2014.06.12 悟りを求めるのも我欲―阿弥陀仏への帰依と口称(くしょう)念仏を勧めた仏教歴史小説の傑作
〔書評〕梓澤 要著『捨ててこそ空也』(新潮社、¥2000+税)                       
                 
雨宮由希夫 (書評家)


 廃(すた)れ皇子の五宮(ごのみや)常葉丸————醍醐天皇が後宮の更衣に生ませた皇子でありながら、宮中から追い出され、存在そのものが闇に葬られ、親王宣下もされぬまま自ら失踪……。
空也といえば、錫杖をつき、口から6体の阿弥陀仏を吐く六波羅蜜寺の肖像彫刻で有名だが、空也の出自が、そのようであったとは露知らないことであった。
梓澤(あずさざわ)要の『捨ててこそ空也』は、平安時代中期の浄土教の先駆者である空也上人(903~972)を主人公とした渾身の歴史・時代小説である。

空也は延喜3年(903)に生まれ、21歳、尾張の国の国分寺で得度し、空也と名乗った。天慶元年(938)36歳、都に姿を現し、洛中を廻って念仏を勧め、「市の聖(いちのひじり)」の名をほしいままにしたのは史実であるが、「醍醐天皇の子」とも、「仁明天皇の皇孫」ともいう空也の出自を皇統とする説について大方の研究者は「不詳」としている。

空也が本書の描くように醍醐天皇の皇子であったとすれば、朱雀・村上の両天皇は空也の異母弟にあたる。醍醐天皇の延喜、村上天皇の天暦の間は「延喜・天暦の治」と賛美された「聖代」だが、その間にはさまった朱雀天皇時代は「承平・天慶(てんぎょう)の乱」(平将門と藤原純友の乱)が勃発した混沌の時代であった。作家は空也を「聖代」と「混乱」の時代を生きた人物として描いている。

奇しくも菅原道真が非業の死を遂げた年に生まれたが故に、五宮の誕生は父醍醐天皇の歓迎するところとならず、疎外されたとして物語はスタートしている。父の疎外、母との確執を経て、空也は全てを捨てて都を出奔、野辺の骸(むくろ)を弔いつつ世の辛酸を知り尽くしていく。かくして、真の救いを探し求めて諸国を遍歴、平将門の首に祈りを捧げ、比叡山の権威にも屈しなかった……と、空也の生きざまがつづられる。「将門」、「道真」、「遍歴」は本書を読み解くキーワードであることにまず目を向けたい。

 空也を取り巻く人物として、藤原実頼(さねより)、猪熊(いのくま)、喜界坊(きかいぼう)らがあり、彼らの人物造形が空也という「出自不詳」の人物の輪郭を明らかにしている。実在の人物である実頼は藤原北家忠平の嫡男で、師輔、師氏、師尹らの兄でありながら、「摂関家」の栄華は弟・師輔の手に帰してしまう(師輔の子が兼家、孫が道長である)ことになるが、本書では幼馴染の実頼と空也との交誼は終生続いていて、心なごむ。

 独創的な脇役は何と言っても猪熊である。空也は、13歳のある日、五条河原で、野棄の亡骸を燃やしている山伏とも乞食僧ともつかぬ風体の男たちを見かける。喜界坊を長とするその集団の中にいた、空也より二つ三つ年かさの少年が猪熊で、彼は初対面ながら、空也が抱えていた苦しみを察し、受け入れる。後年、空也は「猪熊と出逢わなんだら、生涯をただむなしく無為に費やしていたろう、出会ったときから、自分の真の人生が始まったのだ」と回想することになる。

火葬をしたり、橋を架け、井戸を掘り、堤を築いたりしながら畿内各地を転々とする彼らと行動をともにしたことで、空也は庶民の生々しい生と死を初めて知り、自分は何を為すべきかを思う。やがて、喜界坊の集団から別れた空也は、西国から坂東、陸奥へと夢中で歩くこと15年、「自分が進むべき念仏の道」を見出し、仏の救いと生きる意味を探し求め、再び京へ戻って、猪熊と再会する……。

猪熊との出会いから最期の別れはこの小説におけるひとつのクライマックスであろう。「畿内各地を巡る集団」といえば聞こえがいいが、実は社会の底辺に呻吟(しんぎん)し、やむに已まれぬぎりぎりの生存上の必要から移動せざるを得なかった非農民、アウトローの群れであり、再会した猪熊は国家の秩序から零れ落ちた無惨な犯罪者に堕していた。その死と相対峙した猪熊を空也はわが身に換えて救おうとする。若き日のあの時助けてくれたから、「市の聖」と慕われる今の自分がある。今度は自分が猪熊を支えるのだ……と。

 
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2014.06.06 「政(まつりごと)の栄枯盛衰や一家の毀誉褒貶に惑わされるな」
〔書評〕浅田次郎著『黒書院の六兵衛』(上・下) (日本経済新聞出版社、各¥1500+税) 

雨宮由希夫 (書評家)


慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府軍に引き渡された。15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて逃げ帰ってきてから丁度3カ月目のできごとであった。城主たる徳川将軍家に成り代わり、接収に立ち会ったのは御三家筆頭の尾張藩であった。本書はこの史実を題材にした歴史・時代小説である。

 本書には主人公が二人いる。一方の主人公は、江戸城明け渡しに先んずる官軍の俄(にわか)隊長を命ぜられた尾張徳川家江戸詰徒組頭(かちぐみかしら)・加倉井隼人である。たまさか勝海舟と西郷隆盛の談判が成り、江戸は不戦開城と決した。その江戸城に異変がないかどうか偵察して来い、というのが官軍のお達しである」というのが本書の設定である。

