2017.10.18   「ローソク市民革命」について話したかったこと
     韓国通信NO537

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 久しぶりの国道294号線。栃木県益子から自宅までの車窓の景色は稲刈りも終わり、すでに秋もたけなわ。青空に筑波山がひときわ美しく映える。くるまの運転をしながら、昨日(10月8日)、益子の朝露館(関谷興仁陶板彫刻美術館)で話した内容を思い出していた。
 この日、朝露館で、韓国の詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の生誕100年を記念する集会があった。朝露館館主の関谷さんが済州島4.3事件、石川逸子さんが尹東柱を語り、私は「現代の韓国を知る」の演題でローソク市民革命について話した。
 資料をそろえ、話のあらすじをメモにまとめて準備万端のはずだったが中途半端に終わった。話したいことが多すぎて欲張り過ぎたようだった。それに予想したより多くの人がいてオロオロしてしまった。残念。話したかったことの十分の一も話せなかったような気がする。
 悔やんでも仕方がない。「幻」に終わったスピーチを書く。

ローソクデモの衝撃
 韓国のローソクデモについておさらいしたい。クーデターでもなく国民投票でもない合法的なデモが大統領を罷免した事件はわが国でも大きな関心を集めた。去年から今年にかけての出来事だが昔のことのように感じられ記憶は薄れがちだ。
 今年3月10日の憲法裁判所の朴槿恵大統領弾劾決定まで毎土曜日ごと30回、延べ人数1700万人が参加したという。日本の人口で考えると倍の3500万人に匹敵する。日本の60年安保闘争の参加者が延べ560万人、ピークで33万人。一昨年の安保法制(戦争法)反対の抗議集会は強行採決当日10万人が国会前に集まった。それに比べると想像ができないほど多くの人たちが参加した。光化門前からソウル市庁までの大通り、さらに大統領府に続く道、鍾路周辺の道路が人で埋めつくされた。

 きっかけは朴槿恵大統領が親友の崔順実に金銭の便宜を図ったこと、国家機密漏えいの発覚が始まりだった。加計学園の加計孝太郎氏は安倍首相の「腹心の友」だそうだが、崔順実は腹心の友と言わない。韓国語には「腹心の部下」はあるが「友」という言葉はない。
 大統領による国政の「私物化」に対する怒りはまたたくまに大統領の退陣を求める声となって全国に広がった。老若男女、全国津々浦々まで、与党セヌリ党支持者までが退陣要求をしたことは支持率が4%まで落ちたことで理解される。真相解明に独立系メディアが大活躍、保守系新聞と言われる朝鮮日報、東亜日報、中央日報までが退陣を求めた。真相解明を求める声は大統領側近の逮捕、贈賄側のサムスン、ロッテの経営者の逮捕によって、それまでの退陣要求から「逮捕」要求に変わった。

 大統領は「世間を騒がせた」と謝罪したが容疑は否定、取り調べに協力すると述べただけだった。朴槿恵には勝算があった。3分の2以上の賛成が必要な国会の決議はできないと踏んでいた。弾劾を求めた「ともに民主党」も国会決議の自信がなかった。結果は在籍議員300人のうち234人が弾劾に賛成した。大統領与党が分裂して賛成に回ったからだが、民意が国会を圧倒した。それでも大統領は憲法裁判所で国会決議が否決されることを期待した。親大統領派の裁判官が反対すれば弾劾は免れると踏んでいたが、大方の予想に反して9人の裁判官全員が弾劾を妥当とした。その判決が下されると国中が歓喜に包まれた。裁判の模様はテレビで実況放送され議事堂周辺で待機していた市民たちの様子が実況で放送された。憲法裁判所もローソクの力に圧倒された。

 1987年の「民主化宣言」以降、民主化が進んだはずの韓国社会で、軍事独裁を18年も続けた朴正煕元大統領の人気が高いことが不思議だった。親の七光りもあって韓国初の女性大統領になった朴槿恵が憲法違反で収監されるとは信じがたいことだった。韓国の憲法第一条「主権は国民にあり、すべての権力は国民から生まれる」という大原則によって、国民を無視した大統領が主権者によってクビになった。あたりまえのことが実現した。

 かつて金大中と大統領選を闘った李会昌候補の二人の息子が徴兵逃れをしたことが発覚して落選したことを思いだした。不正、それも権力者の不正は許さないという韓国人の倫理観の強さを見せつけられた。
 大統領選挙では文在寅候補を含めてローソク派の三人の候補者で約68%を集め、二人の保守系候補を圧倒した。しかし大統領の罷免は支持しても文大統領は支持しない人が32%もいる。その人たちを含めた「国民的統合」が新政権の課題になっているのも確かだ。森友学園・加計学園の疑惑や甘利経済担当相の“収賄”に対して日本社会はどうしてこうまで甘いのか、憲法を無視続ける安倍内閣に寛容なのか、今回のローソクデモから日本人が学ぶことは多い。私たちにとってローソクデモは「不思議の国ニッポン」を知る教科書、反面教師でもある。

韓国民主化運動が生んだローソクデモ
 ローソクデモといえば李明博大統領就任直後(2008/4)に起きた大規模な民衆行動を思いだす。狂牛病のおそれがある米国産牛肉の輸入に子どもたちが異議を申し立て街頭に現れた。それに触発され、子をもつ親、市民団体、労働団体が立ち上がった。規模としては今回のデモと同じくらい100万人規模のデモが続発。政府の妥協と反撃によって抑え込まれて終息。あの当時の子どもたちが成長して今回のローソクに参加したともいえるが、そんな単純な話ではない。
 以降、李政権、朴政権下で「牛肉問題」以上の不満が蓄積され、爆発したのが今回のローソクデモだ。その不満を説明する前に韓国民主化運動の歴史を知る必要がある。ローソクデモは突如生まれたものではないからだ。
 8.15演説で文大統領が語っているように、「ローソクデモは過去の民主化運動から生まれたもの。ローソクから生まれたローソク市民革命をやりとげ、後戻りのない輝かしい社会を作ろう」と歴史から学ぶことを訴えている。わが国では大統領発言の一部をとりだして「歴史問題に厳しく、反日的」「従軍慰安婦問題は振り出しに」と理解しがちだが、全体を読めばわかるように、演説は韓国がこれから向かう新たな民主主義の発展に注がれていることが理解できるはずだ。

<韓国の民主化運動の歴史>
 1945年の光復(独立)にもかかわらず、東西冷戦から生まれた南北の戦争と分断という悲劇に見舞われた韓半島。日本は朝鮮特需で奇跡的な戦後復興をとげ保守政治体制のもとで高度経済成長をとげた。死者は南北あわせて500万人以上。国土は廃墟と化した。「韓国に民主主義がなされるのは、ゴミ箱でバラが咲くのを待つようなもの」とまで言われ、民主化と経済復興への道のりは厳しかった。事実はそのとおり、韓国の民主化の歴史は一言で言うなら、民衆の蜂起と弾圧、勝利と敗北の歴史だったと言える。
済州島4.3事件(1948)もそのひとつ。済州島の6人に1人、約3万人が虐殺された。
 1960年、李承晩政権が「4.19革命」によって倒されたのもつかの間、1961年からは朴正熙らの軍事クーデターが起り、以降長期にわたる軍事独裁政権が続いた。日韓条約に反対する運動は武力で鎮圧され、以降日米が軍事政権を支え続けた。軍事政権に反対する運動は粘り強く続けられたが、「人革党事件」、「民青学連事件」などデッチあげ事件が頻発、厳しい弾圧による暗黒の日々が続いた。

