2008.06.19
どっこいガザは生きている
ハマスの支配強化、イスラエルの封鎖は逆効果
パレスチナ自治区ガザの支配権を巡り、昨年6月過激派ハマスが穏健派ファタハを武力で制圧してから1年が過ぎた。ハマスを敵視するイスラエルはガザの境界線を封鎖、燃料、食料、衣料など生活必需物資のガザへの流入を厳しく制限して「兵糧攻め」を続けてきた。生活に困窮したガザ住民がハマスの支配に反乱を起こし、ハマスの威信が低下することを狙った作戦だった。ところがガザ住民は、ガソリン・クーポン発給など公平な物資配給に努めるハマスの統治を受け入れて窮乏生活に耐えており、イスラエルの作戦は失敗に終わったようだ。
ガザは地中海に沿って長さ40キロ、幅約10キロの細長い地帯だ。北と東はイスラエルに囲まれ、南端がエジプトと接する。現在約150万人のパレスチナ人がこの狭い地域に押し込められて暮らしている。ガザは第2次世界大戦まではエジプト領だったが、イスラエル建国にアラブ側が反対して起きた1948年の第1次中東戦争でイスラエルが勝利、この時故郷を追い出されたパレスチナ難民がガザに住み着いたことで、エジプトは領有権を放棄した。その後1967年の第3次中東戦争でアラブ側が敗れた結果、ガザとヨルダン川西岸はイスラエル軍に占領された。1993年のオスロ合意で、ガザとヨルダン川西岸がパレスチナ暫定自治区として認められた以後も軍事占領は続き、以後2005年8月に当時のシャロン首相の決断でイスラエル軍がガザから撤退するまで、占領下のパレスチナ自治区というガザのステータスは変わらなかった。
2006年1月のパレスチナ暫定評議会(国会に相当)の総選挙で、新興勢力のハマスが実権派のファタハを破ったことから、パレスチナ自治区の支配構造が変化し始めた。ハマスとファタハの主導権争いは2007年6月のガザ内戦を引き起こしたが、僅か4日間の戦闘でハマスの武装勢力がファタハを屈服させた。以来パレスチナ自治区はハマスの支配するガザとファタハの支配するヨルダン川西岸とに分裂したままである。イスラエル国家の生存権を認めたファタハと認めないハマスの間には、パレスチナ解放闘争を巡って決定的な違いがあり、パレスチナ国家とイスラエルの共存を前提とする中東和平のロードマップも、ハマスのガザ制圧が続く限り実現不可能だ。イスラエルは07年9月、ガザを「敵対地域」に指定して境界封鎖を開始した。生活物資を止めてガザ住民を困窮させることで住民たちのハマスに対する反発をかき立て、ハマスのガザ支配を脅かそうと試みた。しかし住民たちは意地悪を続けるイスラエルに対する嫌悪感を強めただけだった。
伊藤力司 (ジャーナリスト)
パレスチナ自治区ガザの支配権を巡り、昨年6月過激派ハマスが穏健派ファタハを武力で制圧してから1年が過ぎた。ハマスを敵視するイスラエルはガザの境界線を封鎖、燃料、食料、衣料など生活必需物資のガザへの流入を厳しく制限して「兵糧攻め」を続けてきた。生活に困窮したガザ住民がハマスの支配に反乱を起こし、ハマスの威信が低下することを狙った作戦だった。ところがガザ住民は、ガソリン・クーポン発給など公平な物資配給に努めるハマスの統治を受け入れて窮乏生活に耐えており、イスラエルの作戦は失敗に終わったようだ。
ガザは地中海に沿って長さ40キロ、幅約10キロの細長い地帯だ。北と東はイスラエルに囲まれ、南端がエジプトと接する。現在約150万人のパレスチナ人がこの狭い地域に押し込められて暮らしている。ガザは第2次世界大戦まではエジプト領だったが、イスラエル建国にアラブ側が反対して起きた1948年の第1次中東戦争でイスラエルが勝利、この時故郷を追い出されたパレスチナ難民がガザに住み着いたことで、エジプトは領有権を放棄した。その後1967年の第3次中東戦争でアラブ側が敗れた結果、ガザとヨルダン川西岸はイスラエル軍に占領された。1993年のオスロ合意で、ガザとヨルダン川西岸がパレスチナ暫定自治区として認められた以後も軍事占領は続き、以後2005年8月に当時のシャロン首相の決断でイスラエル軍がガザから撤退するまで、占領下のパレスチナ自治区というガザのステータスは変わらなかった。
2006年1月のパレスチナ暫定評議会(国会に相当)の総選挙で、新興勢力のハマスが実権派のファタハを破ったことから、パレスチナ自治区の支配構造が変化し始めた。ハマスとファタハの主導権争いは2007年6月のガザ内戦を引き起こしたが、僅か4日間の戦闘でハマスの武装勢力がファタハを屈服させた。以来パレスチナ自治区はハマスの支配するガザとファタハの支配するヨルダン川西岸とに分裂したままである。イスラエル国家の生存権を認めたファタハと認めないハマスの間には、パレスチナ解放闘争を巡って決定的な違いがあり、パレスチナ国家とイスラエルの共存を前提とする中東和平のロードマップも、ハマスのガザ制圧が続く限り実現不可能だ。イスラエルは07年9月、ガザを「敵対地域」に指定して境界封鎖を開始した。生活物資を止めてガザ住民を困窮させることで住民たちのハマスに対する反発をかき立て、ハマスのガザ支配を脅かそうと試みた。しかし住民たちは意地悪を続けるイスラエルに対する嫌悪感を強めただけだった。
2008.06.14
中国で大学入試、最多の受験者数記録
―他方で、「大学は出たけれど」の嘆き広範に―
9月から新学期の始まる中国で、6月7、8両日(一部では9日も)、全国統一大学入試が行われた。四川大地震の被災地である四川省の6市・州、45県(市・区)および甘粛省の2市・州、17県(市・区)では延期された。
大学入試はこの時期の年中行事で、受験生本人はもちろんのこと、親や親戚も結果発表まで落ち着かない日々を送ることになる。ただ、2000年以降、大学の門が大きく開かれ、募集定員が5倍強にもなったため、大学生に対する社会の評価も変わりつつある。
大学生といえば即エリートだったのは1980年代までのこと。今では、国家主席や閣僚を輩出する特定少数の名門大学は別として、大学生だからというだけでエリート視される状況ではなくなってきているようだ。
今年も募集定員は増やされ、中共機関紙『人民日報』社のウェブサイト「人民網」によると、大学の募集定員は前年より5%増えて合計599万人となった。このため、「合格のチャンスは前年に比べやや広がった」という。
しかし、受験者の総数も前年比4%増の1050万人とこれまでの最高を記録した。それに、募集定員の増加分は、地震被災地の大学に重点的に割り当てる方式をとったというから、合格のチャンスが「やや広がった」といっても一般の受験生にとっては“スズメの涙”程度のものではないか。
合格発表の時期になると、省や特別市ごとに最高得点の受験生が文系・理系別に顔写真入りでこのウェブに紹介される。その名も“状元”だ。これは、昔の科挙の進士の試験の首席合格者のこと。そこから転じて現在では各地域別のトップ合格者を示すようになっている。
そうした話題を含めて入試が社会的な一大関心事であることに変わりはないのだが、ここ数年来、大学を出てからの就職難が、とくに大学生を抱える父母や教育関係者の間では切実な問題になっている。
