
 ところが、悪性腫瘍の場合、発見された時にはもうすでに転移が始まっているから、局所的な治療では治療の効果は期待できない。ただ、この場合も、転移がすぐに生命を脅かすことはなく、生命維持の中枢臓器の機能が弱り始めてから、生命が脅かされる危機段階に入る。問題は、転移が確認されたらすぐに抗がん剤治療を始めるべきか否かである。近藤氏はもちろんこの段階でも、抗がん剤や外科手術のような標準治療が延命効果をもつとは考えない。逆に、苦しむ時間を増やすだけだと考える。
 それなら何もしないのだろうか。これまで、近藤氏は相対的に副作用の小さい放射線治療を勧めてきた。しかし、近藤氏は今その放射線治療からも撤退している。それほど優位点が認められないからである。
 近藤氏がもう一つの代替療法と考えているのは、焼灼(しょうしゃく)法である。近藤氏はこの分野に明るくないらしく、「ラジオ波による焼灼法」で具体的な何を指しているのか説明していない。
 いずれにしても、がんが局所的な疾病でないとしたら、腫瘍組織が一時的に縮小したことだけで治療の効果を測るのは、まったく無意味だ。局所的治療で転移を留めることはできないし、抗がん剤を止めれば再び腫瘍が大きくなる、あるいはいったん外科手術で除去したはずの腫瘍が再発する。このため、最近では、免疫療法を謳う治療法が幅を利かせるようになっている。自らの血液を採取して培養し、癌細胞にたいする抗がん細胞を増殖してから、再び患者の体内に戻す免疫治療法だ。しかし、現在のところ、それほど成果がでていない。免疫療法のみならず、最新治療と称するもののほとんどが非常に高価で、その割に効果がないのが現状である。

がんとどう向き合うか
 一昔前は、がんと診断されると人生の終わりだと思われたが、今は患者の考えも変化しつつある。若い人が悪性腫瘍に罹患するのは悲しいことだが、年配者ががんと診断されても、無暗に悲しむことはない。人の死はいろいろある。交通事故で突然亡くなることもあれば、くも膜下出血、脳溢血、心筋梗塞で突然に死ぬこともある。徐々に命を失っていくのが良いのか、突然に命を失うのが良いのか、人それぞれに思いは異なるだろう。しかし、少なくとも、突然に亡くなるより、一定の時間的猶予があり、残された時間のなかで人生を整理し、必要な事柄を家族に伝えて死んでいく方が、本人だけでなく家族にとって幸せではないだろうか。突然に失われた命には、常に後悔が伴う。
がんという疾病が加齢に伴う必然的な現象だとすれば、それとどう付き合っていくかという人生観や終生観が必要なだけだと思う。少なくとも、生命維持にとってクリティカルな臓器に転移し、その状態が悪くなるまで、がんは人を殺さない。治療で苦しんでも治るなら良いが、治療しても生きる時間が限られているなら、もっと生活の質を維持して死にたい、無駄な手術で苦しむことを避けたいと考えるのは、自然なことである。
 近藤氏は、本物のがんなら、早期に発見されるよりは、末期に発見された方が良いと主張する。ぎりぎりまで人生を全うすることができるし、緩和ケアを行えば老衰のように死を迎えることができる。すべてがそういう訳にはいかないだろうが、大切なことは、がんという病にたいする理解を深め、がん治療にたいする明確な意思をもつことである。

温熱療法の可能性
 近藤氏は大学を定年退職して、「セカンドオピニオン外来(http://kondo-makoto.com/)」を開いた。治療をおこなわず、がん患者への相談とアドヴァイスを行っている。既述したように、近藤氏は一定の留保を付けて、焼灼法の有効性を認めている。ただ、その内容が明瞭でない。
 焼灼法は対象部位を焼き切る技術である。広義にはアブレーションと呼ばれる高温による組織の焼灼技術であるが、腫瘍の焼灼に有効なのは、腫瘍に複数の電極を挿入して、直流(ガルバーニィ)電流を流して腫瘍部位を焼き切る方法である。体内の腫瘍組織を焼く場合には開腹手術が必要だが、これは患者に大きな負担を与えるし、悪性腫瘍が局所的なものでないとしたら、腫瘍部位を組織破壊(ネクローシス)しただけでは外科手術と同じ効果しかもたない。ここにも、がんという疾病の難しさを見ることができる。
 がんに侵された組織を熱で破壊するという医療行為は、ヒッポクラテスの時代から存在するもっとも古いがん治療法である。中世では焼きごてを表面がんに近づけて、放射熱で治療する方法が存在した。しかし、電磁気理論が確立される19世紀までおよそ2500年間、温熱療法はプリミティブな域を出るものではなかった。現在もなお、プリミティブな理解が蔓延している。
 現代の温熱治療は、開腹することなく、体内の腫瘍組織に熱を発生させることを目的としている。しかし、悪性細胞のみに熱を作用させるという集束性の実現は、技術的に非常に難しい。日本のメーカーが京都大学工学部の先生方と30年前に開発した高周波温熱がん治療器は、がん組織を高温で組織破壊(ネクローシス)するものだが、高い出力は患者に大きな負担を与え、かつ周辺組織をも熱してしまう。また、腫瘍組織近辺の温度を測定するために温度センサーを刺し込むことを奨励している。ハンガリーの物理学者サース・アンドラーシュが開発した加温技術(オンコサーミア)は低出力・非侵襲的な方法で、がん組織への熱エネルギーの集束性を高め、がん細胞のアポトーシスを誘発する手法である。体に優しいがん治療器として、世界30カ国で治療に使われている*。
 がん治療に奇跡的な手法は存在しないが、自然の摂理にかなう方法で、がん細胞のアポトーシスを促す温熱療法は、痛みを和らげる副作用のない治療法である。アポトーシスの復位が、免疫効果を活性化させることも分かっている。このような体に優しい現代技術に、もっと注目すべきだろう。近藤氏にもこの分野への視野を広げてもらいたいものだ。

 * 千葉大学付属病院では2年前から末期の食道癌患者にたいするオンコサーミア温熱治療の臨床研究が行われている。また、来年2月からは富山大学付属病院で、呼吸器系腫瘍、消化管・消化器系腫瘍、乳癌・産婦人科系腫瘍、耳鼻咽喉科領域の腫瘍、整形外科領域の5つの診療科で、臨床研究が始まる予定である。
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2014.12.22 書評 鳴神響一著 『私が愛したサムライの娘』 角川春樹事務所
2014年10月8日発行  ¥1500E

雨宮由希夫 (書評家)