尾張藩士でありながら、官軍の洋式軍服と赤熊の冠り物を着用させられ、「官軍将校」として江戸城に送り込まれた加倉井は、西の丸御殿で、旧幕側の代表たる勝海舟に会い、勝から、「実はこの西の丸御殿の中に“江戸城明け渡し”をどうしても料簡できぬ侍がひとりだけおる」と告げられる。その侍こそ、本書のタイトルとなっている「黒書院の六兵衛」こと、直参旗本で御書院番士の的矢(まとや)六兵衛、もう一方の主人公である。

御書院番士の多くは上野寛永寺大慈院に蟄居(ちっきょ)謹慎している慶喜の警護に当たるか、あるいは「脱走」して東北戊辰戦争にかかわるか、彰義隊として上野の山に立て籠もるかで、幕臣としての意地を見せているが、六兵衛はそれらいずれの道をも歩まず、開城談判が成った途端、ひたすら御城内の持ち場である宿直部屋にじっと座りはじめ、梃子でも動かない。六兵衛の「沈黙の反乱」はいつ果てるともなく続く。

六兵衛が踏ん張っている限り、西郷隆盛との開城談判が成ったとは言い切れない。力ずくで事を運べば、西郷との談判の信義に悖(もと)ると考える勝は、六兵衛の一人の稚気によって江戸が戦場となるやもしれぬとやきもきする。当初はさしたる「異変」でもないと軽視していた隼人であるが、六兵衛をいかにスムースに城内から撤去願うかが隼人に課せられた任務となる。
 
史実にはない滑稽なフィクションとしてかたづけることは容易であるが、まずもって、主人公二人の人物造形が並はずれていることに作家の意図を感じねば、浅田次郎が仕掛けた創作世界のレトリックと対峙することはできない。
加倉井隼人は「官軍将校」だが、「寝返った尾張の侍」であるということ。

 幕末史は尾張藩及び第14代藩主徳川慶勝(よしかつ)の寝返りで、倒幕から討幕へと一気に流れが加速したといっても過言ではない。御三家筆頭たる尾張大納言家はそれほどまでに幕末政治に絶大なる影響力を保持していたのである。しかも、慶勝は会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)、桑名藩主で京都所司代の松平定敬(さだたか)の実兄であり、最後の将軍慶喜の従兄でもあった。
戊辰戦争勃発以前は江戸詰の尾張藩士として名古屋城以上に江戸城に徳川氏の居城としての親しみを感じている隼人は、慶勝のような人物を将とした組織に組み込まれて生きなければならないのである。なお、城山三郎に慶勝を主人公とした歴史小説『冬の派閥』(昭和57年刊、新潮社)があり、慶勝をリーダーに仰いだ幕末の尾張藩の命運、悲喜交々が描かれている。併せ読みたい。
 
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2014.05.03  信長・秀吉・家康の時代、九鬼守隆の水軍とその目に映った三人を淡々とした筆致で描いた
〔書評〕加藤 廣著『水軍遙かなり』(文藝春秋、¥1850+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 
 近世への幕開けをめざした信長にとって、最大の敵は武田氏でも毛利氏でもなく石山本願寺であった。中世的権威を振りかざす本願寺第11世宗主・光佐顕如は石山本願寺を拠点に信長包囲網を敷き、各地で一向一揆を蜂起させた。天下布武の旗を掲げる信長と顕如の石山合戦は前後11年の長きにわたった。

 本願寺救援の毛利水軍のために散々な敗北を喫した織田水軍であるが、信長の命により巨大な鉄甲船(てっこうせん)を作り、毛利水軍を破るのに大貢献をした人物こそ、九鬼 嘉隆(くき よしたか)(1542~1600)である。熊野の別当・湛増(たんぞう)の末裔と言われる嘉隆は信長・秀吉時代を生きたが、関ヶ原の戦では西軍に与して東軍に与した嫡子・守隆(1573~1632)と干戈を交え、戦後、自害している。

 歴史小説であるこの物語は、天正7年(1579)1月、「我は海の子」、海を眺めるのが大好きな8歳の守隆が、世界の果てはどうなっているのだろうかなどと水平線の彼方を見つめていると、第二次木津川口の戦いに勝利した父嘉隆が鳥羽に帰還したことを告げるべく九鬼家の家臣が少年守隆のもとにかけつける~というシーンに始まる。そして、慶長20年(1615)7月、守隆が「そなたと二人きりで、この国のありようを腹蔵なく語りたい」という大御所家康の要請を受けて海路駿府を訪ね、「家康の海外進出戦略論」を拝聴するところで終わっている。

 このように、本書の主人公は嘉隆ではなく、関ヶ原の戦後、鳥羽藩5万6石の初代藩主となる九鬼守隆なのである。九鬼家の当主として、嘉隆は信長・秀吉に仕え、守隆は家康に仕えた。信長・秀吉・家康と、中央の情勢が劇的に転換する中で、「伊勢志摩という小宇宙」の一領主にすぎなかった九鬼氏が水軍を率いて時に翻弄されながらも、中央情勢についての諜報活動などを駆使して身を処すべくいかに立ち向かったかを描いている。

 天下人三者三様それ自体を主人公とした歴史小説は数多いが、彼ら三者とかかわりをもたざるを得なかった人物を前面に押し出した作品は珍しい。作家は「定説」となった戦国時代晩期を今までと違った角度から俯瞰しているともいえる。

「定説」への懐疑、否定はまず「鉄甲船」である。
 天正6年(1578)11月、石山合戦のターニングポイントとなった第二次木津川口の戦いで、嘉隆は大鉄砲を搭載した鉄甲船6艘を率い、毛利水軍を撃破したことは史実であるが、鉄張りの船の詳細は詳らかではなく、未だ定説を見ていない。

  この鉄甲船問題の真実究明に作家がいかにたちむかっているのかは本書の読みどころの一つであるが、作家の視点は、むしろ、黒潮の3大難所である熊野灘・遠州灘・相模灘の実状を把握していた九鬼水軍が黒潮の激流がもたらす危険を熟知し、航海技術や造船技術で瀬戸内水軍など他の水軍より抜きん出ていたことに着目している。

