2016.01.28 圧倒的な直接取材で解き明かす中東の現在
川上泰徳著 『中東の現場を歩く―激動20年の取材のディテール』 合同出版、2200円、発行年月日: 2015年12月15日

坂井定雄(龍谷大学名誉教授)

著者は、朝日新聞の中東専門記者を20年余にわたり務め続け、昨年1月に退社して本拠地をエジプト・アレキサンドリアに移し、本書を書きあげた。わたしが最も信頼し、情報・分析のよりどころとしてきた、ジャーナリスト。
達者なアラビア語を駆使して、戦争・紛争が続く中東で、各地の人々とのインタビューを重ね、理解し、分析して書いたリポートを一冊にまとめ上げたのが本書である。本書は小難しい理屈や引用でページを埋めたような中東本や論文とは全く違う。インタビューする著者と答える中東の人々の生の姿が、目に見えるような、ジャーナリストの躍動と苦労のルポルタージュなのだ。可能な限りインタビューを、対立する、あるいは立場の異なる当事者、関係者たちと行い、重ねるのが、彼の取材手法の柱。本書は緊張感に満ちた、取材記録ともいえる。
7章にわたる本書の第1章「オスロ合意と制裁下のイラク」のスタートは、パレスチナとイスラエルの歴史的な和平協定になるはずのオスロ合意の調印が行われた、1993年のワシントン。オスロ合意に対しては多くのパレスチナ人たちが疑念と不安を抱いていた。調印式の前夜、パレスチナ側の本部になったホテルの地下ホールにPLO(パレスチナ解放機構)議長の故ヤセル・アラファトが初めて現れ、「アラファト、アラファト」「パレスチナ、パレスチナ」の大合唱で迎えた在米パレスチナ人に対して、アラビア語だけの演説を始めた。アラファトは「ハッタ・クドス(エルサレムまで)!」のアラビア語に力を籠め、演説を締めくくった。アラファトの記者会見は予定されてなく、各国記者団は既に引き上げており、残ってパレスチナ人たちの取材を続けていた著者だけの報道になった。
第2章「9.11事件とパレスチナ・第2次インティファーダ」は、パレスチナ人の不安どおり、イスラエルの占領地からの撤退どころか入植地拡大が続き、ついに2000年9月からパレスチナ人たちの第2次インティファーダ(武装抵抗)が始まり、過激派の自爆テロとイスラエル軍の報復攻撃が繰り返されるようになった時期。エルサレム支局長だった著者は、自爆テロでイスラエル兵2人を殺害したパレスチナ人の青年(23)の自宅を探し当て、悲しみに暮れる両親から息子について取材し、両親への遺書をみせてもらった。本書では遺書を再録し次のように書いているー「この遺書を読んで、わたしは驚いた。イスラエルの占領を批判するような言葉が並んでいるのかと考えていたが、実際には政治的な事柄が少なく、『(この世は)虫の羽ほどの価値もない』と現世を否定的にとらえ、天国に行くことの素晴らしさを強調していた。自爆作戦(=殉教作戦)とは実行者にとっては政治的な行為というよりも、宗教的な行為だということを理解した」

 一方著者は、第2次インティファーダが始まって以来続出した、イスラエル青年とインタビューし、集団で兵役拒否を軍に伝えた高校生たちと手紙を往復している。ある手紙は「私たちは良心に従って、パレスチナ人への抑圧に関わるのを拒否します。その行為はテロ行為と呼ばれて然るべきものです」と結ばれていた。
第2章は次のように結ばれている―「エルサレム特派員としては、状況の悪化の中で、毎日のように暴力的な出来事を記事として書いた。しかし、ジャーナリストが暴力に麻痺してはならないと考えた。そのために常に平和の可能性を探り、平和の声をすくい取るしかないとおもった。」
第3章以降は、現在のすさまじい中東危機を生み出した、米ブッシュ政権が強引に開始したイラク戦争と「拡大中東構想」の実態が、著者の豊富な現地取材の積み重ねを柱にしてリポートされ、解き明かされている。
第3章「イラク戦争と戦後の混乱」では米軍の戦争の実態とともに日本からサマワに派遣された自衛隊についてもリポートされている。第4章「米国の民主化の挫折と深まる危機」では、イラク戦争と米国の政策が中東にもたらした影響を追及している。
第5章「『アラブの春』とエジプト革命」は、カイロ支局長だった著者による、中東の「アラブの春」の民主革命の生き生きとした取材、報道記録でもある。特にエジプトの2011年「1月25日革命」では、それをリードした若者たちや中心地のタハリール広場でのデモ参加者たちを幅広く取材し、革命を解明している。著者の「1月25日革命」の報道は、国際的にも最も優れていたと思う。
第5章ではサラフィー主義の台頭にも多くのページが割かれている。サラフィー主義はイスラム教徒により厳格なイスラム法の実行を求める「イスラム厳格派」。そのための戦いを「聖戦」とする。さまざまな宗派・組織があり、サウジアラビア王政はサラフィー主義で統治している。エジプトのサラフィー派政党は、独裁政権下でも非暴力を守って組織と活動を維持してきたが、革命後、より穏健なムスリム同胞団と手を結んで、議会選挙で勢力を大きく伸ばした。著者は「アラブの春」でのサラフィー主義の拡がりと、挫折後の過激化に注目した。(過激なサラフィー主義を、聖戦派、過激派と呼ぶことも多い)
第6章は「噴出した暴力・「アラブの春」その後」、第7章は「「イスラム国」はどこから来たのか」。「アラブの春」が暗転、エジプトでの軍のクーデターや、シリアのアサド政権による民主化勢力の過酷な弾圧から内戦が拡がった。著者は「イラクで生まれた戦闘的反米聖戦組織が、「アラブの春」の若者たちのエネルギーを吸収して生まれたのが「イスラム国」」「世界は今、「イスラム国」という暴力が凝縮したような存在と対峙することとなった。」と書く。そして本書を「日々内戦の死者が増え、難民が増えているのに国際社会が本気で事態の正常化にかかわろうとせず、「イスラム国」への空爆という不毛な対処療法だけで時間を無駄に費やすならば「イスラム国」をさらに肥大化させることになる」と結んでいる。

2015.12.03   アメリカ軍事基地廃止のために-書籍紹介
小川 洋(大学教員)

デビッド・ヴァイン著『基地国家‐アメリカ海外軍事基地がいかにアメリカと世界を傷つけているか』(未訳) “Base Nation: How U.S. military bases abroad harm America and the world,” Metropolitan Book, 2015. 432p.

 2011年、当時の米国務省日本部長だったケビン・メアの「日本人は怠け者でゆすりの名人」発言が記憶にある人も多いだろう。発言をインタビューのなかで引き出したのはアメリカン大学の学生たちだったが、『基地国家』の著者デビッド・ヴァインは、その指導教員であり、ワシントンにあるアメリカン大学の准教授だ。
 ヴァインは人類学者である。インド洋に浮かぶディエゴ・ガルシア島の基地建設に際して理不尽にもアフリカなどに追放された元住人たちの現状調査に基づいた『恥ずべき島‐ディエゴ・ガルシア島の米軍基地の隠された歴史』(未訳)を2011年に出版している。彼はその前後から数年間にわたって世界各地に広がる米軍基地を調査し、国内外の米軍関係者や海外基地の周辺住民などへのインタビューを重ね、今回の出版に至っている。国際政治学者でもなければ、軍事問題の専門家でもない。それがこの本の強みであり、世界中に展開されている米軍基地を市民的視点で観察し論じ、アメリカは海外基地を引き払うべきだとする結論は、強い説得力をもつものになっている。

 本書は序章と5章17節からなり、構成は以下のとおり。
第一章 成り立ち(基地国家誕生、リトル・アメリカから蓮の花へ)
第二章 足跡(排除、植民地支配、独裁者との友好関係、危ない連中、有毒廃棄物)
第三章 労働力(服務、売春、軍隊調男らしさ)
第四章 財政(請求書、受益者、軍事建設業)
第五章 選択(「ゆすりの名人」、もう充分、蓮の花戦略、真の安全とは)

序章はアメリカが海外に展開している基地の総数と運営経費などの推定から始まる。基地の定義には明確なものがなく、国防総省さえもが正確な数字を把握していない。ヴァインは、70カ国に約800カ所の基地があり、家族や従業員も含めて50万人のアメリカ人が海外基地に所属し、その費用は年間20兆円に達すると推定している。

第一章では、1830年にジャクソン大統領が先住民排除とヨーロッパ移民に農地を与える政策を打ち出した時から軍事基地建設が本格化したことを指摘し、アメリカの「防衛の歴史」が、常に「国益」拡張のために「外敵」を探して叩く性格があったことを示唆する。その意識は根強く、現在も海外基地のスタッフは自分たちの駐留する土地を、アメリカ先住民を意味する侮蔑的呼称である「インディアンの国(Injun Country)」と表現しているという。

 第二章では、アメリカ軍が基地運営の都合上、中南米はもちろん世界各地で独裁者を支持し、時には犯罪組織さえも利用してきたことを指摘する。第二次大戦中のイタリア戦線においては、当初からマフィアとの深い関係が生じたことを克明に紹介している。アメリカ軍の手足となって基地建設に協力した現地マフィア組織は、より大胆に不法行為を行うようになったという。ナポリ周辺では放射性廃棄物までも含む大量のゴミの不法投棄が深刻な土壌汚染をもたらし、現地のアメリカ軍人たちの生活をも脅かすに至っている皮肉な事例も紹介している。