 朴正熙大統領が側近のKCIA長官によって射殺(1979)されると情勢は大きく変化した。従来にない大規模な民主化運動が各地に起きたが、またもや全斗愌らの軍部がその前に立ちふさがった。
 1980年5.18、光州事件では正規軍が光州を制圧した。400名を超す市民が殺され、多数の行方不明者を出した。金大中が首謀者とみなされ逮捕され死刑判決。『君のための行進曲』は光州で殺された学生を追悼するために作られ、以降、民主化をもとめる人たちによって歌い継がれてきた。
 全斗愌による軍事政権は多くの若者を連行して思想改造を行う「三清教育」に象徴されるように苛酷な政治を行った。7年間続いた軍事政権は全国各地で相次いだ反政府運動と国際的批判を浴びて退陣を余儀なくされる。1987年6月先鋭化した学生、労働者にくわえ一般市民までが大統領直接選挙を求め全斗愌の退陣を迫った。ついに政府は「6.29民主化宣言」を発表した。

 1988年のソウルオリンピックを前に軍服を背広に着替えた盧泰愚大統領が誕生、金泳三の文民政権、さらに韓国民主化運動の象徴でもあった金大中政権の誕生、廬武鉉の参与政権と続き、韓国の民主化が大きく花開いた。かつて軍事政権と闘った二人の大統領はいずれも選挙では「辛勝」。憲法、政治制度は明らかに軍事政権と違う世界となったが民主的社会基盤は弱かった。家父長的権威主義が根深い社会。さらに北朝鮮の存在を強く意識した「反共主義」が社会を覆っている。日本の治安維持法を模した国家保安法は廃止されず、民主主義を強く主張すれば社会主義とみなされ、さらに北朝鮮とつなげて考えられる風土もある。

 昨年、大邱市のある鐘路小学校を訪れた。そこは東学の始祖、崔済愚(チェ・ジェウ)の終焉の地である。エンジュの木をながめながら校庭を歩いていたら子供の銅像が建っていた。像のプレートには「僕たちは共産主義がきらいだ」と書かれていた。大邱は朴正熙、全斗愌、盧泰愚ゆかりの地だが、わが国の二宮金次郎のかわりに反共を叫ぶ子供がいたことに驚いた。
 韓国はどう変わるのか。<次号に続く>
2017.10.08  周辺国と軍事演習、空路閉鎖、原油輸出阻止の脅迫・・・          クルド独立投票の無効を要求するイラク政府

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 2千年を超える歴史を生きてきたクルド人(中東全域でBBC推定総人口3,700万人)が、先月25日に初めてイラクで実施した、国家独立の可否を問う住民投票。有権者数4,581,255人、投票率72,2%、賛成92.7%の圧倒的多数で独立賛成となった。
 (その1週間後の10月1日にスペイン・カタルーニャ州で行われた、独立に可否を問う住民投票では有権者数約534万人、投票率約42%、賛成90.1%、反対7.9%だった)
 双方の歴史も政治的・経済的・社会的現実も投票率も全く異なるが、住民投票を実行し、独立賛成が圧倒的多数を占め、あくまで独立を宣言しようとしていることも共通している。どちらも、中央政府が独立だけでなく住民投票そのものに強く反対してきた。どちらの政府も、自治州の独立が憲法違反であるとの立場を非妥協的に堅持してきた。
 しかし、カタルーニャでは、9日の州議会で、プチデモン州首相が住民投票結果を正式に報告し、その場でスペインからの独立を宣言する可能性がある。カタルーニャの動向はイラクのクルド人たちを励ますに違いない。
 イラクでのクルド自治区とキルクーク県の独立投票については、8月以来、本欄でも4回にわたって、イラク政府との交渉を含め書いてきたが、結局、イラク政府のクルド独立と住民投票についての反対は動かず。合意のないまま投票は実施された。投票実施後、アバディ・イラク首相は、独立の可否はイラク議会によってのみ決定される事項で、独立投票そのものが憲法違反だとして、投票結果の撤回宣言を自治政府のバルザーニ議長(大統領)に要求した。それに対し同議長は、圧倒的独立賛成の投票結果を強調し、「独立投票の撤回はあり得ない」と拒否、イラク政府に独立実施への交渉に応じるよう要求した。
 イラク政府は、直ちに撤回を求めて自治政府に強い圧力をかけるために以下のような措置を取った。
(1)自治区内2か所の空港での国際便発着の禁止
(2)イラクの中央銀行と主要銀行の、クルド自治区内の銀行との取引停止。これによって、自治区は国際通貨を手にすることができなくなり、国内各地での自治区関係者の利用が難しくなるが、実施状況は不明
(3)自治区政府が実効支配している世界的な油田地帯キルクーク県への政府軍派遣
(4)自治区政府が掌握しているキルクークと自治区の原油輸出業務を、政府が掌握
(5)トルコ、イランとの国境地帯でのイラク軍との合同演習
 これらの措置のうち、(3)については、国内だけでなく欧米諸国からも、クルド自治政府傘下の武装勢力ペシュメルガとの軍事的衝突を避けるよう、イラク政府に対し強い要請があり、いまのところ政府側は(5)を小規模に実施したものの、国内での軍事衝突はないようだ。
 一方周辺諸国では、国内にクルド人住民が多く、民族主義の高まりを恐れるトルコとイラン政府、とくにトルコが活発に動いている。エルドアン・トルコ大統領は、すぐさまテヘランを訪問しロウハニ大統領と会談。イラクのクルド人独立に強く反対することともに、それぞれの国内への波及を阻止する決意で一致したという。
 エルドアン大統領は、以前から、自国はもちろんイラクでのクルド独立に強く反対、独立を宣言した場合には、クルド自治区とキルクーク産の原油を国際市場に輸出するジェイハン港を閉鎖する可能性を警告していた。この原油輸出は日量60万~90万バレルと言われており、クルド自治区の財政的大黒柱。ただ、原油輸出には強力な国際石油資本がかかわっており、エルドアンの警告が実施できるかどうかには疑問もある。
 一方、ロシアも乗り出してきた。ロシアは最近、ジェイハン港近くにイラク・クルド自治区からの天然ガスの大規模な液化プラントを完成したばかり。ロシアはクルド独立を支持し、影響力を広げようとする気配だ。
 独立投票の延期要請から、中止要求に変えていた米国のティラーソン国務長官は、投票直後、投票そのものを認めないと表明した。イラン敵視をあらわにするトランプ政権はイスラエル支持、そのイスラエルはクルド独立を支持しており、米国の対クルド政策がどうなるかはわからない。
 
2017.10.04   10月9日はチェ・ゲバラ没後50周年
           キューバ、ボリビアと日本で記念の催し
 
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 1959年のキューバ革命の英雄の1人、エルネスト・チェ・ゲバラが南米ボリビアでゲリラ活動中にボリビア政府軍に射殺されてから、今年10月9日で50年。これを記念して、この日を中心にキューバ、ボリビア、そして日本で、さまざまな催しが行われる。1970年代には、ゲバラは革命を目指す世界の若者たちにとって熱狂的な崇拝の的だったが、今なお彼の生き方に共感する人たちが少なくないということだろうか。

 エルネスト・チェ・ゲバラは、キューバ革命を成功させた革命家、政治家。医師でもある。1928年、アルゼンチンで裕福な家庭の長男として生まれる。ブエノスアイレス大学医学部の学生だった51年、友人と2人でオートバイでラテンアメリカを見て回る旅に出る(このことは、2004年に米国の映画俳優ロバート・レッドフォードによって『モーターサイクル・ダイアリーズ』のタイトルで映画化される)。