 いわゆる戦国3大英傑の時代において、本能寺の変と関ヶ原の戦は当時を生きた武将たちにとって避けて迂回することのできない人生の岐路であった。いずれの側に就くべきか、仕える主人の選び方次第で浮沈を味わうことになる。
「信長は非情の将ではあるが、九鬼一族にとっては杖とも柱とも頼む」存在であった。「水軍がまだ海賊呼ばわりされている頃、嘉隆を全国区に引き出し、『水軍』として売り出してくれたのは信長」であり、その信長軍団の中にあって、嘉隆は「古豪・村上水軍を傘下に従えるような日本一の水軍の大将になる」ことを夢見ていた。

 その信長が天正10年(1582)6月、本能寺の変で「消えた」。
信長から秀吉へ————。無人の地を行くように天下人への坂を駆け上る頃の秀吉はともかく、変直後、信長の後継者の地位を掴もうとする頃の秀吉と嘉隆の関係は、九鬼家内部のいざこざへ関与する瀧川一益、本能寺の変の真相を知っていたのではないかとみられる家康との複雑な絡みもあり、読み応え充分である。

 山崎の合戦で嘉隆は秀吉の九鬼水軍出動要請に即応していない。家康に就くべきか。秀吉か。この段階で嘉隆が家康を仕えるべき主人の選択肢のひとつとする情況情勢の造作は作家・加藤廣の独壇場である。
 なおまた、『信長の棺』『秀吉の枷』などの読者であれば先刻承知のことであるが、信雄・信孝の出生順序、秀吉の出自、「お国替え」に潜む秀吉の家康追放作戦、淀の方の不倫と鶴松誕生の奇妙な噂などなど、加藤廣の秀吉を巡る「数々の不思議」に対する視点がとてつもなく新鮮かつ愉快である。

 心ならずも秀吉政権にとりこまれた嘉隆は外様であり、「豊臣水軍の中における自らの位置の低さ」を思い知る。秀吉は豊臣水軍のメインに村上水軍を考えていたのである。
 天正18年(1590)の「北条攻め」で、瀬戸内の水軍は「10年前の瀬戸内の海戦で、九鬼水軍の『鉄甲船』にダマされ、敗戦の煮え湯を飲まされた記憶を忘れておらず」、九鬼水軍を「成り上がりの水軍」と蔑んでいる。
嘉隆は慶長2年(1597)の第二次朝鮮出兵の慶長の役には出陣していない。「参加を許されなかった嘉隆は、これを恥として」、家督を守隆に譲って隠居した。

 秀吉から家康へ————。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際しては、「水軍について、家康が信長、秀吉にはないものを持っている」、ゆえに「徳川さまについていく」という守隆の主張が通り、「九鬼水軍の徳川方への参加が正式に決定」する。しかし、隠居の身でありながら、嘉隆は独断で九鬼水軍の帰属先を大転換してしまう。その挙げ句に、守隆に「父の自決という悲劇」がもたらされる。九鬼父子の選択は、どちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったとする説があるが、「この世の権力闘争の難しさを思い知った」はずの嘉隆にとっての大誤算は、関ヶ原の戦が「わずか二刻(4時間)」で決着してしまったことであろう。ちなみに、山崎の合戦にいたっては「わずか一刻(2時間)」であった。

 本書は海賊大名の異称をとった父子鷹の物語である。むすこの守隆にとって父嘉隆は「根が仕事好き、それも戦(いくさ)大好き人間の困った父」であり、嘉隆が「ただの荒くれ男」でないことを知っている。一方、嘉隆にとって守隆は「自慢の息子」であり「トンビが生んだタカ」であった、と作家は人物造形している。ほほえましいほどの父子愛ではないか。

 その守隆の眼に映った3人の天下人の殿(しんがり)に登場するのは、家康である。
 将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府から万事一切に目配りした晩年の家康が、守隆に語りかける「この国のありよう」に、読者はこれが家康か、と驚くであろう。概して傭兵的な性格が強かった水軍を、「陸の軍団と切り離した独自の軍団と認め、将来の南蛮水軍の襲来に対処しようとした」のも家康であるという。新しい家康像の創出である。

 中世、「海賊衆」と呼ばれた「水軍」は江戸時代の「船手組」を経て、近代以降の「海軍」となる。家康による海洋国家日本の未来図を思い描くと、鎖国下の日本が外洋航海を習得する機会を喪失せしめ、造船技術が貧弱になっていったことが惜しまれる。もし仮に家康があと10年健康を保持してくれたなら、と夢想させる。まさに「水軍 遙かなり」。

 寛永9年(1632)に守隆が死去すると家督争いが起こり、幕命によって鳥羽藩九鬼氏は2分割され、丹波綾部2万石と、摂津三田3万6千石に転封され、家名は明治まで残るが、九鬼水軍は滅びる。
 信長・秀吉・家康の時代を生きた九鬼守隆の生涯を描くとともに、守隆の目に映った三人の天下人を描いた本書は、淡々とした筆致でものされた味わい深い一冊である。
               
2014.04.16  幕末維新の波間で押し流されつつも下町で懸命に生きる姿を活写する
 〔書評〕河治和香著『どぜう屋助七』(実業之日本社、¥1600+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 表紙のカバーの装画が美しい。左に白富士、右に五重塔、「どぜう」の赤提灯と柳が揺れる大空に、広重の『名所江戸百景』「駒形堂 吾嬬橋(あづまばし)」から抜け出てきた時鳥(ほととぎす)が舞うように飛んでいる。
浅草・駒形にある老舗「駒形どぜう」は江戸時代から 210余年続くドジョウ屋だが、本書はその「駒形どぜう」を舞台に、3代目当主越後屋助七こと渡邉元七を主人公にした歴史時代小説である。