 物語の主要舞台は八代将軍徳川吉宗(よしむね)治世下の長崎。尾張徳川家に仕える甲賀・忍者の雪野(ゆきの)は七代尾張藩主・徳川宗春(むねはる)の密命を帯びて長崎の出島に潜入する。丸山遊郭の太夫・滿汐(みちしお)と名を変えた雪野の任務は出島蘭館の医師・ヘンドリックを彼女自身の肉体で籠絡することにあった。
運命的に出会った雪野とヘンドリック。やがて二人は互いに惹かれあい恋に落ちてゆく……。
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以上が大まかなストーリー展開であるが、この時代小説は作家による周到かつ実に興味深い構想のもとで描かれている。
まず、この小説はジャンル的には〈忍者もの〉時代小説と位置付けられるであろう。忍びとは文字通り人としての感情を耐え忍んで生きるものと教わって育った雪野。忍びとして生を享けた女は忍びとして生き忍びとして死ぬのが忍者の掟であるが、雪野は愛に目覚め、真実の愛を知ってしまった。運命を受け入れて与えられた場所で精いっぱい生きようと思っていた雪野の心が揺れ動く。〈忍者もの〉時代小説の面白さの一つは主人公の超人的な忍者としての活躍にあるが、一途な女忍びの哀しみと虚しさ、運命の変転を観るのも、また一つの面白さである。
しかし、本書の醍醐味は「忍者」のみにとどまるものではない。「吉宗・宗春の時代」と「長崎」を組み合わせて題材にしたことが本書を魅力ある作品に仕上げた最大要因である。一般には大岡忠相との名コンビで〈名君〉とされる吉宗に対し、吉原での遊蕩生活など不羈奔放に生きたという宗春。幕府と尾張藩の確執と争いを背景とし、宿命のライバルとしての二人を対比して多くの小説が書かれてきたが、本書では「長崎」が絡んでくるところが出色である。
「長崎」は古来より対外交易の窓口としてまた架け橋として大きな役割を果たしてきた。江戸時代、天領としての長崎は鎖国政策下において異国との交易を許された貿易都市であり、来日した異国人相手の遊興都市でもあった。長崎の丸山遊郭は江戸の吉原、亰の島原など日本の他の地域の遊郭と較べて決定的な違いがあった。娼妓を異国人に提供する性格を帯びた長崎の丸山には「唐人行」「阿蘭陀行」「日本行」の名称がある遊女が存在した。〈奉公対象〉別に特定の名称で呼ばれた彼女たちと異人たちの交感が長崎独特の艶めかしい光景とエキゾチックな風景を生みだしたのである。また、一口に「長崎」といっても、江戸初期と江戸中期、幕末では長崎の面相はそれぞれ異なることはいうまでもない。「唐人行」はやがて「からゆきさん」となり、幕末明治の「洋妾」(ラシャメン)に引き継がれる。なおかつ、近世における長崎は多くの悲劇を生み出した漂流者の受け入れ窓口であったことも忘れてはならない。
「吉宗・宗春」「長崎」に加え、「忍者」「遊女」「漂流者」「異国人」のキーワードが軸となっている本書は、キーワード各自単独で時代小説が自在に描ける要素が渾然と溶け合い〈蜃気楼〉的世界を創り上げている。
「異国人」のヘンドリックは阿蘭陀人医師として登場するが、物語の進展で、丸山遊郭の太夫・滿汐が女忍び望月雪野の仮の姿であるのと同様に、出島蘭館の上外科医は仮の姿で、実はエスパーニャの情報将校で諜報員であると知れる。
ヘンドリックは滿汐の正体が尾張の忍者と知って衝撃をうける。一方、最初から遊妓として近づいた滿汐はやがて太夫としての擬態、忍びとしての忍辱、武士の娘としての誇り一切が剥がれ落ちていくのを感じる。互いに仮の姿であることを明かした二人は一対の生ある男女として互いを受け入れる……。
読者は、自分の血統をひた隠しにして日本に潜入した異国人として、この小説の時代から凡そ90年後の文政6年(1823)に、出島阿蘭陀商館付医師として来日し、日本人女性との間に女児(楠本イネ)を生したドイツ人シーボルトをヘンドリックに重ね合わせることができるであろう。
 この時代小説は単なる女忍びの物語ではなく、日本とイスパニアの諜報員同士のラブストーリーという形を取った異文化交流の物語として読める。
「漂流者」の嘉兵衛は伊丹の酒を積んで摂津北浜を船出して江戸を目指すも、遠州御前崎の沖合で大嵐に遭い漂流遭難した樽廻船(たるかいせん)の沖船頭。やっとの思いで帰還した嘉兵衛は国禁を犯すものとして捕らえられ、公儀目付方の手で葬り去られようとするが、宗春に救われる。宗春にとって嘉兵衛は海外事情に明るい貴重な人材であり、己れの野望実現のために必要であった……。
「宗春」は八代将軍吉宗の時代に政権転覆を狙った尾張藩主として、「吉宗」は海外侵攻の意図を抱く将軍として描かれる。「世を治めるには誰もが愉しみ、生き生きと暮らす世を目指すほかに途(みち)はない」と常に人の情を治世の要と考える宗春は質素倹約、質実剛健を標語とするばかりの吉宗による享保の改革の限界を痛感している。その上に、吉宗が海外侵攻の意図を抱いていることを察知するにいたり、宗春は「あんな男にこの国を任せておくわけにはゆかぬ。あまりにも窮屈な治世でこの国を疲弊させ続ける将軍家を弑する」と明言する。
かくして、幕府転覆を謀る徳川宗春の野望はオランダ商館医師・ヘンドリックに対し、驚くべき計画を持ちかける……。
作家による独自の宗春像は鮮烈である。宗春は尾張一国ではなく、日本という国を見据えていた為政者であるとし、「享保17年(1732)の時点で、宗春ははっきりと公儀転覆の考えを持っていたと思われる」とした上で、「仮に宗春が九代将軍となり国政に才覚をふるっていれば、江戸時代後期の歴史は大きく変わっていたはずである。あるいは、明治維新を待たずして、日本は近代国家への足取りを辿っていたかもしれない」と述べている。泰平の世に武力でもって天下を狙うなど時代錯誤も甚だしいとの批判もあろうが、このくだりは〈歴史エッセイ〉として留め置きたい。
時代小説における独自の人物造形に成功した「宗春」には雪野とヘンドリックにも勝る主役級の存在感がある。宗春との出会いが言葉も通じ合えない男女の遊興から始まった二人の運命をかえることになるのだから、それは当然のことであるともいえる。幕府転覆を謀る尾張藩主・徳川宗春に仕え暗躍した忍びたちの運命は、宗春の失脚によって文字通り運命づけられてしまうが、とりわけ、宗春の大望を実現するため己を捨てて戦った雪野の運命やいかに?
日本人の海外渡航が公式に解禁されるのは慶応2年(1866)のことであるが、鎖国時代下において、国禁を犯して、唐天竺南蛮に流れ出ていった長崎の遊女がいないはずはない。彼女たちの生き様を雪野の出国に重ね合わせたい。
鳴神響一(なるかみきょういち)は1962年東京都生まれ。デビュー作の本作で第6回角川春樹小説賞(選考委員 北方謙三、今野敏、角川春樹)を受賞。受賞時のタイトルは「蜃気楼の如く」であったという。鎖国下における日本とスペインの交渉など皆無に近いとするのが歴史の常識であろうが、蜃気楼のごとく確かにあったと作家は言いたいのであろうか。構想の斬新さ、奥行の深さ、人物を見つめ歴史をとらえる目の確かさを持った大型新人の登場に拍手喝采したい。
 (平成26年12月5日  雨宮由希夫 記) 

2014.11.22  書評『冬を待つ城』 安部龍太郎 著
雨宮由希夫 (書評家)

