2014.07.30 舞台装置が小出しで、読者に自由な想像が可能な新シリーズ
〔書評〕芝村凉也著『素浪人半四郎百鬼夜行(一)鬼溜まりの闇』、『素浪人半四郎百鬼夜行 (二) 鬼心の刺客』(講談社、両巻とも¥640+税)

雨宮由希夫 (書評家)


田沼意次が老中であった頃の江戸。四谷慈眼寺門前、丹兵衛(にへえ)長屋に榊(さかき)半四郎なる若き浪人者が住んでいた。身に暗い翳(かげ)がまとわりつき、深い空虚を抱える半四郎は東雲(しののめ)藩の元藩士で、江戸に出てくる前の名を神ノ木二郎左といった。
五俵扶持の最下級藩士であった半四郎は、藩公認の剣術会で堂々の立ち会いの末、近習として藩主のそば近くに仕える上士を打ちまかして不具にしてしまった。半四郎に非はなかったにもかかわらず、彼は脱藩を選択して江戸に出ざるを得なかった。
奥州のとある小藩の名もなき下級藩士にとって、江戸中期とはいかなる時空間であったのか、読者は早くも作家のつむぎだす世界に惹きこまれる。

命を捨てる覚悟でいた半四郎は己れの終焉を迎える腹づもりで出府したのであったが、江戸では一つとしてやるべきことが思い浮かばず、「このまま死ぬるのか」と自暴自棄になりかける。無為な日々を送るばかりのある日、半四郎はつぎつぎと怪異な出来事に遭遇し、それら事件の解決を通じて、生きがいらしきものを見出し、江戸の市井で生きていくというのがシリーズ『素浪人半四郎百鬼夜行』の大筋であるらしい。
歴史ミステリーの主人公として、榊半四郎ほど不可思議なキャラクターはないであろう。半四郎は文庫書き下ろし時代小説にしばしば登場するヒーロー的な剣豪でもなければ、自らの意志と正義を敢然と貫く世直し侍でもない。

「第一巻 第一話 鬼火」。半四郎が際野(みぎわの)聊異斎(りょういさい)と名乗る得体の知れない老人とその老人の連れの子供の捨吉と知り合い、青梅街道脇の雑木林で、火の玉に出くわすという今まで出くわしたことのないほどの奇妙な夜を体験する。

 不思議な老人と知り合ってすぐの頃、半四郎はまた、屋敷の中で赤子が消えるという奇妙奇天烈な事件に巻き込まれる(「第一巻 第二話 表裏の家」)。芝の田町に立つ商家、呉服太物商・喜勢屋の生まれたばかりの息子太一が子守のお清と一緒に居なくなる。神隠しではない。商家の中庭で起こったのだ……。
 
表題から夢幻的でやわらかい雰囲気が漂うが、しかし、超常的な怪異譚は少なく、「第二巻 第二話 産土神(うぶすながみ)の愛でし女」に代表されるように、むしろ、人為によってもたらされる怪異、常ならぬ変事に関わる事件が多い。得体の知れない人間の〈業〉に勝る化け物はないということであろうか。

 奇怪な出来事が半四郎の身の回りで起こり巻き込まれるのが常態となるが、中国清代の怪異小説集『聊斎志異』を連想させる名の不思議な老人をはじめとし、半四郎が江戸で出くわす人々は皆一風変わった者ばかりだが、彼らとは事件を経るごとにかねてからの腐れ縁とも呼びたい仲になっていくのには奇妙な味わいがある。

 時代ミステリーに捕物的要素は欠かせないが、腐れ縁の代表的登場人物は 北町奉行所の臨時廻りの愛崎哲之進である。半四郎より一回り以上年上の40男の愛崎は摩訶不思議な出来事など容易に認められぬという頑なな態度を取り、事件をもたらす半四郎を胡散臭く見ていたはずが、四角張った哲之進がやがて半四郎最良の朋友、庇護者となっていくところは何やら微笑ましい。

 慈眼寺の住職・道明も、心愉しい人物である。道明は半四郎が住む長屋の家持ちであり、半四郎の江戸での身元保証人でもあり、当然ながら半四郎脱藩の経緯を承知している。そのうえで、半四郎の先に待っているのは修羅魔道の棘路であるかもしれぬと予言している。半四郎の未来に何が起こるのか。

 志津という女がいる。「いた」というべきか。すでにこの世の人ではないが、常に半四郎の心を占めている。ゆえに志津は「いる」。志津とは許婚と互いに認め合っていた仲だが、半四郎21歳の時に、志津は家老の倅浦山某に見初められ嫁いだがまもなく命を絶った。半四郎には、志津に対して何もできなかったとの悔いが今も残っている。

 半四郎の住処の丹兵衛長屋は東雲藩の中屋敷にほど近い。半四郎が自藩の傍近くに逃げ隠れもせず平然と居るということは、藩主にとっては「躬(み)を嘲笑うておるような不遜なる振る舞い」であり、よって「憎い。断じて許せぬ」ということになる。独善的で矮小な権力者による人騒がせな藩命である。藩士たちはこの理不尽な藩命にひれ伏し半四郎を付け狙うほかない。

半四郎が打ちまかした相手の家老の倅浦山某は藩主の寵臣であり、志津の夫でもあった。東雲藩は一度はお構いなしとした半四郎に刺客を差し向ける(「第二巻 第一話 討手来襲」)。北町奉行所の同心愛崎の制止を受けて東雲藩は表向き鳴りを潜めたが、実際に半四郎へ手出しをすることを諦めたかどうか。
 
芝村凉也は1962年宮城県生まれ。双葉文庫で刊行中の「返り忠兵衛」シリーズは好評で現在までに13巻を数えるが、「半四郎百鬼夜行」は作者渾身の新シリーズとのことである。
ただならぬ説得力を持った筆致で、周到に考証された江戸の世界が描かれている。一連の事件の背後に半四郎脱藩の秘密を絡ませることで、悩みつつ生きる半四郎の生きざまにも焦点を当てているので、人間ドラマとしても読ませる。