 この旅で、彼は米国と結んだ軍事政権下で苦しむ社会の底辺の人々の姿を目の当たりにし、ラテンアメリカの虐げられた人々の解放に身を投じたいと思うようになる。1953年に医師免許を取得するが、ペロン政権下で軍医になることを避け、ラテンアメリカを放浪する。54年、メキシコへ。そこで、キューバからメキシコに亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロ両氏と出会う。フィデルは、祖国をバチスタ大統領独裁から解放するという革命構想を熱っぽく語り、ゲバラはそれに共鳴、従軍医としてフィデルらのバチスタ政権打倒闘争に参加することを決意する。

 56年、カストロらはヨット・グランマ号でメキシコを発ち、キューバへ向かう。グランマ号に乗っていたのは82人で、もちろん、ゲバラも乗船していた。
 グランマ号はキューバの東海岸に到着するが、待ち構えていたバチスタ政府軍の攻撃にあい、生き残ったのはフィデル、ラウル、ゲバラら16人だった。一行はシェラ・マエストラの山中に逃げ込んでゲリラ戦を展開する。
 その後、カストロらの反乱軍兵士は次第に数を増し、ゲバラは反乱軍第2軍(75人)の指揮官(少佐)となった。
 58年12月28日、ゲバラ率いる反乱軍がキューバ中部のサンタ・クララでバチスタ政府軍との戦いを開始し、59年1月1日、サンタ・クララを占領。バチスタ大統領は同日未明、家族、側近らとともに飛行機でドミニカ共和国へ脱出、ここにカストロらのキューバ革命が成就する。

 革命後の新政権で、ゲバラは国立銀行総裁、工業相などなどを歴任。65年にキューバを去り、アフリカのコンゴで革命を試みたが失敗。いったんキューバに戻るが、66年、ヨーロッパ経由でボリビアへ。そこでゲリラ活動中、67年10月8日にボリビア政府軍に捕まり、翌9日に処刑された。39歳だった。
 没後20年を記念して87年にゲバラの銅像と、同じくボリビア政府軍との戦闘で亡くなった38人を慰霊する霊廟がサンタ・クララに建てられた。霊廟がサンタ・クララに建てられたのは、ここが、ゲバラ率いる反乱軍がバチスタ軍を打ち破って革命勝利に突破口を開いた場所であるからに他ならない。
 97年には、ボリビアでゲバラの遺骨が発見され、この霊廟に収められた。2007年10月には、ここでゲバラ没後40周年記念式典が行われた。

 ゲバラの生き方と、その最期が劇的だっただけに、その人間像は革命を夢見る若者たちの心をとらえ、世界各地に信奉者を生んだ。1970年代には、ゲバラの肖像画をプリントしたTシャツが大流行し、とくに学生運動の活動家は好んでこれを着たものだ。
 2008年5月、日本で、キューバとの友好促進を目指す実行委員会がゲバラの長女で小児科医のアレイダ・ゲバラさんを招いて全国各地で講演会を催したが、どこの会場にも多数の聴衆がつめかけた。キューバ友好円卓会議が東京・明治大学で開催した講演会では、聴衆が定員300人の会場に入りきれず、溢れた100人のために急きょ第2会場を設けたほどだった。
 そんな光景を見て、私は「日本では“ゲバラ人気”はまだ衰えていないな」と思ったものだ。

 さて、没後50周年を記念する催しだが、私が得た情報では、10月8日にサンタ・クララでキューバ政府主催の記念式典が行われることが決まった。かなりの数の市民が集まると予想される。
 それから、9月初めに来日したマルセリーノ・メディーナ・キューバ第1外務次官から私が得た情報では、ゲバラの命日の10月9日にボリビアでも記念式典があるとのことだった。

 文化関係でも、ゲバラ没後50周年にちなんだ企画がみられる。
まず、写真展「写真家チェ・ゲバラが見た世界」が、テレビ東京の主催で8月9日から27日まで、東京・恵比寿ガーデンプレイス ガーデンロームで開かれた。ゲバラ自身が撮影した写真約240点が展示され、中には、革命直後の1959年7月に日本を訪問したゲバラが広島の平和公園で撮った写真もあった。会期中、ゲバラの息子のカミーロ・ゲバラ氏も会場に姿をみせた。

 10月6日からは、日本・キューバ合作劇映画『エルネスト』が全国で公開される。脚本・監督は阪本順治、主演はオダギリジョー。1967年にボリビアで捕らえられ、処刑されたゲバラと行動をともにし、命を落とした日系二世がいた。フレディ前村といい、医師を目指してボリビアからキューバの大学に留学。キューバ危機中にゲバラと出会い、ゲバラからファースト名の「エルネスト」を戦士名として授けられる。そして、ゲバラの部隊に参加してゆくわけだが、そうした彼の半生を描いたのがこの映画である。
 映画の冒頭は、広島を訪れたゲバラが平和公園の慰霊碑を参拝するシーンだ。

 この8月には、太郎次郎社エディタスから、「見る・読む・つなげるピクチャー・ドラマ」と銘打った『チェ・ゲバラ』が発行された。絵・チャンキー松本+いぬんこ。16枚の漫画仕立ての絵でゲバラの生涯が分かる仕組みだ。
 
 「ゲバラ没後50周年だから」と、10月から11月にかけてキューバを訪れる日本人が増えそうだ。
 旅行会社企画のキューバ・ツアーもある。友好団体でもキューバ・ツアーを実施するところがあり、キューバ友好円卓会議は10月5日から、総勢20人の訪問団を派遣する。また、日本キューバ連帯委員会は、11月22日から「2017年秋キューバ友好訪問団」を派遣する。どちらも、行程中にチェ・ゲバラ霊廟があるサンタ・クララ訪問が含まれている。 
2017.09.26  大多数がクルド国家独立に賛成
  初めて独立の可否を問う住民投票を実施

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

2千年以上におよぶクルド人の歴史上初めての国家独立の可否を問う住民投票が、25日、イラクのクルド人自治区と隣接のキルクーク県で行われた。すでにドイツをはじめ在外クルド人のインターネットを利用した電子投票は実施されている。選挙管理委員会26日未明の公式発表によると、投票率は72.16%。登録有権者総数4,581,255人、有効投票3,305,925。投票率72・16%。賛否の公式発表はまだだが、独立賛成が多数を占めることは確実と思われる。
 賛成票多数を得たクルド人自治区の最高指導者バルザーニ議長は、投票前日の国際記者会見で、大多数の“イエス”を期待し、住民投票による国家独立の決定を“キャンセル”することはあり得ず、いかなる条件の提案も「アルビルをイラクに留めることはできない」と明言した。そして、独立実施へのイラク政府との交渉を直ちに開始したいと表明、交渉は2年間以内までの期間を予想しながらも「もっと早く決まることも、もちろんある」と述べている。交渉が全く進展しなければ、クルド側が一方的に独立を宣言することもあり得る。
 前回紹介したように、国連と英、仏、米の共同代表団は自治区を訪問し、クルド人の自決権を認める一方で、現情勢下の独立投票を延期するよう強く求め(トランプ政権はその後、延期ではなく中止を要求)ている。まさに中東の現情勢とクルド自治政府の難民支援、クルド武装勢力ペシュメルガの対イスラム国(IS)作戦での大きな貢献は国連も欧米・周辺国も認める現実であり、当事国イラクも周辺国そして日本を含む国際社会も、平和的にイラク・クルド人の独立を受け入れ、支援すべきだ。
 しかし、イラク政府の立場は、イラクからクルド独立国家が分離することを憲法違反として、真っ向から反対しており、政府が交渉には応じても難航することは必至だ。
クルド側が実効支配している政府との帰属係争地域、世界的な産油地域のキルクークでも投票が実施され、78.77%の高い投票率となった。これに対して、イラク政府のアバディ首相は、キルクークの支配を回復するため、政府軍を派遣すると表明した。
国内のクルド人の民族意識の高まりを恐れるトルコ、イランも独立投票そのものをつぶそうとした。とくに国民人口の少なくとも10%以上1千万人程度のクルド人がいるトルコ政府は厳しく動き、クルド人多数地域のイラクとの国境閉鎖、イラクとの合同軍事演習、現クルド人自治区の財政収入の大部分を占める原油輸出の出口トルコのジェイハン港の使用禁止まで脅した。
クルド人の自決権を国際社会は否定できない。歴史的な独立投票の成立が新たな国際紛争を発生させないよう、いま、国際社会の責任は大きい。
20170926坂井クルド画像
2017.09.23 韓国公営放送2局でストライキ、北朝鮮核実験特集も放送できず
隅井孝雄(ジャーナリスト)
 