 九戸政実の乱とは今から約400年前、天正19年(1591)3月、南部氏一族の有力者で南部家の重臣九戸(くのへ)政(まさ)実(ざね)が、南部家当主南部(なんぶ)信(のぶ)直(なお)および豊臣秀吉に対して起こした反乱である。
 注目すべきは、この乱を平定するために、北条氏を滅ぼし天下統一を完成させたばかりの秀吉が軍勢15万を超える奥州再仕置軍を編成したことである。討伐軍は徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、石田三成、佐竹義重、蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)、浅野長政らの武将で編成され、伊達政宗、最上義光、秋田実季、津軽為信ら東北の諸将達も参戦を強いられた。なぜ秀吉は奥州最北端の小城一つを落とすのに、錚々たる歴戦の武将を駆り集めたこれほどまでの大軍を動員したのか。
 九戸政実は現在の二戸市に所在した難攻不落の九戸城(岩手県二戸市福岡字城ノ内)に5千の兵とともに籠城した。奥州再仕置軍は圧倒的な軍勢と装備を保持し、九戸城を完全に包囲しながらも苦戦を強いられた。しかし、乱の結果はあっけないものだった。同年9月、豊臣軍は謀略をもって政実を欺く。城を明け渡せば将兵の命は助ける、との豊臣軍の謀略により九戸城は落城。政実は降伏条件を真に受けて降伏したが、総大将・豊臣秀次の陣営にて処刑され、城内に残っていた城兵と婦女子は二ノ丸に押し込まれて撫で斬り(皆殺し)にされ、火をかけられた。助命の約束は反故にされたのである。
 九戸政実の乱勃発にいたる歴史背景を略述したい————。
 天正18年(1590)7月、豊臣秀吉は全国制覇の総仕上げとしての小田原攻めの後、奥州に下向、会津黒川まで陣を進め、世にいう「奥州仕置」を実施した。小田原に参陣しなかった大崎義隆・葛西晴信の所領30万石は没収され、秀吉の家臣木村吉清に与えられた。また、陸奥三戸城主の南部信直に対して、秀吉は検地や刀狩を強行するよう命じた。南部信直は秀吉の小田原攻めに際し北部奥州諸家でいち早く参陣し、その功により南部7郡を安堵されていたが、それ以前、南部領内に割拠する南部一門はほぼ対等で、合議によって統治を進める同族連合の状況であった。奥州仕置により秀吉が公認した南部信直を主君とすることにより同族連合は否定され、有力一族も宗家の家臣として服属することを求められた。妻子を人質に出し九戸城を破却して三戸城下に移るよう信直より命ぜられ、独立領主としての立場のすべてを否定された政実は反発し信直と激しく対立する。折しも、同年10月から陸奥国各地で、葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発していた。奥州仕置の名の下、領主の配置換えや検地などで奥州の制圧を進める豊臣政権の強引なやり方に反発した武士たちが一揆を結んで各地で蜂起した。政実はそうした一揆衆の側に立って挙兵したのである————。
 物語は天正19年(1591)正月、九戸城主の九戸政実が南部信直の居城三戸城で催される毎年恒例の新年参賀を欠席し、南部本家への反意を明らかにするところから始まる。
 本書の主人公は久慈四郎(くじしろう)政則(まさのり)。九戸家の四男で、29歳の時に九戸家と久慈家との関係強化のため久慈家の婿養子となっている。政則は南部家と九戸家との諍いが秀吉にお家取り潰しの格好の口実を与えると危惧し、兄政実の真意を確かめるべく、久慈(現・岩手県久慈市)から政実の居城九戸城に向かう。久慈から九戸城に至る山中の描写は雪深い奥州の厳しい自然の摂理を甘んじて生きる人々の生の姿を活写していて、巻頭より読者は安部龍太郎の世界にひきこまれるであろう。
 『蒼き信長』『天下布武』『生きて候』『下天を謀る』『レオン氏郷』『等伯』など戦国期を史材とした数多くの名作を著してきた安部龍太郎の描く「九戸政実」の安部たるゆえんのものは、九戸政実の乱を小田原攻めと文禄の役の間にある歴史事実を踏まえ、関白秀吉が九戸政実の乱の平定に15万もの軍勢を動員するという異常なばかりの掃討作戦を実施したのには、二つの意図がある、としていることである。
 ひとつは、「人狩り」つまり朝鮮出兵の際に人足とする者たちの徴用であり、もうひとつは、奥州の山々をしらみつぶしに調べて、硫黄の鉱山を探し当てることである。奥州仕置の陰のプランナーである石田三成が朝鮮出兵を見据えて、敵国にいるような想定のもとで訓練し、寒さに強い奥州の領民を人足として徴発するという周到な計画を立案していることを、政実がさる筋から知るにはじまり、この二つの意図が物語をラストエンドまで一筋の流れとなって引き継がれる構想は秀抜である。
 刀狩りで抵抗力を奪われ、検地の末に過重な年貢を課され、朝鮮出兵のために人足徴用されれば、奥州は疲弊のどん底に突き落とされる。関白秀吉の仕置を辞めさせるしかとるべき道はない。さもなければ、奥州藤原氏の頃に築かれた蝦夷の王国の伝統および連綿と受け継がれた奥州の大義が失われる。戦を避けなければ九戸家は滅ぼされるという危機感をいだくが、政実は蝦夷の誇りと奥州の大義を守り抜くことに命を賭ける。そこで九戸家の命運、奥州の命運を賭けて一揆の側に立ったのだ。
 狐が熊に勝つ方法は一つしかない。手の内を覚らせずに相手を攪乱し、とどめを刺せる場所まで誘き出さねばならない。狐の政実にとって、熊とは秀吉であり三成であって、南部信直ではない。信直は南部の漢であると政実は信じている。熊を斃すためには信直に手の内を明かすわけにはいかない。狡猾な秀吉は南部と九戸の共倒れを待っているのだ。
 戦いには勝てはせぬ。中央の強大な力に抗しきれず、滅ぼされることを政実は覚悟している。だが九戸城に立て籠もり、人狩りの中止を条件に和議を結ぶ他に道はなかった。秀吉が人狩りを中止し、家臣領民の命を助けるなら、城と所領と共に和議の引出物として九戸四兄弟の首を差し出すと決めている政実はただひたすら冬が到来し南部が雪に閉ざされるのを待つ。奥州を閉ざす厚い雪が東北の山河を最強の砦に変えるのだ。書名『冬を待つ城』の由来はここにある。
 終末の局面で、人狩りの中止を条件に和議を結んだと三成に覚られることを懸念する豊臣軍の大将・蒲生氏郷が、15万の大軍が何のためのものか、謀略の全てを南部信直に明かす。ここにいたって、信直は奥州の大義に殉ぜんとした政実の考えが正しかったと骨身にしみて分かる。死装束に身を包んだ政実と対面した信直が、南部のために起たねばならなかった政実の心中を思いやるシーンは本書最大の読みどころである。政実が南部の漢(おとこ)であるように、信直も南部の漢であったのだ。
 「日本及び日本人にとって、奥州とは何か、東北とは何か」が本書の主題である。
 安部龍太郎の確たる戦国史観に裏付けられ描写により、政実や信直がどのような生き方をしたのかが鮮やかによみがえる。
 平成7年(1995)、九戸城二ノ丸跡から斬首された女の人骨など十数体の惨殺死体が骨となって発見された。九戸政実の乱の犠牲者であることは明らかである(百々幸雄等著『骨が語る奥州戦国九戸落城』東北大学出版会)。
 臣下の礼など取った覚えもないのに、秀吉は最初から政実ら陸奥の武士の心など無視し陸奥を自分の領地と決めつけて「仕置」していた。「仕置」には罪人処罰の意味がある。政実らは罪人ではない。秀吉がしたことはまさにかつての内裏が蝦夷にしたことであり中央政府の理不尽さのあらわれである。坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征伐、源義家頼義父子の前九年の役・後三年の役、頼朝による奥州藤原氏の征伐等々、連綿と繰り返されてきた東北の悲劇は、九戸政実の乱の後、幕末維新の東北戊辰戦争へと繋がる。東北人は先祖と同じ戦いを強いられて古代から現代に至っている。
 九戸政実を描いた小説は数少ないが、先行作品として渡辺喜恵子の『南部九戸落城』(1989年刊)、高橋克彦の『天を衝く』(2001年刊)がある。それに安部の本書が加わった。三者三様の東北に寄せる思い入れが伝わる秀作であるが、奇しくも三者とも直木賞受賞作家であることも興味深い。三者による競演を併せ読みたい。
                  