徳川260年は国内的には天下泰平、戦争のない平和な時代であったと言えるが、六十余州260藩のほとんどがすでに江戸中期には財政が破綻していた。大名経済は町人や農民の犠牲によって維持されていたが、半四郎のような下級藩士も犠牲者であった。

主人公・半四郎の行く末や如何に。当時の時代性を取り込んでどう展開するのか。シリーズものであるが故に、半四郎を取り巻く舞台装置は小出しである。小出しであるが故に、読者は自由な想像が可能である。たのしみなシリーズがまた一つ増えたといえる。幕末のような変革期を生きた群雄たちの虚実を紡ぎだし歴史の真実に近づくのも歴史・時代小説の魅力の一つだが、太平の世に生きる名もなき人々の生きざまをよみがえらすのもまたもう一つの魅力であることを改めて思い知った。

2014.07.01 「上野」、「皇室」、「大震災」を重ね、ホームレスと被災者の痛苦をつなぎ合わせて描く
〔書評〕柳美里著『JR上野駅公園口』(河出書房新社、¥1400+税) 

雨宮由希夫 (書評家)
 

「あゝ上野駅」という唄がある。作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・伊沢八郎で、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)の5月に発表された。
♪♪……どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ……
 就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す ……♪♪
中学卒業と同時に集団就職列車に乗って上京し「金の卵」と呼ばれた若者を題材にしたこの唄は、高度成長期の世相を描いて大ヒットした。

 高度成長期の産物として集団就職があり、また高度成長期に出稼ぎ農家が増大した。
東北の農家の子弟は働き口を求めて集団就職や出稼ぎを選ばざるを得なかった。彼らは,東京をはじめとする首都圏で,それこそ脇目も振らず働いてその収入の大部分を家族のもとに送金した。彼らが最初に降り立った「北の玄関口」である上野駅は、かくして「おいらの 心の駅」となった。

「あゝ上野駅」より50年。『フルハウス』(1996年)や『家族シネマ』(1997年)など家族のあり方を問う作品を多く発表してきた作家・柳美里(ゆう みり)(1968年横浜生まれ)が『JR上野駅公園口』を書いた。
執筆のきっかけとなったのは12年前、上野駅でホームレスの男性を見かけたことだった。白紙からの取材だったという柳は、上野恩賜公園のホームレスは東北出身者が多いことを知る。

 本書の主人公は、上野恩賜公園を居場所とする東北出身のホームレスである。
福島県南相馬郡八沢村(現・南相馬市)の農家に、昭和8年(1933)、8人兄弟の長男として生まれた主人公は、12歳で敗戦を迎え、国民学校を卒業するや、いわきの小名浜港に出稼ぎに行き、東京オリンピックの前年、30歳で出稼ぎのために上京し、オリンピック用の体育施設建設現場で土木作業員として働いた。

この小説にはさまざま仕掛けが講じられている。
ひとつ、“上野”という場所を舞台としたこと。
上野公園や動物園などが配されている上野の山は江戸の初めに、全山、徳川将軍家の菩提所たる東叡山寛永寺の境内となり、幕末には最後の将軍・徳川慶喜の寛永寺大慈院謹慎蟄居や彰義隊の戦いなど260余年続いた江戸時代最後の歴史的舞台となった。上野の山には、西郷隆盛の銅像があれば、傍らには彰義隊士の墓もある。

春には、寛永寺の創建者・天海僧正が吉野山から移植した“上野の桜”が戊辰戦争で敵対した両者を包み込むかのように咲きほこる。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)3月の東京大空襲の際には、上野公園は多数の羅災者が逃げ込み避難場所の役割を果たしている。明治16年(1883)開業の上野駅の場所には、江戸の昔、寛永寺の子坊11ケ寺が在った。このように、上野では歴史が地層のように積み重なっている。

JR上野駅の公園口からお山の中に入ってゆくと、ブルーシートの「コヤ」が見え、そこに住むホームレスの人たちの世界が広がっているが、「通勤や通学で毎日決まった時間にこの公園を通り抜けている人々」は彼らの生きざまに思い遣ることはないだろうかと作家はシグナルを送っている。

 ひとつ、主人公が今上天皇と同じ年、昭和8年(1933)の生まれであるとしたこと。さらに妻の名は貞明皇后(大正天皇の皇后)の名と同じ漢字の節子とし、皇太子の生まれた日(昭和35年2月23日)に生まれた長男は、浩宮徳仁親王の「浩」の一文字をとり「浩一」と名付けている。

 ひとつ、主人公の出身地を福島県南相馬郡としたことで、「3・11」(平成23年3月11日の東日本大震災)の悲劇が出稼ぎの上に重なり合っていること。
主人公の先祖は文化3年(1806)、加賀越中(富山県)からの真宗移民であった。相馬といえば、相馬野馬追祭で有名だが、御先祖様は先住の相馬の「土着様」から「加賀者」と蔑(さげす)まれ、こっぴどく痛めつけられながらも「荒れ地」を開拓したというくだりは、原発と出稼ぎの歴史的背景を一気に江戸の後期まで遡らせて興味深い。

 かつての浜通りには、東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所もなかった。かの地に原発を誘致する以前は、一家の家長たる父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったのである。そこに「3・11」が起き、多くの人々が津波や原発事故で避難を余儀なくされた。

さらにこれら「上野」、「相馬」、「皇室」、「大震災」が交差し、重なり合って、出稼ぎでありホームレスである男の日常の中に、ポリフォニックな「あの音」が沸き起こり、こだまする。
「あの音」とは上野公園内のチェーンソーや草刈りの音、上野駅構内のアナウンスや列車の奏でる機械音、街の中の見知らぬ男女の会話、都会の喧騒、「天皇陛下万歳」の叫び声であり、東京オリンピックの開会を宣言する昭和天皇の声であったりする。これらは作家のメッセージであり、小説の背景描写でもある。

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2014.06.12 悟りを求めるのも我欲―阿弥陀仏への帰依と口称(くしょう)念仏を勧めた仏教歴史小説の傑作
〔書評〕梓澤 要著『捨ててこそ空也』(新潮社、¥2000+税)                       
                 
雨宮由希夫 (書評家)


