2019.03.13 私が会った忘れ得ぬ人々(6)
上野千鶴子さん ――私は育ちが悪いの
           
横田 喬 (作家)

 初対面は今から丁度三十年前の平成元年(一九八九)のこと。彼女は当時四十一歳、フェミニズム(女性解放論)切っての論客として売り出し中。富山県出身で京大文学部大学院修了。社会学・文化人類学・記号学などを専攻し、肩書は京都精華大助教授。若くして著書には『セクシーギャルの大研究』『資本制と家事労働』『構造主義の冒険』『女という快楽』『女遊び』などの話題作が数々あった。
 昼下がりにJR京都駅からほど近い寿司屋で落ち合い、寿司をつまみ生ビールのジョッキを傾けながら、しばらくやりとりを交わした。私の一番の関心は、保守的な風土の北陸に育ちながら、なぜ女性解放の旗手と仰がれる先鋭的な存在になったのか、という一点。彼女の説明はすこぶる明快で、なるほどなあと合点がいった。

 彼女は富山市内の開業医の家に生まれ、兄と弟との三人きょうだいの真ん中の独り娘。両親とりわけ父親に溺愛され、大事な箱入り娘として育つ。いわく、
 ――父は、女の子が自転車に乗るのは危ない、と練習をさせなかったほど。私は、自分を抑えることをしないで、ちやほや甘やかされて大きくなった。分をわきまえる育ちにならなかったのね。だから、自分の頭を抑えにかかってくるものにはガマンならない。自分では「私は育ちが悪い」と言ってるの。

 当時の彼女は、①挑発には乗る②売られたケンカは買う③ノリかかった舟からはオリない、を処世三原則として掲げていた。ケンカっ早く、かつケンカ上手で、この取材の直前には、作家・曽野綾子との論争が話題を呼んだ。
 曽野の上野批判(『新潮45』一九八九年九月号の「夜明けの新聞の匂い」)は、例えばフェミニズム批判として、
 ――私は昔から、いわゆるフェミニズム運動が嫌いである。
 ――昔からほんとうの実力ある女は、黙って働いて来た。戦前でも、だれも海女や行商のおばさんや電話の交換手さんのことをばかにしたり、彼女らはいなくていい存在だなどと思った人はいない。

 一方、上野による反批判(『月刊Asahi』’89年11月号の「女による女叩きが始まった」)はこうだ。
 ――「ほんとうの実力ある女は、黙って働いてきた」という言い方で、曽野さんは、私は実力があるから発揮してきた、実力を発揮できないあなたはしょせんバカなのよ、と言い放っていることになるのだ。 
 ――エリートの女はあまりにプライドが高いために、個人の問題を類の問題に結びつけることができない。その結果、彼女たちは強者の論理を身につけ、弱者への想像力を失ってしまう。エリート女のエリート主義は困りものだ、と自戒をこめて言っておこう。

 そして、フェミニズムは社会的弱者の運動であること、女が「実力を身につける」のに様々な構造的な障害があることが問題なのであり、その構造的な障害をなくそうというのがフェミニズム運動であることを諄々と説く。
 思うに、当時の曽野には上野に対する「上から目線」があったのではないか。カトリック作家として社会的栄光を手にする我が身と、京都の一私大の助教授ふぜいの論敵。少々たしなめてくれよう、と見くびる気持ちがなくはなかったか。だが、鋭利な頭脳と的確な言語表現力で勝負あり、私は上野の完勝と判定する。

 それから五年後の平成六年、思わぬ形で彼女との再会がかなう。都内で開かれた歴史家・色川大吉さんの新著出版記念パーティの席だった。色川さんは六〇年安保闘争へ参加~「底辺の視座」に立つ民衆史を研究し、行動する学者として私が深く尊敬する人物の一人だ。
 色川さんから祝辞のスピーチを述べるよう急に指名され、事前に用意のない私はへども
どしながらも務めをなんとかこなした。一息ついて辺りを見回すうち、参会者の中に上野さんが居るのに気づいた。あでやかな和服姿だったように記憶する。私は彼女に近づき、「一別来です」と祝杯のおかげもあって軽口をたたいた。彼女は私のことをちゃんと覚えていて、少々はにかんだような笑顔と言葉を返した。