丹藤佳紀 (早大講師)
9月から新学期の始まる中国で、6月7、8両日(一部では9日も)、全国統一大学入試が行われた。四川大地震の被災地である四川省の6市・州、45県(市・区)および甘粛省の2市・州、17県(市・区)では延期された。
大学入試はこの時期の年中行事で、受験生本人はもちろんのこと、親や親戚も結果発表まで落ち着かない日々を送ることになる。ただ、2000年以降、大学の門が大きく開かれ、募集定員が5倍強にもなったため、大学生に対する社会の評価も変わりつつある。
大学生といえば即エリートだったのは1980年代までのこと。今では、国家主席や閣僚を輩出する特定少数の名門大学は別として、大学生だからというだけでエリート視される状況ではなくなってきているようだ。
今年も募集定員は増やされ、中共機関紙『人民日報』社のウェブサイト「人民網」によると、大学の募集定員は前年より5%増えて合計599万人となった。このため、「合格のチャンスは前年に比べやや広がった」という。
しかし、受験者の総数も前年比4%増の1050万人とこれまでの最高を記録した。それに、募集定員の増加分は、地震被災地の大学に重点的に割り当てる方式をとったというから、合格のチャンスが「やや広がった」といっても一般の受験生にとっては“スズメの涙”程度のものではないか。
合格発表の時期になると、省や特別市ごとに最高得点の受験生が文系・理系別に顔写真入りでこのウェブに紹介される。その名も“状元”だ。これは、昔の科挙の進士の試験の首席合格者のこと。そこから転じて現在では各地域別のトップ合格者を示すようになっている。
そうした話題を含めて入試が社会的な一大関心事であることに変わりはないのだが、ここ数年来、大学を出てからの就職難が、とくに大学生を抱える父母や教育関係者の間では切実な問題になっている。
2008.06.10
チェ・ゲバラはいかなる人間だったか
娘、アレイダさんが明かした父親像
キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの長女で小児科医のアレイダ・ゲバラさん(47歳)が、市民団体の招きで初来日し、5月28日までの約2週間、各地で「キューバ医療の現状」や「父チェ・ゲバラへの想い」などについて講演した。娘の目を通して明らかにされたチェ・ゲバラの人間像は、私にとってまことに興味深いものだったが、聴衆の心にも強い印象を刻みつけたようだ。
若い人にはともかく、1950年代から70年代にかけて青春時代をおくった者には、チェ・ゲバラは忘れがたい人物といっていいだろう。成功したキューバ革命の立役者の一人だったからだけではない。革命成立後についた要職も名声も捨て、次なる革命を求めてキューバを去り、南米ボリビアで革命闘争中に倒れた革命家の稀有な生き方に心を揺さぶられた人が多かったからだろう。60歳以上の日本人には、ゲバラはいわば「伝説の永久革命家」なのである。
改めて、チェ・ゲバラの短い生涯を追ってみる。
1928年にアルゼンチンで生まれた。大学生時代に友人とオートバイで南米を回る旅に出て、ラテンアメリカの現状をつぶさに見聞する。その後、医師の資格を得るが、ラテンアメリカを放浪し、反政府活動に加わる。
1956年、メキシコで、ここに亡命していたキューバのフィデル・カストロ氏と出会い、従軍医としてカストロ氏らの反独裁闘争に参加することを決意する。同年、カストロ氏らとキューバに上陸し、2年間に及ぶゲリラ戦に従事する。
1959年1月1日にキューバ革命が成立。チェ・ゲバラは同年、日本を含むアジア、アフリカ諸国を歴訪後、国立銀行総裁に就任する。この年、ゲリラ戦をともにしたアレイダ・マルチさんと結婚。1961年には工業大臣に就任するが、1965年4月、新たな革命の地を求め、新婚生活わずか6年の妻と幼い子ども4人(男女各2人)を残してアフリカのコンゴへ向かう。カストロ氏に「別れの手紙」を残して。
が、コンゴでの革命闘争が失敗したため、1966年、秘密裏にキューバに帰国し、戦闘訓練の後、同年10月、ボリビアへ向かった。しかし、ここでゲリラ活動中の67年10月、ボリビア国軍に捕らえられ、銃殺された。39歳だった。
アレイダさんによると、父がコンゴに向けて出発した時、彼女は4歳だった。だから「父について鮮明な記憶はない」という。したがって、今、父について抱いているイメージや知識は、母やカストロ氏ら当時の戦友らから言い聞かされたもののようだ。
そのせいだろうか、父親について語るアレイダさんの口調には、いささかもべたついたところがなかった。娘が父親について語る場合は、一般的に肉親であることからくる甘えが伴いがちだが、アレイダさんは、そんな甘えを微塵も感じさせなかった。父親を、一人の人間として、あるいは一人の男性として極めて客観的に語ったのが印象的だった。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの長女で小児科医のアレイダ・ゲバラさん(47歳)が、市民団体の招きで初来日し、5月28日までの約2週間、各地で「キューバ医療の現状」や「父チェ・ゲバラへの想い」などについて講演した。娘の目を通して明らかにされたチェ・ゲバラの人間像は、私にとってまことに興味深いものだったが、聴衆の心にも強い印象を刻みつけたようだ。
若い人にはともかく、1950年代から70年代にかけて青春時代をおくった者には、チェ・ゲバラは忘れがたい人物といっていいだろう。成功したキューバ革命の立役者の一人だったからだけではない。革命成立後についた要職も名声も捨て、次なる革命を求めてキューバを去り、南米ボリビアで革命闘争中に倒れた革命家の稀有な生き方に心を揺さぶられた人が多かったからだろう。60歳以上の日本人には、ゲバラはいわば「伝説の永久革命家」なのである。
改めて、チェ・ゲバラの短い生涯を追ってみる。
1928年にアルゼンチンで生まれた。大学生時代に友人とオートバイで南米を回る旅に出て、ラテンアメリカの現状をつぶさに見聞する。その後、医師の資格を得るが、ラテンアメリカを放浪し、反政府活動に加わる。
1956年、メキシコで、ここに亡命していたキューバのフィデル・カストロ氏と出会い、従軍医としてカストロ氏らの反独裁闘争に参加することを決意する。同年、カストロ氏らとキューバに上陸し、2年間に及ぶゲリラ戦に従事する。
1959年1月1日にキューバ革命が成立。チェ・ゲバラは同年、日本を含むアジア、アフリカ諸国を歴訪後、国立銀行総裁に就任する。この年、ゲリラ戦をともにしたアレイダ・マルチさんと結婚。1961年には工業大臣に就任するが、1965年4月、新たな革命の地を求め、新婚生活わずか6年の妻と幼い子ども4人(男女各2人)を残してアフリカのコンゴへ向かう。カストロ氏に「別れの手紙」を残して。
が、コンゴでの革命闘争が失敗したため、1966年、秘密裏にキューバに帰国し、戦闘訓練の後、同年10月、ボリビアへ向かった。しかし、ここでゲリラ活動中の67年10月、ボリビア国軍に捕らえられ、銃殺された。39歳だった。