 廃(すた)れ皇子の五宮(ごのみや)常葉丸————醍醐天皇が後宮の更衣に生ませた皇子でありながら、宮中から追い出され、存在そのものが闇に葬られ、親王宣下もされぬまま自ら失踪……。
空也といえば、錫杖をつき、口から6体の阿弥陀仏を吐く六波羅蜜寺の肖像彫刻で有名だが、空也の出自が、そのようであったとは露知らないことであった。
梓澤(あずさざわ)要の『捨ててこそ空也』は、平安時代中期の浄土教の先駆者である空也上人(903~972)を主人公とした渾身の歴史・時代小説である。

空也は延喜3年(903)に生まれ、21歳、尾張の国の国分寺で得度し、空也と名乗った。天慶元年(938)36歳、都に姿を現し、洛中を廻って念仏を勧め、「市の聖(いちのひじり)」の名をほしいままにしたのは史実であるが、「醍醐天皇の子」とも、「仁明天皇の皇孫」ともいう空也の出自を皇統とする説について大方の研究者は「不詳」としている。

空也が本書の描くように醍醐天皇の皇子であったとすれば、朱雀・村上の両天皇は空也の異母弟にあたる。醍醐天皇の延喜、村上天皇の天暦の間は「延喜・天暦の治」と賛美された「聖代」だが、その間にはさまった朱雀天皇時代は「承平・天慶(てんぎょう)の乱」(平将門と藤原純友の乱)が勃発した混沌の時代であった。作家は空也を「聖代」と「混乱」の時代を生きた人物として描いている。

奇しくも菅原道真が非業の死を遂げた年に生まれたが故に、五宮の誕生は父醍醐天皇の歓迎するところとならず、疎外されたとして物語はスタートしている。父の疎外、母との確執を経て、空也は全てを捨てて都を出奔、野辺の骸(むくろ)を弔いつつ世の辛酸を知り尽くしていく。かくして、真の救いを探し求めて諸国を遍歴、平将門の首に祈りを捧げ、比叡山の権威にも屈しなかった……と、空也の生きざまがつづられる。「将門」、「道真」、「遍歴」は本書を読み解くキーワードであることにまず目を向けたい。

 空也を取り巻く人物として、藤原実頼(さねより)、猪熊(いのくま)、喜界坊(きかいぼう)らがあり、彼らの人物造形が空也という「出自不詳」の人物の輪郭を明らかにしている。実在の人物である実頼は藤原北家忠平の嫡男で、師輔、師氏、師尹らの兄でありながら、「摂関家」の栄華は弟・師輔の手に帰してしまう(師輔の子が兼家、孫が道長である)ことになるが、本書では幼馴染の実頼と空也との交誼は終生続いていて、心なごむ。

 独創的な脇役は何と言っても猪熊である。空也は、13歳のある日、五条河原で、野棄の亡骸を燃やしている山伏とも乞食僧ともつかぬ風体の男たちを見かける。喜界坊を長とするその集団の中にいた、空也より二つ三つ年かさの少年が猪熊で、彼は初対面ながら、空也が抱えていた苦しみを察し、受け入れる。後年、空也は「猪熊と出逢わなんだら、生涯をただむなしく無為に費やしていたろう、出会ったときから、自分の真の人生が始まったのだ」と回想することになる。

火葬をしたり、橋を架け、井戸を掘り、堤を築いたりしながら畿内各地を転々とする彼らと行動をともにしたことで、空也は庶民の生々しい生と死を初めて知り、自分は何を為すべきかを思う。やがて、喜界坊の集団から別れた空也は、西国から坂東、陸奥へと夢中で歩くこと15年、「自分が進むべき念仏の道」を見出し、仏の救いと生きる意味を探し求め、再び京へ戻って、猪熊と再会する……。

猪熊との出会いから最期の別れはこの小説におけるひとつのクライマックスであろう。「畿内各地を巡る集団」といえば聞こえがいいが、実は社会の底辺に呻吟(しんぎん)し、やむに已まれぬぎりぎりの生存上の必要から移動せざるを得なかった非農民、アウトローの群れであり、再会した猪熊は国家の秩序から零れ落ちた無惨な犯罪者に堕していた。その死と相対峙した猪熊を空也はわが身に換えて救おうとする。若き日のあの時助けてくれたから、「市の聖」と慕われる今の自分がある。今度は自分が猪熊を支えるのだ……と。

 
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2014.06.06 「政(まつりごと)の栄枯盛衰や一家の毀誉褒貶に惑わされるな」
〔書評〕浅田次郎著『黒書院の六兵衛』(上・下) (日本経済新聞出版社、各¥1500+税) 

雨宮由希夫 (書評家)


慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府軍に引き渡された。15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて逃げ帰ってきてから丁度3カ月目のできごとであった。城主たる徳川将軍家に成り代わり、接収に立ち会ったのは御三家筆頭の尾張藩であった。本書はこの史実を題材にした歴史・時代小説である。

 本書には主人公が二人いる。一方の主人公は、江戸城明け渡しに先んずる官軍の俄(にわか)隊長を命ぜられた尾張徳川家江戸詰徒組頭(かちぐみかしら)・加倉井隼人である。たまさか勝海舟と西郷隆盛の談判が成り、江戸は不戦開城と決した。その江戸城に異変がないかどうか偵察して来い、というのが官軍のお達しである」というのが本書の設定である。

尾張藩士でありながら、官軍の洋式軍服と赤熊の冠り物を着用させられ、「官軍将校」として江戸城に送り込まれた加倉井は、西の丸御殿で、旧幕側の代表たる勝海舟に会い、勝から、「実はこの西の丸御殿の中に“江戸城明け渡し”をどうしても料簡できぬ侍がひとりだけおる」と告げられる。その侍こそ、本書のタイトルとなっている「黒書院の六兵衛」こと、直参旗本で御書院番士の的矢(まとや)六兵衛、もう一方の主人公である。