 初対面のころ、上野さんは『朝日新聞』に「ミッドナイト・コール」と題するエッセイを連載していた。「かさばらない男」と題するその一編に、色川さんがこう紹介されている。
 ――「好きな男性は?」と聞かれて、わたしはすかさず「色川大吉さん」と答えてしまった。(中略)色川さんは小柄で風采のあがらない初老の歴史学者(ゴメンなさい)。見てくれはおしゃれでもなければ、カッコよくもない。このひとは、笑顔がすばらしい。相手の心の中を見透かすような哀しい眼をして、くしゃくしゃと笑み崩れる。
 そして、色川さんは旧制高校山岳部仕込みの山スキーが得意で、スキューバダイビングもやるし、ヒマラヤ登山もする体力は驚嘆に値すること。わたしは色川さんと講演旅行でオーストラリア各地をレンタカーで一千㌔も相乗りをした仲であること。等々を書き添え、「かさばらない」えがたい存在にして、「筋金入りのモラリスト」と敬意を示す。

 私は言いえて妙、と共感した。彼女の連載エッセイは着眼点・文章表現ともなかなか秀逸で、その才能には時として羨望や嫉妬めく思いさえ感じたことも正直に白状しておく。
 彼女はこの再会の前年に東大文学部助教授に迎えられ、二年後には教授に昇進する。彼女は初対面の折、大学の進学先を京大にしたことを「大当たりだった」と自認し、こう言った。
 ――関西は本音の文化だから、口先で何を言ってもビクともしない。東京人のように建前に捉われないから、カッコつけてもの言ってもダメ。しっかり鍛えられたのでよかった。
 上野さんは還暦目前の二〇〇七年、著書『おひとりさまの老後』がベストセラーになる。
独居老人をめぐる諸問題は、彼女自身の身の上とも重なる切実なテーマだったのだ。そして、四年後には五百頁もある大著『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会』を著す。

 日本の老人介護(ケア)の現状を多角的・網羅的に考察。ケアを介護の担い手別に「国家」「市場」「市民社会」「家族」の四つに分類し、それぞれと照合する官・民・協・私の四セクターの現状を吟味する。そのベストミックスこそが「望ましいケア」へのカギと論じ、中でも「共助」に通ずる協セクターこそが枢要な位置を占める、と説く。
 近代には「家族」「市場」「国家」の三点セットが万能視されたが、二十一世紀ではこの近代トリオが限界に達し、第四のアクター「市民社会」こと協セクターに期待がかかる。新しい共同性、すなわち自助でも公助でもない共助の仕組みの考案である。

 協セクターへの追い風はNPO法と介護保険法の成立だ。首都圏や九州の生活クラブ系生協ではワーカーズコレクティブの活動が「食べもの生協」から「福祉生協」への事業拡大と転換を実現。生協以外でも、厚労省指定のモデル事業となった富山県のNPO法人「この指とーまれ」の小規模多機能型居宅介護の成功例もある。希望がないわけでは決してない。
 この著作は机上の理論研究より現場調査の分析考察に重きをおき、介護保険法の成立~実施にからむ八年に及ぶ全国の事例調査・研究の成果がぎっしり詰まっている。まさに「ケア学大全」と呼ぶにふさわしい労作だ。京大出身の彼女の東大招聘は正解だった、と感じる。
2019.03.12 「脱・香害」めざす動きが各地で始まっている
シリーズ「香害」第9回

岡田幹治 (フリーライター)

 「香害」が依然として深刻な一方で、「脱・香害」をめざす動きが、少しずつだが始まっている。きれいな空気の大切さを説く絵本を学校に贈った労働組合、公共施設の一部を被害者に配慮したものにする熊本市などだ。各地で始まった動きを報告しよう。
 「香害」は、香りつき商品の成分で健康被害を受ける人たちが急増している「新しい公害」のこと。これに対して、被害者を助けたり、減らしたりするのが「脱・香害」だ。