韓国の二つの公営放送KBSとMBCで労働組合が9月4日から、ストライキに入った
9月19日現在、ストライキは継続している。長期化する様相だ。
KBS(韓国放送公社)は日本でいえばNHKと同じ公共放送、そしてMBC(韓国文化放送)も政府系の放送文化振興財団が筆頭株主の公共放送である。
 ストライキに入ったのは全国言論労組傘下のKBS本部労組(1900人)とMBC本部労組(1800人)。両労組とも社長ら経営幹部の退任と、報道の自主性、信頼回復を求めている。また企業内のKBS(旧)労組(2000人)も4月7日からストライキに入り、言論労組と足並みをそろえた。二大公営放送の全面的なストライキは2012年来5年ぶりだとハンギョレ新聞が伝えている。
  20170920隅井写真KBS3814
     ストライキを前にした集会に臨むKBS本部労組、組合員(8/28/17)

 折から9月3日の北朝鮮核実験に直面、KBS、MBC経営陣は労組に取材、報道への復帰を求めたが、労組は、経営の健全化が先決として、ストライキ態勢を続けている。そのため、KBS、MBCは特集番組を編成できず、ニュースも時間短縮を余儀なくされている。また娯楽番組も一部映画に切り替えられたものもある。
 韓国では2008年イ・ミョンパク(李明博)大統領、2013年パク・クネ(朴槿恵)大統領と保守系大統領が9年続いた間、KBSもMBCも保守系の社長が送り込まれてきた。言論労組によると、「政府批判の報道が規制され、報道記者の配置転換、解雇が続いた」、という。
 「中央日報」(9/1)、「ハンギョレ新聞」(9/3)などが9年間にわたる労組と公営放送の確執の一部を次のように報じている。
 MBSでは2008年にBSE(牛の海綿状脳症)問題があるにもかかわらず、アメリカからの牛肉解禁に踏み切ったイ政権に対して大規模な国民的な反対運動が起きた。その火付け役となったMBCの報道番組「PD手帳」の担当プロデューサーなどを解雇するとともに、イ、パク両政権はメディアへの規制を強め続けた。KBS、MBCを含む言論労組は長期ストライキに入り、両社の経営陣は、ストライキを指導した組合幹部を解雇し、以来労使対立が続いてきた。
その後KBSでは2014年4月のセォウル号沈没事故で、政府からの報道差し止めの介入があったこと、MBCでは「反抗的な記者」のブラックリストが最近になって明らかになるなどの問題が起きていた。
一方、韓国のニュース専門局YTNでは2008年に解雇された3人の報道記者(いずれも当時労組幹部)は、今年8月28日の労使交渉で9年ぶりの復職が決まった。
 2017年、野党候補のムン・ジェイン(文在寅)大統領が誕生したが、現在でもKBS、MBCの経営陣による番組規制、労組弾圧が続いていることから、両社の社長らの退陣を求めてストライキとなったものである。
 ムン政権で新たに放送通信委員長(政府の放送監督機関)に就任したイ・ヒョソン(李孝成)氏は「国と権力の不正を告発すべき公共放送がその社会的責任を果たしていない」と発言、公共放送の改革する意向を示した(8/1)。しかしムン大統領は前の二人の大統領の轍を踏まないようにしているのか、この問題への直接介入は行っていない。労使の自主的解決を願っているものと思われる。

  20170920隅井写真KBS3816
   4年前、日本の集会(神戸市)に招かれて、報告する韓国言論労組代表、(11/4/13)
2017.09.21  クルド人国家独立への住民投票迫る(4)
  イラク首相、投票中止を公式に要求

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

イラク・クルド人の国家独立を目指す住民投票が、25日に迫っている。しかし、アバディ・イラク首相は18日、住民投票の中止を公式に要求。住民投票計画を推進してきたバルザーニ・クルド自治区議長(大統領)の決断にすべてがかかる緊迫した最終局面になった。
クルド人自治区とキルクーク県および電子投票に登録済みのドイツなど海外在住のクルド人たちの熱気は、ますます高まっている。一方、米国のトランプ政権は15日声明を発表、これまでの延期要請を強化して、“独立投票は特に挑発的であり、この紛争地域をさらに不安定にするものだ”と非難、中止を要求した。その数時間前に、クルド自治区議会は住民投票の実施を最終的に支持する議決をしている。
 バルザーニ議長は連日、首都と地方都市を回り、赤、白、緑三色の地に金色の星が輝くクルド旗で埋まり場外に市民たちがあふれる会場で、25日の投票実施を宣言している。
 自治区の第3の都市ザホで14日に開かれた集会での同議長の演説によると、同日、議長は国連事務総長の代理と米国・英国の駐イラク大使ら4か国代表による共同代表団と会談した。会談で共同代表団は、クルド人の自決権を尊重する一方で、イスラム国(IS)との戦いはまだ続き、イラク第2の都市モスルを解放したばかりで、甚大な破壊を受けた同市の再建は難事業であり、膨大な難民がクルド自治区に避難している、こうした事態が山積する現時点でのクルド国家独立投票は延期するよう、同議長に要請した。
 これに対し同議長は、クルディスタンのクルド人に対して国家独立の権利を保障することなしに、独立の可否を問う投票の延期だけを求める要請を受け入れることはできない、と、応えたという。
 9月25日の投票について、実施計画を崩さない自治政府に対して、イラク政府は、クルド自治区の独立の可否は憲法の規定により、連邦議会(国会)の決定事項であり、それなしの住民投票の結果は全く無意味であるという立場を堅持してきた。本欄でも紹介した通り、8月中旬、首都バグダッドで、政府・与党と自治区代表団が交渉、9月に自治区の首都アルビルで再交渉することになったが、再開していない。このままでは、自治政府はクルド自治区全域と実効支配している世界的な油田地帯のキルクーク、そしてドイツなど海外在住クルド人の独立可否投票を実施し、おそらく大多数の賛成で成立。一方、イラク政府はその結果を憲法違反で無効とすることになる。
 イラクでのクルド人国家独立投票については、自国民に相当数のクルド人がいる隣接国のトルコとイラン政府は、自国内のクルド人たちの民族主義運動がさらに高まるのを強く警戒してイラクでの投票そのものに強く反対している。国連、歴史的にイラクと関係が深い米、英、フランスは、クルド人の自決権を認めながらも、独立については住民投票の延期を求めている。
 クルド人の国家独立投票を強く支持してエールを送っているのは、スペインからの独立可否の住民投票を1週間後の10月1日に予定している、カタルーニア自治州政府と議会だ。しかし、スペイン政府も住民投票の結果を絶対に受け入れないことを表明している。