アレイダさんによると、父がコンゴに向けて出発した時、彼女は4歳だった。だから「父について鮮明な記憶はない」という。したがって、今、父について抱いているイメージや知識は、母やカストロ氏ら当時の戦友らから言い聞かされたもののようだ。
そのせいだろうか、父親について語るアレイダさんの口調には、いささかもべたついたところがなかった。娘が父親について語る場合は、一般的に肉親であることからくる甘えが伴いがちだが、アレイダさんは、そんな甘えを微塵も感じさせなかった。父親を、一人の人間として、あるいは一人の男性として極めて客観的に語ったのが印象的だった。
2008.06.07
オバマ・マケイン対決本決まり
民主党大統領候補に初の黒人
アメリカ民主党の大統領候補を決める予備選は6月3日に行われたモンタナ州、サウスダコタ州ですべて終了、この日バラク・オバマ上院議員を支持する代議員が過半数を超えた。この結果、オバマ氏がヒラリー・クリントン上院議員を制して、民主党の大統領候補になることが決まった。アメリカの歴史上初めて、有力政党から黒人の大統領候補が登場したわけで、人種差別の原罪を抱えるアメリカにとって画期的な事態である。その一方、史上初の女性大統領候補は実現しなかったことになる。共和党ではジョン・マケイン上院議員が大統領候補に事実上決まっているので、11月の大統領選挙を目指すオバマ氏とマケイン氏の対決が火蓋を切って落とす。今のところ、不人気なブッシュ政権を抱えた共和党の苦戦が予想され、初の黒人大統領が実現する確率は高いとみられている。
正式には8月末コロラド州デンバーで開かれる民主党大会で、全代議員による指名投票が行われ、過半数2,118人以上の票数を得た人が大統領選挙民主党候補者に指名される。党大会の代議員は、投票する候補者を約束して州ごとの予備選挙・党員集会で選出された一般代議員と、投票する候補者を独自に決めることのできるスーパー代議員(連邦議員、州知事、地方および中央の党役員など)の二本建てで構成される。5月20日のオレゴン、ケンタッキー両州の予備選が終わった段階で、オバマ氏は一般代議員の過半数を獲得していた。以後の勝負は、オバマ氏、ヒラリー氏がそれぞれ自分を支持するスーパー代議員をどれだけ多く集められるかだったが、ここでもオバマ氏がヒラリー氏を圧倒した。米東部標準時6月4日午前5時(日本時間同日午後7時)現在でのAP通信の集計によると、スーパー代議員でオバマ氏支持者は389人、ヒラリー氏支持者は282人。一般代議員を加えた総数では、オバマ氏支持が2,154人、ヒラリー氏支持が1,919人である。
昨年2月イリノイ州以外ではほとんど無名のオバマ氏が大統領選出馬を宣言した当時、オバマ氏が08年大統領選挙で民主党の大統領候補になると予測した専門家はひとりもいなかった。昨年12月までヒラリー氏の人気は全国的に高く、史上初の女性大統領の可能性が各方面で語られていた。ところが今年1月上旬、全国の予備選・党員集会の口火を切ったアイオワ州の党員集会でオバマ氏がヒラリー氏を破るという、玄人筋の予想を裏切る結果が出た。それ以来5カ月、全米50州と7自治領で闘われた予備選・党員集会を通じて、オバマ氏の優位が揺らぐことはなかった。
伊藤力司 (ジャーナリスト)
アメリカ民主党の大統領候補を決める予備選は6月3日に行われたモンタナ州、サウスダコタ州ですべて終了、この日バラク・オバマ上院議員を支持する代議員が過半数を超えた。この結果、オバマ氏がヒラリー・クリントン上院議員を制して、民主党の大統領候補になることが決まった。アメリカの歴史上初めて、有力政党から黒人の大統領候補が登場したわけで、人種差別の原罪を抱えるアメリカにとって画期的な事態である。その一方、史上初の女性大統領候補は実現しなかったことになる。共和党ではジョン・マケイン上院議員が大統領候補に事実上決まっているので、11月の大統領選挙を目指すオバマ氏とマケイン氏の対決が火蓋を切って落とす。今のところ、不人気なブッシュ政権を抱えた共和党の苦戦が予想され、初の黒人大統領が実現する確率は高いとみられている。
正式には8月末コロラド州デンバーで開かれる民主党大会で、全代議員による指名投票が行われ、過半数2,118人以上の票数を得た人が大統領選挙民主党候補者に指名される。党大会の代議員は、投票する候補者を約束して州ごとの予備選挙・党員集会で選出された一般代議員と、投票する候補者を独自に決めることのできるスーパー代議員(連邦議員、州知事、地方および中央の党役員など)の二本建てで構成される。5月20日のオレゴン、ケンタッキー両州の予備選が終わった段階で、オバマ氏は一般代議員の過半数を獲得していた。以後の勝負は、オバマ氏、ヒラリー氏がそれぞれ自分を支持するスーパー代議員をどれだけ多く集められるかだったが、ここでもオバマ氏がヒラリー氏を圧倒した。米東部標準時6月4日午前5時(日本時間同日午後7時)現在でのAP通信の集計によると、スーパー代議員でオバマ氏支持者は389人、ヒラリー氏支持者は282人。一般代議員を加えた総数では、オバマ氏支持が2,154人、ヒラリー氏支持が1,919人である。
昨年2月イリノイ州以外ではほとんど無名のオバマ氏が大統領選出馬を宣言した当時、オバマ氏が08年大統領選挙で民主党の大統領候補になると予測した専門家はひとりもいなかった。昨年12月までヒラリー氏の人気は全国的に高く、史上初の女性大統領の可能性が各方面で語られていた。ところが今年1月上旬、全国の予備選・党員集会の口火を切ったアイオワ州の党員集会でオバマ氏がヒラリー氏を破るという、玄人筋の予想を裏切る結果が出た。それ以来5カ月、全米50州と7自治領で闘われた予備選・党員集会を通じて、オバマ氏の優位が揺らぐことはなかった。
2008.06.04
四川大地震で露わになったこと一、二
―“天変地異”再論―
前回、「胡錦涛政権の多難な折り返し」と題して報告したのは3月19日のことでした。そこでは、任期5年の第11期全国人民代表大会(全人代=国会)で再任されたことにより、胡錦涛国家主席=温家宝首相コンビの政権が折り返しを始めたことをまず伝えました。そして、注目すべきこととして、その全人代が“天変地異”にはさまれたことを挙げ、報告の副題にしました。
全人代の開催前、春節(旧正月)の直前に起きたのが湖南省・広東省など中国中南部一帯に襲来した大寒波・雪害です。鉄道・道路・航空を含む交通がマヒ状態に陥り、億の単位に達するという、春節に帰省する人が立ち往生しました。また、送電塔倒壊や石炭不足から停電が長く続いたのです。
その後、日本との間では「毒入り餃子問題」が起き、全人代がまだ開催中の3月10日からは「チベット問題」が浮上しました。この問題は国際的な注目を集め、そのため、やがて始まった北京五輪の聖火リレーが新たな問題になったことはご承知のとおりです。
前回の報告では、上記の“天変地異”について、「中国人の友人たちの気にするのは、毛沢東時代が終わりを告げた1976年の前例だ」と述べ、河北省唐山市でマグニチュード7・8の直下型大地震が起きて24万人の犠牲者が出たことを挙げました。