御書院番士の多くは上野寛永寺大慈院に蟄居(ちっきょ)謹慎している慶喜の警護に当たるか、あるいは「脱走」して東北戊辰戦争にかかわるか、彰義隊として上野の山に立て籠もるかで、幕臣としての意地を見せているが、六兵衛はそれらいずれの道をも歩まず、開城談判が成った途端、ひたすら御城内の持ち場である宿直部屋にじっと座りはじめ、梃子でも動かない。六兵衛の「沈黙の反乱」はいつ果てるともなく続く。

六兵衛が踏ん張っている限り、西郷隆盛との開城談判が成ったとは言い切れない。力ずくで事を運べば、西郷との談判の信義に悖(もと)ると考える勝は、六兵衛の一人の稚気によって江戸が戦場となるやもしれぬとやきもきする。当初はさしたる「異変」でもないと軽視していた隼人であるが、六兵衛をいかにスムースに城内から撤去願うかが隼人に課せられた任務となる。
 
史実にはない滑稽なフィクションとしてかたづけることは容易であるが、まずもって、主人公二人の人物造形が並はずれていることに作家の意図を感じねば、浅田次郎が仕掛けた創作世界のレトリックと対峙することはできない。
加倉井隼人は「官軍将校」だが、「寝返った尾張の侍」であるということ。

 幕末史は尾張藩及び第14代藩主徳川慶勝(よしかつ)の寝返りで、倒幕から討幕へと一気に流れが加速したといっても過言ではない。御三家筆頭たる尾張大納言家はそれほどまでに幕末政治に絶大なる影響力を保持していたのである。しかも、慶勝は会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)、桑名藩主で京都所司代の松平定敬(さだたか)の実兄であり、最後の将軍慶喜の従兄でもあった。
戊辰戦争勃発以前は江戸詰の尾張藩士として名古屋城以上に江戸城に徳川氏の居城としての親しみを感じている隼人は、慶勝のような人物を将とした組織に組み込まれて生きなければならないのである。なお、城山三郎に慶勝を主人公とした歴史小説『冬の派閥』(昭和57年刊、新潮社)があり、慶勝をリーダーに仰いだ幕末の尾張藩の命運、悲喜交々が描かれている。併せ読みたい。
 
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2014.05.03  信長・秀吉・家康の時代、九鬼守隆の水軍とその目に映った三人を淡々とした筆致で描いた
〔書評〕加藤 廣著『水軍遙かなり』(文藝春秋、¥1850+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 
 近世への幕開けをめざした信長にとって、最大の敵は武田氏でも毛利氏でもなく石山本願寺であった。中世的権威を振りかざす本願寺第11世宗主・光佐顕如は石山本願寺を拠点に信長包囲網を敷き、各地で一向一揆を蜂起させた。天下布武の旗を掲げる信長と顕如の石山合戦は前後11年の長きにわたった。

 本願寺救援の毛利水軍のために散々な敗北を喫した織田水軍であるが、信長の命により巨大な鉄甲船(てっこうせん)を作り、毛利水軍を破るのに大貢献をした人物こそ、九鬼 嘉隆(くき よしたか)(1542~1600)である。熊野の別当・湛増(たんぞう)の末裔と言われる嘉隆は信長・秀吉時代を生きたが、関ヶ原の戦では西軍に与して東軍に与した嫡子・守隆(1573~1632)と干戈を交え、戦後、自害している。

 歴史小説であるこの物語は、天正7年(1579)1月、「我は海の子」、海を眺めるのが大好きな8歳の守隆が、世界の果てはどうなっているのだろうかなどと水平線の彼方を見つめていると、第二次木津川口の戦いに勝利した父嘉隆が鳥羽に帰還したことを告げるべく九鬼家の家臣が少年守隆のもとにかけつける~というシーンに始まる。そして、慶長20年(1615)7月、守隆が「そなたと二人きりで、この国のありようを腹蔵なく語りたい」という大御所家康の要請を受けて海路駿府を訪ね、「家康の海外進出戦略論」を拝聴するところで終わっている。

 このように、本書の主人公は嘉隆ではなく、関ヶ原の戦後、鳥羽藩5万6石の初代藩主となる九鬼守隆なのである。九鬼家の当主として、嘉隆は信長・秀吉に仕え、守隆は家康に仕えた。信長・秀吉・家康と、中央の情勢が劇的に転換する中で、「伊勢志摩という小宇宙」の一領主にすぎなかった九鬼氏が水軍を率いて時に翻弄されながらも、中央情勢についての諜報活動などを駆使して身を処すべくいかに立ち向かったかを描いている。

 天下人三者三様それ自体を主人公とした歴史小説は数多いが、彼ら三者とかかわりをもたざるを得なかった人物を前面に押し出した作品は珍しい。作家は「定説」となった戦国時代晩期を今までと違った角度から俯瞰しているともいえる。

「定説」への懐疑、否定はまず「鉄甲船」である。
 天正6年(1578)11月、石山合戦のターニングポイントとなった第二次木津川口の戦いで、嘉隆は大鉄砲を搭載した鉄甲船6艘を率い、毛利水軍を撃破したことは史実であるが、鉄張りの船の詳細は詳らかではなく、未だ定説を見ていない。

  この鉄甲船問題の真実究明に作家がいかにたちむかっているのかは本書の読みどころの一つであるが、作家の視点は、むしろ、黒潮の3大難所である熊野灘・遠州灘・相模灘の実状を把握していた九鬼水軍が黒潮の激流がもたらす危険を熟知し、航海技術や造船技術で瀬戸内水軍など他の水軍より抜きん出ていたことに着目している。

 いわゆる戦国3大英傑の時代において、本能寺の変と関ヶ原の戦は当時を生きた武将たちにとって避けて迂回することのできない人生の岐路であった。いずれの側に就くべきか、仕える主人の選び方次第で浮沈を味わうことになる。
「信長は非情の将ではあるが、九鬼一族にとっては杖とも柱とも頼む」存在であった。「水軍がまだ海賊呼ばわりされている頃、嘉隆を全国区に引き出し、『水軍』として売り出してくれたのは信長」であり、その信長軍団の中にあって、嘉隆は「古豪・村上水軍を傘下に従えるような日本一の水軍の大将になる」ことを夢見ていた。