 安永5年(1776)、武蔵国北葛飾郡松伏領(まつぶしりょう)広島村 (現在の埼玉県吉川市南広島)に生まれた助七は、 寛政の頃、江戸へ出てきて丁稚奉公を務め、享和元年(1801)、浅草の駒形にドジョウ汁の一膳飯屋を開業した。店の前の道は浅草寺への参道であり、吉原への道でもあり、また水戸や奥州へと続く街道でもあった。

 ドジョウは旧仮名遣いでは「どぢやう」と書く。 四文字は「死文字」に通じ、偶数は忌み嫌われたことから、 縁起のいいとされる奇数の「どぜう」を思いついた 助七は、店の戸口にかけた五巾(いつはば)の暖簾の真ん中に、太々と「どぜう」と染め抜いて掲げたところ、これが受けた。
この店では代々当主は〈越後屋助七〉を名乗ることになる。

 主人公3代目助七の生きた時代は幕末維新である。世の中は黒船来航に始まり、安政の大地震、コロリ騒動、雷門火事、御一新と目まぐるしく動いていく。殺伐とした雰囲気の中、3代目を核とした親子3代の〈助七〉が店で働く雇人たちと力を合わせながら、食い物商売である家業を守り立てていくというのが、ストーリーの大筋である。

 嘉永7(1854)年4月、黒船の再来航で騒然となる江戸は浅草、駒形の“どぜう屋”を16歳の田舎娘、伊代が訪ねてきたところから物語はスタートする。江戸近郊荏原郡世田ヶ谷村小山で育った伊代には、浅草で耳目にするものすべてが新鮮で戸惑うことばかりだった。
 浅草寺は〈かんのんさま〉、駒形堂は〈こまんどう〉と土地の人々は愛着を込めて発音することを伊代は知る。また当時、店の前には牛馬を繋いでおくための専用の柵があり、牛馬の糞尿を片付ける専従の者がいて、これを〈牛番〉といったが、これも伊代の仕事の一つとなる。
かく言うと、あたかも伊代が主人公のように思えるがさに非ず。伊代がどのような生涯を送ったかは、本書を読んでのお愉しみである。なお、伊代には後に新選組隊士となり「明治維新」のドサクサで悲劇的な最期を遂げる信太郎という兄がいて、時代背景をより鮮明にしているとだけ紹介しておこう。

 元七の妹で駒形小町と異名をとるヒナは店の看板娘。元七、ヒナの父親で先代助七の平蔵。別居中の柳橋の芸者だった元七の妻、登美。登美との間にできた倅の七三郎が元七の家族である。女中頭のハツ、実直な煮方の巳之吉(みのきち)などの奉公人も個性的。ヒナに岡惚れしている火消し〈と組〉の銀次、大のどぜう汁好きの伝法院の宗圓僧都(そうえんそうず)など店に集う人々の生きざまも面白いが、意地を張りあう親子三代の意思疎通の悪さがおかしい。

 隠居の平蔵は養子であることからなんでも保守的で、実直に家を守りたい一心から時に堅実な訓示を垂れる。元七はそのような平蔵の消極的な態度をもどかしがって反発する。客観的に物事を進めようとする元七の倅(せがれ)七三郎は、時として肝心の店の仕事はほったらかしにしては線香花火のような思いつきで行動する極楽とんぼの父元七よりも堅実な祖父平蔵になついている。

 「親が子にしてやれる最後のことは……我慢することだよ」とは平蔵の言葉である。何と味のある言葉であろうか。それにしても、この時の平蔵はまさか子の元七に先立たれ、孫七三郎(4代助七)の後見役として、隠居の身でありながらまた店先に立つことになるとは思ってもいなかったにちがいない。

 まぶしいまでの生命力、したたかな江戸っ子の生きざま。読み出したら止められないのは、浅草の往来の喧騒と息吹、江戸の下町に生きる人々の息づかいやにおいまでが感じられ、「『親の意見と冷や酒はあとできく』って教えてやりゃあよかったなぁ」といった江戸っ子の言葉が聞こえてくるからである。

 酉(とり)の市や三社祭(さんじゃまつり)といった江戸情緒をくすぐる行事の描写もあるが、何と言っても登場人物の造形の巧みさが物語を盛上げている。作家は人間を描いている。
 実は元七はたいした趣味の持主なのである。粋な新内流しであるとともに、剣は浅蜊河岸の鏡心明智流、桃井(もものい)春蔵の道場〈志學館〉に通って道場目録の腕前である。生半可なものではない。
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2014.04.02 幕末激変を見据え、最後まで己れを失わずに「近代」を生きた「土方歳三回顧録」
〔書評〕歴史時代作家クラブ編『新選組出陣』(廣済堂出版、¥1900円+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 
 幕末維新の群雄の中で、最もわかりやすく、大衆に親しまれるのは新選組であろう。明治時代には、旧体制護持のために血刀をふるって維新の元勲たちの同志を数多く殺した人斬り集団として賊徒扱いされた新選組。いつのまにか頼もしい剣豪集団として、ロマンあふれる集団として認知されるに至っている。

戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦から江戸開城、列藩同盟結成から会津若松の鶴ヶ城陥落、そして箱館戦争へと続く内戦であるが、勝敗は初戦の鳥羽伏見で決し、それ以降の戦いは薩長にすれば残敵掃討のようなものであった。

土方歳三はそのような戊辰戦争のすべてを戦い抜いた男である。負け戦が続こうが意気消沈することなく、まるで戦鬼のように歳三は動いているが、どのような情熱が彼を支えていたのか。
歳三が見果てぬ夢、自分の美学に殉じた「漢(おとこ)」であったとしても、ただ単に死地を求めていたのではあるまい。北海道独立政府に対しても、それなりの夢を託していたに違いない。歳三をして箱館まで戦い続けさせた原動力とは何かを私は知りたい。