もちろん、2ヶ月後に四川省で起きる大地震を予測していたわけではありません。ただ、中国の大衆が風水思想など伝統的なものの見方・考え方に一目置いていることを紹介し、その具体例として言及したのですが、恐ろしいことに、大地震が現実のものになってしまいました。
四川大地震は、中国では、震源地とされる地名をとって汶川(ぶんせん)大地震といわれています。地震の規模は最初、唐山大地震と同じM7・8とされ、その符合にも驚きました。その後、この数値はM8と修正されましたが、そこから中国では、風水思想というか、「験(げん)をかつぐ」というか、「8」を忌む「小道消息」(口コミ)が広がったのです(もっとも、今では「小道消息」もネットや携帯メールで伝えられるのですが)。
四川大地震の発生したのは5月12日で、この数字を合計すると8になります。“天変地異”の事例に挙げた大寒波・雪害は1月25日で、チベット騒乱は3月14日ですから、両方とも数字の合計が8になるのです。
丹藤佳紀 (早大講師)
前回、「胡錦涛政権の多難な折り返し」と題して報告したのは3月19日のことでした。そこでは、任期5年の第11期全国人民代表大会(全人代=国会)で再任されたことにより、胡錦涛国家主席=温家宝首相コンビの政権が折り返しを始めたことをまず伝えました。そして、注目すべきこととして、その全人代が“天変地異”にはさまれたことを挙げ、報告の副題にしました。
全人代の開催前、春節(旧正月)の直前に起きたのが湖南省・広東省など中国中南部一帯に襲来した大寒波・雪害です。鉄道・道路・航空を含む交通がマヒ状態に陥り、億の単位に達するという、春節に帰省する人が立ち往生しました。また、送電塔倒壊や石炭不足から停電が長く続いたのです。
その後、日本との間では「毒入り餃子問題」が起き、全人代がまだ開催中の3月10日からは「チベット問題」が浮上しました。この問題は国際的な注目を集め、そのため、やがて始まった北京五輪の聖火リレーが新たな問題になったことはご承知のとおりです。
前回の報告では、上記の“天変地異”について、「中国人の友人たちの気にするのは、毛沢東時代が終わりを告げた1976年の前例だ」と述べ、河北省唐山市でマグニチュード7・8の直下型大地震が起きて24万人の犠牲者が出たことを挙げました。
もちろん、2ヶ月後に四川省で起きる大地震を予測していたわけではありません。ただ、中国の大衆が風水思想など伝統的なものの見方・考え方に一目置いていることを紹介し、その具体例として言及したのですが、恐ろしいことに、大地震が現実のものになってしまいました。
四川大地震は、中国では、震源地とされる地名をとって汶川(ぶんせん)大地震といわれています。地震の規模は最初、唐山大地震と同じM7・8とされ、その符合にも驚きました。その後、この数値はM8と修正されましたが、そこから中国では、風水思想というか、「験(げん)をかつぐ」というか、「8」を忌む「小道消息」(口コミ)が広がったのです(もっとも、今では「小道消息」もネットや携帯メールで伝えられるのですが)。
四川大地震の発生したのは5月12日で、この数字を合計すると8になります。“天変地異”の事例に挙げた大寒波・雪害は1月25日で、チベット騒乱は3月14日ですから、両方とも数字の合計が8になるのです。
2008.06.03
日本の現状に対する痛烈なアンチテーゼ
ゲバラの娘、アレイダさんが遺したもの
それは、一陣の旋風のようだった。二週間の日本滞在を終えて5月28日に帰国したキューバの小児科医、アレイダ・ゲバラさん(47歳)が残した足跡のことである。彼女を迎えて各地で行われた講演会はどこも超満員だったが、これは、彼女が今なお信奉者が多いキューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの長女であったばかりでなく、彼女が講演で発したメッセージの一つ一つが、はからずも日本の現状に対するアンチテーゼとなっていて、それが日本の現状を憂える人々の心を強くとらえたからだとみていいようだ。
アレイダさんを招いたのは、NPO法人アテナ・ジャパンと市民団体「キューバ友好円卓会議」の関係者で結成された「アレイダ・ゲバラさん招聘実行委員会」である。
本年がチェ・ゲバラ生誕80年にあたることから日本国内でもチェ・ゲバラへの関心が再び高まっていること、米国映画『シッコ』が日本国内でも公開されたことからキューバにおける先進的な医療に関心をもつ人たちが増えてきたことなどから、医師であるアレイダさんを招き、父ゲバラやキューバ医療について語ってもらおう――というのが実行委員会の狙いだった。
5月14日に来日したアレイダさんは、広島、東京、大阪、京都、神戸、沖縄・那覇、衆院第一議員会館で講演した。そのほか、長野県の佐久総合病院を見学し、医者らと懇談した。
アレイダさんの来日に対し、大手のマスメディアはほとんど関心を示さなかった。が、その来日はミニコミや口コミを通じて伝えられ、各地の講演会会場には大勢の聴衆がつめかけた。なかには開会前から満員札止めとなり、急きょ第二会場設置に追われる会場もあった。どこも、実行委員会の予想を上回る入場者数であった。
彼女が語ったことは、入場者に深い感動を与えたようだ。明治大学で行われた東京講演会で主催者が入場者に対して行ったアンケートでは「素晴らしい会をありがとうございました。深い感動で胸がいっぱいです」「講演は情熱と気迫に溢れ、話の内容も大いに説得力があり、感動しました」「アレイダさんの話に感激、そして感動しました」「講演会に来たかいがあった」「多くのインスピレーションをいただきました」「流石、ゲバラの娘、確信に満ちた発言、信念に感服」などといった回答が寄せられている。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
それは、一陣の旋風のようだった。二週間の日本滞在を終えて5月28日に帰国したキューバの小児科医、アレイダ・ゲバラさん(47歳)が残した足跡のことである。彼女を迎えて各地で行われた講演会はどこも超満員だったが、これは、彼女が今なお信奉者が多いキューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの長女であったばかりでなく、彼女が講演で発したメッセージの一つ一つが、はからずも日本の現状に対するアンチテーゼとなっていて、それが日本の現状を憂える人々の心を強くとらえたからだとみていいようだ。
アレイダさんを招いたのは、NPO法人アテナ・ジャパンと市民団体「キューバ友好円卓会議」の関係者で結成された「アレイダ・ゲバラさん招聘実行委員会」である。
本年がチェ・ゲバラ生誕80年にあたることから日本国内でもチェ・ゲバラへの関心が再び高まっていること、米国映画『シッコ』が日本国内でも公開されたことからキューバにおける先進的な医療に関心をもつ人たちが増えてきたことなどから、医師であるアレイダさんを招き、父ゲバラやキューバ医療について語ってもらおう――というのが実行委員会の狙いだった。