新潮社刊 定価 ¥2000円 
2014.10.31 書評 安住洋子著『遙かなる城沼』小学館
発行年月日 2014年10月1日 定価¥1400E

雨宮由希夫 (書評家)


 江戸後期の群馬県館林(たてばやし)を舞台とした時代小説である。
 館林は躑躅(つつじ)の名所として知られる。県立つつじが岡公園には10万株40種類以上の躑躅の木が群生している。地元の人々が花山と読んでいるこの公園はこの物語では躑躅ヶ崎という名で描かれている。また利根川と渡良瀬川にはさまれた館林の低湿地には城沼(じょうぬま)、多々良沼、近藤沼などの小湖沼群がある。書名の『遙かなる城沼』の「城沼」とは固有名詞で、霊狐の導きで縄張りを行ったという伝説を持ち尾曳城(おひきじょう)の別名がある往時の館林城が天然の要害として利用していた城沼のことである。 
上野国館林藩(こうずけのくにたてばやしはん)の立藩は、豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に移封された徳川家康がその家臣で徳川四天王のひとりに数えられた榊原康政に館林10万石を与えたことに始まるが、5代将軍綱吉が将軍となる以前に藩主であったこと、また、6代将軍家宣の弟である松平清武を家祖とする越智松平家(おちまつだいらけ)が藩主であったことなど、小藩ながら徳川家と深い関わりをもった譜代藩であった。しかし、同一大名家による長期にわたる支配がなく、大名家7家が入れ替わり統治して明治維新を迎えている。
本書の主人公は村瀬惣一郎。館林藩越智松平家の下級藩士である村瀬源吾を父とする。惣一郎には芳之助、千佳の弟妹があり、母を含めた家族4人は尾曳城外堀近くの組長屋に住んでいる。組長屋には梅次、寿太郎という幼馴染がおり、住まいからほど近い城沼へはしばしば連れ立って遊びに行く。鷺が青く澄み渡る湖上を舞う城沼には青龍がいて城沼と館林を守っていると言い伝えられているが、若者は「心に青龍を持て」と育てられる。
 一歳年下の弟の芳之助は私塾から藩校、さらには江戸の昌平坂学問所に進むほどの秀才で家中の宝と将来を嘱望されている。そうした芳之助を寿太郎は妬み、喧嘩を売って、惣一郎から離れていく。気が強く女だてらに剣術道場や塾に行く妹の千佳も、惣一郎に長男としてのわが身のふがいなさを嘆かせる存在となっているが、悩みつつも、日々やれることを精一杯頑張ることが青龍につながるのだと惣一郎は自分に言い聞かせている。
平穏な日々を送っている惣一郎だが、藩の徒目付の職にある父・源吾には秘められた過去があった。かつて牢番の任にあった源吾は罪人の牢破りを許したことで責任を問われ家禄を減らされていた。 
 当時、巨額の借金にあえいでいた館林藩は財政難を解消すべく藩札を作ったが失敗していた。筆頭家老の岸田はその責任を兵頭実篤という学者一人に負わせ処刑しようとした。見かねた源吾は同僚の佐久間利文とはかり、家老の失政の責任を押し付けられた学者を逃がしてやったというのが事の真相であったが、  命と信念に関わることゆえに、父は多くを語ることなく、あえて汚名に甘んじ家族にさえ明かすことはなかったと惣一郎は知るに至る。なお、裏表なく穏やかで、いつも微笑みを絶やさない綾は佐久間利文の娘で惣一郎の大事な幼馴染でありやがて妻となる女性である。
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2014.10.09 〔書評〕山本兼一著 『修羅走る関ヶ原』 集英社
発行年月日 2014年7月30日、定価 ¥1800E

雨宮由希夫 (書評家)


『利休にたずねよ』(2009年第140回直木賞受賞作)や『信長死すべし』など数々の歴史・時代小説の名作を著した山本兼一は今年2月13日、病により57歳という若さで亡くなった。本書は山本兼一の遺作である。「小説すばる」2011年1月号から2012年11月号にかけて 連載された作品で、肺の病に冒されながら執筆され、作者の急逝によって、連載時そのまままの姿で刊行されたと知る。これが遺作かと寂しい気持ちばかりが先に立つ。 あまりにも早すぎる別れである。一字一句しっかりと噛みしめながら読了した。
 関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ヶ原町)は北方に伊吹、南方に鈴鹿の山系を控えた東西4キロ南北2キロの盆地であり、原野の中央を東西に中山道(東山道)が貫き、南北にそれぞれ伊勢街道、北国街道が走る要衝の地である。
慶長5年(1600)9月15日、この地で、世に言う「天下分け目の戦い」――関ヶ原の戦いが繰り広げられた。家康率いる東軍と石田三成率いる西軍のあわせて15,6万の将兵が真正面から激突した日本合戦史上最大の戦いを、「天下分け目の関ヶ原」と一言で片づけると、関ヶ原の戦いは家康の政権奪取という野望実現のための戦いとみられがちだが、本書、山本兼一の『修羅走る関ヶ原』は、そのわずか一日の戦いで決着してしまった模様を、修羅に生きた東西両軍の武将たちそれぞれの視点から描く。
 「目次」はなく、表紙扉をめくると「石田三成」と章立てされている。32章・視点人物17人の構成である。
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2014.09.29  書名『花くらべ』 著者 堀田あけみ 発売 日本経済新聞出版社           発行年月日 2014年8月5日 定価 ¥700E
雨宮由希夫 (書評家)