 本書『新選組出陣』は歴史時代作家クラブの会員たちによる競作アンソロジーである。歴史時代作家クラブとは、5年前の2011年、歴史・時代小説を執筆する作家たちを中心に創立された親睦団体である。9編の短編からなる本書は全編書き下ろしで、『修羅を生き、非命に死す 小説小栗上野介忠順』の岳真也が「近藤勇」を、『義元謀殺』の鈴木英治が「永倉新八」を、『水の砦 福島正則最後の戦い』の大久保智弘が「沖田総司」を描くなど、9人の作家が9人の新選組隊士を担当している。

描きつくされた感のある新選組に9人の作家がいかに迫るのか、その気迫が書名の一部となった「出陣」にこめられているが、中でも注目すべきは「土方歳三」を担当した塚本靑史である。周知のごとく、塚本は『霍去病(かくきょへい)』で颯爽とデビューし、直近では『サテライト三国志』を上梓するなどわが国における中国歴史小説の屈指の書き手であり、塚本の手による日本史を史材とした歴史・時代小説を読めるとは思ってもいなかったからである。
土方歳三に、塚本がどう迫るのか。土方を採りあげるということは新選組とは何かを問うことであり、ひいては幕末維新という時代を問うことに他ならない。幕末の激動と変転をきっちりと背景にしないかぎり、どうしても新選組は単なる剣戟集団とならざるを得ない。新選組(なお塚本は「新撰組」を採用している。以降、「新撰組」とする)の捉え方ひとつで、書き手の幕末観の一端が推し測られよう。

 塚本靑史の土方歳三を採りあげた短編のタイトルは「最後に明かされた謎」である。作家が解き明かす謎とは何であるかは、読者のためにひとまず触れないでおくが、その前に、蛇足ながら、歳三はいつ、どのようにして死んだのかについて触れておきたい。歳三の最期は謎に満ちているのである。
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2014.03.27 原発事故に労働者が吐いた怒りの川柳
『原発川柳句集―五七五に込めた時代の記録―』

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「フクシマをすっかり忘れて花見酒 黄金餅」。『原発川柳句集―五七五に込めた時代の記録―』と題する冊子が、レイバーネット日本・川柳班の編著で刊行された。川柳好きの労働者が、東京電力福島第1原子力発電所の事故以来、原発問題について吐き続けてきた句をまとめたものだが、そこには、依然事故を収束しえないでいる政府と電力会社への怒りと、早くも事故を忘却しつつある世間へのいらだちがあふれている。

 「レイバーネット日本」は、働く人たちをつなぐ情報ネットワーク。労働運動活動家、市民メディア関係者、労働運動研究者らの呼びかけで2001年2月に発足した。労働運動の発展を願うすべての人に開かれたネットワークで、個人の自律性・自主性に基づいて運営されており、ウェブサイト、動画配信、レイバーフェスタ、レイバーネットTVなどを通じて情報を発信している。

 レイバーネット日本・川柳班は、このネットワークに結集する川柳愛好者の集まり。2010年には初の句集『がつんと一句!―ワーキングプア川柳』を刊行している。今回の句集はこれに次ぐもので、その狙いを「まえがき」で次のように述べている。
 「私たちは原発事故発生以後、首相官邸前や経済産業省前テントひろば、月例句会などの場でそれぞれの思いや怒り、批判を川柳という五七五の極めて短い一句に吐き続けてきた」
 「あれからもう二年以上経つというのに、この非常時ともいうべき事態の中で、政治の無能さと、東京電力をはじめとする責任主体のあまりにも無責任極まりない対応など、私たちの怒りは、まさに怒髪天を衝くものがある。そうした思いを吐いてきた川柳を、この時代のひとつの記録としてまとめ、広く世の中に問い、後の世の人びとのためにも遺しておきたいと思う」

 本書には同班の定例句会の記録も収録されている。その中から、一部を紹介する。

<2011年 夏・秋>
  [夏]
 真夏でも背筋にヒヤリ原発禍        やせ蛙
  [デモ]
六万人政府東電想定外            一志
 脱原発叫ぶわが子ののどの腫れ       白眞弓
 デモに行く脱原発の一里塚     エチゼンクラゲ
  [実り]
 豊穣の大地哭く声聞こえぬか         斗周
 今年から放射能をも収穫す         白眞弓
 セシウムでたっぷり色づく紅葉樹       一志
 放射能実りの秋を苦りきり 乱鬼龍
  [警官]
 東電を守り確保の天下り           斗周
 デモ隊に放射線量訊く警官 英卯蝶

<2011年 冬>
  [十二月]
 直ちにのツケをそろそろ払わされ       斗周
 サンタさん二の足を踏む汚染図       なずな
 惜しまれぬ千に一度の年もあり        奥徒

<2012年 春>
[変わる]
 避難して来たこの街に住む決意       なずな
 死の街に変えた主犯を問わぬまま      囲真人
 一年が過ぎて変わらぬ喪に服す 白眞弓
 [芽]
 芽を出して良かったのかとつくしんぼ    囲真人
 タラの芽に棘より怖いものがつき      笑い茸
 芽も出ない花も咲かない核の冬     かぜはやて
 [風]
 憤死して千では足りぬ風となり 斗周
 [ゼロ]
 ゼロ歳の未来を悔いる汚染地図        奥徒
 セシウムがゼロになる日は墓の中       一志
  [自由吟]
 人類が絶滅危惧種原発禍          囲真人

<2012年 夏>
 [水]
 水清き桜の国の汚染地図         わかち愛
 あの嘘が奪う命の水と空           奥徒
 末期の水セシウム入りはお断り        一志
 [自由吟]
 「安全」と言えば危険と納得し       なずな
 議事堂が小さく見える金曜日         一志
 一億が被曝手帳を持たされる        乱鬼龍