 その信長が天正10年(1582)6月、本能寺の変で「消えた」。
信長から秀吉へ————。無人の地を行くように天下人への坂を駆け上る頃の秀吉はともかく、変直後、信長の後継者の地位を掴もうとする頃の秀吉と嘉隆の関係は、九鬼家内部のいざこざへ関与する瀧川一益、本能寺の変の真相を知っていたのではないかとみられる家康との複雑な絡みもあり、読み応え充分である。

 山崎の合戦で嘉隆は秀吉の九鬼水軍出動要請に即応していない。家康に就くべきか。秀吉か。この段階で嘉隆が家康を仕えるべき主人の選択肢のひとつとする情況情勢の造作は作家・加藤廣の独壇場である。
 なおまた、『信長の棺』『秀吉の枷』などの読者であれば先刻承知のことであるが、信雄・信孝の出生順序、秀吉の出自、「お国替え」に潜む秀吉の家康追放作戦、淀の方の不倫と鶴松誕生の奇妙な噂などなど、加藤廣の秀吉を巡る「数々の不思議」に対する視点がとてつもなく新鮮かつ愉快である。

 心ならずも秀吉政権にとりこまれた嘉隆は外様であり、「豊臣水軍の中における自らの位置の低さ」を思い知る。秀吉は豊臣水軍のメインに村上水軍を考えていたのである。
 天正18年(1590)の「北条攻め」で、瀬戸内の水軍は「10年前の瀬戸内の海戦で、九鬼水軍の『鉄甲船』にダマされ、敗戦の煮え湯を飲まされた記憶を忘れておらず」、九鬼水軍を「成り上がりの水軍」と蔑んでいる。
嘉隆は慶長2年(1597)の第二次朝鮮出兵の慶長の役には出陣していない。「参加を許されなかった嘉隆は、これを恥として」、家督を守隆に譲って隠居した。

 秀吉から家康へ————。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際しては、「水軍について、家康が信長、秀吉にはないものを持っている」、ゆえに「徳川さまについていく」という守隆の主張が通り、「九鬼水軍の徳川方への参加が正式に決定」する。しかし、隠居の身でありながら、嘉隆は独断で九鬼水軍の帰属先を大転換してしまう。その挙げ句に、守隆に「父の自決という悲劇」がもたらされる。九鬼父子の選択は、どちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったとする説があるが、「この世の権力闘争の難しさを思い知った」はずの嘉隆にとっての大誤算は、関ヶ原の戦が「わずか二刻(4時間)」で決着してしまったことであろう。ちなみに、山崎の合戦にいたっては「わずか一刻(2時間)」であった。

 本書は海賊大名の異称をとった父子鷹の物語である。むすこの守隆にとって父嘉隆は「根が仕事好き、それも戦(いくさ)大好き人間の困った父」であり、嘉隆が「ただの荒くれ男」でないことを知っている。一方、嘉隆にとって守隆は「自慢の息子」であり「トンビが生んだタカ」であった、と作家は人物造形している。ほほえましいほどの父子愛ではないか。

 その守隆の眼に映った3人の天下人の殿(しんがり)に登場するのは、家康である。
 将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府から万事一切に目配りした晩年の家康が、守隆に語りかける「この国のありよう」に、読者はこれが家康か、と驚くであろう。概して傭兵的な性格が強かった水軍を、「陸の軍団と切り離した独自の軍団と認め、将来の南蛮水軍の襲来に対処しようとした」のも家康であるという。新しい家康像の創出である。

 中世、「海賊衆」と呼ばれた「水軍」は江戸時代の「船手組」を経て、近代以降の「海軍」となる。家康による海洋国家日本の未来図を思い描くと、鎖国下の日本が外洋航海を習得する機会を喪失せしめ、造船技術が貧弱になっていったことが惜しまれる。もし仮に家康があと10年健康を保持してくれたなら、と夢想させる。まさに「水軍 遙かなり」。

 寛永9年(1632)に守隆が死去すると家督争いが起こり、幕命によって鳥羽藩九鬼氏は2分割され、丹波綾部2万石と、摂津三田3万6千石に転封され、家名は明治まで残るが、九鬼水軍は滅びる。
 信長・秀吉・家康の時代を生きた九鬼守隆の生涯を描くとともに、守隆の目に映った三人の天下人を描いた本書は、淡々とした筆致でものされた味わい深い一冊である。
               
2014.04.16  幕末維新の波間で押し流されつつも下町で懸命に生きる姿を活写する
 〔書評〕河治和香著『どぜう屋助七』(実業之日本社、¥1600+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 表紙のカバーの装画が美しい。左に白富士、右に五重塔、「どぜう」の赤提灯と柳が揺れる大空に、広重の『名所江戸百景』「駒形堂 吾嬬橋(あづまばし)」から抜け出てきた時鳥(ほととぎす)が舞うように飛んでいる。
浅草・駒形にある老舗「駒形どぜう」は江戸時代から 210余年続くドジョウ屋だが、本書はその「駒形どぜう」を舞台に、3代目当主越後屋助七こと渡邉元七を主人公にした歴史時代小説である。

 安永5年(1776)、武蔵国北葛飾郡松伏領(まつぶしりょう)広島村 (現在の埼玉県吉川市南広島)に生まれた助七は、 寛政の頃、江戸へ出てきて丁稚奉公を務め、享和元年(1801)、浅草の駒形にドジョウ汁の一膳飯屋を開業した。店の前の道は浅草寺への参道であり、吉原への道でもあり、また水戸や奥州へと続く街道でもあった。

 ドジョウは旧仮名遣いでは「どぢやう」と書く。 四文字は「死文字」に通じ、偶数は忌み嫌われたことから、 縁起のいいとされる奇数の「どぜう」を思いついた 助七は、店の戸口にかけた五巾(いつはば)の暖簾の真ん中に、太々と「どぜう」と染め抜いて掲げたところ、これが受けた。
この店では代々当主は〈越後屋助七〉を名乗ることになる。

 主人公3代目助七の生きた時代は幕末維新である。世の中は黒船来航に始まり、安政の大地震、コロリ騒動、雷門火事、御一新と目まぐるしく動いていく。殺伐とした雰囲気の中、3代目を核とした親子3代の〈助七〉が店で働く雇人たちと力を合わせながら、食い物商売である家業を守り立てていくというのが、ストーリーの大筋である。