 20160916坂井定雄18054クルド独立投票集会写真
25日のクルド独立を問う投票を前に、自治区首都アルビルで15日夕、初めて開かれた若者たちのカラー・フェスティバル。会場を埋めた数千人の参加者の中にはクルド国旗の3色で彩った若い女性たちも。
クルド系通信社Rudauが全世界向けに報道した。

2017.09.09  中印国境は緊張している
  ――八ヶ岳山麓から(234)――

阿部治平(もと高校教師)

8月半ば、北京の友人が「中印国境では、我国とインドとの本格戦争の恐れがあるが、日本ではどう見ているか」といってきた。日本では小さいニュースだったが、中国ではメディアがかなり緊張を煽っているらしい。

ドクラム高地(中国名・洞朗)は中国領チベットとブータン西部が接する地域である。この地で国境問題が顕在化したのは、文化大革命が始まった1966年といわれる。この年中国解放軍はチョモラリ(海抜7314m)南方のチュンビ渓谷南方に進駐し、その東側すなわちブータンと接するドクラム高地を自国領とし、1990年代には中国はここに道路をつくった。2000年代に入ってからも軍や民間人が越境したので、ブータン政府が抗議を行ったことがある。
今回の中印緊張は、今年6月中旬に中国軍がまた道路建設を始めたのに端を発している。この6月から中印両国軍それぞれ300人の兵士が進駐して、ときどき小競り合いをやった。中国ではこれが大きく報道されていたから友人は心配になったのだろう。

インドと中国はドクラム高地で境を接しているのではない。ここは中国とブータンの国境である。ではインド軍がなぜブータン領のドクラム高地にいるかといえば、複雑な経過によってブータンの国防がインドに委託されているからである。ブータン軍は警察も含めて1万人しかないうえに、兵器も貧弱だから中国とは勝負にならない。そこでインドは軍事顧問団1000人余を常時ブータンに置いている。
この8月3日には中国政府はドクラム高地でインド軍が兵舎を建設しているとして即時撤退を要求した。一方インド政府も「ブータン領内に中国軍が不法に侵入している」と非難してこれに応じなかった。
だが8月28日、インド外務省は突然、双方が現地から撤退することで合意したと発表し、中国でも同様の報道があった。9月3日から5日まで開催される中国、ロシア、インド、ブラジル、南アフリカ、新興5カ国(BRICS)の首脳会議があり、習近平とモディの両首脳もこれに参加するので、急いで事態の沈静化をはかったものと思われる。

これまでの中印国境紛争に関するニュースは、インドヒマラヤのシプキ峠などをめぐる小地域を除けば、カシミール東部のアクサイチン地区とブータン東方のアルナチャル・プラデシュ(州)の2カ所に限られていた。アクサイチンは九州に近い面積だし、アルナチャル・プラデシュは北海道とほぼ同じ面積であって、これに比べればドクラム高地などはわが村ほどの土地である。

中国はガンデン・ポチャン(旧ラサ政権)の支配地域を即ち中国領だとしているから、アルナチャル・プラデシュがヒマラヤの南麓とはいえ、これを中国領とする(この論理だとブータンも中国領になる)。アルナチャルのヒマラヤ寄りの人々の多くはチベット仏教信者である。
インドはヒマラヤ頂上線のマクマホン・ライン(1914年シムラ会議の際、イギリスの外交官マクマホンが引いたブータン東方からミャンマーまでのヒマラヤをインド・チベットの境界とする線)を国境としているから、当然のようにヒマラヤ南麓を自国領とした。
アクサイチンでは、ここがラサ政権支配地域であるうえに、ラサから新疆ウイグル自治区ヤルカンドに通じる少数民族支配上の戦略道路があるから、中国はこの土地を譲るわけにはいかなかった。インドはアクサイチンではイギリス植民地官僚がかってに引いた境界線を正当なものとした。

中国軍とインド軍はサイバー攻撃や小競り合いをアクサイチンとアルナチャルでもやっている。この夏はアルナチャル・プラデシュをダライ・ラマ14世が訪問し、法事をおこなった。もちろん中国はこれを批難し、インドは内政に干渉するべきでないと、中国の非難を拒否した。アクサイチンでもパンゴン湖付近の休戦ライン近くでは銃撃戦には至らなかったが、殴りあいがあった。

1954年「平和五原則」を共同声明でうたい、アジア・アフリカ諸民族の希望をになった中印両国だったが、62年になるとヒマラヤをめぐって本格的な国境戦争をやった。結果は中国軍の大勝利。アクサイチンではインド軍は高地障害などで戦えず、アルナチャルでは中国軍はあっという間にヒマラヤ南麓を占領した。
にもかかわらず、62年10月中国は突然に実際支配線から20キロ撤収するとして、マクマホン・ラインからヒマラヤ北麓に退いた。おそらく大躍進政策の飢餓状態が続いており、アルナチャルを維持しつづける国力がなかったからであろう。
もちろん公式には、両国とも東西2地域を今日まで自国領としてきたことに変りはない。当時も今日も「絶対にいかなる領土も放棄しない」というのが中国の領土問題にたいする原則である。これからすれば、アルナチャル・プラデシュを事実上放棄したのはこの原則に反する。

習近平政権にとってインドは、「一帯一路」など習近平政権の国際政策を展開する際の最大の障碍である。
中印国境はいま一時的におだやかだが、5日にBRICS会議がおわれば、すぐにでも軍事的対立に還る危険をはらんでいる。中国軍はインド軍の部隊駐留地から近い地域で、戦車訓練や迫撃砲による砲撃、ミサイルの発射といった臨戦的(原語「針対」)演習を行なっている。これに対するインド側拠点は数年前から軍事要塞化している。
インドは2014年にモディ首相が就任してから(就任式にチベット亡命政権のロブサン・センゲ首相を招くなど)、中国に対し以前の政権よりは挑戦的である。
一方今回の中印対峙で中国の思い通りにならなかったら(BRICS会議のさなかの北朝鮮の6回目の核実験で中国外交は打撃を受けているから)、習近平総書記にとっては失敗、面子丸つぶれになる。
このため中印両国の対立がエスカレートするのは目に見えている。前線で偶発的衝突が起きやすい状態だ。日本ではあまり注目されていないが、これはアジアの平和を左右する。双方は核保有国のうえに、人口世界第一と第二の国家の対立だから。

付加えておくべきことがある。ドクラム高地をめぐる中国とブータン・インドとの紛争に日本が「介入した」と思われるできごとがあった。
秋篠宮家長女眞子内親王が6月1日からブータンを訪れた。これは2011年11月ブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王夫妻が国賓として来日したことの返礼である。だが、今回の中国とインド・ブータンのつばぜり合いがそろそろ本格的になろうとする時期だから、眞子内親王のブータン訪問は、日本のインド支持というメッセージを送ったととられる可能性があった。外務省はこれに留意しなかったのだろうか。