<2012年 秋>
 [ナショナリズム]
 フクシマを置き去りにする愛国心      なずな
[自由吟]
 そういえば工程表つてあつたよね       斗周

<2013年 冬>
 [蛇]
 毒蛇の毒もかなわぬ核汚染         なずな
 [自由吟]
 遺言の通りお棺に防護服          笑い茸

<2013年 春>
 [福島]
 ゼネコンに盆と正月福の島         笑い茸
 棄民という現実を知る二周年        なずな
 フクシマの空気読めずにいる総理     わかち愛
 フクシマとヒロシマ悲劇の人類史      勢子船
 [空気]
 危険だと言えない町で子を育て 笑い茸
砂場では息しちゃダメと母叫ぶ 白眞弓
[自由吟]
収束の二文字嗤う汚染水          なずな
 不良品海の向こうへ詐欺商法         奥徒

『原発川柳句集―五七五に込めた時代の記録―』は四六判、88ページ。発行所はレイバーネット日本。℡03-3530-8588 FAX03-3530-8578。頒価600円

2014.03.16 忍耐力と粘りで堅実に緻密に先へ進んだ家康の若き日の苦悶を描く。
〔書評〕伊東 潤著『峠越え』(講談社、¥1600+税)

雨宮由希夫 (書評家)


 家康はいつの時点で本能寺の変を知ったのか、という興味深い問いかけがある。一説によると、家康は勃発前の「本能寺」を知っていたのではないか、光秀の謀叛には家康も一枚絡んでいたのではないか、とも。それはともかく、信長が本能寺の変に斃れなかったなら、天下人としての家康の出番はなく、「江戸時代」もなかったに違いない。

 本書は「家康と本能寺の変」を史材とした歴史小説で、武田氏を滅ぼした直後の天正10年4月14日、東海道を使って帰国する信長を、家康が駿府城に迎え饗応するシーンに始まり、本能寺の変が勃発し、信長の死が確認された後の6月4日、自領三河へ帰着すべく「伊賀越え」して伊勢湾の洋上に浮かぶ家康までが描かれている。

 本書をひも解く前に、当時の時代背景を略述したい。
 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し、甲斐源氏の名族武田家は滅ぶ。武田氏を滅ぼしたのち、信長は今川氏の旧領駿河一国を家康に与える。5月、信長からの招請があり、家康は信長へのお礼を兼ねて、武田の遺臣穴山信君(のぶぎみ)(梅雪)を伴って安土に伺候する。穴山信君は信玄の甥、勝頼の姉婿で、武田家親類衆筆頭の座にあったが、家康を通じて信長に内応し、勝頼を裏切って敗死させた人物である。

5月19日から3日間にわたる安土での饗応の後、家康らは信長から京、奈良、堺の見物をすすめられる。家康らは堺で本能寺の変に遭遇する。家康は生涯に遭遇したどのケースとも違う危機に直面した。信長の横死により、いまや畿内の地は完全に無警察状態となり、行路は難渋をきわめた。とにもかくにも家康主従は伊賀越えの危難を乗り越え、三河へと帰路に着くが、家康と別行動をとった梅雪は途中で土民に襲われ殺害される。

以上が史実であるが、作家はいかなる物語的構想のもとで史実に立ち向かうのか。コインの両面のように史実と物語的構想が不可分の時、適度な重みがある作品が生まれる。
 家康は6歳から19歳まで13年にわたる人質生活を余儀なくされた。駿府は家康にとって思い出の地である。堪忍自重し石橋をたたいて渡るような家康の生き方は長い人質生活がもたらした劣性コンプレックスから育まれたものと思えるが、本書の作家は、凡庸の才しか持たぬ者の生き方を家康は今川氏の執政、軍事である太原(たいげん)雪斎から教えられたと語りはじめている。
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2014.02.25 51人の脇役は時代とどう向き合ったか、治乱興亡の中に蘇らたネット連載の新企画
〔書評〕塚本靑史著『サテライト三国志 上・下』(日経BP社、各¥1800+税)      

     
雨宮由希夫 (書評家)


いわゆる三国志の時代は日本人にとってなじみ深い時空である。なぜ日本人は異郷の、しかもはるか1800年前の時空に、自国の歴史と人物以上に心惹かれるのだろうか。袁譚、袁尚による後継者争いに付け込んで袁家滅亡に至らしめる曹操に、信長の遺児たちを翻弄して織田家乗っ取りを謀る秀吉を重ね、曹丕、曹植兄弟に頼朝、義経兄弟の猜疑と嫉妬、骨肉相食む愛憎を、敵味方に分かれて戦った諸葛瑾、諸葛亮兄弟に真田信之、幸村の信義と情愛を重ねる向きもあろう。まさに戦乱の中にこそ人間ドラマありである。

これまで『三国志曹操伝』(平成19・20年刊)、『仲達』(平成21年)、『呂布 猛将伝』(平成22年)と三国志に史材を採った作品を発表してきた塚本靑史は、「三国志」の魅力及び本書『サテライト三国志』執筆に至る動機を次のように語っている。

――蜀の劉備、魏の曹操など誰を主人公にしても、「三国志」は正史『三国志』や『三国志演義』の区別なく、その興亡は限りなく複雑な絡み合いを示した上にスリリングで、血湧き肉躍る要素が満載の祝祭空間と言えるだろう。それは「三国志」という神輿の担ぎ手、劉備や曹操を守り立てるキャラクター、脇役が夥しいからである。にもかかわらず、これまで脇役にスポットを当てた物語は案外少なかったのではないか。本書は、それら多くの脇役たちをあえて中心に添えてみた――。

本書は上下2巻Ⅳ部構成。上巻第Ⅰ部 黄巾の乱から汜水関(しすいかん)&長安遷都。第Ⅱ部 長安の興亡から官渡(かんと)&赤壁の戦い。下巻第Ⅲ部 三国分裂から五丈原の戦い。第Ⅳ部 司馬氏の台頭から晋の統一へ。