 嘉永7(1854)年4月、黒船の再来航で騒然となる江戸は浅草、駒形の“どぜう屋”を16歳の田舎娘、伊代が訪ねてきたところから物語はスタートする。江戸近郊荏原郡世田ヶ谷村小山で育った伊代には、浅草で耳目にするものすべてが新鮮で戸惑うことばかりだった。
 浅草寺は〈かんのんさま〉、駒形堂は〈こまんどう〉と土地の人々は愛着を込めて発音することを伊代は知る。また当時、店の前には牛馬を繋いでおくための専用の柵があり、牛馬の糞尿を片付ける専従の者がいて、これを〈牛番〉といったが、これも伊代の仕事の一つとなる。
かく言うと、あたかも伊代が主人公のように思えるがさに非ず。伊代がどのような生涯を送ったかは、本書を読んでのお愉しみである。なお、伊代には後に新選組隊士となり「明治維新」のドサクサで悲劇的な最期を遂げる信太郎という兄がいて、時代背景をより鮮明にしているとだけ紹介しておこう。

 元七の妹で駒形小町と異名をとるヒナは店の看板娘。元七、ヒナの父親で先代助七の平蔵。別居中の柳橋の芸者だった元七の妻、登美。登美との間にできた倅の七三郎が元七の家族である。女中頭のハツ、実直な煮方の巳之吉(みのきち)などの奉公人も個性的。ヒナに岡惚れしている火消し〈と組〉の銀次、大のどぜう汁好きの伝法院の宗圓僧都(そうえんそうず)など店に集う人々の生きざまも面白いが、意地を張りあう親子三代の意思疎通の悪さがおかしい。

 隠居の平蔵は養子であることからなんでも保守的で、実直に家を守りたい一心から時に堅実な訓示を垂れる。元七はそのような平蔵の消極的な態度をもどかしがって反発する。客観的に物事を進めようとする元七の倅(せがれ)七三郎は、時として肝心の店の仕事はほったらかしにしては線香花火のような思いつきで行動する極楽とんぼの父元七よりも堅実な祖父平蔵になついている。

 「親が子にしてやれる最後のことは……我慢することだよ」とは平蔵の言葉である。何と味のある言葉であろうか。それにしても、この時の平蔵はまさか子の元七に先立たれ、孫七三郎(4代助七)の後見役として、隠居の身でありながらまた店先に立つことになるとは思ってもいなかったにちがいない。

 まぶしいまでの生命力、したたかな江戸っ子の生きざま。読み出したら止められないのは、浅草の往来の喧騒と息吹、江戸の下町に生きる人々の息づかいやにおいまでが感じられ、「『親の意見と冷や酒はあとできく』って教えてやりゃあよかったなぁ」といった江戸っ子の言葉が聞こえてくるからである。

 酉(とり)の市や三社祭(さんじゃまつり)といった江戸情緒をくすぐる行事の描写もあるが、何と言っても登場人物の造形の巧みさが物語を盛上げている。作家は人間を描いている。
 実は元七はたいした趣味の持主なのである。粋な新内流しであるとともに、剣は浅蜊河岸の鏡心明智流、桃井(もものい)春蔵の道場〈志學館〉に通って道場目録の腕前である。生半可なものではない。
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2014.04.02 幕末激変を見据え、最後まで己れを失わずに「近代」を生きた「土方歳三回顧録」
〔書評〕歴史時代作家クラブ編『新選組出陣』(廣済堂出版、¥1900円+税)

雨宮由希夫 (書評家)

 
 幕末維新の群雄の中で、最もわかりやすく、大衆に親しまれるのは新選組であろう。明治時代には、旧体制護持のために血刀をふるって維新の元勲たちの同志を数多く殺した人斬り集団として賊徒扱いされた新選組。いつのまにか頼もしい剣豪集団として、ロマンあふれる集団として認知されるに至っている。

戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦から江戸開城、列藩同盟結成から会津若松の鶴ヶ城陥落、そして箱館戦争へと続く内戦であるが、勝敗は初戦の鳥羽伏見で決し、それ以降の戦いは薩長にすれば残敵掃討のようなものであった。

土方歳三はそのような戊辰戦争のすべてを戦い抜いた男である。負け戦が続こうが意気消沈することなく、まるで戦鬼のように歳三は動いているが、どのような情熱が彼を支えていたのか。
歳三が見果てぬ夢、自分の美学に殉じた「漢(おとこ)」であったとしても、ただ単に死地を求めていたのではあるまい。北海道独立政府に対しても、それなりの夢を託していたに違いない。歳三をして箱館まで戦い続けさせた原動力とは何かを私は知りたい。

 本書『新選組出陣』は歴史時代作家クラブの会員たちによる競作アンソロジーである。歴史時代作家クラブとは、5年前の2011年、歴史・時代小説を執筆する作家たちを中心に創立された親睦団体である。9編の短編からなる本書は全編書き下ろしで、『修羅を生き、非命に死す 小説小栗上野介忠順』の岳真也が「近藤勇」を、『義元謀殺』の鈴木英治が「永倉新八」を、『水の砦 福島正則最後の戦い』の大久保智弘が「沖田総司」を描くなど、9人の作家が9人の新選組隊士を担当している。

描きつくされた感のある新選組に9人の作家がいかに迫るのか、その気迫が書名の一部となった「出陣」にこめられているが、中でも注目すべきは「土方歳三」を担当した塚本靑史である。周知のごとく、塚本は『霍去病(かくきょへい)』で颯爽とデビューし、直近では『サテライト三国志』を上梓するなどわが国における中国歴史小説の屈指の書き手であり、塚本の手による日本史を史材とした歴史・時代小説を読めるとは思ってもいなかったからである。
土方歳三に、塚本がどう迫るのか。土方を採りあげるということは新選組とは何かを問うことであり、ひいては幕末維新という時代を問うことに他ならない。幕末の激動と変転をきっちりと背景にしないかぎり、どうしても新選組は単なる剣戟集団とならざるを得ない。新選組(なお塚本は「新撰組」を採用している。以降、「新撰組」とする)の捉え方ひとつで、書き手の幕末観の一端が推し測られよう。