5月14日に来日したアレイダさんは、広島、東京、大阪、京都、神戸、沖縄・那覇、衆院第一議員会館で講演した。そのほか、長野県の佐久総合病院を見学し、医者らと懇談した。
アレイダさんの来日に対し、大手のマスメディアはほとんど関心を示さなかった。が、その来日はミニコミや口コミを通じて伝えられ、各地の講演会会場には大勢の聴衆がつめかけた。なかには開会前から満員札止めとなり、急きょ第二会場設置に追われる会場もあった。どこも、実行委員会の予想を上回る入場者数であった。
彼女が語ったことは、入場者に深い感動を与えたようだ。明治大学で行われた東京講演会で主催者が入場者に対して行ったアンケートでは「素晴らしい会をありがとうございました。深い感動で胸がいっぱいです」「講演は情熱と気迫に溢れ、話の内容も大いに説得力があり、感動しました」「アレイダさんの話に感激、そして感動しました」「講演会に来たかいがあった」「多くのインスピレーションをいただきました」「流石、ゲバラの娘、確信に満ちた発言、信念に感服」などといった回答が寄せられている。
2008.06.02
軍政の人質にとられたミャンマーの被災者
被災者救援より権力確保を優先
言うまでもなく日本は地震多発国だし、台風災害のない年はないほどだ。それだけに巨大サイクロン(熱帯性低気圧)に見舞われたミャンマー、四川大地震に襲われた中国の惨状はとても他人事と思えない。日本赤十字などの団体が世話している中国とミャンマーに対する義捐金の集まり具合は順調だという。支援物資の緊急輸送のため、他国の軍用輸送機の乗り入れまで認めるという中国の開放度と、国連事務総長の直(じか)談判など国際圧力で外国援助要員の入国を渋々認めた鎖国体質のミャンマー軍事政権とのギャップが目立った。今回の災害対応を通じて、自国民の人命救援より自分たちの権力保持を優先するミャンマー軍政の非人道的姿勢は、世界中の人々の耳目に焼き付けられた。
1988年の軍事クーデターで、ネ・ウィン軍事政権を倒したビルマ民主勢力から権力を横取りした現在の軍事政権は、現在まで20年にわたって権力を独占してきた。1990年の総選挙でアウン・サン・スー・チーさんの率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したにもかかわらず、軍政は事前の約束に反してNLDへの政権移譲を拒否し、かえって当選したNLD所属の国会議員多数を逮捕、スー・チーさんを自宅軟禁に閉じこめるなどの暴政を敷き、国際的批判を浴び続けてきた。軍政指導部は当初「国家法秩序回復評議会(SLORC)」を名乗っていたが、92年から軍政トップに昇格したタン・シュエ大将は97年に「国家平和発展評議会(SPDC)」と改称、事実上軍政を恒久化するための新憲法を制定する国民会議を招集するなど、独裁体制をさらに強化してきた。
野党を実質排除し、軍人と役人、連邦団結発展協会(USDA)という名の翼賛団体だけで構成された国民会議は、通算12年ぶりに新憲法草案を制定した。外国人と結婚したスー・チーさんは国会議員になる資格がない、国会議員定数の4分の1は軍人から選ばれる、大統領は事実上軍人から選ばれる等々、民政移管とは名目だけで軍政の恒久化を策した代物であることは誰の目にも明らかだ。軍政当局はこれを批准するための国民投票を5月10日に予定していた。その1週間前の5月3日、巨大サイクロン「ナルギス」がミャンマー南西端のイラワジ河デルタに上陸した。軍政当局発表で死者・行方不明者13万4千人、国連推計の被災者240万人という大災害であった。にもかかわらず、軍政は激甚災害地帯を除いて予定通り5月10日に国民投票を実施、しかも国際投票監視委員など第三者の立ち会いも一切認めなかった。24日には激甚災害地区でも投票が行われ、26日には国民の92・5%が憲法草案を支持したと発表された。すべて軍政当局の筋書き通りに事は運んでいる。
これほどの被害にもかかわらず軍政当局は当初、外国からの救援の受け入れに消極的だった。ミャンマーに友好的な中国、タイ、バングラデシュ、インドの隣邦4国しか救援を受け入れなかった。しかし大規模救援体制の必要性を説くこれら友好国と、普段からミャンマーにスタッフを置いているユニセフ、世界食糧計画(WFP)などの国連機関や国際的人道援助のNGOなどの要請が功を奏し、軍政当局も援助要員の入国は認めないが外国からの援助物資は受け入れる方針に転じた。ミャンマー政府の管轄下にある新聞やテレビはこのころ、軍服姿の偉いさんたちが被災者に支援物資を配布している姿をしきりに報道していた。軍政当局は外国から物資はもらうがそれを分配するのは軍人たちであることを印象づけようとしていた。隣のタイから空輸された国際援助団体の支援物資が当局に押収されたという一幕も報じられたのはこの頃のことだ。
伊藤力司 (ジャーナリスト)
言うまでもなく日本は地震多発国だし、台風災害のない年はないほどだ。それだけに巨大サイクロン(熱帯性低気圧)に見舞われたミャンマー、四川大地震に襲われた中国の惨状はとても他人事と思えない。日本赤十字などの団体が世話している中国とミャンマーに対する義捐金の集まり具合は順調だという。支援物資の緊急輸送のため、他国の軍用輸送機の乗り入れまで認めるという中国の開放度と、国連事務総長の直(じか)談判など国際圧力で外国援助要員の入国を渋々認めた鎖国体質のミャンマー軍事政権とのギャップが目立った。今回の災害対応を通じて、自国民の人命救援より自分たちの権力保持を優先するミャンマー軍政の非人道的姿勢は、世界中の人々の耳目に焼き付けられた。
1988年の軍事クーデターで、ネ・ウィン軍事政権を倒したビルマ民主勢力から権力を横取りした現在の軍事政権は、現在まで20年にわたって権力を独占してきた。1990年の総選挙でアウン・サン・スー・チーさんの率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したにもかかわらず、軍政は事前の約束に反してNLDへの政権移譲を拒否し、かえって当選したNLD所属の国会議員多数を逮捕、スー・チーさんを自宅軟禁に閉じこめるなどの暴政を敷き、国際的批判を浴び続けてきた。軍政指導部は当初「国家法秩序回復評議会(SLORC)」を名乗っていたが、92年から軍政トップに昇格したタン・シュエ大将は97年に「国家平和発展評議会(SPDC)」と改称、事実上軍政を恒久化するための新憲法を制定する国民会議を招集するなど、独裁体制をさらに強化してきた。
野党を実質排除し、軍人と役人、連邦団結発展協会(USDA)という名の翼賛団体だけで構成された国民会議は、通算12年ぶりに新憲法草案を制定した。外国人と結婚したスー・チーさんは国会議員になる資格がない、国会議員定数の4分の1は軍人から選ばれる、大統領は事実上軍人から選ばれる等々、民政移管とは名目だけで軍政の恒久化を策した代物であることは誰の目にも明らかだ。軍政当局はこれを批准するための国民投票を5月10日に予定していた。その1週間前の5月3日、巨大サイクロン「ナルギス」がミャンマー南西端のイラワジ河デルタに上陸した。軍政当局発表で死者・行方不明者13万4千人、国連推計の被災者240万人という大災害であった。にもかかわらず、軍政は激甚災害地帯を除いて予定通り5月10日に国民投票を実施、しかも国際投票監視委員など第三者の立ち会いも一切認めなかった。24日には激甚災害地区でも投票が行われ、26日には国民の92・5%が憲法草案を支持したと発表された。すべて軍政当局の筋書き通りに事は運んでいる。