 第三章では、ドイツ、イタリアあるいは韓国さらに日本の米軍基地周辺の売春に従事する女性の統計データと実態が丹念に紹介され、軍事基地がどれほど現地社会を歪めてきたかを説明し、読むものを暗澹たる気持ちにさせる。さらに女性兵士の3人に1人が同僚からの性的暴行の被害にあっているとする調査もあり、アメリカ軍男性兵士の性意識の歪みがアメリカ軍自体の文化に深く根差していることを指摘している。

 第四章では、軍事企業であるハリバートンなどによる基地運営の民営化の広がりを取り上げている。基地内の生活サービスの効率化、迅速化などをうたっているものの、従来の基地スタッフの提供するサービスの2,3倍の予算規模となっていること、政府の支払いを受ける企業の多くは本社を海外に置き、タックス・ヘブンを利用した納税回避が当然のように行われていることなどを指摘する。

第五章の最初の節は「ゆすりの名人」で、大半を沖縄基地の歴史と現状の解説に費やされている。表題が括弧付きになっていることからも分かるように、ヴァインは日本部長だったメアの議論に同調してない。ヴァインは沖縄が日米戦争末期、一般住民も巻き込んだいかに凄惨な戦闘の場になったか、また占領後のアメリカ軍が民生をまったく顧みない基地建設を強行してきたかを指摘している。しかも現在、その軍事的存在意義に重大な疑問が投げかけられている海兵隊が、自らの既得権益を守るために居座ろうとしていることを指摘し、米軍沖縄基地こそが、アメリカ人たちを「ゆすっている」のだとしている。

ヴァインは本書の随所で、組織としての国防総省がいかに官僚主義に毒され、自己の権益を守ることに汲々としてきたかを繰り返し指摘している。予算削減が進むなかで、議会などからの厳しい批判を免れるため、用語のすり替えで誤魔化すことを常套手段としていること、また現地の基地反対運動に対しては、撤退による地域経済への打撃を地元政治家などへの脅しとして利用していることなどである。もっともヴァインの調査では、多くのケースで基地撤退後、2,3年後には基地依存は清算され、新たな産業がうまれているという。

 世界各地の米軍基地が置かれている状況を丁寧に描く本書を通読することにより、在日米軍基地の問題を、世界各地の米軍基地の動きのなかで捉え直すことができる。たとえば、アメリカ政府とくに国防総省の目からは、我々が考えている以上に反米基地運動が深刻に受け止められていることに気付く。アメリカとしては辺野古基地が完成したとしても、反対運動によってその自由な利用が困難になることを計算しなければならなくなる。またとくに海兵隊自体が不要な軍組織であることがアメリカ国内でも認識されつつあり、日本国民とりわけ沖縄県民の抗議はアメリカ議会の動きと連動する可能性もある。

アメリカの海外軍事基地見直しの動きの背景には、アメリカ政府財政の窮乏化がある。保守的な共和党上院議員さえもが、ヨーロッパとアジアに配置されているアメリカ軍を2021年までに3分2まで削減することを提案している。他にも共和党、民主党の双方から海外の軍事基地撤収が提案されている。ある有力新聞のコラムニストは、「ドイツにある米軍基地を引き揚げたらロシアが侵攻してくるのだろうか」と問いかけている。抑止論などの軍事理論に基づく議論が、常識的議論によってその空虚さが明らかにされ、覆されつつある。アメリカ政府財政の逼迫が進む中、これらの議論は今後ますます勢いを増していくであろう。
それにしても、極東の島国の一部の政治家や一部マスメディアの、アメリカ軍が撤退したら「沖縄は中国に取られる」というような議論を真顔でしている周回遅れの様はなんなのだろう。アメリカの政治指導者層の間に、やっと正気を取り戻す流れが強まりつつある。戦争終結70年、冷戦終結25年の現在、アメリカの正気と日本国民の賢明さによって、日本の米軍基地という戦後の歪みを清算できる時期が来ている。
2015.09.08  戦後七〇年の哀しさ
 書評 大沼保昭著 聞き手江川紹子『「歴史認識」とは何か―対立の構図を超えて』(中公新書)

半澤健市 (元金融機関勤務)

《居酒屋の酔客の発言でも橋下徹の発言でもない》
 ■韓国や中国は、われわれに要求することを自分たちにはできるのか。日本ばかり責めるけれど、韓国にも慰安婦はいたではないか。ベトナム戦争のときに派兵された韓国軍はベトナムで一体どれほどひどいことをやったんだ。中国は、南京大虐殺だと日本をさんざん非難するけれど、自分のところであれだけの人権弾圧をやっているではないか。毛沢東は大躍進や文化大革命で自国民を何百万人死なせたんだ、チベットやウィグルでの大規模な抑圧、人権侵害は何だ。そういうことをやっていながら日本を批判できるのか。あるいは、欧米はあれだけ列強として植民地支配をやっておきながら、なぜ日本に説教を垂れるのか。自分たちは、旧植民地の膨大な数の人々に、日本のように反省して謝罪したのか。■

上記に引用した文章は、居酒屋の酔客の発言ではない。橋下徹大阪市長の発言でもない。他ならぬ本書の著者大沼保昭(おおぬま・やすあき、1946年~)が書いた文字であり、これに続けて彼は「これは、素朴な、人としてごくあたりまえの不公平感だと思うのです」と言っている。
大沼は、これらの「あたりまえの不公平感」を理解はするが、肯定はしない。彼は批判者と同じ目線に立って、事実はどうだったのかを丁寧に述べ、当事者による解釈の違いを述べ、その違いの発生する理由を述べる。その仕方で相手を静かに説得しようとする。

《「平和に対する罪」をテーマとしての出発》
 東大法学部を出て「平和に対する罪」をテーマとして研究を始めた著者が、別のスマートな課題を選んでいれば、おそらくこういう疑問や批判に苦労することはなかった。
本書は、過去半世紀にわたる著者の研究と実践を、インタビュー形式で、発言した一冊である。著者は「はじめに」にこう書いている。

■本書でわたしが成し遂げたいことは、すぐれたジャーナリストである江川紹子さんに聞き手の役を演じてもらうことによって、読者の方々に「歴史認識」にかかわる「見取り図」を示すことである。そして、本書の読者が、それまで自分がもっていた見取り図をすこしでも考え直し、自分と対立する考えを持つ人たちと見取り図を突きあわせるのを助けることである。■

《徒労感に押しつぶされた慰安婦問題》
 それが成功したかどうか。以下は私(半澤)の感想一束である。
私は、大沼保昭の名前を東京裁判の研究者としてしか知らなかった。大沼が「アジア女性基金」の当事者として苦労したこと―基金への毀誉褒貶を叙述している―を知らなかった。
欧米帝国主義の下にあった旧植民地諸国が、「人権」と経済発展という武器によって、宗主国を告発する二一世紀が始っている。それを私は詳しくは知らなかった。市民運動への参加と国際的な活動を通して、大沼の心情が如何に変化したか。それを私は知らなかった。「語り手のあとがき」に著者はこう書いている。

■市民運動に長年従事してきたわたしにとっても、慰安婦問題ほどやりきれなく、徒労感に押しつぶされたものはなかった。わたしが深くかかわったアジア女性基金による元慰安婦の方々への償いは、これに否定的な態度をとるメディアの圧倒的な力の前で、よかれと信じて力をつくしたことがごく一部の被害者にしか届かず、誤解をもったまま基金の償いを受け取らずに亡くなっていく被害者の方々に何もできず、長年好きな国だった韓国が好きでなくなってしまうという、自分でも心底嫌な感情をもって活動を終えざるを得なかった。■

《戦後七〇年の哀しさ、しかし》
 ある作家が本書を読んで作者の語りを「印象的なのは、静謐で、少し哀しげなしゃべり方」と評した。作家の直感である。そして「静謐と哀しさ」が本書のトーンであると私も感ずる。それは深い余韻を残す哀しさである。戦後民主主義の七〇年目の夏に、「静謐と哀しさ」を知らず知性の感じられない人物が権力の頂点にいる、という哀しさである。

しかし、だからこそ、いや、にも拘わらず「それまで自分がもっていた見取り図をすこしでも考え直し、自分と対立する考えを持つ人たちと見取り図を突きあわせるのを助け」たいとする著者の心情は私に強く訴えかけてくる。その心情が多くの読者に届くことを、私は強く望む。(2015/09/03)

大沼保昭著 聞き手江川紹子『「歴史認識」とは何か―対立の構図を超えて』、中公新書、中央公論新社、2015年7月刊、840円+税
2015.07.02 宮里政充著『あれは何の足音だ?』を読む
――八ヶ岳山麓から(150)――

阿部治平(もと高校教師)


ここに紹介する『あれは何の足音だ?』は、著者宮里政充の、本ブログ「リベラル21」・雑誌『全作家』・郷土誌『越地誌』に寄せたエッセイをまとめた「私家版」である。「まえがき」によれば、彼は安倍政権が憲法を蹂躙して、日本の平和と安全が危機に瀕している現状にたまりかねてこの本を作った。

宮里は、沖縄本島北部の国頭郡今帰仁村字越地(くにがみぐんなきじんそんあざこえち)で生まれ、6歳そこそこであの沖縄戦のさなか山中をさまよい洞窟に隠れ、敗戦後もカタツムリなどを食いながら生き延びた人間である。
彼の兄たちが研究制作した「家譜」によると、彼の家は明末清初の1617年に中国福建省から琉球へわたってきた「陳華」という人物の末裔である。私はそれを聞いたとき、彼が小柄なのは中国南方人の遺伝子によるものとただちに納得した。