さらにインドのラジオ放送やTimes of India紙は、ドクラム高地をめぐって日本の平松賢司駐インド大使が日本政府の「インド支持の立場」を表明したと報じた。これにあわてた在印日本大使館は、平松大使がインドメディアの取材に対して「力による一方的な現状の変更」を行わないことが重要だと述べただけだと、インド支持の報道内容を否定したという(時事2017・08・18)。
平松発言について中国外交部の華春瑩報道官は、8月18日の記者会見で平松大使のドクラム高地に関する発言は根拠がないとして、「ドクラム高地に関する対立は存在しない、国境線は明確であり、双方共にそれを受諾している」と述べた。
中国が日本大使の発言に対して拒否反応をあらわにしたのは、根拠のあることである。ことの経過からして「『力による一方的な現状の変更』を行わないことが重要だ」といえば、中国を牽制したことになる。駐印大使館がいくら弁解しても相手には通じない。日本政府の中国敵視政策をこれ以上エスカレートしたいならともかく、よく勉強してから発言すべきだった。知らないなら何もいわないほうがよい。
2017.09.07  クルド人国家独立への住民投票迫る(3)
  賛否両派の公式な運動、電子投票登録開始

坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

9月25日にイラク・クルド人自治区政府が実施する予定の「クルド人自治区と自治区外のクルド人地域の国家独立の賛否を問う住民投票」の公式な運動が5日、始まった。投票を管理する公的機関―高等選挙及び住民投票管理委員会(IHREC)は既に1日から、海外でのネットによる電子投票のための有権者登録をドイツなどで開始している。クルド人移民や居住者が多いドイツでは8月26日、独立を支持する2万人のクルド人集会が開かれている。
住民投票が行われる「自治区外のクルド人地域」とは、自治区に隣接する世界的油田地帯のキルクーク県と一部の隣接地域。クルド人住民が多数を占め、自治区政府が実効支配している地域で、イラク政府は自治区外と主張している。キルクークは、2014年にイスラム国(IS)勢力に短期間占領され、駐屯していたイラク軍は少し抵抗しただけで撤退した。しかし間もなくクルド人自治区の公的武装勢力ペシュメルガがISを駆逐し、以後実効支配している。キルクークの県議会は8月29日、同州でもクルド人独立投票を実施するかどうかを採決、賛成24、棄権2で可決した。
このように、クルド人独立投票の準備は着々と進み、実施されれれば、賛成多数で可決されることは必至だが、投票が実施されるか、実施されて可決されても、バルザーニ議長(大統領)がクルド人独立をいつ宣言するかは、全く予測できない。
前回書いたように、8月中旬から下旬にかけてバグダッドでおこわわれたアバデイ首相以下政府側と自治区政府代表団の交渉は、双方の立場を主張し合い、クルド側代表は「双方の立場は近づいた」と語り、2週間以内に自治区の首都アルビルで交渉を再開すると述べている。再開交渉では、住民投票の実施を1年程度先延ばしにして、いまだキルクーク南部のハウィジャなどイラクのごく一部に残っているイスラム国(IS)の支配地域を完全に一掃してから、前向きに対応するといった妥協になるかもしれない。
アバディ・イラク首相はクルド代表団との会談後、「憲法上、独立の可否はあくまでイラク議会だけが決定することができる。住民投票は無意味だ」と従来の立場を繰り返す発言を外国メディアに対して行った。一方、住民投票プランを推し進めてきたクルド自治区のマスード議長(クルド側では「大統領」と呼ぶ)は8月30日、アルビルでの学術的な会議での演説で、イラク政府が独立を問う住民投票の実施そのものを受け入れ、米国か国連がそれを保証するならば、住民投票を2018年後半まで延期してもよいとまで発言した。
モスル解放作戦はじめ対IS包囲網、膨大な難民受け入れで、イラク政府、国連、各国の信頼が大きく高まっているクルド人は、長い民族の歴史の中でかってなかったほどの、民族独立の好機にあるのではないだろうか。日本政府にも物心両面での支援を求めたい。
2017.09.05  この焦燥ぶりが恐ろしい―正念場の習近平(5)
  新・管見中国(30)

田畑光永(ジャーナリスト)