これほどの被害にもかかわらず軍政当局は当初、外国からの救援の受け入れに消極的だった。ミャンマーに友好的な中国、タイ、バングラデシュ、インドの隣邦4国しか救援を受け入れなかった。しかし大規模救援体制の必要性を説くこれら友好国と、普段からミャンマーにスタッフを置いているユニセフ、世界食糧計画(WFP)などの国連機関や国際的人道援助のNGOなどの要請が功を奏し、軍政当局も援助要員の入国は認めないが外国からの援助物資は受け入れる方針に転じた。ミャンマー政府の管轄下にある新聞やテレビはこのころ、軍服姿の偉いさんたちが被災者に支援物資を配布している姿をしきりに報道していた。軍政当局は外国から物資はもらうがそれを分配するのは軍人たちであることを印象づけようとしていた。隣のタイから空輸された国際援助団体の支援物資が当局に押収されたという一幕も報じられたのはこの頃のことだ。
2008.06.01
四川大地震の伝わったとき、チベット高原では・・・
―チベット高原の一隅にて(18)―
5月12日午後、私はゆれに気がつかなかった。室内の人は気がついた。地震のニュースがあったとき、私は日本語専攻クラスに四川省出身の学生がいることをおもった。青海省以外の省(外省)出身者が3分の2もいる。この二人も成都近くの綿陽と徳陽から来た学生だ。呼び出すと二人とも故郷との連絡がとれないという。
「すぐ家に帰りたい」
「ばかなことをいいなさんな。宝成鉄道は壊れたというし、飛行場は閉鎖だよ」
「でも、帰りたい。先生どうしたらいいの」
「携帯電話が通じるまで待つ以外にないよ。それから判断しよう」
ニュースは被害を刻々とつたえ、綿陽だの徳陽だのもふくめて死者は数千、まもなく万を超えた。倒壊した家屋は10万単位だった。この学生たちの家族からは翌々日の午前4時に連絡が入った。家族全員無事。ひとりの家は崩れたが、もうひとりの家は崩れなかったとのことだった。だが、父母は遠く西寧にいる娘のことを思いやって事実を知らせないのかもしれない。
若いチベット人教師からも連絡が入った。兄二人と連絡できないという。四川省アバ州(「阿覇」覇は土へん)に兄が二人いる。一人は僧侶で牧野でチベット医をしている。もう一人は薬草の売買。震源地からはかなり離れているが、アバ州だのその西隣の甘孜州はラサ3・14事件以来各地でデモや衝突、逮捕があり、解放軍も入って寺院はいまも閉鎖、厳重に監視されている。とくに僧侶は虞犯行為者あつかいだから、
「地震のドサクサに坊主を捕まえるなんてことはないでしょうか」
というのが彼の心配だった。
かれは、成都や都江堰方面や震源地のニュースはあるけど、アバ州・州都バルカム(馬爾康)についてすらニュースがない。兄らの住む地方に災害がなかったのか、あっても連絡がないからニュースにならないのか。日本のニュースは速いから何でもいいから教えてほしいといった。
そのうち、電話が通じたといってきた。アバ州中部は揺れたけれども大きな被害はないという。寺には地震に関係なく相変わらず軍や警察がいる。この地方にもフユムシナツクサタケ(「冬虫夏草」)の季節がやってきた。この1、2ヶ月のあいだに500本掘れば1万元(15万円)、1年の生活費は出るという相場だから、地震の被害が大きいの小さいのといっていられない。村人は学童も連れてみな山に入り、兄たちの患者はいなくなった。
10年ほど前のことになるが、わたしはこの地方を旅行したことがある。成都から岷江を遡上して、都江堰をへてブン(さんずいに文)川へ行った。震源地ブン(さんずいに文)川は四川盆地とチベット高原を結ぶ谷口集落のひとつだ。ここからザグナォ(理県)、ミャグロ(米亜羅)と峡谷をさかのぼる。 深い渓谷の連続である。黒部渓谷を10倍くらい大きくした感じだ。斜面にはモミやトウヒ、シラカバ、谷底にはクスノキやチョウセンゴミシもある。谷の斜面は、元来は樹林だったはずだが、伐採の結果、丸ハダカになったところも多い。ザグナォで地元産マツタケの炒めものを腹いっぱい食った記憶がある。
谷間の道を車で行ったのだが、何しろ道路が山の斜面を削って谷側に落としただけで、安全対策は何もない。高さ100メートルを越えるガラ場があった。2、3分おきにこぶし大の石がうなりを上げて飛んでくる。ときには砂煙を上げて一抱えもある石が道路に落ちる。車を降りて谷のうえのほうを眺めて安全を確認してから200メートルくらいを走りぬけたものである。
当時はまだ伐採禁止令が出ていなかったから、ヒマラヤモミの大きな丸太を満載したトラックが何台も通過する。この道をバルカム(馬爾康)とか刷経寺までさかのぼると、針葉樹林が終わって谷の傾斜が緩やかになり、高山植物が茂る草原となる。
こうしたアバ南部の河谷にはいま漢人が多いが、もともとギャロン=チベットとチャン(羌)の土地である。この人々はチベット文化の影響が色濃く仏教徒であるが、もともとはチベット人とは別の民族だろうといわれる。彼らのことばもチベット語そのものではないし、民族衣装もやや異なる。
谷底の河岸段丘には狭いながらも耕地がある。若いリンゴ畑もあった。やがて成都へリンゴを売るのだろうとおもった。耕地を確保するために急傾斜の斜面に建った家が城塞のようにつながる。外面は石造、内側は木造という2階3階建て、1階は物置と家畜小屋、2階は居間、3階は台所だ。どの村の中にも30メートル内外の石造の望楼があるのがめずらしい。
阿部治平 (中国青海省在住、日本語教師)
5月12日午後、私はゆれに気がつかなかった。室内の人は気がついた。地震のニュースがあったとき、私は日本語専攻クラスに四川省出身の学生がいることをおもった。青海省以外の省(外省)出身者が3分の2もいる。この二人も成都近くの綿陽と徳陽から来た学生だ。呼び出すと二人とも故郷との連絡がとれないという。
「すぐ家に帰りたい」
「ばかなことをいいなさんな。宝成鉄道は壊れたというし、飛行場は閉鎖だよ」
「でも、帰りたい。先生どうしたらいいの」
「携帯電話が通じるまで待つ以外にないよ。それから判断しよう」
ニュースは被害を刻々とつたえ、綿陽だの徳陽だのもふくめて死者は数千、まもなく万を超えた。倒壊した家屋は10万単位だった。この学生たちの家族からは翌々日の午前4時に連絡が入った。家族全員無事。ひとりの家は崩れたが、もうひとりの家は崩れなかったとのことだった。だが、父母は遠く西寧にいる娘のことを思いやって事実を知らせないのかもしれない。
若いチベット人教師からも連絡が入った。兄二人と連絡できないという。四川省アバ州(「阿覇」覇は土へん)に兄が二人いる。一人は僧侶で牧野でチベット医をしている。もう一人は薬草の売買。震源地からはかなり離れているが、アバ州だのその西隣の甘孜州はラサ3・14事件以来各地でデモや衝突、逮捕があり、解放軍も入って寺院はいまも閉鎖、厳重に監視されている。とくに僧侶は虞犯行為者あつかいだから、