光和7年(184)、黄巾の乱。乱の発生から、後漢の滅亡、すなわち年代区分による三国時代の開始まで36年の歳月があるが、「三国志」をいろどる「主役」たる英雄群像のほとんどは「黄巾軍討伐」で名乗りを上げている。
中平6年(189) 霊帝崩御。新皇帝の外戚の何進が実権を握るが、宦官勢力の一掃をもくろむも逆に宦官どもに暗殺される。袁紹、袁術らによる宦官みな殺しの惨劇の後、皇帝劉弁と皇弟陳留王劉協を奉じて京師洛陽に入ったのは涼州の軍閥の頭領である董卓であった。労せずして政権を掌握した董卓は皇帝劉弁を廃して、皇弟の劉協(9歳)をたてる。彼こそが献帝である。

董卓の強引で残虐な恐怖政治。反董卓軍の結成。汜水関での睨みあい。洛陽の炎上と長安遷都。呂布による董卓暗殺。涼州組による長安奪還。董卓の死後、その一党が政権を専断する一方、曹操、袁紹、袁術、公孫瓚、呂布、陶謙らの群雄が各地に割拠する。
袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れる。建安13年(208) 赤壁の戦い。曹操は孫権・劉備連合軍に敗れ、多勢の驕りと油断が千載一遇の中華全土統一を逸してしまったことを知る――。

全Ⅳ部の各部は12人ないし13人の総計51人(大橋小橋の「橋姉妹」の章は2人のため)が章立てされている。英雄、豪傑、武将、参謀、美女――。登場人物の51人を選ぶにあたり、まずはネット上で読者アンケートが募られ、その回答を参考にして、作家が主人公を厳選したという。
読者の中には呂布や仲達とともに関羽や張飛の章がないといぶかる向きもあろうが、靑史ワールドでは彼らは「脇役」ではなく「主役」なのである。

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2014.02.14 「女の子にも教育を」と訴え、実践してタリバンに撃たれた少女
「わたしがマララ」マララ・ユスフザイ、クリスティーナ・ラム著
金原瑞人、西田佳子訳 (学研パブリッシング、428ページ 1680円)
  

伊藤力司 (ジャーナリスト)


世界中でベストセラーになった話題の書「わたしはマララ」は、女子教育に反対するイスラム教過激派タリバンの勢力が強いパキスタン北西部スワート地区で生まれ、育った15歳の少女が「女の子にも教育を」と訴え、実践したためタリバンに拳銃で撃たれ、瀕死の重傷を負いながら志を貫く物語である。少女の名前はマララ・ユスフザイ。これは傷のいえたマララが綴った、16歳までの彼女の人生の記録である。

この銃撃事件は全世界に衝撃を与え、命を懸けて世界中の女の子が教育を受ける権利があることを、身を以って訴えたマララは一躍有名人となった。スワート中央病院で応急処置を受けた後、パキスタン北西部の中心都市ペシャワールの総合病院にヘリで搬送されて緊急手術を受けた。弾丸は額から右の耳に貫通していたが脳を損傷していなかったので、辛うじて命は取りとめた。

事件にショックを受けたパキスタン政府と軍のお声掛かりで、マララは最高レベルの集中治療室のあるラワルピンディの国軍病院に再び移送されて集中治療を受けた。その結果合併症が治療され、最低限の小康状態が得られた。この段階で米英や、ドイツ、シンガポール、アラブ首長国連邦などから、マララの治療は自国の病院で引き受けたいとの申し入れが殺到。これらの申し出でを検討したカヤニ・パキスタン陸軍参謀長は、旧宗主国イギリスのバーミンガムにあるクイーン・エリザベス病院を選んだ。

もとよりこうした経緯は、マララの知らないところで進んでいた。マララが銃撃されたのが2012年10月9日。6日後の10月15日、マララはアラブ首長国連邦が提供した豪華ジェット機で英国に到着、バーミンガムのクイーン・エリザベス病院に入院した。数日後パキスタン政府の配慮で、マララの両親と弟2人がバーミンガムに到着。以後一家はバーミンガムに滞在することになる。

ひとりぼっちで英国に来てさびしかったマララは、家族と再会して元気を取り戻した。銃撃で損傷した顔面神経の蘇生手術や、緊急手術で頭蓋骨の一部をカットしたのを修復する手術など、予後の試練を乗り越えたマララ。ザルダリ・パキスタン大統領がクイーン・エリザベス病院にマララの見舞いに訪れ、国際的に大きく報道された。

2013年7月12日はマララの16歳の誕生日。潘基文(バン・キムン)国連事務総長の招待でニューヨークの国連本部を訪れたマララは、素晴らしいスピーチをした。「わたしは世界の指導者に世界じゅうのすべての子どもに教育を与えてください、と呼びかけた。」「本とペンを持って闘いましょう。それこそが、わたしたちのもっとも強力な武器なのです。ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです」

スピーチが終わると、400人を超す聴衆のスタンディング・オベーション(全員が立ち上がって拍手を続ける)が起こった。ニューヨークに同行した家族はこの光景に立ち合って感激した。マララの母は泣いた。父はマララが世界じゅうの人たちの娘になったと言った。この感動的なスピーチはもちろん全世界に伝えられた。

スピーチの映像を見た各国の識者の間から、マララにノーベル平和賞をという声が挙がり、ノ―ルウェーのノーベル平和賞選考委員会まで届いた。史上最年少の平和賞候補者である。この報道でマララの名前はさらに知名度を増した。マララ一家はパキスタン政府・軍の意向で、今も異郷のバーミンガムに暮らしている。

マララや両親は故郷のスワートに帰りたくでたまらないのだが、帰れない。もしマララたちがスワートに帰ってから再びタリバンに襲撃されたら、パキスタン政府・軍の面目は丸潰れになる。パキスタン軍は2009年5月から7月まで、スワートに大軍を派遣してタリバン征伐大作戦を行い、マララ一家の住む町ミンゴラからタリバンを追放した。だが、周辺の村に潜むタリバンのゲリラ活動は止まっていない。