まず彼は日本が沖縄にどう対処してきたか語る。( )内は阿部。
――1609年(関ヶ原の戦いから9年)、薩摩は3000人に及ぶ船軍をもって「琉球征伐」をおこない、琉球王を拉致し、開幕したばかりの徳川家康に謁見させた。
1879(明治12)年警察と軍隊合わせて400人が首里城に乗り込んで「琉球処分」(廃藩置県)を強行して琉球王朝を崩壊させた。
第二次大戦では沖縄上陸戦による住民4分の1の犠牲を強いた。
30年近くのアメリカ統治のあと、本土復帰(1972年5月15日)後も米軍基地を存続させ、ベトナム戦争時には沖縄に米軍の中継基地の役割を果たさせた。
さらに安倍内閣は、沖縄を米軍の軍政下においたまま日本が主権を回復した4月28日を「完全な」主権回復の日として祝い、さらに今度は新たな基地の建設をもくろむ……。
わかりきったことを繰返すのは教師上りの悪い癖だが、ひとこと。
「琉球処分」とは、明治政府が琉球を強制的に近代日本国家に組込んでいった一連の政治過程。1872(明治5)年琉球藩設置に始まり、79年の沖縄県設置に至る過程をいう。これによって琉球王国は滅びた(三省堂『大辞林』)。
琉球は清国へも朝貢していたから、日本は1880年清国と領土交渉をした。明治政府は「沖縄諸島以北を日本領とし、宮古・八重山諸島を清国領とする」と提案(いわゆる分島・増約案)したが、清国側は「奄美大島以北を日本領とし、沖縄諸島を独立させて琉球王国を復活させ、宮古・八重山は清国領とする」という案であった。この交渉は調印に至らず、結局1894~95(明治27~28)年の日清戦争における日本勝利によって、琉球列島はすべて日本領というのが既存の事実となった(本書p10の記述は引用の仕方に疑問がある)。
そして時はたち、2014年1月名護市長選挙のとき、自民党石破幹事長は500億円の「名護振興基金」を引っ提げて辺野古移転賛成の末松候補の応援にやって来た。移転反対の稲嶺氏が当選すると基金構想をたちまち引っ込めた。公金で公然と買収しようとしたのだが、これは沖縄人を怒らせた。
「日本政府はこれだけの歴史を背負わされた沖縄県民が、沖縄人としてのアイデンティティーを求めて立ち上がらないとでも思っているのか?」
度重なる差別と蔑視に耐えかねて、沖縄独立の気分が湧き出したことについて宮里はこう書く。
――まず、沖縄人は独立を具体化する前に、足腰のしっかりした理論武装と、したたかな抵抗力を身につけなければならない。沖縄独立への動きはまだ産声を上げたばかりだが、「ここに奇跡の国沖縄あり」と高らかに謳いあげられる日が来ることを切に願うものである。
そして「私の祈りはこれである」という。

筆者が中国に滞在していたとき、民主党内閣の拙劣な外交によって尖閣問題が先鋭化した。中国では人々が「反日」に湧き立った。大小の歴史研究者がにわかに「琉球問題」をあちこちに書き始めた。私に「(尖閣だけでなく)沖縄は日中どちらのものと考えるか」と詰問する人もいて、私は「どちらのものでもない、沖縄人のものですよ」と答えたことを記憶している。
2013年5月になると、「人民日報」「環球時報」などは「琉球処分」の交渉経過を奇貨として「歴史的な懸案にして未解決の琉球問題を再び論議できる時が来た」と小躍りしているような論説を掲げた。
これについて宮里は「この主張に対してはとても賛成できない」という。いくら琉球が日清の「両属国」だったといっても、沖縄には日本人として生きた百数十年の歴史がある。宮里は将来沖縄が独立することはあっても、沖縄が中国に属する可能性はないという。

さて、肝心の基地問題だが、宮里の主張はこうだ。
――本土の人たちは沖縄の異常な基地負担に同情はしながらも「他人事」で今日まで過ごしてこられた。米軍基地は、米軍政下の沖縄に静岡や岐阜などから移転したものである。なぜ沖縄にもってきたか。本土人の抵抗が激しかったからである。米軍基地が沖縄に集中するのは沖縄に対する地域差別があるからだ。
そして沖縄に米海兵隊がいる不合理をこう指摘する。
「沖縄の海兵隊が北朝鮮や台湾海峡を同時に警戒し対処する上で好位置にあるとする日本政府の説明も、地図で距離関係を測るまでもなく説得力に欠ける。沖縄海兵隊の本隊は長崎県佐世保港にある。沖縄には輸送手段である艦船も輸送機もない。したがっていざ出撃となったとき、艦船が佐世保港からたどりつくのを待ち、輸送機が米本国から飛んでくるのを待つしかない」
沖縄海兵隊の抑止力効果については、3月29日朝のNHK日曜政治討論会で元防衛大臣・森本敏氏と元内閣総理大臣補佐官・岡本行夫氏が「軍事的には沖縄海兵隊の沖縄駐留が唯一の抑止力ではなく、辺野古移設は政治的な選択の問題である」と語っている。
ではなぜ海兵隊が1800人もいるのか。日本政府がグアム全面移転をひきとめたからである(詳しくは、新外交イニシァティブ編『虚像の抑止力――沖縄・東京・ワシントン発安全保障政策の新機軸』、屋良朝博『誤解だらけの沖縄・米軍基地』いずれも旬報社)。
期せずして、宮里と同じ趣旨のことを元防衛研究所長・内閣官房副長官柳澤恭二はこういう。
――本土の基地は日本がアメリカに従属していることの象徴になっていた。(19)60年代から70年代にかけて、それを沖縄にもって行く。本土では目に見えないものになった。米軍がなぜ沖縄に集中したか。
それは基本的に地域差別の問題である。日本の辺境沖縄に押付けて、矛盾を局部化してしまう。沖縄の中では普天間という街の真ん中の人口密集地から辺野古という人口の少ないエリアに移せば危険性は減るという論理だ。かくして差別の局所化がどんどん進む(『自分で考える集団的自衛権』青灯社)。

さて、本書の3分の1は、琉球方言と琉歌と戦争体験である。彼は1999年『吉屋鶴幻想』(菁柿堂)を著して、琉球の方言と文学と音曲・舞踊を我々に紹介した。本書にもその研究成果が一部紹介されている。
吉屋鶴は遊女である。宮里はこのまぼろしの遊女のものとされる歌をとりあげ琉歌を論じた。たとえば吉屋鶴が漂泊のわが身を嘆いた歌。
「寄る辺無いのものや 海士の捨て小舟
着く方ど頼む 繋ぎたばうれ」
これを首里方言に近く読むとこうなる。
「ユルビネンムヌヤ アマヌスィティウブニ
ツィクカタドゥタヌム ツィナジタボリ」
大和古語に置きかえると、
「寄る辺無きものは 海士の捨て小舟
着く方ぞ頼む 繋ぎ給われ」

私が以前「アイヌ語が滅びたように、琉球方言も権力によって滅びる」といったとき、彼は「琉球には漢字と仮名による「『おもろさうし』のような記録文学が存在した。その点アイヌ語が口承文学しか持たなかったのとは異なる。現状からすれば琉球方言は失われてはいない」といったことがある。
宮里は琉球方言と琉球文化をこよなく愛し、これを誇りに思っている。彼が日米関係、日本政治の不条理を論じるとき、よって立つところは沖縄の歴史であり文化である。そして我々も今沖縄を抜きにしては、平和と安全を語ることはできない。

宮里政充 メールアドレス sanramyp0014@yahoo.co.jp
本書頒布価格 700円
2015.05.13 平野久美子著 『テレサ・テンが見た夢』 筑摩書房
    発行年月日  2015年4月10日; 定価  ¥1000E

雨宮由希夫 (書評家)

 テレサ・テン(鄧麗君)がタイのチェンマイで急死したのは、平成7年(1995)5月8日のことであった。衝撃の急逝から20年。今年2015年は節目の年である。
本書の単行本(便宜上「原書」と呼ぶ)は鄧麗君が亡くなった翌年の1996年5月に、晶文社より刊行された。今回、文庫化あたり大幅に増補改訂されている。原書から20年の歳月が流れている。全くの別の本として読むべきであろうか、迷いながらページを括った。
 本書はもともと書名にある通り、テレサ・テンが夢見た夢とは何であったかを探し求めたものである。原書では、逝去後1年に、著者がこれぞテレサの夢と見なしたものと、20年後の今日、考えられるテレサの夢と同じものであるか?
もし彼女が生きていたら、母国台湾や父祖の国中国の変わりようをどのように眺めていただろうか? 著者の問いかけは的確かつ親身で、生涯、二つの中国の間で「祖国」を歌い、問いつづけた鄧麗君の「最後の祈りにも似た“夢”」に迫っている。

 著者の平野久美子はテレサとは3歳年上。早くから、テレサに注目し、テレサとの交流もあったノンフィクション作家である。平野は1983年12月、香港コロシアムで開かれた「デビュー15周年コンサートツァー」の生のステージを観、また、1991年5月にはパリでロングインタビューをしている。これらの体験は著者にとって、かけがえのない「若き日の思い出」であろうが、鄧麗君の評伝の書き手として彼女に勝る作家はいない。
 よく知っているつもりの“テレサ・テン”ではなく、国境を越えて華人社会に浸している“鄧麗君”を思い知り、香港、台湾、中国の戦後史に、全世界に散らばった華人たちの“尋根”意識(ルーツ探し)を重ね合わせていくことによって、もうひとりの“テレサ・テン”に出逢えるのではないか、と著者が考えるきっかけになったのは香港での15周年記念コンサートであり、これを著者は「鄧麗君の歌手生活の頂点ともいえる記念碑的な公演」と位置付けている。
 また、著者がテレサ・テンの日本での活動を、前半期(1973年~1979年)と後半期(1984年~1990年)の2期に分けているのは極めて重要な意味を持つ。前後期の間にはパスポート事件と財閥御曹司との婚約破棄、そして15周年記念コンサートがある。