「地震のドサクサに坊主を捕まえるなんてことはないでしょうか」
というのが彼の心配だった。
かれは、成都や都江堰方面や震源地のニュースはあるけど、アバ州・州都バルカム(馬爾康)についてすらニュースがない。兄らの住む地方に災害がなかったのか、あっても連絡がないからニュースにならないのか。日本のニュースは速いから何でもいいから教えてほしいといった。
そのうち、電話が通じたといってきた。アバ州中部は揺れたけれども大きな被害はないという。寺には地震に関係なく相変わらず軍や警察がいる。この地方にもフユムシナツクサタケ(「冬虫夏草」)の季節がやってきた。この1、2ヶ月のあいだに500本掘れば1万元(15万円)、1年の生活費は出るという相場だから、地震の被害が大きいの小さいのといっていられない。村人は学童も連れてみな山に入り、兄たちの患者はいなくなった。
10年ほど前のことになるが、わたしはこの地方を旅行したことがある。成都から岷江を遡上して、都江堰をへてブン(さんずいに文)川へ行った。震源地ブン(さんずいに文)川は四川盆地とチベット高原を結ぶ谷口集落のひとつだ。ここからザグナォ(理県)、ミャグロ(米亜羅)と峡谷をさかのぼる。 深い渓谷の連続である。黒部渓谷を10倍くらい大きくした感じだ。斜面にはモミやトウヒ、シラカバ、谷底にはクスノキやチョウセンゴミシもある。谷の斜面は、元来は樹林だったはずだが、伐採の結果、丸ハダカになったところも多い。ザグナォで地元産マツタケの炒めものを腹いっぱい食った記憶がある。
谷間の道を車で行ったのだが、何しろ道路が山の斜面を削って谷側に落としただけで、安全対策は何もない。高さ100メートルを越えるガラ場があった。2、3分おきにこぶし大の石がうなりを上げて飛んでくる。ときには砂煙を上げて一抱えもある石が道路に落ちる。車を降りて谷のうえのほうを眺めて安全を確認してから200メートルくらいを走りぬけたものである。
当時はまだ伐採禁止令が出ていなかったから、ヒマラヤモミの大きな丸太を満載したトラックが何台も通過する。この道をバルカム(馬爾康)とか刷経寺までさかのぼると、針葉樹林が終わって谷の傾斜が緩やかになり、高山植物が茂る草原となる。
こうしたアバ南部の河谷にはいま漢人が多いが、もともとギャロン=チベットとチャン(羌)の土地である。この人々はチベット文化の影響が色濃く仏教徒であるが、もともとはチベット人とは別の民族だろうといわれる。彼らのことばもチベット語そのものではないし、民族衣装もやや異なる。
谷底の河岸段丘には狭いながらも耕地がある。若いリンゴ畑もあった。やがて成都へリンゴを売るのだろうとおもった。耕地を確保するために急傾斜の斜面に建った家が城塞のようにつながる。外面は石造、内側は木造という2階3階建て、1階は物置と家畜小屋、2階は居間、3階は台所だ。どの村の中にも30メートル内外の石造の望楼があるのがめずらしい。
2008.05.31
地震が台湾海峡を狭めた? ―国共両党のトップ会談
管見中国(9)
台湾の政権党に復帰した国民党の呉伯雄主席は訪問中の北京で28日、中国共産党の胡錦濤総書記(国家主席)と会談し、1999年以来中断している中台対話を再開することで合意した。
これを受けて翌29日、大陸側の窓口機関「海峡両岸関係協会」が台湾側の同「海峡交流基金会」に書簡を送り、同基金会の江丙坤会長に6月11日から14日まで北京を訪れるよう招請したのに対し、同会長も即日これに応ずる旨を明らかにした。この手回しの良さは事前に周到な話し合いが行われていたことをうかがわせる。
再開される「対話」での議題もすでに決まっている。まず、現在、マカオ経由で飛んでいる中台間のチャーター便を直行便にすること、それとこれまで台湾側が難色を示していた大陸の観光客を台湾側が受け入れること、この二点で合意が成立して、いずれも7月には実現するはこびと見られている。
この急進展は言うまでもなく、さる3月の台湾の総統選挙で国民党の馬英九候補が民進党候補を破って8年ぶりに政権を奪還したことによる。それにしても馬総統の就任式が今月20日で、それからまだ10日も経っていない。これには12日の四川大地震によって図らずも高まった両岸の同胞意識が与かって力があったのではなかろうか。そうとすれば6万を越える地震の犠牲者が台湾海峡両岸を引き寄せたといえない事もない。
中台間の「対話」は1993年にシンガポールでおこなわれた双方の窓口機関のトップ、汪道涵(大陸)、辜振甫(台湾)両氏の会談が最初であった。当時、私も駐在していた香港からこの取材に出かけた。なにしろ激しい内戦と長い対立の時期を経ての初「対話」ということで、双方の緊張振りと些細なことでも相手に点を稼がれないようにという神経の使い方は大変なものであった。
例えば、双方が向かいあって話すのでは、対等の会話と受け取られると大陸側が難色を示しているという話が伝わり、横に並んで座る案が検討されているとか、横では顔がよく見えないから「八の字」案が浮上したとかいった具合である。
蓋を開けてみれば何のことはない、そんな非常識な形ではなくて、双方向かい合っての普通の「対話」がおこなわれたのだが、この時の「共同協議」(共同コミュニケ)には双方の面子の張り合いをうかがわせる痕跡がくっきりと残っている。それはこの文書には、4月29日という日付はあるが年が書かれていないのである。だから後世の人がこの文書を見ても、何年のことだかわからないという奇妙な文書なのである。
その理由は極めて簡単。当時、というか今でもそうだが、大陸は西暦紀元の年号を使うのに対して、台湾は中華民国建国の1912年を元年とする中華民国暦を使っているからである。大陸側は中華民国暦を使うことは絶対に出来ないし、台湾側もれっきとした自前の公式年号があるのにそれを使わずに西暦などは使えない。そこでやむなく年号なし、日付のみという奇妙な公式文書が出来上がったという次第であった。
田畑光永 (ジャーナリスト)
台湾の政権党に復帰した国民党の呉伯雄主席は訪問中の北京で28日、中国共産党の胡錦濤総書記(国家主席)と会談し、1999年以来中断している中台対話を再開することで合意した。
これを受けて翌29日、大陸側の窓口機関「海峡両岸関係協会」が台湾側の同「海峡交流基金会」に書簡を送り、同基金会の江丙坤会長に6月11日から14日まで北京を訪れるよう招請したのに対し、同会長も即日これに応ずる旨を明らかにした。この手回しの良さは事前に周到な話し合いが行われていたことをうかがわせる。
再開される「対話」での議題もすでに決まっている。まず、現在、マカオ経由で飛んでいる中台間のチャーター便を直行便にすること、それとこれまで台湾側が難色を示していた大陸の観光客を台湾側が受け入れること、この二点で合意が成立して、いずれも7月には実現するはこびと見られている。