◆職員組合が絵本を小中学校に贈った
 今年1月、札幌市のいくつかの小学校や児童館で、『みんなでつくろう空気のきれいな教室を』という絵本の読み聞かせが行われた。
 絵本はこんなストーリーだ。化学物質過敏症(CS)の友だちが登校できなくなり、その原因が「いい香りの柔軟剤やシャンプー」であることを学んだ同級生たちが、相談して使用をやめた。その結果、教室の空気がきれいになり、CSの友だちは安心して登校でき、みんなの頭もスッキリするようになった。
 読み聞かせた後、先生が「いろんな障害を持つ子がいるんだよ」と話すと、うなずく子どもたち。香りつき文房具が大好きな子は「好きなものを学校に持っていくと、困る子がいるんだね」と親に話したという。
 この絵本を企画・製作し、札幌市内のすべての小中学校と児童館・図書館に贈ったのは、自治労札幌市役所職員組合だ。CS患者で2児の母でもある組合員が執筆し、同僚が絵を描いた。
 同職員組合(注1)に申し込めば、1冊700円+送料で送ってくれる。
 CS関連の絵本では、『転校生は“かがくぶっしつかびんしょう”』が今年1月、「絵本ひろば」という無料のサイトで公開された(4月ごろ出版されることになり、いまは無料サイトでは見られない)。
 描いたのは「文:たけなみ、絵:よしの」という創作ユニット「松岡おまかせ」(ペンネーム)だ。たけなみさんは一昨年、職場の同僚たちのタバコや柔軟剤が原因でCSになり、休職から退職に追い込まれた。よしのさんとのコンビで以前からコミックなどを描いており、退職後、CSについての作品を発表している。
 昨年10月に出版したブックレット『ある日とつぜん化学物質過敏症』は、自身の発症までの経過をコミカルに描いたもの。NPO法人CS支援センターの広田しのぶ代表理事が「深刻なはずなのに、ユーモアがある。CS発症者が自分のことを身近な人たちに打ち明け、対応を求めるのはなかなか難しいが、そのツールになる」と判断し、同センターが委託販売を引き受けた。同センターに申し込めば1冊300円で販売してくれる(注2)。
 愛知県の患者団体・化学物質過敏症あいちReの会の藤井淑枝代表は「堅苦しい文章やスローガンでは、子ども・学生・子育て世代などに届かない。多くの人に関心をもってもらうには、さまざまな表現や発信方法を用いるのが有効だ」という。
 クラウドファンディングで資金を集めて絵本を買い上げ、各地の学校に贈ってはどうだろうか。
注1 FAX=011-251-3395、
メール=kikakuアットマークsapporocity-union.org
注2 FAX 045-222-0686

◆被害者に配慮した公共施設を建設
 熊本地震からの復興機運を高める事業の一つとして、熊本市中心部で建設が進む「桜町再開発ビル」。その一角にできる「熊本城ホール」という公共施設の一部がCS発症者に配慮したものになる。
 きっかけは、熊本県の患者団体「くまもとCSの会」が一昨年、他の団体と連名で「公共施設における空気の質への提案」を提出し、健康に影響のある成分を放出する建材はできるだけ使用しないよう要望したこと。これを熊本市などが前向きに受け止め、多機能トイレ・授乳室・会議室一室などの内装材を自然素材などにすることになった。
 くまもとCSの会は「床のビニールクロス張りを改めてほしい」「接着剤は有害化学物質の放散量ができるだけ少ないものに」などと具体的な注文を出した。
 9月に完成すれば、おそらく全国で初めての「CS発症者に配慮した公共施設」になる。
 4月で施行から3年になる「障害者差別解消法」は、国・自治体や会社・商店に対し、障害のある人(CS発症者も含まれる)から、社会的なバリアを取り除くよう求められたときは、負担が重すぎない範囲で対応しなければならないと定めている(会社・商店は努力義務)。「合理的配慮」と呼ばれるものだ。
 「熊本城ホール」は公共施設の建設にその考えを取り入れた例だが、合理的配慮を徹底した集会も開かれるようになった。
 たとえば、東京都小金井市の市民がつくる自主講座「香害 そのニオイから身を守るには」だ。この講座は「CSのことを多くの市民に知ってほしい」という市内の発症者の思いを受けて、田頭祐子市議会議員らが企画した。
 「香害って何?」(講師・岡田幹治)、「相談現場の声」(講師・広田しのぶCS支援センター代表理事)、「私も困ってます」(講師・高柳久子せっけんビレッジ代表)という3週連続の講座だ。
 CSの人たちも安心して参加できる会場にしたいと選んだのが、公民館緑分館の家事実習室だ。岡田が講師を務めた1月31日は寒さの厳しい朝だったが、会場は換気扇がフル稼働し、窓は開け放たれた。参加者はコートを着たまま2時間、解説に聴き入り、話し合った。