 この秋の中国共産党第19回全国代表大会(略して「19全大会」)が10月18日から開かれることが、8月31日に発表された。大会は5年に1度で、そこでは次期最高指導者を含めて、同党の重要人事が決まるので、内外の関心はだいぶ前から高まっている。
すでに読売新聞が大会で決まる(正式には大会で選ばれた中央委員による第1回会議で決まる)政治局常務委員7人(トップの7人)のリストを報じたり(8月24日付)、毎日新聞が「習近平の後継者は子飼いの子分で、つい7月に重慶のトップになったばかりの陳敏爾だ」と決め打ちしたり(8月28日付)したりしているが、これらは当たるも八卦の観測記事で、大会のムードの盛り上げ役である。
しかし、日程が決まったということは、ああいう体制の国柄では、大会で決まることの内容もほぼ決まったと解釈されるから、ようやく前哨戦が終わってここからが大会前の最後の一か月半、伝わる動きはさまざまな想像をかき立てることになる。
 その直前のことではあるが、8月末にエッと驚くようなニュースが3本あいついで伝えられた。
まず英国の名門、ケンブリッジ大学が昔から出している「チャイナ・クォータリー」という中国研究の専門雑誌のウェブサイトに出ているおよそ300本の論文を中国では読めないようにすると公表したこと。大学によれば中国当局から天安門事件やチベットなどいわゆる「敏感な問題」についての論文を読めなくするよう要求され、断った場合の影響を恐れて、それに従ったということであった。
 しかし、これは内外の多くの学者・研究者の批判に押されて、ケンブリッジ大学が決定を取り消したので、今度はそれに対して中国側がどんな報復に出るかに注目が集まっている。それにしても「チャイナ・クォータリー」という雑誌はまず普通の人の手にも目にも止まらない地味な論文集である。読者はきわめて限られている。中国の「老百姓」と呼ばれる庶民とはまず無縁の存在である。
 それを中国で読めないようにするとは、中國の研究者に読ませないということである。研究者の視野を政府が狭くするのは秦の始皇帝の焚書坑儒の発想である。中国の言論空間が政府によって制限されていることは今に始まったことではないが、それでも一昔前には大学の教員たちはわれわれのそうした批判に対して、「でも我々仲間内ではインターネットで自由な議論をしていますよ。政府も我々のことは大目に見てくれます」と言っていたものだ。今度のことはその大目に見られてきた限られた空間さえ閉ざされようとしていることを物語る。
 次は流行歌の問題である。ある広東省の歌手が「情定揚州」(揚州に心を奪われた、といった意味)という歌を作った。江蘇省揚州は先々代の党総書記、江沢民の出身地である。そしてこの歌の歌詞には恋人とおぼしき女性の描写に「彼女は大きな眼鏡をかけ・・・3つの授業では代表をつとめた」といった言葉が出てくる。江沢民は大きな眼鏡をかけていたし、「3つの代表」とは党規約にも書き込まれた江沢民の「重要思想」の代名詞である。
 その江沢民は8月17日に91歳の誕生日を迎えた。その翌日、18日の地元夕刊紙「揚州晩報」がこの歌の特集記事を掲載した。ところがその後、同紙はこの特集について、「不真面目だった」と自己批判して記事を撤回した、というのである。
 江沢民は概して人気のあった指導者とは言えない。それを恋人役に見立てるのはある種ブラック・ユーモアのような気もするが、本人の地元となれば、それとて好意的に受け取るであろうから、「揚州晩報」の自己批判は江沢民が怒っての結果とは考えられない。まず9分9厘、習近平周辺からのクレームか、あるいは地元幹部が習近平の胸の内を「忖度」した結果であろう。このシリーズの第1回に取り上げたように「くまのプーさん」に擬せられることを嫌う習近平は江沢民が「恋人」に唄いあげられるのも面白くないことは十分に考えられる。それにしても細かいところまでうるさいことである。
 以上2件はまあ小さなエピソードであるが、次は深刻である。中国政府がインターネットの規制に力を入れていることはかねて広く伝えられているが、その決定版ともいえるものが、この秋から実施されそうである。
 8月25日の北京の夕刊紙・「北京晩報」によれば、同日午前、国家インターネット情報事務室は「インターネット上への評論掲載サービス管理規定」なるものを10月1日から施行すると発表した。
 細かいことはいろいろあるが、一番の問題点は評論文を掲載したり、それにコメントしたりするには、実名でなければならない(ペンネームはご法度)としていることである。そんなことがインターネットの世界で可能なのかと首を傾げたくなるが、文面から察するにどこかに登録して、パスワードか何かお墨付きをもらった人間以外はどこのウェブサイトにも入れないようにすることを考えているようだ。
 次は発言内容に対する事前審査を実施することだ。「先審後発」制度といっているが、文字通り内容の事前審査を経て後にネットに上げることになる。ウェブサイトの管理者は「関所の門番」を立派に勤めなければならないとされている。なにを基準に審査するのか、「違法違規」(法令違反)の情報が流れないようにするためという。
 しかし、事前審査だけでは「違法違規」の内容が審査をすり抜けて、社会に流れ出ることもありうる。そういう場合には気が付いた読者がそれを告発する仕組みをウェブサイトは整えておかなければならないとされている。「スパイ防止法」に取り入れられた密告制度がネット世界にも登場するわけだ。
 中国には幅広く適用されることで悪名高い「政権転覆陰謀罪」や「政権転覆扇動罪」がある。たとえば政府による土地の収容に不満な庶民に仲間を組織したり、抗議の仕方で相談に乗る弁護士たち(中国では人権を守る「維権弁護士」という言葉が定着している)が大勢この罪名でつかまっている。ネット世界の審査もまずこれに目を光らせることになるのは間違いない。
 この「規定」で中国の言論空間はいよいよ狭くなるが、それについての当局者の発言がふるっている。「取り締まるのは違法違規の言論なのだから、言論の自由の妨害にはならない」というのだ。悪法にひっかかっても違法は違法、法を犯す人間は悪人、という独裁国家が昔から使ってきた論法が21世紀のネット空間にも幅をきかせるのだ。
 それにしても、どこかの国と同じく「一強」のはずの習近平が党大会を前になにに怯えてこんなことまでするのか。その焦燥感の根深さが恐ろしい。(170831)
2017.08.28 意外な落とし穴? 中印国共の緊張―正念場の習近平(4)
新・管見中国(29)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 今回は習近平における外交を考えてみたい。習近平もわが安倍首相に劣らず外国にはよく出かける首脳の1人だ。それについて私はつねづね不思議に思っていることがある。
習近平が出かけた先で会うのは、大統領とか首相とか、ともかくその国の政治のトップである。そのほとんどは選挙で選ばれた人間のはずだ。だからいつまでもそのポストに座っていることはできないが、任期中に寝首をかかれるようなことはまずないし、任期が終わって辞めた後は、引退するもよし、再挑戦するもよし、であり、トップにいることの緊張感、不安感、圧迫感は習近平が北京で日常感じているのに比べれば、ほとんど取るに足りない程度であろう。
そこで習近平は自分の立場の特異さを感じないのだろうか、いっそ選挙を取り入れた方がいいのでは、と思わないのだろうか、というのが私の疑問である。国民にはその過程を全く知らせないまま、党内での談合、あるいは暗闘の結果、トップの座についても、国民はもとより、配下であるはずの各層の官僚や幹部でさえ、自分のことをどう思っているか分からず、だからこそたえず自分を宣伝しなければならず、国民の不満に怯えなければならず、「政権転覆陰謀罪」などという法律を作って、反対する人間に目を光らせなければならない立場に比べて、選挙で選ばれることの安心感、安定感をうらやましく思わないのであろうか。
どうも見ている限り、彼にはそういう発想はないようである。それどころか、今回のテーマである外交についても、普通の首脳においては国益と私益の比率は当然、国益重視であろうと私は推察するが、習近平においては明らかに国益は私益に従属しているように見える。といっても別に習近平が外交で私腹を肥やしているというのではなく、外から見ておかしいことでも、国内における自己の権力の強化に役立つことが価値があるという意味である。
もっともそれは習近平個人の特性というより、あの大陸の統治者には避けられない選択であるのかもしれない。そんなことを頭の片隅に置いて、習近平外交を検討してみたい。
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中国はなにしろ世界で最多の人口を擁する。面積では中国より大きな国はあるが、人口ではどこの国にも引けは取らない。だから多くの国にとって中国との関係をどうするかは、その国の外交政策において重要なファクターである。
特に近隣諸国においてはとりわけそうである。というより、日本などにとっては古来、外交のあいてといえば中国であった。朝鮮やモンゴルや、あるいは渤海といった大陸の政権との間で戦争を含めて交流はあったが、大陸中心部の政権との外交に比べればその比重は極めて小さかった。すくなくとも15世紀半ばにポルトガル人が種子島に漂着するまでは、外交といえば中国大陸との関係をどうするかであった。
一方、中国の政権にとっての対外関係とはなんであったか。もっともこの問題を問うなら、その前に中国とはどこからどこまでかを問わなければならなくなる。現在の中華人民共和国は大陸の中心部だけでなく東北部から内モンゴル、新疆、チベットまでをその領域としている。これは歴史上、かなり大きな方の政権である。