この急進展は言うまでもなく、さる3月の台湾の総統選挙で国民党の馬英九候補が民進党候補を破って8年ぶりに政権を奪還したことによる。それにしても馬総統の就任式が今月20日で、それからまだ10日も経っていない。これには12日の四川大地震によって図らずも高まった両岸の同胞意識が与かって力があったのではなかろうか。そうとすれば6万を越える地震の犠牲者が台湾海峡両岸を引き寄せたといえない事もない。
中台間の「対話」は1993年にシンガポールでおこなわれた双方の窓口機関のトップ、汪道涵(大陸)、辜振甫(台湾)両氏の会談が最初であった。当時、私も駐在していた香港からこの取材に出かけた。なにしろ激しい内戦と長い対立の時期を経ての初「対話」ということで、双方の緊張振りと些細なことでも相手に点を稼がれないようにという神経の使い方は大変なものであった。
例えば、双方が向かいあって話すのでは、対等の会話と受け取られると大陸側が難色を示しているという話が伝わり、横に並んで座る案が検討されているとか、横では顔がよく見えないから「八の字」案が浮上したとかいった具合である。
蓋を開けてみれば何のことはない、そんな非常識な形ではなくて、双方向かい合っての普通の「対話」がおこなわれたのだが、この時の「共同協議」(共同コミュニケ)には双方の面子の張り合いをうかがわせる痕跡がくっきりと残っている。それはこの文書には、4月29日という日付はあるが年が書かれていないのである。だから後世の人がこの文書を見ても、何年のことだかわからないという奇妙な文書なのである。
その理由は極めて簡単。当時、というか今でもそうだが、大陸は西暦紀元の年号を使うのに対して、台湾は中華民国建国の1912年を元年とする中華民国暦を使っているからである。大陸側は中華民国暦を使うことは絶対に出来ないし、台湾側もれっきとした自前の公式年号があるのにそれを使わずに西暦などは使えない。そこでやむなく年号なし、日付のみという奇妙な公式文書が出来上がったという次第であった。
2008.05.27
中国「新左派」はラサ3・14をどうみるか
― チベット高原の一隅にて(17)―
中国に「新左派」と呼ばれる一群の知識人がいます。彼らは毛沢東思想をかかげ、市場経済化を促進する現路線を新自由主義として異議を唱えます。政権の直接批判は避けながらも、鋭い分析、説得的な論考が行われることもあります。
聖火リレーへの妨害などで若者の愛国主義が高揚すると、その国粋主義によっておおいに支援しました。胡錦濤国家主席の訪日については、党中央がメディアをとおして日中新時代を宣伝したためか沈黙しました。
毛沢東後半生の過ちを無視し、文化大革命と人民公社をなつかしむ人が多いので、「新左派」というよりは「復古派」のほうが適切かもしれません。
ところで、この異議申し立て派はチベット問題についてはどんな独自の意見を持っているか。「新左派」の多いユートピアネット(「烏有之郷」http://www.chinareform.net/)から特徴的な議論を拾ってみます。
秦戈先生は早くも事件の2日後、「ラサ暴乱の後でいくつかの反省」(3月16日)で、だれがこの事件起こしたかを論じでいます。彼は、ダライ=ラマの黒幕でコソボの独立を画策した分離主義の連中が犯人だとします。
コソボの独立は「人権は主権より尊い」という西側論理の成功例だ。西側の民主は人を認めて理を認めないし、焼殺略奪する連中を「自由民主」の化身とし警察が犯罪を制止すれば民主を鎮圧したという、と西側世論を批難します。
だから中共中央は、西側が「(暴乱を)我慢しろ」とか「チベット文化を保護しろ」とか騒ぎたてるのにかまうことはない。中国の政策は人民の福祉と国家利益を着眼点とすべきだ。オリンピックをやるのは大変だが、国家の尊厳と比べればやらなくてもたいしたことはない。今回、「蔵独」(チベット独立派)の要求を少しでも受入れるところがあれば、「台独」(台湾独立派)だの「疆独」(新疆独立派)だのは調子づく、と中央を激励したり牽制したりします。
そして「多民族文化、共存、融合発展」の旗を大いに掲げるべきだ。「辺境移民」の国策を執行し、無制限に人口を移動させ、辺境を建設し、地域格差を消滅せよ。各族人民を一視同仁の「国民待遇」とし、胡耀邦のやった少数民族のご機嫌とり政策を取消し、各民族混住の割合を増大させるべきだといいます。
いまや内モンゴルは80%は漢人で、新疆もウイグル人よりは漢人のほうが多いので、残るはチベットです。「一視同仁の果て」に何が来たか、われわれ日本人はアイヌや琉球、朝鮮、台湾の経験があるのでこの議論には寒々としたものを感じます。
阿部治平 (中国青海省在住、日本語教師)
中国に「新左派」と呼ばれる一群の知識人がいます。彼らは毛沢東思想をかかげ、市場経済化を促進する現路線を新自由主義として異議を唱えます。政権の直接批判は避けながらも、鋭い分析、説得的な論考が行われることもあります。
聖火リレーへの妨害などで若者の愛国主義が高揚すると、その国粋主義によっておおいに支援しました。胡錦濤国家主席の訪日については、党中央がメディアをとおして日中新時代を宣伝したためか沈黙しました。
毛沢東後半生の過ちを無視し、文化大革命と人民公社をなつかしむ人が多いので、「新左派」というよりは「復古派」のほうが適切かもしれません。
ところで、この異議申し立て派はチベット問題についてはどんな独自の意見を持っているか。「新左派」の多いユートピアネット(「烏有之郷」http://www.chinareform.net/)から特徴的な議論を拾ってみます。
秦戈先生は早くも事件の2日後、「ラサ暴乱の後でいくつかの反省」(3月16日)で、だれがこの事件起こしたかを論じでいます。彼は、ダライ=ラマの黒幕でコソボの独立を画策した分離主義の連中が犯人だとします。
コソボの独立は「人権は主権より尊い」という西側論理の成功例だ。西側の民主は人を認めて理を認めないし、焼殺略奪する連中を「自由民主」の化身とし警察が犯罪を制止すれば民主を鎮圧したという、と西側世論を批難します。
だから中共中央は、西側が「(暴乱を)我慢しろ」とか「チベット文化を保護しろ」とか騒ぎたてるのにかまうことはない。中国の政策は人民の福祉と国家利益を着眼点とすべきだ。オリンピックをやるのは大変だが、国家の尊厳と比べればやらなくてもたいしたことはない。今回、「蔵独」(チベット独立派)の要求を少しでも受入れるところがあれば、「台独」(台湾独立派)だの「疆独」(新疆独立派)だのは調子づく、と中央を激励したり牽制したりします。
そして「多民族文化、共存、融合発展」の旗を大いに掲げるべきだ。「辺境移民」の国策を執行し、無制限に人口を移動させ、辺境を建設し、地域格差を消滅せよ。各族人民を一視同仁の「国民待遇」とし、胡耀邦のやった少数民族のご機嫌とり政策を取消し、各民族混住の割合を増大させるべきだといいます。
いまや内モンゴルは80%は漢人で、新疆もウイグル人よりは漢人のほうが多いので、残るはチベットです。「一視同仁の果て」に何が来たか、われわれ日本人はアイヌや琉球、朝鮮、台湾の経験があるのでこの議論には寒々としたものを感じます。