 6つの短編と1つの中編を納めた時代小説集。私は寡聞にして堀田あけみという作家の存在を知らなかったが、いずれも作家としての個性が光る作品揃いと言い得るであろう。
堀田あけみは『1980アイコ十六歳』で昭和56年(1981)、中村高校在学中に文学賞を受賞。17歳という当時の史上最年少の受賞であり、堀田は〈名古屋の天才女子高生〉として時の人となった。以来、堀田は堀田自身が育った名古屋を舞台とする小説を書いてきた。特に初期の作品には名古屋弁を使ったものが多いとのことだが、初の時代小説である本書でも名古屋弁がふんだんに使われている。
名古屋といえば、きしめん、ういろう、味噌煮込みうどん、そして「……だぎゃ、……だで」の名古屋弁。名古屋独自の事柄があふれている名古屋は明らかに東京とも大阪とも異なるが、京都ともまた別の文化圏を形成している。名古屋は信長、秀吉、家康と天下統一の英雄を出すことはあっても、歴史上一度も王城の地になったことがない。にもかかわらず、名古屋には京都、東京と較べて遜色ない雰囲気がただよっている。名古屋を東京、京都(西京)と並べて中京というのはただ単に名古屋が両都の中間に位置するからだけではないであろう。
名古屋を「中京」に押し上げた人物の筆頭として、徳川宗春(とくがわ むねはる)(1696~1764)をあげることは当を得ているであろう。御三家の雄、尾張徳川家7代藩主の宗春は8代将軍徳川吉宗の享保年間、質素倹約を強いるばかりの幕府に真っ向から対抗して、遊興を奨励するなどの大改革で、尾張名古屋に空前の繁栄をもたらした人物である。「遊芸、音曲は勝手たるべきこと、芝居興行も自由、遊郭も各所に設けよ」と、享保15年(1730)、宗春は藩祖以来禁止されていた遊郭の設置を認めたので、名古屋城下には全国から1000人を超える遊女たちが集まり、江戸、上方の役者が流入したという。
本書はその宗春治世下の尾張名古屋を舞台とした時代小説である。江戸でもなく、京・大坂でもなく、かといってまったくの田舎でもない尾張名古屋。町全体が未成熟であるにもかかわらず、宗春によってもたらされたバブルに沸く町の雰囲気や人が巧に描かれている。
主人公は尾張宗春時代に尾張に生きた女性たちで、当然ながら年齢も職業も背景も違う。
「花咲か」のヒロインは京の遊郭から尾張に流れてきた遊女・はなさき。愛想のない遊女であるが、京女は廓が公に認められた当初には最上級とされた。
「角の紅」のおさよは小間物屋の娘で、母に代って小間物を商う小店の店番をしている。
「葉桜」のおみねは遊女から菓子屋の後添いになった。
「徒花」のヒロイン桔梗屋のおれんは、わがままいっぱいに育った商家の娘。芝居の役者に恋をする。
「此岸の花」は材木屋を生家として裕福な娘時代を送り、武家の男に淡い恋心を抱いたこともあったが、いまは呑み屋を営む独り者の老女おうめが主人公。
「此の花咲くや」は「藻くぐり」とよばれる地元出身の比較的若い2人の遊女のライバル物語。三浦屋のことぶきともんじ屋のこのはなは、値が張るばかりと敬遠される京女にかわり、尾張名古屋で一番の美女を争っている。なお「藻くぐり」とは熱田の海から上がる脂ののった新鮮な魚になぞらえた言葉である。
 このように、短編のヒロインたちは商家の娘と遊女たちである。商家の娘も、今を盛りの娘から元娘まで、遊女も亰から流れてきた者から地元で育った遊女まで、と幅広い。彼女たちの世代の違いは深刻で、同じ宗春時代とはいっても、微妙な世相の違いに影響されて、それぞれの生き方があることを読者は知る。
 本書において宗春は様々な娯楽を尾張の町に呼び込んだ歓迎すべき「新しい殿様」として登場するが、やがて、遊興が日常茶飯事となり、若者の士気が格段に落ちるや、謹厳実直を旨としていた尾張藩の美徳を損なった殿様として批判されると造形されている。「公方様の怒りを買い藩主が変わり、名古屋は再び静かな町に」は宗春時代の終焉を意味する。
 名古屋を空前の繁栄に導いたが、風俗は紊乱。宗春は藩の士風は乱れたため、享保20年(1735)ごろ、乱れた藩の士風を引き締めるべく、藩士の遊郭出入りを禁止し、遊郭を整理するが、元文4年(1739)失脚、隠居を命じられる。享保の改革を批判された将軍吉宗の宗春への憎しみは深く、宗春の墓石には埋葬された死者が罪人であることをあらわす金網がかぶせられたと史書は伝える。
いちばん読みごたえがあるのは末尾に置かれた中編「花影」である。「花影」は6つの短編の集大成の意味を持っている。
「花影」のヒロインは、商家の娘でも遊女でもなく、しぶしぶ商家に嫁いだプライドの高い武家の娘・秋江(あき)。「町が華やぎ、町人、特に商家の羽振りが良くなった昨今」、尾張藩士である父・岡谷広之進の思惑で、有名な大店、長者町の呉服屋富士屋の跡取り息子・庄兵衛に嫁ぐ。たとえ商家に嫁いでも、心は武家の娘としての誇りを忘れまいと、心に決めていた秋江にとって、初夜の床で早々に眠ってしまい、婚礼の翌日には廓郭通いをする夫庄兵衛の行動は理解しがたいものだった。廓には初菊という馴染みの「藻くぐり」がいた。
一方、秋江には互いに惹かれあう従兄が存在する。尾張藩御台所奉行、橘源之助の弟の橘究(たちばな きわむ)である。究は部屋住みの次男坊。究は剣の道に励む男を武士の鑑と尊敬する女子こそが妻とするに相応しいと、自分の生き方を貫いているが、世の中は究の望まぬ方へ流れていく。武士の中にも、好いた惚れたを主題とする芝居や浄瑠璃にうつつを抜かしたり、遊郭に上がったりする者が現れ、また、殿様の宗春までが、それを奨励し、殿様の派手な出立を真似にする役者も出現する。
江戸時代、次男以下で家督を相続できない者を部屋住みといった。歴史の皮肉といおうか、宗春も吉宗も部屋住みであった。宿命のライバルである二人は相似した生い立ちを持っている。思いもよらぬ経緯から、ひとりは将軍の座に、もうひとりは尾張藩主の座についている。作家が橘究に同時代人の宗春と吉宗を投影している風はないが、歴史の背景を想いつつ、この物語を味わうことは愉しい。
秋江と究、従兄妹同士の恋情を冷めた眼で見る庄兵衛が運命を受け入れて精一杯に生きようとしている妻秋江の心と体を弄ぶシーンは底知れぬ不気味さがただよう。夫婦の交わりが頻繁ではない分、秋江の性の歓びは深い。喘ぐ妻を翻弄しつつ、「これで、しばらくは御無礼するでなも」と庄兵衛は事もなげに言い放つのである。現代では「さようなら」の挨拶言葉で常用される「御無礼する」という名古屋弁の使われ用に言いようのない深遠さを味わってゾッとする。
物語の進展に沿って次第に浮かび上がってくるものは女という性、女という生き方そのものであり、揺れ動く女心の絶妙な心理描写が作家堀田あけみの世界そのものといえる。
日経文芸文庫の一冊として刊行された本書は、「17年前に書いた小説の文庫化」である。単行本として本書は名古屋の海越出版社から平成10年(1998)4月に刊行されている。なお、宮城谷昌光を世に送り出したことでも知られる海越出版社は中京地区の文化のシンボルの一つとされたが、平成11年(1999)8月に自己破産している。
名古屋づくしの本書の帯に、「もう一つ、女の花を咲かさずにおくものか」とあるが、「女の花」は「名古屋の花」とも読める。思い入れたっぷりの「あとがき」「解説」も読みどころの一つである。
(平成26年9月13日  雨宮由希夫 記)
2014.09.06  書評『墨染の桜 更紗屋おりん雛形帖』  篠 綾子著 
雨宮由希夫 (書評家)