◆日本医師会が香害を認知
 昨年10月、日本医師会は日医ニュース「健康プラザ」で「香料による新しい健康被害」を取り上げた。「健康プラザ」は会員向けの情報紙であり、ポスターとして病院やクリニックに掲示されることが多いから、目にした方もいるに違いない。
 今回のプラザは、CSに詳しい渡辺一彦医師(札幌市の渡辺一彦小児科医院院長)の指導で作成された。柔軟剤などの「香りつき製品」が大量に使われ、その成分によってCSなどを発症する人が増えていることなどが説明されている。
 全国の医師の7割が加入する団体が「香害」を認知したわけだ。
 国内の多くの医師はCSに無理解・無関心だ。CSの疑いが濃い人が受診しても「当科の扱う病気ではない」として、精神科の受診などを勧める医師が少なくない。「今回の掲載を機に、全国の医師や通院する一般の患者に、正しい理解が広まってほしい」と渡辺医師は言っている。
 強い香りを医療施設からなくそうとする動きも出てきた。たとえば東京女子医科大学八千代医療センター(千葉県八千代市)のエレベーターには、「ご面会される方へのお願い」として次のような掲示が張られている。
 「診察上、支障をきたす場合がありますので、香水や芳香剤入り柔軟剤など香りの強いものの使用はお控えください」。
 CSに苦しむ大学生が、CSをテーマに書いた卒業論文も生まれている。宇都宮大学国際学部国際社会学科の佐藤春菜さんの『現代の生活環境病を取り巻く社会認識と課題~化学物質過敏症を事例に~』である。
 佐藤さんは大学在学中にCSを発症し、家族と大学の協力を得て学業を続けてきた。その病に正面から向き合ったのだ。
 論文は、A4版144ページ、約14万字の力作。前半で関係文献を読み解き、後半では発症者や支援者からの聞き取りとアンケートで、現代社会では見えにくい発症者の苦しみなどを詳述した。聞き手が当事者だったからこそ、聞くことができた内容もあるのではないかという。
 終章で佐藤さんは、発症者のために行なう合理的配慮は、発症者だけでなく、健康を求めるすべての人にとっても有意義なものだと述べている。
 彼女の問題提起に基づき、宇都宮大学は1月21日に公開シンポジウム「環境化学物質のリスクに向き合う~医学的見地からの提言を受けて」を開いた。参加したCS患者からは「勇気づけられた」などの言葉が寄せられたという。
 各地で始まった動きが積み重なり、社会が「脱・香害」へ向かっていく。
2019.03.11 京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(4)
食堂棟落書き事件によって世論は一気に離反した

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 改装なったばかりの真新しい建物がある日突然一面の落書きによって汚されたとしたら、社会はいったいどう反応するだろうか。普通の市民なら器物損壊罪で落書きした当人を訴えるのが自然だろう。誰がやったのかわからなくとも
氏名不詳で訴えることができる。建物の所有者が誰であれ、落書きは明白な財産権の侵害なのだ。

 補修工事が完了し、オープンしたばかりの吉田寮食堂棟の内壁が一部の心無い寮生の落書きによって汚されたことは衝撃的な事件だった。年来、大学側と寮自治会の間で続けられてきた補修に関する合意が漸く成立し、大掛かりな補修工事が完了した矢先、食堂棟の真新しい壁一面が毒々しい落書きで汚されたのである。これは、明らかに公共建築物の破壊行為(バンダリズム)であり、反社会的行為である。その結果、これまで寮自治会との交渉を通して問題解決に努力してきた大学部局は学内強硬派の批判にさらされて孤立し、担当副学長が辞任に追い込まれることになった。

 2015年11月、代わって登場したのは大学側の意向を(交渉抜きに)寮生側に呑ませようとする強硬派を代表する副学長である。それ以降、寮自治会との話し合いは一方的に打ち切られ、2年後の2017年12月、教授会や部局長会議での議論の積み上げもなく、僅かばかりの役員会(総長及びそれを補佐する少数理事)で全寮生の退去を求める「吉田寮生の安全確保についての基本方針」が決定された。本来であれば、このような一方的な決定に対しては学内から多くの抗議の声が上がるはずであるが、食堂棟の落書き事件によって学内世論の信頼を失った寮自治会に対しては同情の声さえ上がらなかった。原因はいったいどこにあるのだろうか。

 私が大学の建築学科で学んできことは、建築に対する〝リスペクト〟である。新しい建築を設計することは楽しいが、それ以上に古い建物を補修して維持することが大切さだと教えられてきた。建築史の講義では、日本の古建築が関係者の血のにじむような努力によって守られてきたことを知って感激した。だから、建物を傷つけたり、壁に落書きするようなことなど思いもよらなかったし、そうした反社会的行為から建物を守ることが建築専門家の役割だと固く信じてきたのである。