 テレサの初来日は昭和48年(1973)、「日中国交正常化」の一年後の晩秋であり、彼女は20歳であった。
悲願であった紅白歌合戦に初出場して「愛人」を歌ったのは昭和60年(1985)12月で、すでに「後半期」に入っていることをまず読者として押さえたい。
 80年代前半の中国は改革開放の扉が開き始めた時期で、「白天聴老鄧、晩上聴小鄧」(「昼間は鄧小平の政治講話を聞き、夜は鄧麗君の歌を聴く」)のジョークが流行している。「何日君再来」をはじめとするテレサの歌声は文革で傷ついた大陸の人びとの心を癒すかのように中国全土に広まった。
 昭和61年(1986)、ポップス系演歌歌手として紅白に出場し、「時の流れに身をまかせ」を唄う。そしてテレサがこの後、紅白歌合戦に出場するのは5年後の平成3年(1991)であり、再度、「時の流れに身をまかせ」を唄っている。これが紅白におけるテレサの見納めになろうとは誰が予想しえたであろうか。それとともに、3回目の紅白はすでに「後半期」の範囲外であることに注目すべきであろう。
 この2回目と3回目の紅白の中間に位置するのが、平成元年(1889)6月4日の天安門事件である。誇り高いチャイニーズで、父母の祖国である中国の将来に心を痛めていたテレサは大陸で唄う日を心待ちにしていたが、天安門事件がそうしたテレサの夢を無残にも打ち砕く。
 天安門事件に先立つ5月27日、テレサは香港のハッピーヴァレー競技場における天安門の学生を支援するチャリティーコンサートに参加。自らの胸に自分で「反対軍管」「我愛民主」と書いた色紙を掲げ、「我的家在山的那一邊」(わたしの家は山の向こう)を唄うテレサ・テンの姿に、日本人が驚いた。
 天安門事件が起き、台湾の民主化が加速して、台湾海峡の危機が叫ばれ、香港の返還がカウントダウンされるという政治的現実の厳しさの渦中に身を晒したテレサは華人社会における偉大な存在ゆえに単に歌手として生きることは許されなかったし、テレサもそのことは十分認識していたと思われる。
 天安門事件によってテレサが思い知ったことは、共産党支配下の中国とは民主主義を戦車の力で踏みにじり、「最高指導者」が通常の学生運動を「動乱」ときめつけて恬として恥じない国であるということであり、その後も(そして、テレサがすでにこの世にいない今日にいたるまで)、中国は天安門の武力弾圧を正当化し続け、事件そのものを改めて見直そうとする気配すら見せなかった。このことにテレサがどれほど悲しみ傷つき絶望したことか、想像するに難くない。
 天安門事件の勃発した年の11月、テレサ・テンは大好きな香港を離れ、天安門事件で亡命した活動家を多く受け入れたフランスのパリへ移住している。

 「民主化されていない今の中国には帰りたくない」と静かな語り口ながらもきっぱり言い切った鄧麗君の真摯な表情を、今も忘れることができないと著者は語り、「彼女の夢を打ち砕き、歌うことへの意欲まで奪い去ってしまったのが天安門事件であり、彼女の“夢”であった民主的な“祖国”の喪失は、そのまま、彼女自身の歌手人生の喪失につながっていった」としている。
 「わたしは世界のどこにいてもチャイニーズ」といい、「わたしは国際難民。わたしには帰るところがないの」とも言っていたテレサ。父祖の国と陸続きで中国との淡い一体感のようなものが感じ取れる香港も、外省人二世として生まれ育ち現に家族が住んでいる台湾も、彼女にとってはあくまでも仮の住まいにすぎなかったのである。
二つの祖国の間で揺れ続けたテレサ・テン。著者は「彼女が思い描いていた祖国は、共産党政権が倒れて後、何らかの方法で統一された中国を意味していたようだ。そこには民主主義があり、平和な暮らしがある。そんな日が来ることを彼女は夢見ていた」と断じている。
 中国、台湾、日本をとりまく国際環境はこの20年に大きく様変わりした。著者の表現を借りれば、「時代が動いた」。テレサが「父祖の国」と意識していた中国は世界第二の経済大国となり、万博やオリンピックを開催したが、共産党による一党独裁は相変わらずで、社会や政治の民主化は進んでいない。仮に北京五輪の開会式に招請されたら、果たしてテレサは歌ったであろうか。中国大陸の経済に完全に呑み込まれてしまった香港では、「京人治港」がじわじわと進み、1国2制度が形骸化し、香港社会には喪失感がみなぎっている。「中華文化の正統的継承者」としての自負と品格を持ちながら、国際社会から国家の扱いを受けられない中華民国(台湾)では、民主化とともに台湾人意識が浸透している。もしも今も生きているとしたら、テレサは「台湾生まれのチャイニーズ」ではなく「私はタイワニーズ」というであろうか。
 日本でよく知られた台湾出身の歌手テレサ・テンを、華人社会のスター“鄧麗君”に置き直して評伝を書いたのは、日本の近隣諸国の近現代史がその人生に投影されていると思うから、とするのが執筆の動機であり、平成生まれの若者たちに、華人社会に興味を持ってほしい、鄧麗君という歌手の、日本ではあまり知られていなかった魅力、その感情生活を知ってほしいとの著者のメッセージは読者に大いに伝わってくる。

 蛇足ながら、1985年5月、台北のタクシーの運転手が流す「淡淡幽情」を聴いて、“テレサ・テン”ではなく“鄧麗君”という歌手を知ったのが、私にとってのテレサ・テン(鄧麗君)との出会いであった。日本語の歌詞と歌い方では味わえないある種の名状しがたい中国的な官能とノスタルジアのような情感世界を堪能した。
 「アジアの歌姫」としてゆるぎないスターの座を保ちつつ一生をまっとうできたはずのテレサがなぜその人生の最期にみずから放棄するかのような生きざまをしたのかということが私にとっての疑問であったが、著者の導きでほぼ了解できた。
 鄧麗君を知ることにより、彼女が関わった華人社会、近隣諸国がみえてくる。鄧麗君理解において日本は異端であることを知った著者は、日本よ、アジアの孤児になってはいけない、とのメッセージをも発信している。20代の頃より、アジアの社会と歴史を追いかけてきた著者・平野久美子による本書は未来に向けた日本のあるべき姿の一端をも示した好著である。

2015.04.18 佐藤賢一著 『ラ・ミッション  軍事顧問ブリュネ』文藝春秋
発行年月日: 2015年2月25日、 定価¥1850E 

雨宮由希夫 (書評家)


慶応3年(1867)1月、ナポレオン三世は徳川幕府からの要請を受け、フランス軍事顧問団(ラ・ミッション・ミリテール)を日本に派遣した。シャノワーヌを団長とする一行15名の軍事顧問団は幕府陸軍の近代化に貢献した。
砲兵中尉(リュートナン)のジュール・ブリュネは、フランス軍事顧問団の副団長として来日し、フランス軍事顧問団解散後も日本に留まり、戊辰戦争の最終局面、箱館・五稜郭の戦いを榎本武揚や土方歳三らと共に戦ったフランス士官である。また、画才豊かだったブリュネが遺した細密画のようなスケッチ200枚は幕末の日本の風景を克明に伝え、かつ史料性、情報的価値も高いものとしてつとに知られている。

ブリュネが登場する〈幕末もの〉歴史小説は、綱淵謙錠の『乱』をはじめとして少なくないが、フランス人ジュール・ブリュネを主人公として、激しく揺れる幕末の日本を、主に鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦いまでの戊辰戦争をブリュネの視点から描写した歴史小説は本書がはじめてであろう。

物語のスタートは慶応4年(1868)1月6日。大坂城に到着したブリュネはただならぬ血の匂いに内戦が勃発したことを知るとともに、城内で尋常ならざる人物に会いまみえる。髻を切って日本人であることをやめ、フランス式戦法を習得したいと熱望するこの人物こそ新選組副長・土方歳三であった。その土方をブリュネは「イジカタさん」と連呼し、土方に「イジカタ? 俺はヒジカタだ」と切り返されるのだ。幕末の日本人はフランス人がHを発音できないことを知らない。フランス人にとって、ヒジカタはイジカタであり、ハコダテはアコダテとなる。土方との出会いシーンから早くもフランスに造詣の深い作家の作風が表れており、興味深い。

1月3日にはじまる鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が部下を見捨てて敵前逃亡し大坂より逃げ帰って江戸城西の丸に入ったのは1月12日の午前10時。これより城内で連日のごとく評定が繰り広げられる。フランス軍事顧問団も江戸城に呼びつけられ、評定の場にあった。強硬に徹底抗戦を唱える勘定奉行・小栗上野介忠順を前にして、いたたまれなくなった慶喜が退席しようとするのに、小栗が慶喜の袴の裾をつかんで離さず、怒った慶喜が罷免を申し渡したという有名なエピソードが伝わるが、本書では、小栗忠順罷免の現場にブリュネが居合わせたとするシーンが造形されている。