「将軍継嗣問題」といえば、江戸幕府13代将軍家定(いえさだ)の継嗣をめぐる政治的対立が想起されるが、実は幕政史上まことに有名な、というか奇怪な、もうひとつの「将軍継嗣問題」があった。
4代将軍家綱(いえつな)(3代家光の子)は多病にして世子がなかった。下馬将軍の異名を馳せた時の大老・酒井忠清(さかいただきよ)は「鎌倉幕府の先例にならい、有栖川宮幸仁(ありすかわのみやゆきひと)親王(後西院天皇の第二皇子)を京師より迎え、擁立せん」と画策したが、老中堀田正俊や徳川光圀らに阻まれ実現せず、かくして、5代綱吉(つなよし)(家綱の異母弟)が誕生するのであった。
この宮将軍擁立の一件は徳川幕府の正史『徳川実記』に明記されているにもかかわらず、歴史学の世界における研究者の多くは「確実な史料的根拠がない」、「信憑性に乏しい」、「ありそうもない話」、「風説にすぎない」、「後世の創作」として退けている。思えば不思議なことである。
 本書がこの4代家綱にかかわる将軍継嗣問題を史材とした歴史・時代小説であると知って一気に読んだ。
綱吉といえば元禄時代。元禄時代といえば赤穂浪士————。と歴史・時代小説の世界では相場が決っているが、綱吉の時代を舞台背景とするにあたり、家綱将軍継嗣問題から説き起こそうとする作家の視点は尋常ではないことにまず注目したい。
 時代小説である本書の主人公は作家が造形した京の老舗呉服商「更紗屋」のお嬢はん「おりん」であり、もう一人の主人公として「清閑寺家(せいかんじ)の熙姫(ひろひめ)」が配置されている。
 将軍綱吉の側室に大典侍(おおすけ)の通称で知られる女性がいた。勾当内侍(こうとうのないし)として宮中に仕えていたが、大奥総取締・右衛門佐(うえもんのすけ)の紹介で江戸へ下向して大奥上臈となり、その後綱吉の寵を受け、その側室となり、綱吉の死後、落飾して寿光院(じゅこういん)を名乗った人物である。「大納言清閑寺熙房(せいかんじひろふさ)の娘」であることは確実な史実であるが、本書ではその名を熙子(ひろこ)と名付けている。実在の人物「清閑寺家の熙姫(ひろひめ)」の生涯の進行が、本シリーズ「更紗屋おりん雛形帖」のストーリーの展開軸となるものと予想される。
おりんにとって清閑寺家の熙姫は身分こそ違えども、唯一の友と呼べる人である。有栖川宮家の縁者である清閑寺家への世間の風当たりは、将軍代替わりの直後は厳しかったし、清閑寺家に肩入れする更紗屋は将軍継承争いの後、羽振りが悪い。
延宝9年(1681)1月下旬。16歳のおりんが江戸へ旅立つことから物語は動き出す。おりんは6歳の時に母おいとを失い、つい先ごろ父吉兵衛をも失って、江戸にいる叔父善次郎を頼っての旅立ちであった。亰のすべてを捨てて、見たこともない江戸へ、おりんは歩き出す。
別れに際し、おりんが熙姫から譲り受けた「淡墨桜」の打掛は、おりんの亡き母おいと手作りの一品で、更紗屋から清閑寺家の熙姫に納められたものであった。
 ただ単に、亡き母が作った品というだけではない。熙姫が涙を呑んで手放し、おりんに譲ってくれた品であった。「これだけは何があっても手放さへん」とおりんは大切にするが、「淡墨桜」の打掛は数奇な運命をたどる。
「淡墨桜」の打掛の江戸での最初の持主となった「越後屋の主人三井八郎兵衛」とのかかわりあいが物語の流れを作っている。
「新興であるにもかかわらず、店を出して数年で江戸で一、二を争う呉服商に成りあがった越後屋」「“丸に井桁三”を白く染め抜いた紺色の暖簾の大店」、とある。
 三井家の家祖・三井高利(みついたかとし)が江戸本町一丁目に呉服店を開いたのは延宝元年(1673)のことである。三井家同族組織の代表名前は「八郎右衛門」であって、「八郎兵衛」ではないが、この「八郎兵衛」を名乗る人物は「年齢は50代であろうか」とあるから、高利であろう。
おりんは「越後屋の主人」とともに、大奥総取締右衛門佐と会う。右衛門佐は将軍御台所鷹司信子(たかつかさのぶこ)の信頼厚く大奥の取締を任されている人物である。おりんは右衛門佐から、熙姫が大奥に入る、と知らされる。また熙姫の兄清閑寺熙定(ひろさだ)は元禄14年(1701)3月、殿中松の廊下において、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみ ながのり)が高家吉良上野介義央(よしなか)に刃傷に及んだ際に、江戸に下向していた院使(霊元上皇の使者)として知られる。
かくて、登場人物の役者はそろった。
赤穂浪士の事件が兄とのかかわりから、いかに展開するのか。越後屋がいかにして幕府の御納戸呉服御用、御為替御用となっていくのか。そもそも綱吉とはどのような将軍であったのか。
有力な公家の姫として生まれ、初めて知った恋に夢中になっていた熙姫は将軍綱吉の側室となる。亰の老舗呉服商の娘に生まれ、何不自由のない暮らしを送っていたのに大店の娘という境遇を失ったおりんは更紗屋の再建を目指す。将軍継嗣問題が起こり、江戸の将軍が変わるという、二人の若い亰娘にとって、ほとんど関係のない出来事によって、そのふたりの運命が変わる。
貞享元年(1684)春、大奥へ入ることが決まった熙子が日本橋に到着するシーンで、本巻は終わっている。歴史・時代小説には「大奥もの」というジャンルがあるが、大奥の女たちの愛憎劇だけではない何かが本書からはただよう。次巻以降がたのしみである。(文芸春秋社 2014年7月刊 600円+税)
篠綾子(しのあやこ)は1971年埼玉県生まれ。東京学芸大学卒。第4回健友館文学賞受賞作『春の夜の夢のごとく―新平家公達草紙』(健友館)でデビュー。『義経と郷姫』(角川学芸出版)、『浅井三姉妹————江姫繚乱』(NHK出版)などの著書がある。
2014.08.16  元東芝エンジニアによる脱原発論
     書評 小倉志郎著『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(彩流社)

半澤健市 (元金融機関勤務)

《頭が真っ白になったエンジニア》
  2011年3月11日の午後、一人の元エンジニアが都内中央区立月島社会教育会館で平和運動の紙芝居を見ていた。そこへ大きな揺れがきた。東日本大震災の始まりである。当日は横浜の自宅に帰れず、その建物に泊まった。テレビは東電福島第一原発が電源を失い原子炉が冷却不能と伝えていた。「非常用ディーゼル発電機があるはずだ。それも地震か津波でやられたのか」。エンジニアはそう考えて頭が真っ白になった。福島第一原発6基中、5基の炉心冷却系のポンプの技術取りまとめを、担当した人物だったからである。
 そのエンジニアの名前は小倉志郎(おぐら・しろう)、『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(2014)の著者である。1941年生まれ、慶大工学部の学部・大学院を経て「日本電子力事業(株)」(のちに東芝に吸収合併される)に入社。35年間、一貫して原子力発電所の見積・設計・建設・試運転・定期検査・運転サービス・電力会社社員教育を仕事とした。退職後の2012年には国会事故調の調査員として報告書の作成にも関わった。