いわゆる中原、中国大陸の中心部の政権にとってモンゴルや新疆やチベットの諸民族は対立したり、一方が他方を呑み込んだり呑み込まれたりする関係の相手であった。中心部の政権の主体は漢民族であったり、その他の民族であったり、一様でないが、とくに漢民族の政権にとっては、周辺諸民族とどのような関係を維持するかは政権の命運にかかわる重大事であった。これを外交というのかどうか判然としないが、ともかく周辺諸民族を臣属させることが統治者(「天朝」)として天から授かった命令(天命)を全うしているか否かの分かれ目であった。
16世紀以降、いわゆる西欧東漸の時代になっても、当時の清朝政府はそれまでの周辺諸民族との形式にあてはめて極力、「外交」を処理しようとしたが、産業革命で力をつけてきた西欧諸国は周辺諸民族に対するようなわけにはいかず、アヘン戦争での敗戦(1842年)を契機に清朝政権は凋落の過程に入る。
ここから先はくどくど書く必要はない。清朝の衰亡、倒壊から中華民国、抗日戦争、国共内戦に至る約100年、中国は「天朝」から「眠れる獅子」、「東亜病夫」(アジアの病人)へと落魄した。その間の中国の外交といえば、数々の不平等条約を押し付けられて、各国にいいように利権をむさぼられた。
2012年秋、中國共産党のトップの座についた習近平が真っ先に唱えたのが「中華の復興」であり、それを彼は「中国の夢」と名付けた。
中華人民共和国成立から5年、1954年に開かれた第一回人民代表大会で提起され、また2年後の第8回共産党大会で党規約にも書きこまれた新国家の目標は「工業、農業、国防、科学技術の現代化」であり、1964年に周恩来首相が第3回人民代表大会で提起したのも同じ4つの現代化であった。鄧小平が文革後、改革・開放路線への転換を打ち出した時の目標も同じ4つの現代化であった。
しかし、習近平は「夢」として「現代化」ではなく、「中華の復興」という言葉をあえて用いる。彼も2021年の中国共産党結成100周年には「小康社会」をより確実なものとし、2049年の建国100周年には「社会主義現代強国」の実現を目指すとの目標を掲げているが、復興すべき「中華」はそれだけではないはずだ。
端的に言えばそれは「威信」であろう。落魄した中国から外国勢力を追い払い、国を取り戻した毛沢東の「革命」、貧困からの脱却のためになりふり構わずに外国から資本と技術を取り込んだ鄧小平の「改革・開放」、この2人の先達のもとで世界第2位の経済大国の地位についた中国を引き継いだ指導者として彼がなすべき任務は「中華」にふさわしい威信を取り戻すことをおいてほかにない。そしてそれこそが習近平を中国の指導者たらしめる必要条件なのである。
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では、その「威信」とはいかなるものであり、どのように実現するか。昔の封建王朝のように付き合う相手は朝貢してくるところだけというわけにはいかない現代では、外交の相手はいくつかのグループに分かれる。
まず世界の超大国、アメリカがある。中華復興という大命題からいえば、世界の覇者は1国でなければならないが、当面、中國がアメリカの上に立つことは望めない。そこで考え出した図式は、いずれ中国が上に立つつもりであることはひとまず胸にたたんで、今は「大国は2つある」ことをアメリカに認めさせ、互いの利益を尊重し合う形をつくることである。具体的には南北アメリカに中国は口を出さないかわりに、アジアを中国の勢力圏と認めてアメリカは干渉しないという黙契ができることがベストである。勿論、これはまだ成功していない。しかし、中国がそれを目指していることは間違いない。
次に西欧諸国やロシアといった「中の上」の国々。これらとはほぼ満足のいく状態をすでに作り出している。中国の経済が大きくなったおかげで、利にさといこれらの国はアジア・インフラ投資銀行(AIIB)や一帯一路にも参加して、中國の顔を立てることにアメリカほど抵抗を感じていない。
一番の問題は内部および周辺諸国である。「天朝」復活のためには国内を掌握し、「威信」をもって周辺諸国を「臣属」させなければならない。現実はこれがまったくうまくいっていない。
周辺諸国の前にまず台湾、香港をしっかり内部に取り込んで、毛沢東、鄧小平も果たせなかった「祖国の統一」という課題を乗り越えなければならないのだが、香港は1997年に条約に基づく「祖国復帰」は実現したものの、香港住民はいっこうに共産党政権になつかない。2014年には「雨傘運動」という若者中心の自治拡大要求が大きく広がり、中心部を長期間選挙される事態となり、習近平政権は顔に泥を塗られた。その後も立法会議員選挙、行政長官選挙などことあるごとに反北京の波が起こっている。それに対しては北京政権は大人げないほどの強圧政策で臨み、外部評価を落としている。
台湾に対しては習近平から馬英九総統(当時)への働きかけが実を結んで2015年11月、シンガポールで両者の会談が実現し、「統一」への道が開かれたかに見えたが、翌年の総統選挙では独立志向の強い民進党が国民党を破り、蔡英文総統が誕生して、中台関係はかえって対立面が際立つようになった。ここでもまた北京政権はとても大国とは思えないいやがらせを台湾に繰り出している。
周辺諸国ではかつての封建王朝時代の朝貢体制では欠かせない役者だった朝鮮半島とベトナムと中国との関係は今や対立面が際立っている。とくに朝鮮半島の2つの政権とはともに関係がよくない。
習近平は2015年9月3日の「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念軍事パレード」を国威発揚というか、政権の威信発揚の場にするべく最大限の力を注いだが、これは底意が見えすぎて、ほとんどの国は習近平の引き立て役を演ずることを潔しとせず、首脳といえる参加者はロシアのプーチン、韓国の朴槿恵、この2人の大統領だけであった。
それでも習近平は朴槿恵大統領に対して、伊藤博文を暗殺した安重根の記念館をハルビン駅に設けることを約束するなど大サービスをしたものだった。ところが韓国はその後、中國の猛反対を押し切って、北朝鮮に備えるため米の超高度ミサイル防衛システム(サード)の設置を受け入れ、習近平の顔をつぶした。習近平の怒りようはその後の国を挙げての反韓国キャンペーンとなった。
北朝鮮の金正恩政権とは、中国との関係がよかった張成沢(金正恩の義理の叔父)を金正恩が処刑したことで関係は悪化、いまだに首脳会談さえ行われていない。北朝鮮の核開発に対して中国が何を言っても、今では金正恩は聞く耳すら持たないだろう。
ベトナムとは西沙群島をめぐる対立はこれからも長く続くだろう。対立には慣れている両国だから、表立った争いはなるべく避けるだろうが、両国が打ち解けることはまずあるまい。
外国ではないが、国内の西の辺境に位置する新疆、チベットでは北京の力ずくの同化政策に対するウイグル族、チベット族の反抗が激しく続いていることは、中央政府の報道からさえ明らかである。
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こう見てくると、習近平の目指す「中華の復興」は容易でない。漢の武帝は匈奴討伐で威信を高め、明の永楽帝は鄭和の南海大遠征で国威を発揚した。しかし、現代は簡単に武力を動かせる時代ではない。習近平に残された空間はじつは南シナ海しか残されていない。
こう考えれば、なぜ中国が南シナ海で埋め立てやら軍事基地やら、何のためだか分からないことに血道をあげているかが見えてくる。あの海の中の島々に基地を作り、人と武器を配したからといって、中国にとってどういうプラスがあるのか。しかし、問題はそこではない。習近平の時代に南シナ海は中国の海になったと「言えること」が大事なのだ。
南シナ海に限らず、このところミャンマー、スリランカ、パキスタン、はてはアフリカのジブチまで、中國が軍事基地ないしは軍事利用可能な港湾を確保しているのも、現実的な必要あるいは実益のためというより「威信」のためと見た方が理解しやすい。
こうした習近平の努力が実を結んだかどうかは、外から見てどう見えるかは関係ない。外国から見ればなにをそんな無駄なところで力んでいるのかといぶかしいことでも、中國の内部から見て、国民に満足感を与えられればそれで効果はあったことになる。
ところが、最近、おそらく習近平にとってははなはだ厄介なことが持ち上がった。お聞き及びのように、6月中旬以来、中国から見れば南西端、インド、ブータンと国境を接する地域で中印両軍が対峙する事態が続いている。中国側に言わせれば、協定によって中国領とされている場所で道路工事をしているところへインド軍が入って来て邪魔をしているというのだが、境界争いはそれぞれに言い分があるのが常だから、どちらが正しいか、よそ目には分からない。
中國は大々的にインド軍の国境侵犯を宣伝し、きつい言葉で撤退を要求しているが、インド側もしぶとくねばっているように見える。この問題が厄介なのは、インドという国はアジアの超大国、古い文化を持つ国、開発途上国とさまざまな面で共通点を持つ、いわば中国とライバル関係にあることだ。「あの国には負けたくない」という気持ちが双方にあり、1962年には国境をめぐって実際に戦火を交えたこともある。
だから習近平もここで中途半端な妥協はできない。さればと言って大がかりな戦闘もはばかられる。落としどころが難しい。日本政府が尖閣諸島を国有化して、大規模な反日デモが起こったのは2012年9月、5年前の共産党大会を控えた時期であった。当時の中国は外に向かって弱いところを見せられない時だった。今もまさに同じ状況である。さて両国はどう収まりをつけるか、これは見ものである。