「徳川慶喜といえば、小栗の登場に愉快ならざる表情だった。部外者の目からも察せられたところ、この高官は必ずしも主君に愛顧されているわけではなかった。」とブリュネが分析した上で、慶喜がなおも食い下がる小栗に、「わしの心は最初から決まっておる。朝廷には恭順の意を伝える。」と吐き捨てる。
「通訳されても、最初は理解が及ばなかった。つまるところ恭順というのは、降伏の意味ではないのか」と解するブリュネは、「戦う気がないなら、どうして我々を評定に読んだのか」と慶喜に対する不信を露わにする。
「フランス軍事顧問団の任を解く」の通達が幕府より下るのは2月13日(その前日に、慶喜は上野寛永寺での謹慎生活に入っている)。勝海舟の登場となるが、勝という人物はブリュネの眼には「一筋縄ではいかない怪しげな奸物」「あの老獪な男」「政治屋」と映る。江戸城内の評定の席における勝海舟は、一説には、「始めは軍艦を率いて駿河湾および摂海を奇襲する策を立てたが、慶喜の恭順の意が固いのを見て、前言を翻して和平解決を図ろうとし、大久保一翁とともに主戦論に反対した」(吉田常吉『幕末 乱世の群像』)とされる。慶喜の顔色しか観ていない勝海舟が研究者の世界にもいる。
「トバフシミにはじまるヨシノブ陛下の行動」は誰にも予測不可能だった。「一切の抗戦を放棄して、あんな風に降伏してしまうなんて」信じられないブリュネは慶喜の恭順も、フランス軍事顧問団の解任も、勝の一存なのではないかと疑う。作家による「勝の一存」というこの造形は維新史の真実を探るうえで極めて重要な意味を持つ。

慶喜と勝が狂わせたのはタイクン政府やそれを支持してきた勢力、はたまた日本という国の運命だけでなく、駐日フランス公使として、薩長を支持するイギリスに対抗し幕府を支持するというレオン・ロッシュが進めてきた外交も破綻した。一貫して親幕派であったロッシュは幕府が近代化し政権を維持する上でのさまざまなアドバイス・援助を惜しまず、横須賀製鉄所の建設、横浜仏語伝習所の設立、軍事顧問団の派遣などに貢献してきたが、それら一切が無に帰する危機をもたらした。

この日本の動乱を前にして個人としていかなる態度をとるべきか。
榎本武揚や土方歳三らとの関わりのなかで、日本人の士道(エスプリ)に心をうたれたブリュネは、「ほんの緒戦きりで徳川慶喜が降伏して恭順の態度に徹し、その意を受けた勝海舟が江戸を無血開城しても、そのまま日本人という日本人が、薩長の野望にあっさり屈して、薩長によるミカド政府を認めてしまうはずがないことを知り、イギリスによる属国化を許せず、フランス軍事顧問団が手ずから指導して育てた伝習隊の兵士たち、教え子たるあの精鋭たちこそ力づけたいと思うなら、フランス政府の方針など関係ない、一個の人間として行動せんと腹を決める。かくして、エリート士官のブリュネは、母国で約束されているフランス軍人としての輝かしい将来を捨て、母国からの帰還命令にあえて背き、“勝たねばならない戦い”に身を投じるべく、ブリュネが品川沖の榎本艦隊開陽丸に乗り込む。

部外者として日本の動乱を傍観できず、戊辰戦争に参加するにいたるまでのブリュネの葛藤が丁寧に描かれている本書は一味ちがった〈幕末もの〉歴史小説である。フランスから見た日本という視点で幕末が描き出されているところが新鮮である。駐日イギリス公使のパークスは鳥羽伏見の戦いの勃発を薩長の暴走と観、戦えば敗色濃厚と判断していて、それゆえに「局外中立」を掲げて西郷に江戸無血開城を強要したが、タイクン政府が崩壊の道をたどるばかりで、後は残党を始末すればよい情勢となるとみるや「局外中立」に縛られていること自体がイギリスの足枷となったことなど、視点を変えることで、歴史の真実が浮かび上がり見える世界が広がってゆく。 

勝と小栗の人物造形が面白い。小栗上野介はフランスとの経済提携を推進したが故に「親仏派」といわれるが、あくまでも幕府を守るという責任ある立場から発言し行動した幕府衰亡期における最も傑出したエリート官僚である。勝には「カツ・アワ」として章立てているが、小栗の章はなく、「小栗上野介こそ政府におけるフランス軍事顧問団の後ろ盾だった」とあるのみである。当然あるべき慶応4年閏4月6日の小栗の死に関する記述はなく、ブリュネの小栗理解は「小栗上野介が上州の領地に下がるまでは知っている」にとどまっている。

明治維新は「外国の傀儡である一部の者が、謀略において権力を奪取する不正義」の上に成立したとみるのが作家の歴史理解のようである。勝と西郷による江戸無血開城神話を茶番と看破している。
ラストシーンでは、もしや死に場所を探しているのではないかとブリュネが危惧する土方歳三がよもやの形で再登場する。これから本書を手にする読者のために、奇想天外なストーリー展開とだけ、と記しておこう。
土方歳三は歴史小説の世界ですでに復権して久しいが、小栗上野介の名誉回復が果たされたとは言い難い。佐藤 賢一(1968年山形県鶴岡市出身)は東北大学大学院で西洋史学を専攻し、作家としてデビュー以来、主に中世から近世にかけてのヨーロッパを舞台とした歴史小説を多く書いている直木賞作家である。フランス語史料を駆使し、小栗を主人公とした歴史小説を期待したい。

2015.04.01 満州国演義 9残夢の骸
船戸与一著 『満州国演義 9残夢の骸』 新潮社¥2200E

雨宮由希夫 (書評家)


 船戸与一畢生の大作『満州国演義』が第9巻『残夢の骸』をもって遂に完結した。第1巻『風の払暁』の刊行は2007年4月であった。「週刊新潮」での連載開始から数えて約10年の歳月を要し、原稿枚数は7,500枚を超えるという。しかも作家は2009年以来、癌との闘病を強いられていた。
『満州国演義』は明治・大正から昭和という激動の時代を生きた実在の人物群像を登場させ、満州国の成立から消滅までの実際をあますところなく活写することによって、国家と個人、組織と人間、日本とは何か、日本人とは何かに踏み込んだ歴史小説である。この傑作『満州国演義』の主人公は、しかし、実在の人物群像ではなく、戊辰戦争時に奇兵隊として活躍した長州藩士の祖父をもつ東京府零南坂の敷島家の四兄弟、むろん、創作上の人物である。
 「敷島四兄弟」を主人公とした作家の狙いは、四兄弟による4つの視点、複眼的な視点によって、昭和3年から昭和20年の敗戦に至る激動の昭和史を捉え描くことにある。現代史は歴史小説になじまないといわれるが、作家が選んだ歴史小説の著述の方法は性格も立場もまったく異なった「敷島四兄弟」を造形し、個別的な彼らの行動を追い、時に交叉させながら、それぞれの生き方を時局の中に同時進行的にとらえて「戦争と人間」を描き出すという手法である。
四兄弟のアウトラインは以下のとおりである。 
長男 太郎――東京帝大法学部卒の外交官で満州事変勃発時には、奉天総領事館の参事官であったが、満州国国務院外交部政務処長として敗戦を迎える。
次男 次郎――19歳で日本を飛び出し、馬賊稼業に身を投じた大陸浪人。四兄弟の中で最も愛国心とは縁のなかったが、インパール作戦で囚人部隊を率いての特殊行動を引き受ける。
三男 三郎――陸軍士官学校出の関東軍将校。陸軍機動第2連隊第一中隊長少佐として満州での対ソ戦に備える。ソ連が雪崩を打って満州の原野に殺到する日は近く、いずれは戦わなければならない宿命にあると覚悟する。
四男 四郎――無政府主義を信奉する早稲田文学部の学生だが、魔都と呼ばれる上海へ。満映勤務を経て関東軍特殊情報課第四班の嘱託になった。
関東軍特務の間垣徳蔵は陰の主人公というべき人物で、小説としての筋書づくりにおいて重要な役割を演じているが、最終巻の本書では、死神のように四兄弟に付きまとう徳蔵の素性がついに明かされる。四兄弟と徳蔵は従兄弟同士であった。第1巻『風の払暁』の冒頭「慶応4年8月」の章に『会津戊辰戦史』が引用された意味が最終巻ではじめて了解される。
   破局の構図はすでに見えている。前巻ではミッドウェイの大敗からインパール作戦へと迷走する大日本帝国が描かれたが、本巻では昭和19年から21年までの国内外の情勢を背景として、「東条英機暗殺計画」の顛末から敗戦による満州国解体および敗戦前後の絶望的な混乱の数々————回天、玉砕、特攻隊、本土決戦、東京大空襲、原爆投下、ポツダム宣言受諾、敗戦の詔勅、玉音放送———までが、四兄弟の生き様を通して描いている。
    四兄弟の運命やいかに。四兄弟が破顔一笑し一堂に会する日は果たして来るのか、と多くの読者は手に汗握り期待したものだが、インパールの“白骨街道”で飢えと病で死に瀕していた次郎の最期を本巻の冒頭で確認せざるを得ないのは無念である。
 三郎は通化事件に巻き込まれ、無惨な死を遂げる。日本の敗北後、満州の利権をめぐって蔣介石の国民革命軍と毛沢東の八路軍が激突するのは不可避で、最初の激突の地が通化であって、多くの日本軍人が通化で繰り広げられた国共内戦の犠牲になった。太郎はシベリアへ抑留され、強制収容所(ラーゲリ)で自殺に追い込まれる。屈辱と忍苦で人間性を日々剥ぎ取り非業の死を強いるのがラーゲリであり、奇しくも同じラーゲリに収容された徳蔵は「人間としての最低の誇りを失うな」と従弟たる太郎を叱咤しつつ、自らをソ連兵の銃口の前に晒し死んでゆく。一番人間らしい生き方をしたのは陰の主人公というべき徳蔵であったと読むべきであろうか。極限状態にこそ人間の本性が明かされるというのが『満州国演義』の命題のひとつであるとはいえ、ラストエンドはあまりにも悲惨、無惨すぎる。
日清・日露の二つの戦争で獲得した国外の権益を守ることに始まった明治日本の夢と欲望はやがてとどまるところを知らないものとして溢れ出す。韓国を併合し、台湾を割譲させ、満州国をでっち上げて、なにもかもが怒涛逆巻く濁流に呑み込まれていくように流され、昭和20年の破局を迎える。日本が西欧列強と闘った結果として、「あの戦争」があり、戦火は満州に始まり中国大陸全土に広がり、太平洋全域に及んだ。この大日本帝国のアジア侵略の歴史ほど、現代日本にとって、史実として重いものはなく、虚構の入る余地はない。したがって、あの戦争ほど小説になりにくいものはないが、作家の筆はさまざまな人々の想念と記憶が織りなす歴史の重層性を掘り起こしつつ、戦争自体の是非を超えて、その時その場所に置かれた人々の姿を描いている。
本巻の巻末に、実に13ページに及ぶ参考文献リストが掲載されている。作家が参照した文献の種類と量に圧倒されるが、個別の歴史事象・事件について作家は必ずしも自分の解釈や見解を明示していない。また、作家はこの歴史小説を書くにあたり、かつて、「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。これが本稿執筆の筆者の基本姿勢であり、小説のダイナミズムを求めるために歴史的事実を無視したり歪めたりしたことは避けてきたつもりである」と述べたことがあった。
 わずか80年に満たない間に生じた日本の民族主義の興隆と破摧。そのような時代に生まれあわせ、呑み込まれ死んでいく兄弟たち。四兄弟の置かれている凄惨な極限状況を本質的に抉り、日本人の流した血と汗の意味は何であったかという問題を後世の者が賢しらに問う形ではなく同時代人の目線で受け止めるべく、作家は読者につきつけている。本書から読者は歴史を史実のみで見るのではなく、心底に眠っている民族心理で分析することの重さを読み取るべきであろう。
作家がまた、次なる言葉を登場人物に言わしめていることも注目すべきである。「欧米列強による植民地化を避けるためにはアジアを植民地化するしかない。吉田松陰の『幽因録』が示す通りで、結局は民族主義の問題だった」と太郎の友人である同盟通信の香月信彦に語らせ、一方、徳蔵には「多くの日本人が夢見た満州は理想の国家の欠片さえ失って重い重い鉄鎖でしかなくなった」と吐かせている。これらは作家がまれに自らの解釈を吐露したものとみなされる。
 週刊誌連載に際して、作家は「満州のすべてが丸ごとわかるような作品を書きたい」と抱負を述べたことがあったが、その願いは十分に成就したというべきであろう。歴史的事象に対する作家自身の想像力によって歴史の真実に迫り、日本の興亡を巡る壮大なドラマを総合的な戦争文学として記述しようという意思、使命感が読者に伝わってくるからである。
戦後70年という節目の年に、〈昭和もの〉歴史小説の傑作というべき歴史小説が生まれたことを嘉したい。
戦後50年の際には、「50年、半世紀」を機会とした「戦後」からの脱却、「戦後」の切り捨てが盛んにいわれたものだが、20年後の今日、国際的には歴史認識をめぐって中国・韓国との間で争いの種の尽きることはなく、国内的には「憲法第9条」をめぐって支持・共感と批判・改正の論議が絶えない。これらの問題の根は一つで、「あの戦争」であることはいうまでもない。「戦後」はますます脱却不能のものとなっている感がある。このような時代であるゆえに、本書が「戦争と平和」を考える多くの人々に読まれ継がれることを祈りたい。
2015.02.17  書名『死に支度』
          著者 瀬戸内寂聴  発売 講談社
          発行年月日 2014年10月30日  定価 ¥1400