《「放射能の存在」と「全貌理解不能」》
 本書は、元原発エンジニアによる脱原発論である。
 脱原発の論拠を突き詰めると、「放射能の存在」と「原発の複雑さ」になる。すなわち、「原発が装置としてどれほど完全であったとしても、高レベルの放射能を溜め込んだ使用済核燃料が存在するかぎり、極めて危険であること」、「世界中をさがしても原発の複雑なシステムおよび機器の全貌を一人で理解できる技術者はいないこと」。これが小倉脱原発論の原点である。あまりに当然といえば当然である。
 委細は本書に譲るが、私は、著者の貴重な経験に基づく、脱原発にいたる論理の展開に感銘を受けた。著者は企業の「本部」と「現場」の両方―俗っぽくいうと「エリートコース」と「叩き上げコース」―を経験し、更には日本の企業社会と官僚世界の習俗を仔細に観察した。そこが説得力の源泉である。しかも小倉脱原発論の源泉は技術者の知見だけではない。むしろ万人に備わった「良識」と「人間性」に発していると私は感じた。3/11直後に脱原発にカジを切ったメルケルのドイツに通ずるものがある。

《我々は原発について何も知っていない》
 3/11以来、人々は随分と原発に関する情報を得たと思っている。我々が見てきた映像や読んできた活字の数はたしかに多い。しかし、本書の示す福島第一原発事故の実態―十分に原因も現状も分かっていないという実態―を知るにつけ、真実を隠蔽して原発再稼働を進める「原発推進共同体」の暴走を知るにつけ、あらためて我々は何も知らないことを痛感する。著者の真摯な考察と将来見通しに、正直、私はかなり絶望的な気分になった。事態があまりに深刻でリアルだからである。著者は、「日本の滅亡」、「国破れて山河なし」という言葉を使っている。現状のままで事態が進行すれば、その言葉は杞憂といえないのである。

《この本は「遺書」のつもりで書いた》
 原発を推進した尖兵が今になって何をいうか。この問いが当然出てくるだろう。著者はいう。「読者のみなさんのなかには、〈原発をつくった人間が何を今さら善人ぶりやがって!〉と思われる方もいるだろう」。それを意識している。贖罪の思いを込め「遺書」のつもりで書いたといっている。この言い分には異論があるかも知れない。
 しかし、2002年の退職―勿論3/11以前である―後に始まった著者の脱原発活動を知った私は、批判的にはなれない。むしろその勇気と決断に敬意をもつ。

 2007年に、著者がある季刊誌に書いた論文「原発を並べて自衛戦争はできない」は、原発の危険を軍事的な文脈からみた洞察力に富む労作である。50基の原発にミサイルが飛んできたら日本は壊滅するというのだ。その通りだと思う。この指摘は、安倍晋三の集団的自衛権による抑止力論を打ち砕く。

《本書は必読の一冊である》
 本書は、まことに真面目な論調によって、読者を納得させる力作である。あえて必読の一冊と結んでおく。(2014.8.12記す)

■小倉志郎著『元原発技術者が伝えたいほんとうの怖さ』(彩流社、2014年7月)、1700円プラス税
2014.07.30 舞台装置が小出しで、読者に自由な想像が可能な新シリーズ
〔書評〕芝村凉也著『素浪人半四郎百鬼夜行(一)鬼溜まりの闇』、『素浪人半四郎百鬼夜行 (二) 鬼心の刺客』(講談社、両巻とも¥640+税)

雨宮由希夫 (書評家)


田沼意次が老中であった頃の江戸。四谷慈眼寺門前、丹兵衛(にへえ)長屋に榊(さかき)半四郎なる若き浪人者が住んでいた。身に暗い翳(かげ)がまとわりつき、深い空虚を抱える半四郎は東雲(しののめ)藩の元藩士で、江戸に出てくる前の名を神ノ木二郎左といった。
五俵扶持の最下級藩士であった半四郎は、藩公認の剣術会で堂々の立ち会いの末、近習として藩主のそば近くに仕える上士を打ちまかして不具にしてしまった。半四郎に非はなかったにもかかわらず、彼は脱藩を選択して江戸に出ざるを得なかった。
奥州のとある小藩の名もなき下級藩士にとって、江戸中期とはいかなる時空間であったのか、読者は早くも作家のつむぎだす世界に惹きこまれる。

命を捨てる覚悟でいた半四郎は己れの終焉を迎える腹づもりで出府したのであったが、江戸では一つとしてやるべきことが思い浮かばず、「このまま死ぬるのか」と自暴自棄になりかける。無為な日々を送るばかりのある日、半四郎はつぎつぎと怪異な出来事に遭遇し、それら事件の解決を通じて、生きがいらしきものを見出し、江戸の市井で生きていくというのがシリーズ『素浪人半四郎百鬼夜行』の大筋であるらしい。
歴史ミステリーの主人公として、榊半四郎ほど不可思議なキャラクターはないであろう。半四郎は文庫書き下ろし時代小説にしばしば登場するヒーロー的な剣豪でもなければ、自らの意志と正義を敢然と貫く世直し侍でもない。

「第一巻 第一話 鬼火」。半四郎が際野(みぎわの)聊異斎(りょういさい)と名乗る得体の知れない老人とその老人の連れの子供の捨吉と知り合い、青梅街道脇の雑木林で、火の玉に出くわすという今まで出くわしたことのないほどの奇妙な夜を体験する。

 不思議な老人と知り合ってすぐの頃、半四郎はまた、屋敷の中で赤子が消えるという奇妙奇天烈な事件に巻き込まれる(「第一巻 第二話 表裏の家」)。芝の田町に立つ商家、呉服太物商・喜勢屋の生まれたばかりの息子太一が子守のお清と一緒に居なくなる。神隠しではない。商家の中庭で起こったのだ……。
 
表題から夢幻的でやわらかい雰囲気が漂うが、しかし、超常的な怪異譚は少なく、「第二巻 第二話 産土神(うぶすながみ)の愛でし女」に代表されるように、むしろ、人為によってもたらされる怪異、常ならぬ変事に関わる事件が多い。得体の知れない人間の〈業〉に勝る化け物はないということであろうか。

 奇怪な出来事が半四郎の身の回りで起こり巻き込まれるのが常態となるが、中国清代の怪異小説集『聊斎志異』を連想させる名の不思議な老人をはじめとし、半四郎が江戸で出くわす人々は皆一風変わった者ばかりだが、彼らとは事件を経るごとにかねてからの腐れ縁とも呼びたい仲になっていくのには奇妙な味わいがある。

 時代ミステリーに捕物的要素は欠かせないが、腐れ縁の代表的登場人物は 北町奉行所の臨時廻りの愛崎哲之進である。半四郎より一回り以上年上の40男の愛崎は摩訶不思議な出来事など容易に認められぬという頑なな態度を取り、事件をもたらす半四郎を胡散臭く見ていたはずが、四角張った哲之進がやがて半四郎最良の朋友、庇護者となっていくところは何やら微笑ましい。

 慈眼寺の住職・道明も、心愉しい人物である。道明は半四郎が住む長屋の家持ちであり、半四郎の江戸での身元保証人でもあり、当然ながら半四郎脱藩の経緯を承知している。そのうえで、半四郎の先に待っているのは修羅魔道の棘路であるかもしれぬと予言している。半四郎の未来に何が起こるのか。

 志津という女がいる。「いた」というべきか。すでにこの世の人ではないが、常に半四郎の心を占めている。ゆえに志津は「いる」。志津とは許婚と互いに認め合っていた仲だが、半四郎21歳の時に、志津は家老の倅浦山某に見初められ嫁いだがまもなく命を絶った。半四郎には、志津に対して何もできなかったとの悔いが今も残っている。