 ところがこともあろうに、信じられないような反社会的行為が一部の寮生によって引き起こされた。私は、昨年9月に行われた「市民と考える吉田寮再生100年プロジェクト」(後述)の審査会の席上で、「吉田寮食堂に落書きすることは法隆寺の壁に落書きするのと同じことだ。万死に値する行為だ」と批判した。事実、吉田寮はこのことを切っ掛けに学内はもとより市民からも厳しい批判を受け、社会的に孤立するようになったのである。

 悲しいことに、当時の吉田寮にはこのような問題意識を持つ寮生が余りにも少なかった(いたとしても発言できなかった)。結局のところ自己批判もなければ原因究明への動きもないままに落書きは放置され、今も当時の無残な姿をさらし続けている。しかし、落書きを積極的に肯定しないまでも否定しない(むしろ許容する)このような状態は、やはり時代の流れとともに生まれてきたものであろう。大学の権威主義を批判する学生運動では、タテカンだけではなく建物の壁が至る所でスローガンの掲示板として用いられた。大学封鎖のバリケードには教室や研究室の家具が所構わず持ちだされ、乱暴に積み上げられて破壊された。全てが建築への〝リスペクト〟を否定する行為だったのだが、それに気づいた人は当時それほど多くはなかったのである。

 落書きはまた、当時の世界の若者たちに共通する「グラフィティ文化」という社会背景も有していた。私がニューヨーク・マンハッタンの研究所でスラム研究をしていた1970年代は、アメリカではグラフィティ文化の最盛期だった。マンハッタン島の家賃は恐ろしく高いので海峡を隔てたクイーンズから地下鉄通勤をしていたが、その電車は全身落書き(グラフィティ)で覆われていた。地上に出れば車窓に映る建物という建物は悉く落書き(グラフィティ)のカンバスと化していた。既存の権威を象徴する建物が全て落書き(グラフィティ)の標的となり、やがてはそれらが普通の建物にも広がっていった。下町全体が落書き(グラフィティ)で覆われるようになっていったのである。

 しかし、時代は大きく変わり、今では下町のスラムでも落書き(グラフィティ)はもうほとんど見られなくなった。人々の環境への関心が高まり、荒んだ空気が和らぐにつれて落書き(グラフィティ)は次第に姿を消し、代わって「アメニティ」がまちづくりのキーワードになった。コミュニティの主張や個性が建築や植栽のデザインで表現され、公共広場のマネジメントなどを通してアピールされる時代になったのである。

 ソーシャルネットワークサービスの普及の影響も大きかった。人々のコミュニケーションがソーシャルネットワークを通して飛躍的に拡大するにつれて、反権力の表現手段の一つでもあった落書き(グラフィティ)が効力を失っていった。私たち「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」は、こうした時代の変化を踏まえて新しい方針を提起した。それが「市民と考える吉田寮再生100年プロジェクト」だったのである。(つづく)
2019.03.10 ■短信■
2019年キューバ友好フォーラム
「革命から60年、キューバ 新時代へ」


 2019年は、キューバにとって画期的な年になります。その理由は、まず、革命から60年という記念すべき年にあたるからです。第2の理由は新しい憲法が公布される年だからです。
 国会で発議された新憲法草案は国民的な討議に付され、今年2月24日の国民投票で圧倒的多数の賛成で承認されました。これに伴い、新憲法は4月19日に公布されます。キューバで憲法が制定されたのは1976年ですが、今度の新憲法はそれを全面的に改正したものです。したがって、キューバは文字通り「新時代」を迎えることになります。
 これに先立ち、昨年2月には革命を知らない世代のミゲル・ディアスカネル氏が国家評議会議長(元首)に就任しています。加えて、2015年に米国と54年ぶりに国交を回復したこともあってキューバは急速に大きく変貌しつつあります。
 フォーラムでは、駐日キューバ大使館のクラウディオ・モンソンさんに新憲法について解説していただき、さらに、この1年間キューバに滞在した早稲田大学の岩村健二郎さんにこの国の最新事情を語っていただきます。