雨宮由希夫 (書評家)

 この私小説的長編小説の主人公は91歳の誕生日を目前にして、夜も眠らず年がら年中仕事に追いまくられている女性作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん。舞台は主人公が1974年に京都・嵯峨野に開山した「曼陀羅山 寂庵(じゃくあん)」である。物語は、そうした作家の超多忙な日常を見るに見かねた、長年付き添った女性スタッフたちが涙ながらに、「私たちを養って下さるためにお仕事が減らせないのです。どうか先生のお好きな革命をもう一度なさって、この際思いきって暮し方を変えて下さい」と突如やめると言い出す場面から始まる。残されたのはモナという名の一番若い66歳年下の孫娘のような20代の女性一人だけであった。主人公いうところの「春の革命」の勃発である。
 本書を手にして、まず、タイトルと白地に金箔の表紙装幀に驚く。あの寂聴さんもいよいよか……と思いつつ、急ぎページを括ったが、「本音を言えば、この小説を書いているうちに私は必ず死を迎えられて、この小説が今度こそ最後の作品となってくれるだろうと考えていた。ちょうど1年間書いたが(初出は『群像』2013年8月号から2014年7月号である)、どうやらまだ死にそうもなく、それでいて、今夜死んでも何の不思議もない私に愛想をつかして、“死に支度”なんて、小説の中でも、実生活の中でもやめようと決意した」と書かれているのを読んでホッと胸をなでおろした次第である。時に「どうして私、死なないんだろう、もう生き飽きたよう!」と口走る寂聴さんと、時に「92歳って、死の上に張った薄い氷に乗っているような感じなのです」と泰然自若な寂聴さんにお目にかかれるのが不遜ながら愉しい。
 「自分の死についてあれこれ考えだしたのは、70歳頃からだった」という寂聴さんは、今こそ自分の臨終の用意のために『往生要集』を丁寧に読み直している……。そのかたわら、日々、記憶の中から、知己たちの死に際を思い起こしているが、近親者の死。とりわけ二人姉妹の姉の死を綴った一文には心打たれる。「中尊寺で剃髪の場に付き添ったたったひとり」の姉は、かつて、結婚できない人と付き合っている妹に、「どうしてもその人の子どもを産みたかったら産みなさい。私の籍に入れて、私が育ててあげる」と言ってくれた姉であった。5歳年長の姉と仲良しであった作家は「私のように恥も外聞もなく、心をさらけ出しては生き延びてくる蛮勇のなかった姉」を何度も偲んでいる。
 大正11年(1922)5月15日に徳島市の神仏具商の家に生まれた作家は今年で御年満93歳となる。司馬遼太郎をして「天性の作家」と言わしめた寂聴さんは、稀有にして偉大な私小説作家にして歴史小説作家である。
 平成19年(2007)5月15日を奥付として上梓された『秘花』(新潮社)は能の大成者・世阿弥を主人公とし、謎に包まれた晩年の世阿弥がどのように逆境を受け止め、老いと向き合い、死を迎えたかを描いたものである。「72歳といえば、もう充分生き過ぎた命ではないか」と自らを慰めながら配流の地・佐渡に生きる世阿弥が活写されている。『秘花』は当時85歳の作家が自らの命を注ぎ込んで世阿弥の生涯82歳をみずみずしく書き上げた伝記小説であり、渾身の歴史小説である。
 本書『死に支度』の帯に「死に支度は、生き支度。今すべての世代へ贈る、限りなく自由で温かい“生と死の知恵”」とあるが、本書が幅広い世代に、多様な読まれ方をしているというのもうなずける。舞うように生き、生きることが舞うことだった世阿弥の生きざまを鮮やかに蘇らせた『秘花』より8年。作家の筆はおいてなおますます軽やかである。どうしてこんなに平易でみずみずしい文章が書けるのかと脱帽せざるを得ない。書くことに関して、本書には「どうせ死ねないのならば死ぬ日までペンを握って、机にうつ伏して死にたいと切望している」。「今、こうまで生き永らえて、何が嬉しいかと言えば、小説を書くことだけである。どんな短いものでも、新しく産み出した小説が仕上がった時くらい全身に喜びが満たされることはない」とある。
 座右の銘は「生きることは愛すること」だというが、本書には、「いつでも生きた、書いた、恋したの生涯」で、「私なりにいつでも全身全霊で、思い残すことはない」と言い切る。わが生涯に未練なしと言い切れる、そのこと自体が羨ましいが、そもそも、寂聴さんにとって、書くことは生きることであり、寂聴さんは書かずにはいられない真の意味でのモノカキなのだ、と思い知る。
 寂庵は昭和43年(1973)に中尊寺で出家した寂聴さんが1年後に嵯峨野の小倉山の麓に結んだ庵(住まい)であり、寺(修行の場)である。「40年ほど前から棲みついた京都のこの嵯峨は、王朝の物語に出てくる嵯峨野の余薫のようなものをどことなく残していたが、今では恐ろしいほどの勢いで、そうした情緒は日々打ち砕かれている」。嵯峨野の変貌の激しさを作家はこのように綴っているが、その寂庵では20代のモナとアカリ、91歳のセンセが日々を送っている。時に「死ぬのは怖くないが呆けるのが恐ろしい」「赤恥をかかない前に、一に都も早く断筆宣言をすべきではないか」と老いに悲観的にもなるが、新米秘書たちと笑いころげ、冗談を言い合う寂庵での暮らしもつぶさに描かれている。生命力と無邪気なまでの愛らしさにあふれる瀬戸内さんの素顔に引きつけられる。
 私事ながら、瀬戸内さんの素顔といえば、私は1度きりだが、寂聴さんにお会いしたことがある。平成10年(1998)秋、当時、私は神田神保町のS堂の本店長であったが、『現代語訳源氏物語 全10巻』(講談社)の完成を記念しての「瀬戸内寂聴サイン会」の開催を依頼するや、快諾してくださった。寂聴さんは当時のことを、「国内外の講演や展覧会に駆け回り、休む暇もなく、達成感の昂揚と骨身にしみた疲労の最中にあった」と回想されている。当時76歳の寂聴さんが、あえてサイン会に応じてくださったことを今にして思い知る。事前打ち合わせの席上、色紙へのサインをお願いすると、私の禿げ上がった頭を凝視しつつ、微笑みながら悠然と筆で色紙上に大きな円(マル)描いてくださったことも忘れがたい。
 「正直に言えば、私はもうつくづく生き飽きたと思っている。わがままを通し、傍若無人に好き勝手に生き抜いてきた。ちっぽけな躰の中によどんでいた欲望は、大方私なりの満足度で発散してきた。最後のおしゃれに、確実に残されている自分の死を見苦しくなく迎えたい。人は自分の生を選び取ることはできないけれど、死は選ぶことが許されている」としつつも、「人間に自分の定命(じょうみょう)が知らされないのは恩寵だろうか、劫罰だろうか」とも。なんと奥深いことばであろうか。92歳の寂聴さんの明日も、66歳年下のモナの明日も、私たち読者の明日も、誰にも分からない。たしかに、それこそが恩寵なのである。
 「51歳で出家」という表現が何度も出てくる。「出家は生きながら死ぬことだから、ほんとはもう死んでいる。今ある現身は仮の姿」とある。臨終をどう迎えるか、誰もが避けて通れず心によぎる思いを主題としながら、作家として、宗教者として、人間としての生き様を晒して、死への思いを福々しい晴れやかさで語りかけ細やかに綴った本書はかけがえのない一冊である。
 「次作は」との声に、寂聴さんは「次のタイトルは『神も仏もない』にしようかしら」と応じたという。ありがとうございます、寂聴さん。たのしみにしております。「次の東京オリンピックを見ることもないだろう」などとおっしゃらず、いつまでもお元気でいらして下さい。
    (平成27年2月9日 雨宮由希夫 記)
2015.01.20 太田和彦著 『居酒屋吟月の物語』
太田和彦著 『居酒屋吟月の物語』 日本経済新聞出版社 定価¥720E