 半四郎の住処の丹兵衛長屋は東雲藩の中屋敷にほど近い。半四郎が自藩の傍近くに逃げ隠れもせず平然と居るということは、藩主にとっては「躬(み)を嘲笑うておるような不遜なる振る舞い」であり、よって「憎い。断じて許せぬ」ということになる。独善的で矮小な権力者による人騒がせな藩命である。藩士たちはこの理不尽な藩命にひれ伏し半四郎を付け狙うほかない。

半四郎が打ちまかした相手の家老の倅浦山某は藩主の寵臣であり、志津の夫でもあった。東雲藩は一度はお構いなしとした半四郎に刺客を差し向ける(「第二巻 第一話 討手来襲」)。北町奉行所の同心愛崎の制止を受けて東雲藩は表向き鳴りを潜めたが、実際に半四郎へ手出しをすることを諦めたかどうか。
 
芝村凉也は1962年宮城県生まれ。双葉文庫で刊行中の「返り忠兵衛」シリーズは好評で現在までに13巻を数えるが、「半四郎百鬼夜行」は作者渾身の新シリーズとのことである。
ただならぬ説得力を持った筆致で、周到に考証された江戸の世界が描かれている。一連の事件の背後に半四郎脱藩の秘密を絡ませることで、悩みつつ生きる半四郎の生きざまにも焦点を当てているので、人間ドラマとしても読ませる。

徳川260年は国内的には天下泰平、戦争のない平和な時代であったと言えるが、六十余州260藩のほとんどがすでに江戸中期には財政が破綻していた。大名経済は町人や農民の犠牲によって維持されていたが、半四郎のような下級藩士も犠牲者であった。

主人公・半四郎の行く末や如何に。当時の時代性を取り込んでどう展開するのか。シリーズものであるが故に、半四郎を取り巻く舞台装置は小出しである。小出しであるが故に、読者は自由な想像が可能である。たのしみなシリーズがまた一つ増えたといえる。幕末のような変革期を生きた群雄たちの虚実を紡ぎだし歴史の真実に近づくのも歴史・時代小説の魅力の一つだが、太平の世に生きる名もなき人々の生きざまをよみがえらすのもまたもう一つの魅力であることを改めて思い知った。

2014.07.01 「上野」、「皇室」、「大震災」を重ね、ホームレスと被災者の痛苦をつなぎ合わせて描く
〔書評〕柳美里著『JR上野駅公園口』(河出書房新社、¥1400+税) 

雨宮由希夫 (書評家)
 

「あゝ上野駅」という唄がある。作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・伊沢八郎で、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)の5月に発表された。
♪♪……どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ……
 就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す ……♪♪
中学卒業と同時に集団就職列車に乗って上京し「金の卵」と呼ばれた若者を題材にしたこの唄は、高度成長期の世相を描いて大ヒットした。

 高度成長期の産物として集団就職があり、また高度成長期に出稼ぎ農家が増大した。
東北の農家の子弟は働き口を求めて集団就職や出稼ぎを選ばざるを得なかった。彼らは,東京をはじめとする首都圏で,それこそ脇目も振らず働いてその収入の大部分を家族のもとに送金した。彼らが最初に降り立った「北の玄関口」である上野駅は、かくして「おいらの 心の駅」となった。

「あゝ上野駅」より50年。『フルハウス』(1996年)や『家族シネマ』(1997年)など家族のあり方を問う作品を多く発表してきた作家・柳美里(ゆう みり)(1968年横浜生まれ)が『JR上野駅公園口』を書いた。
執筆のきっかけとなったのは12年前、上野駅でホームレスの男性を見かけたことだった。白紙からの取材だったという柳は、上野恩賜公園のホームレスは東北出身者が多いことを知る。

 本書の主人公は、上野恩賜公園を居場所とする東北出身のホームレスである。
福島県南相馬郡八沢村(現・南相馬市)の農家に、昭和8年(1933)、8人兄弟の長男として生まれた主人公は、12歳で敗戦を迎え、国民学校を卒業するや、いわきの小名浜港に出稼ぎに行き、東京オリンピックの前年、30歳で出稼ぎのために上京し、オリンピック用の体育施設建設現場で土木作業員として働いた。

この小説にはさまざま仕掛けが講じられている。
ひとつ、“上野”という場所を舞台としたこと。
上野公園や動物園などが配されている上野の山は江戸の初めに、全山、徳川将軍家の菩提所たる東叡山寛永寺の境内となり、幕末には最後の将軍・徳川慶喜の寛永寺大慈院謹慎蟄居や彰義隊の戦いなど260余年続いた江戸時代最後の歴史的舞台となった。上野の山には、西郷隆盛の銅像があれば、傍らには彰義隊士の墓もある。

春には、寛永寺の創建者・天海僧正が吉野山から移植した“上野の桜”が戊辰戦争で敵対した両者を包み込むかのように咲きほこる。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)3月の東京大空襲の際には、上野公園は多数の羅災者が逃げ込み避難場所の役割を果たしている。明治16年(1883)開業の上野駅の場所には、江戸の昔、寛永寺の子坊11ケ寺が在った。このように、上野では歴史が地層のように積み重なっている。

JR上野駅の公園口からお山の中に入ってゆくと、ブルーシートの「コヤ」が見え、そこに住むホームレスの人たちの世界が広がっているが、「通勤や通学で毎日決まった時間にこの公園を通り抜けている人々」は彼らの生きざまに思い遣ることはないだろうかと作家はシグナルを送っている。

 ひとつ、主人公が今上天皇と同じ年、昭和8年(1933)の生まれであるとしたこと。さらに妻の名は貞明皇后(大正天皇の皇后)の名と同じ漢字の節子とし、皇太子の生まれた日(昭和35年2月23日)に生まれた長男は、浩宮徳仁親王の「浩」の一文字をとり「浩一」と名付けている。

 ひとつ、主人公の出身地を福島県南相馬郡としたことで、「3・11」(平成23年3月11日の東日本大震災)の悲劇が出稼ぎの上に重なり合っていること。
主人公の先祖は文化3年(1806)、加賀越中(富山県)からの真宗移民であった。相馬といえば、相馬野馬追祭で有名だが、御先祖様は先住の相馬の「土着様」から「加賀者」と蔑(さげす)まれ、こっぴどく痛めつけられながらも「荒れ地」を開拓したというくだりは、原発と出稼ぎの歴史的背景を一気に江戸の後期まで遡らせて興味深い。

 かつての浜通りには、東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所もなかった。かの地に原発を誘致する以前は、一家の家長たる父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったのである。そこに「3・11」が起き、多くの人々が津波や原発事故で避難を余儀なくされた。

さらにこれら「上野」、「相馬」、「皇室」、「大震災」が交差し、重なり合って、出稼ぎでありホームレスである男の日常の中に、ポリフォニックな「あの音」が沸き起こり、こだまする。
「あの音」とは上野公園内のチェーンソーや草刈りの音、上野駅構内のアナウンスや列車の奏でる機械音、街の中の見知らぬ男女の会話、都会の喧騒、「天皇陛下万歳」の叫び声であり、東京オリンピックの開会を宣言する昭和天皇の声であったりする。これらは作家のメッセージであり、小説の背景描写でもある。

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