 塚本靑史の土方歳三を採りあげた短編のタイトルは「最後に明かされた謎」である。作家が解き明かす謎とは何であるかは、読者のためにひとまず触れないでおくが、その前に、蛇足ながら、歳三はいつ、どのようにして死んだのかについて触れておきたい。歳三の最期は謎に満ちているのである。
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2014.03.27 原発事故に労働者が吐いた怒りの川柳
『原発川柳句集―五七五に込めた時代の記録―』

岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 「フクシマをすっかり忘れて花見酒 黄金餅」。『原発川柳句集―五七五に込めた時代の記録―』と題する冊子が、レイバーネット日本・川柳班の編著で刊行された。川柳好きの労働者が、東京電力福島第1原子力発電所の事故以来、原発問題について吐き続けてきた句をまとめたものだが、そこには、依然事故を収束しえないでいる政府と電力会社への怒りと、早くも事故を忘却しつつある世間へのいらだちがあふれている。

 「レイバーネット日本」は、働く人たちをつなぐ情報ネットワーク。労働運動活動家、市民メディア関係者、労働運動研究者らの呼びかけで2001年2月に発足した。労働運動の発展を願うすべての人に開かれたネットワークで、個人の自律性・自主性に基づいて運営されており、ウェブサイト、動画配信、レイバーフェスタ、レイバーネットTVなどを通じて情報を発信している。

 レイバーネット日本・川柳班は、このネットワークに結集する川柳愛好者の集まり。2010年には初の句集『がつんと一句!―ワーキングプア川柳』を刊行している。今回の句集はこれに次ぐもので、その狙いを「まえがき」で次のように述べている。
 「私たちは原発事故発生以後、首相官邸前や経済産業省前テントひろば、月例句会などの場でそれぞれの思いや怒り、批判を川柳という五七五の極めて短い一句に吐き続けてきた」
 「あれからもう二年以上経つというのに、この非常時ともいうべき事態の中で、政治の無能さと、東京電力をはじめとする責任主体のあまりにも無責任極まりない対応など、私たちの怒りは、まさに怒髪天を衝くものがある。そうした思いを吐いてきた川柳を、この時代のひとつの記録としてまとめ、広く世の中に問い、後の世の人びとのためにも遺しておきたいと思う」

 本書には同班の定例句会の記録も収録されている。その中から、一部を紹介する。

<2011年 夏・秋>
  [夏]
 真夏でも背筋にヒヤリ原発禍        やせ蛙
  [デモ]
六万人政府東電想定外            一志
 脱原発叫ぶわが子ののどの腫れ       白眞弓
 デモに行く脱原発の一里塚     エチゼンクラゲ
  [実り]
 豊穣の大地哭く声聞こえぬか         斗周
 今年から放射能をも収穫す         白眞弓
 セシウムでたっぷり色づく紅葉樹       一志
 放射能実りの秋を苦りきり 乱鬼龍
  [警官]
 東電を守り確保の天下り           斗周
 デモ隊に放射線量訊く警官 英卯蝶

<2011年 冬>
  [十二月]
 直ちにのツケをそろそろ払わされ       斗周
 サンタさん二の足を踏む汚染図       なずな
 惜しまれぬ千に一度の年もあり        奥徒

<2012年 春>
[変わる]
 避難して来たこの街に住む決意       なずな
 死の街に変えた主犯を問わぬまま      囲真人
 一年が過ぎて変わらぬ喪に服す 白眞弓
 [芽]
 芽を出して良かったのかとつくしんぼ    囲真人
 タラの芽に棘より怖いものがつき      笑い茸
 芽も出ない花も咲かない核の冬     かぜはやて
 [風]
 憤死して千では足りぬ風となり 斗周
 [ゼロ]
 ゼロ歳の未来を悔いる汚染地図        奥徒
 セシウムがゼロになる日は墓の中       一志
  [自由吟]
 人類が絶滅危惧種原発禍          囲真人

<2012年 夏>
 [水]
 水清き桜の国の汚染地図         わかち愛
 あの嘘が奪う命の水と空           奥徒
 末期の水セシウム入りはお断り        一志
 [自由吟]
 「安全」と言えば危険と納得し       なずな
 議事堂が小さく見える金曜日         一志
 一億が被曝手帳を持たされる        乱鬼龍

<2012年 秋>
 [ナショナリズム]
 フクシマを置き去りにする愛国心      なずな
[自由吟]
 そういえば工程表つてあつたよね       斗周

<2013年 冬>
 [蛇]
 毒蛇の毒もかなわぬ核汚染         なずな
 [自由吟]
 遺言の通りお棺に防護服          笑い茸

<2013年 春>
 [福島]
 ゼネコンに盆と正月福の島         笑い茸
 棄民という現実を知る二周年        なずな
 フクシマの空気読めずにいる総理     わかち愛
 フクシマとヒロシマ悲劇の人類史      勢子船
 [空気]
 危険だと言えない町で子を育て 笑い茸
砂場では息しちゃダメと母叫ぶ 白眞弓
[自由吟]
収束の二文字嗤う汚染水          なずな
 不良品海の向こうへ詐欺商法         奥徒

『原発川柳句集―五七五に込めた時代の記録―』は四六判、88ページ。発行所はレイバーネット日本。℡03-3530-8588 FAX03-3530-8578。頒価600円

2014.03.16 忍耐力と粘りで堅実に緻密に先へ進んだ家康の若き日の苦悶を描く。
〔書評〕伊東 潤著『峠越え』(講談社、¥1600+税)

雨宮由希夫 (書評家)


 家康はいつの時点で本能寺の変を知ったのか、という興味深い問いかけがある。一説によると、家康は勃発前の「本能寺」を知っていたのではないか、光秀の謀叛には家康も一枚絡んでいたのではないか、とも。それはともかく、信長が本能寺の変に斃れなかったなら、天下人としての家康の出番はなく、「江戸時代」もなかったに違いない。