雨宮由希夫 (書評家)


 「小説仕立ての映画評論」であるといえば、ひとは一瞬、なにそれ?というに違いないが、本書は気ままなひとり暮らしを愉しむ役所勤めの青年「私」を主人公とした小説であるとともに、その「私」による映画評論集なのである。
休日のとある日、「ある市」に住んでいる青年が自転車にまたがって、「ある町」へと迷い込むことから物語は始まる。
その町の商店街では「そこに住む人が、そこに住む人の店で買い物をする当り前の光景が繰り広げられ」ており、主人公はこの商店街に懐かしさを覚える。
 黄金座(こがねざ)という映画館はその商店街の一角にある。一日一回の上映で、しかも上映されるのはなぜか古い日本の映画ばかり。ポスターやスチール写真用のウィンドーには、
『歌女おぼえ書』
監督 清水宏
出演 水谷八重子 上原謙
と、手書きのビラが一枚だけ張ってあるだけの、「さびれているがまだ続いている映画館」である。黄金座で古い日本の映画を見はじめてから、「私」は知らない過去に懐かしさを覚え、「自分の中の何か」が呼び起こされていくことを気付く。そして、映画を見た帰りにたまたま入った居酒屋「吟月」が青年の生き方を変えてゆく。もともと「私」は出世や結婚にも興味がなく、他人と付き合うよりは一人でどこかの居酒屋で酒を呑むことを好んだが、その日以来、黄金座で映画を見た帰り、居酒屋吟月で一杯やるというのが休日の過ごし方となる————という筋立てである。
 紺地に「吟月」と染めた暖簾が下がっている居酒屋吟月で、「私」が出会う人々がこの小説の登場人物となる。
加東大介似の吟月の大将(主人)木村。笠智衆似の初老の紳士・平山先生。平山先生の娘の紀子は原節子似。キャバレーの用心棒の松永は三船敏郎似、と登場人物は揃いも揃ってまるで映画から抜け出たような役者似だが、とりわけ、「私」とは父ほどに年齢が離れている平山先生との出会いが、「私」を「本来の姿かもしれない、もう一つの自分」に変えてゆく。大学教授で挨拶代わりに海軍式の敬礼をする平山は独自の映画の見方を持っていて、「私」が観て気付かなかったところを拾い上げて解説するなど「私」に古い映画の面白さを教えてくれる。黄金座で映画を見て、居酒屋吟月で先生と一杯やりながら見てきたばかりの映画の話をするのが「私」の楽しみとなる。かくして、「私」と平山先生の会話そのものが集成された映画評論となっていく————という構成である。
黄金座で「私」が出会った古き日本映画19本が、それぞれ個別に章立てされている。「昭和5年から15年頃は戦後の25年から35年と並ぶ日本映画の黄金期だった」とのことだが、戦後である昭和24年製作のもの2本を除き、他の17本はみな昭和9年から昭和16年に作られたものである。
また、19本のうち、清水宏監督によるものが6作品と圧倒的に多い。「私」に仮託した著者・太田和彦によると清水宏は「人物が風景に同化する構図を好んだ」「きわめて日本的な映画作家なのだ」という。清水宏の映画の魅力を語る「私」の口調は熱い。それにしても、「人間が風景に同化する」とはなんと奥深い表現ではないか。
 昭和初期の田舎の村の佇まいから、「私」は自分の生まれる前の時代の空気を吸い込み、昔の日本への限りない郷愁を感じて、自分の知らない記憶がよみがえってゆく。「記憶の中にしかない町並みや風景が映画の中に残っている」ことを確認して、「遠いけれど確実に自分はその頃に繋がり、そこからやって来た」という意識を持ち、「ほの暗いかすかな遠くに現実味のあるルーツが見える」と。
 「昭和初期のひなびた山の温泉場」「日本家屋の障子は灯をともすと、家全体が行灯になり、開け放たれた玄関から往来へこぼれる灯」……。映像が失われた時代の美しさをキャッチし、「明治の女の古風なつつましさ」「新天地を求め満洲へと旅立つ青年」……。映像がその時代を生きたひとびとの息づかいを映し出す。
 歴史から取り残されたような北関東の過疎の村に生まれ育った評者(わたし)にとって、昭和30,40年代の故郷の山々はまさにここでいう「昭和初期のひなびた山」そのものであり、身近には、教育はなかったが教養のあった女性だったと今にして思う明治生まれの祖母がいて、その祖母は満洲で敗戦を迎えシベリアに抑留されて音沙汰のないわが子(私にとっての叔父)の帰りをひたすら待っていた。祖母の背中に背負われて育った私は祖母の背中のぬくもりを今でもかすかに覚えているが、その時、祖母ははるかに遠い異国の地シベリアで生きる叔父のことを思っていたのだろう。
 本書の文庫解説を担った映画評論家の佐藤忠男は「今とは時代が違う古い映画が面白いのは、映画は歴史のようにただ事実だけを再現してくれるのではなく、人々の幸不幸の気分や感情まで、目に見え耳に聞こえるものとして再現してくれるからである」と述べている。歴史の事実はもろく、消えやすく、風化され忘れ去られていくものだが、意識的に記録され保存されることによってのみ、はじめて生き延びることができる。記録保存の手段は文学が至上と思っているが、映画もまた有力な手段であることを革めて思い知らされた。
古い日本映画をほとんど知らない戦後生まれの私にとって、本書は最適の指南書となった。
白黒の古い日本映画の中にこそ「当時の人々のものの考え方や感情がそこにある」。ゆえに古い日本映画の面白さはそこにあり、「強い懐かしさの感情が呼び起こされるのは、「人が生後だけではなく、父や祖父の記憶をも受け継いでいる」からなのだと著者はいう。まさにその通りであろう。
また、目から鱗の指南もある。「映画は現実を消した暗闇で見るものだから、例えば昭和13年も今も鑑賞条件は変わらない。タイムスリップして昭和13年にもどり、映画館に入ってみる作品と今見る作品は同じだ」。なるほどそうか。「現実を消した暗闇」の中であれば父や祖父たちと共生できる。テレビでビデオ映画を観るのではなく、映画はスクリーンで観るものだと、本当の映画の見方を教えられた。
 映画の批評評論そのものとは別に、居酒屋吟月に集える人々の訳ありの人生模様がまた可笑しい。懐かしい日本映画の場面の数々とはまた別に、黄金町で現に今起きているその人生模様が映画のようなストーリーとして物語のラストまで繰り広げられ、読者を引っ張るのだ。原節子似の紀子にひそかな恋心を抱いているらしい三船敏郎似のやくざな松永のシャイな生き様がわびしくもあり滑稽でもある。
 読者はいつしか映画評論と小説そのものが融合した、太田和彦が創り上げた不思議な世界に入り込むとともに、太田によって紹介された1930、40年代の日本映画そのものを見たくなるであろう。
太田和彦は昭和21年(1946)生まれ。グラフィックデザイナーであり、居酒屋探訪家である。北京に生まれ、信州で少年期を過ごした太田は東京教育大学(現・筑波大学)教育学部芸術学科に学び、資生堂に入社。資生堂宣伝部アートディレクターを経て、独立。資生堂在籍時より、居酒屋巡りに目覚め、日本各地を旅してはふらりと地元の居酒屋を探訪し、多くの著作をのこしている。
本書は2001年3月に刊行された『黄金座の物語』(小学館)を加筆・改題して文庫化したもの。文庫化への経緯は、著者による文庫「あとがき」に詳しいが、著者自らが「旧知の編集者Sさん」と呼ぶ担当編集者氏は、著者の娘か姪のような世代であろうが、本書に登場する白黒映画19本すべてを見直して著者の文を校正したとある。かくして、初刊行から14年ぶりの復刊となった。まさに「幻の名著復活」の裏に名編集者あり!である。
2015.01.14 書評 『日本史 ほんとうの偉人列伝』
岳 真也 著 『日本史 ほんとうの偉人列伝』 みやび出版 ¥2000E