それはパキスタン北西部からアフガニスタンに住んでいるパシュトゥン民族が、タリバンの主力だからである。人口約1億8千万のパキスタンにパシュトゥン人は15%、ざっと2700万人。人口約3400万のアフガニスタンのパシュトゥン人は38%、ざっと1290万人。おおよそ4千万人のパシュトゥン人がこの両国に住んでいる。そして両国のタリバンは、ほぼ100%パシュトゥン人で構成されているのだ。

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2014.02.12 複眼的な視点で、編年史的視点では捉えきれない真実を追った〈昭和もの〉歴史小説の傑作
書評〕船戸与一著『満州国演義 8 南冥の雫』(新潮社、¥2000+税)

雨宮由希夫 (書評家)


『満州国演義』と銘打たれた船戸与一畢生の大作である本シリーズは、第1巻の「風の払暁」で昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件を描くことに始まり、本書でついに第8巻となった。第7巻の出たのが一昨年の6月だったから、一年半ぶりの刊行となる。

明治・大正から昭和という激動の時代を生きた実在の人物群像を登場させ、あの時代の政治・外交・戦争の実際をあますところなく活写することによって、国家と個人、組織と人間、日本とは何か、日本人とは何かに踏み込んだ、この傑作の第一巻が発表されたのが平成19年4月であり、6年の歳月を費やして『満州国演義』は今なお未完である。病魔と闘いながら、書き続けているその姿を思うと胸に迫るものを禁じ得ない。

前作の第7巻では、第2次近衛内閣のもと大政翼賛体制に一直線に向かう過程を軸に、日独伊三国同盟、独ソ開戦を経て東条内閣による日米開戦、マレー進攻にいたる皇紀2600年の昭和15年(1940)から16年までが主に描かれた。待望の最新刊である本書では、ミッドウェーでの大敗からインパール作戦へと迷走する大日本帝国、昭和17年(1942)から昭和19年までの日本が描かれる。

太平洋戦争前期、南方作戦の勝利という初戦の朗報に浮かれる日本であったが、全滅に近いかたちでミッドウェー海戦を終えたにもかかわらず、大本営がそれをあたかも勝利したかのごとく発表したことから歯車が完全に狂いだした―と作家は説いている。ミッドウェー海戦で打ちのめされた日本軍が、ガダルカナル島での悲惨な敗北を喫するのは運命づけられていた、ということであろうか。

『満州国演義』の主舞台である満州の地に、内地の窮乏や米軍による本土襲撃の一報がもたらされるとともに、満州にも大日本帝国の翳(かげ)りが着実に忍び寄ってくる。大本営は関東軍の師団や連隊を引き抜いて南方に送っているが、いよいよ本格的な反撃に転じた連合軍の攻勢によって戦局は次第に日本にとって厳しいものとなってくる。南方での戦況の悪化は隠しようがない。

大東亜共栄圈構想を掲げる戦争の終焉が迫る。にもかかわらず、「大東亜共栄圏の盟主」きどりの東条首相は精神論だけを振り回し、大本営は事実を隠蔽し、撤退を転進とか転戦とか耳触りのいい言葉に変えて発表するばかりである。
この時期の日本は破滅の道をひたすら進んでいった。帝国陸海軍は南方でも中国大陸でも制空権を失った今、もはや戦争継続能力はない。
人々が恐懼恐慌する時代の混迷さが浮き彫りになっていく。官僚主義的な硬直した体制が培養した国家や軍の指導的立場にいる人間の品性の卑しさが、絶望的な情況に陥っているこの時代の時空をいっそう暗澹たるものにしていることを作家は怒りを抑えて書き記している。

サブタイトルに「南冥の雫」とある。「冥」は、「くらい」、「道理にくらい」、そして「死者の世界、あの世」を意味する(『大辞林』三省堂)。このサブタイトルはインパールやガダルカナル、ニューギニアなどの南方戦線で、功名心に燃えるだけの「道理に暗い」司令官の命令で無惨な戦いを強いられ、斃れて「あの世」へと旅立たざるを得なかった兵士の無念の涙と解せよう。

『満州国演義』の主人公は幕末維新の戊辰戦争時に奇兵隊として活躍した長州出身の祖父をもつ東京府霊南坂の敷島家の四兄弟である。
満州国という日本の傀儡国家の日系官吏の太郎は、肩書こそ満州国国務院外交部政務処長だが、関東軍の意のままに操られるだけの形式的な立場におかれているだけで、外務官僚の出る幕などどこにもない。

四兄弟の中で最も愛国心とは縁のなかった大陸浪人の次郎は、自分から動いて金銭を稼ぎつつ相変わらず風任せで生きているが、陸軍第15軍司令部によるインパール作戦で囚人部隊を率いての特殊行動を引き受ける。

憲兵隊の花形だった三郎は陸軍機動第2連隊第一中隊長少佐として満州での対ソ戦に備える。関東軍は南方作戦のために引き抜かれて蘭印やビルマ、ニューギニアなどに投入されている。満ソ国境で帝国陸軍と極東ソ連軍が激突する状態には今はないが、いずれは戦わなければならない宿命にあると覚悟するとともに、国警や国軍の満人部隊の反乱を目の当たりにし、反乱を民族意識の発露としてとらえ警戒する。

満映を辞めさせられ、関東軍嘱託となった四郎は、関東軍特殊情報課第四班に所属して国民革命軍や八路軍が満州で動き出すに備えての情報分析作業に従事し、他の兄弟に先駆けて国内外の戦況を知り得る立場になる。
敷島家の内情に通じ陰に陽に四兄弟とかかわりを持って出没する関東軍特務の間垣徳蔵は陰の主人公というべき人物である。素性不確かな徳蔵が本巻では日独伊三国同盟に反対し、日中戦争の延長としての対英米開戦に反対し、強烈な東条批判者でもあるという良識的な側面を垣間見せもする。

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