 本書は「家康と本能寺の変」を史材とした歴史小説で、武田氏を滅ぼした直後の天正10年4月14日、東海道を使って帰国する信長を、家康が駿府城に迎え饗応するシーンに始まり、本能寺の変が勃発し、信長の死が確認された後の6月4日、自領三河へ帰着すべく「伊賀越え」して伊勢湾の洋上に浮かぶ家康までが描かれている。

 本書をひも解く前に、当時の時代背景を略述したい。
 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し、甲斐源氏の名族武田家は滅ぶ。武田氏を滅ぼしたのち、信長は今川氏の旧領駿河一国を家康に与える。5月、信長からの招請があり、家康は信長へのお礼を兼ねて、武田の遺臣穴山信君(のぶぎみ)(梅雪)を伴って安土に伺候する。穴山信君は信玄の甥、勝頼の姉婿で、武田家親類衆筆頭の座にあったが、家康を通じて信長に内応し、勝頼を裏切って敗死させた人物である。

5月19日から3日間にわたる安土での饗応の後、家康らは信長から京、奈良、堺の見物をすすめられる。家康らは堺で本能寺の変に遭遇する。家康は生涯に遭遇したどのケースとも違う危機に直面した。信長の横死により、いまや畿内の地は完全に無警察状態となり、行路は難渋をきわめた。とにもかくにも家康主従は伊賀越えの危難を乗り越え、三河へと帰路に着くが、家康と別行動をとった梅雪は途中で土民に襲われ殺害される。

以上が史実であるが、作家はいかなる物語的構想のもとで史実に立ち向かうのか。コインの両面のように史実と物語的構想が不可分の時、適度な重みがある作品が生まれる。
 家康は6歳から19歳まで13年にわたる人質生活を余儀なくされた。駿府は家康にとって思い出の地である。堪忍自重し石橋をたたいて渡るような家康の生き方は長い人質生活がもたらした劣性コンプレックスから育まれたものと思えるが、本書の作家は、凡庸の才しか持たぬ者の生き方を家康は今川氏の執政、軍事である太原(たいげん)雪斎から教えられたと語りはじめている。
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2014.02.25 51人の脇役は時代とどう向き合ったか、治乱興亡の中に蘇らたネット連載の新企画
〔書評〕塚本靑史著『サテライト三国志 上・下』(日経BP社、各¥1800+税)      

     
雨宮由希夫 (書評家)


いわゆる三国志の時代は日本人にとってなじみ深い時空である。なぜ日本人は異郷の、しかもはるか1800年前の時空に、自国の歴史と人物以上に心惹かれるのだろうか。袁譚、袁尚による後継者争いに付け込んで袁家滅亡に至らしめる曹操に、信長の遺児たちを翻弄して織田家乗っ取りを謀る秀吉を重ね、曹丕、曹植兄弟に頼朝、義経兄弟の猜疑と嫉妬、骨肉相食む愛憎を、敵味方に分かれて戦った諸葛瑾、諸葛亮兄弟に真田信之、幸村の信義と情愛を重ねる向きもあろう。まさに戦乱の中にこそ人間ドラマありである。

これまで『三国志曹操伝』(平成19・20年刊)、『仲達』(平成21年)、『呂布 猛将伝』(平成22年)と三国志に史材を採った作品を発表してきた塚本靑史は、「三国志」の魅力及び本書『サテライト三国志』執筆に至る動機を次のように語っている。

――蜀の劉備、魏の曹操など誰を主人公にしても、「三国志」は正史『三国志』や『三国志演義』の区別なく、その興亡は限りなく複雑な絡み合いを示した上にスリリングで、血湧き肉躍る要素が満載の祝祭空間と言えるだろう。それは「三国志」という神輿の担ぎ手、劉備や曹操を守り立てるキャラクター、脇役が夥しいからである。にもかかわらず、これまで脇役にスポットを当てた物語は案外少なかったのではないか。本書は、それら多くの脇役たちをあえて中心に添えてみた――。

本書は上下2巻Ⅳ部構成。上巻第Ⅰ部 黄巾の乱から汜水関(しすいかん)&長安遷都。第Ⅱ部 長安の興亡から官渡(かんと)&赤壁の戦い。下巻第Ⅲ部 三国分裂から五丈原の戦い。第Ⅳ部 司馬氏の台頭から晋の統一へ。

光和7年(184)、黄巾の乱。乱の発生から、後漢の滅亡、すなわち年代区分による三国時代の開始まで36年の歳月があるが、「三国志」をいろどる「主役」たる英雄群像のほとんどは「黄巾軍討伐」で名乗りを上げている。
中平6年(189) 霊帝崩御。新皇帝の外戚の何進が実権を握るが、宦官勢力の一掃をもくろむも逆に宦官どもに暗殺される。袁紹、袁術らによる宦官みな殺しの惨劇の後、皇帝劉弁と皇弟陳留王劉協を奉じて京師洛陽に入ったのは涼州の軍閥の頭領である董卓であった。労せずして政権を掌握した董卓は皇帝劉弁を廃して、皇弟の劉協(9歳)をたてる。彼こそが献帝である。

董卓の強引で残虐な恐怖政治。反董卓軍の結成。汜水関での睨みあい。洛陽の炎上と長安遷都。呂布による董卓暗殺。涼州組による長安奪還。董卓の死後、その一党が政権を専断する一方、曹操、袁紹、袁術、公孫瓚、呂布、陶謙らの群雄が各地に割拠する。
袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れる。建安13年(208) 赤壁の戦い。曹操は孫権・劉備連合軍に敗れ、多勢の驕りと油断が千載一遇の中華全土統一を逸してしまったことを知る――。

全Ⅳ部の各部は12人ないし13人の総計51人(大橋小橋の「橋姉妹」の章は2人のため)が章立てされている。英雄、豪傑、武将、参謀、美女――。登場人物の51人を選ぶにあたり、まずはネット上で読者アンケートが募られ、その回答を参考にして、作家が主人公を厳選したという。
読者の中には呂布や仲達とともに関羽や張飛の章がないといぶかる向きもあろうが、靑史ワールドでは彼らは「脇役」ではなく「主役」なのである。

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