雨宮由希夫 (書評家)


人生の上で心 通わせることの出来る知友を幾人持つことができるかが人の幸せをはかる目安となろうが、歴史時代小説の読者にとっては、心惹かれた歴史上の人物を何人数え上げることができるかもまた幸せ基準の1つとなろう。
本書は古代の大和時代から戦後まで、1500年にわたるわが国の歴史を、蘇我馬子から平塚らいてうまで40人の「偉人」の伝記を書くことによって俯瞰された〈日本通史〉である。しかも、歴史時代小説を手掛ける一人の作家によって、物語られるところに意義がある。
「偉人」とは何か。『大辞林』(三省堂)によれば、「世のためになるような立派なことを成し遂げた人。偉大な人」ということになるが、「日本の歴史を隅から隅まで点検し」、「従来の価値観や偏見を極力排し、善いか悪いか、勝者か敗者か、有名か無名か、すべて関係なしに〈偉人〉〈傑物〉と呼ぶにふさわしい人間たちを選んだつもり」と作家 岳真也(がくしんや)は語り、日本史を三部に区分して40人を登場させている。

第一部の「古代から中世」は蘇我馬子、大伴旅人、長屋王、行基、大墓公阿弖流為、藤原薬子、空海、平将門、藤原清衡、源範頼、夢窓疎石、世阿弥、太田道灌の13人。第二部の「戦国時代から近世」は松永久秀、村上武、お市、明智光秀、織田有楽斎、吉川広家、前田利常、池田光政、安藤昌益、塙保己一、伊能忠敬、歌川広重の13人。第三部の「幕末から近現代」は岩瀬忠震、小栗上野介忠順、横井小楠、河井継之助、橋本左内、相馬主計、山岡鉄舟、広沢安任、福沢諭吉、中江兆民、津田梅子、河口慧海、尾崎行雄、平塚らいてうの14人。
作家の選出方針が2点、「はじめに」にて書かれているので、それを紹介したい。
「偉人伝といえば必ず思い浮かぶような人物」————ex.聖徳太子、頼朝、尊氏、信長、秀吉、家康、龍馬、西郷はすべて省いたが、「(作家岳が)個人的に思い入れを持つ人物」———ex.空海、福沢諭吉などは外せず、「その意外な素顔を浮き彫りに」しようとつとめたこと。もう一点は、「史上名だたる大物や大事件の陰に隠れた無名の逸材」、「名前は知られていても、その実態については、ほとんど知られていない人物」、「悪名ばかりがとどろいて、〈その功績や素晴らしい側面〉が切り捨てられてしまったような人物 」をとりあげ、「彗星のごとく、一瞬のまばゆい光芒を放って散っていった人物」も含めたことである。
女性は4人が選出されている。「歴史上の人物をとらえて〈悪女〉とよぶとき、そこには〈女のくせに〉という、極めて男性中心的な偏見があるように思う」とした作家は「勝者と敗者、偉人と悪人の差は、そんなに大きくはない。ほんのわずかな差なのである。もしも薬子の企てが成功していたら、藤原薬子は中大兄皇子や中臣鎌足のような、英雄になったかもしれない」という。
「悪人」と「敗者」が本書のキーワードである。
蘇我馬子。馬子は昭和37年(1965)1月に刊行され始めた海音寺潮五郎の『悪人列伝』でも巻頭を飾っている。馬子から入鹿に続く蘇我氏は古代史上“最大の悪人”とされてきたが、それは「でっち上げ、捏造」であると喝破した作家は「馬子にいたっては、わが国の古代史を語るうえで、欠くことの出来ない傑物であり、日の本の根幹をつくった諸政策はほぼすべて馬子が手がけたもの」と断じている。
松永久秀。久秀を“悪人”と決めつけたのは信長である。客人家康の面前で久秀をさらし者にした信長の口言葉には毒があり、矮小な信長の性格が露呈してあまりあるが、久秀を単純に梟雄と批判するのは当たっていないとする岳は久秀の死に様に久秀一流の美意識を観、「彼には特有の美学があった。けだし、これこそは信長が久秀にとうてい勝てなかったところではなかろうか」としている。
「歴史上〈敗者〉となった人物は、往々にして正当に評価されない」「数奇な運命を生きなければならない人間。その人生には魅力がある」とも作家は語る。

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)。「新生日本での〈不在〉が惜しまれる勝海舟のライバル」の大見出しがつく忠順には上野介の官名がついている。これまでに刊行された偉人伝の類いは完璧に海舟が採用され、小栗上野介は無視、排除されてきた。吉川弘文館の「人物叢書」ではいまだに候補にも挙がっていないという。わが国の近代史を語るうえで、欠くことの出来ない傑物であり、大隈重信が指摘する通り、明治国家の根幹をつくった諸政策はほぼすべて小栗上野介が手がけたものであるが、小栗はこれまで不当に評価されてきた。その最たるは、同時代を生きた勝海舟との比較で、幕臣ながら勝は国際感覚にすぐれた稀代の政治家であるに対し、三河譜代の典型的な幕臣の小栗は時代の変化に対応できなかった頑迷固陋な幕吏に過ぎないというものであろう。
幕末小説の優劣をはかる目安のひとつは、小栗をどう描くかにあると思うが、岳には小栗を主人公とした歴史小説『修羅を生き、非命に死す 小説小栗上野介忠順』があり、小栗の人となりを描く上で、キーパーソンとして深く刻み込んだ人物が二人いる。岩瀬忠震(いわせただなり)と福沢諭吉である。二人とも、本書で「ほんとうの偉人」として取り上げられている。諭吉については前ふりは不要であろうが、岩瀬忠震は「近代日本」の最初の扉をひらいた外国奉行である。
万延元年(1860)の遣米使節のとき、諭吉は護衛艦・咸臨丸の提督・木村摂津守喜毅(よしたけ)の従者として乗り込み、かの地の白人娘とならんで写真に納まっている。小説では、そうした諭吉を忠順が「実に愉快で面白い男」とみなし、一方、諭吉は身分的には遙かに遠く雲の上の存在であるはずの忠順を「進取の気性に富み、やる気充分の大身の旗本」と評価し、「小栗さん」と西洋流に「さん」づけで呼ぶと造形している。「門閥制度は親の敵でござる」と回顧するのは明治の諭吉だが、また小説では、大身の旗本である小栗が豊前国中津藩の下士の出であるに過ぎない自分を対等に遇してくれることに感謝しつつ、「脱亜論」のさわりを小栗に披瀝する諭吉が描かれている。
生きた時代の巡り会わせで、福沢諭吉や勝海舟のように二つの時代を生きた人物もいれば、小栗上野介や岩瀬忠震のように一つの時代しか生きられなかった人物もいる。
明治日本で忠順や忠震が果たしてどのような生き方をしたのか知りたい。
2014年春『ブックレットmyb』(みやび出版 編集発行責任・伊藤雅昭)に幕末維新を生きた反骨の会津人・広沢安任を書いたのが本書執筆の直接のきっかけであるという。本書の刊行は同年12月であるから、驚異的な短い期間の中で書き上げたことになる。もちろん、書き溜めていたものもあったであろうが、「偉人」の中には名声に比して史料が少ない人もいれば、天下に名を馳せ、すでに多くの伝記が書かれている人物もいる。時代が違えば場所も環境も異なる。歴史の隔たりがある。歴史事象についての解釈の相違があり、歴史的評価はさまざまである。作家には確かな歴史観、人物造形の妙、挿話の面白さ、文学性を持った伝記としての切れ、これらすべてが求められている。一人で日本通史を書くことのむずかしさがここにある。
著者の岳真也は1947年、東京都生まれ。中上健次、村上龍、浅田次郎と同世代の作家だが、慶應義塾大学経済学部に在学中に作家デビューし、50歳を過ぎてから福沢諭吉、河井継之助、村上武吉、 橋本左内、小栗忠順、土方歳三、近藤勇、 中江兆民、岩瀬忠震などを主人公とした多くの歴史時代小説を発表している。
こうして観ると、本書は作家岳真也が共感できる人物、主人公にして小説を書きたいと思わせる人物を「ほんとうの偉人」として取り上げ、彼らの生き様を描いていると知る。敗者の生き様、勝者の死に様。古代であれ、幕末であれ、人はどう生き、どう死んだか、作家の筆にはそれ以外にない。取りあげられた偉人たちの痛みと悲しみに書き手が温かく寄り添っていることが行間から伝わってくる。作家の全人格の投影といえる本書を読むたびに新しい発見があり、いろいろと想像の翼を広げることができて面白いことこの上ない。簡潔な経歴伝に飽き足らない読者諸氏には彼らを主人公とした歴史小説をひもとき岳真也の世界を満喫することをお勧めするとともに、作家にはまだ小説化されていない偉人たち————とりわけ、「〈能〉を通じての〈生〉、生きることそのものを見ていた」と作家が評する世阿弥————の執筆を求めたい。