■日時:3月23日(土)13:30~16:30 開場13:00

■会場:日本記者クラブ大会議室(TEL 03-3503-2721)
 東京都千代田区内幸町2-2-1 日本プレスセンター9階
東京メトロ千代田線・日比谷線「霞ヶ関駅」C出口、丸ノ内線「霞ヶ関駅」B2出口、  都営三田線「内幸町駅」A7出口、JR「新橋駅」日比谷口(SL広場側出口)

■講演1 「キューバ憲法改正のプロセス」 駐日キューバ大使館二等書記官 クラウディオ・モンソンさん

■講演2 「キューバに住んで日本の銀行口座が凍結された話」 早稲田大学法学学術院准教授 岩村健二郎さん

■参加費:1000円(会員500円)  事前申し込みは必要ありません

■主催:キューバ友好円卓会議
 TEL・FAX 03-3415-9292 e-mail:cuba.entaku.0803@gmail.com
(岩)
2019.03.09 京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(3)、
建築家の努力によって吉田寮食堂棟が京都大学最古の建築物であることが明らかになった
            
広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 今から振り返ってみると、大学側にはどうやら吉田寮の保存計画などまったく眼中になかったようだ。1997年から2001年にかけて発行された『京都大学百年史』全8冊の中で、大学キャンパス内の建築物について触れているのは『総説編』(第8章、京都大学キャンパスと建築の百年)であるが、各年代の本部、教室、実験室、図書館、病院などが詳しく取り上げられているのに対して、吉田寮に関する記述はほとんど皆無と言ってよい。勿論、学内の歴史的建造物のリストの中にも入っていない。

 これは主として、第8章を担当した高橋康夫氏(建築学科教授、建築史)の執筆方針に基づくものであろうが、記述内容は全て各学部委員から成る編集委員会の総合的な検討を経ている以上、大学全体の価値観を反映していると言っても間違いないだろう。つまり、吉田寮は京都大学百年の歴史の中でもさほど重要な建築物とは位置づけられず、歴史的建造物として保存計画の対象にもなっていなかったのである。だから、学生部が学生厚生施設である老朽寄宿舎を新しく建て替えて近代化しようと考えても何ら不思議ではなく、むしろ当然の成り行きと言えた。2009年4月には大学側から「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」が出され、食堂棟を取り壊して隣接地も含めた新棟(居住棟)の建設プランが提案された。

 それでは、取り壊される予定だった食堂棟とはいったいどんな建物なのか。吉田寮には北寮・中寮・南陵の3居住棟の他にこれらを繋ぐ管理棟と食堂棟がある。食堂は寮生がこれまで長期間にわたり調理人を雇って自主運営していたが、給料の支払いなどで運営が苦しいことから調理人の公務員化が課題となり、一時は大学が臨時職員として採用したこともあったと聞く。しかし、1986年以降は調理人が配置転換されていなくなり食事が出されなくなった。それでも食堂棟は、広い空間を活用して吉田寮生によるイベントのほか、寮外生にも開かれた演劇や音楽活動などの場としてその後も使用されてきた。

 大学側から食堂棟の取り壊し計画が明るみに出るに及んで、寮生たちの間には一気に警戒感が広がった。どのような切っ掛けで始まったのかは詳しく知らないが、民間設計事務所を主催する建築家・山根芳洋氏の協力で2012年2月に食堂棟の実測調査が実施され、食堂棟は1889(明治22)年に第三高等中学校寄宿舎の食堂として建設された建物が、1913(大正2)に吉田寮竣工に合わせて吉田寮の西隣に移築されて吉田寮食堂になったことが判明した。

 事態が大きく動いたのは、その直後の2012年4月のことである。大学側が新棟建設と食堂棟の取り壊しを決定し、これらに関する交渉を行わないことを自治会に通告した。しかし「吉田寮食堂取り壊しに関する説明会」に参加した多くの寮生たちの間から食堂棟補修の要求の声が再度上がり、食堂棟以外の吉田寮全体についても補修を求める声が大きくなった。注目されるのは、食堂棟の実測調査の結果が明らかになる中で大学側の態度が変化し、決定通告をいったん撤回した上で新棟および食堂棟の処遇については自治会と大学当局との間で継続協議することになったことである。

 事態はその後さらに大きく展開する。同年7月に行われた交渉では大学側が食堂棟の補修を認め、補修の大まかな方向性や確約案の検討を経て、9月に新棟建設・食堂棟補修などを合意した確約書が両者の間で締結された。その後、自治会と学生課及び担当副学長との間で補修についての協議が始まり、2014年4月から補修工事が着工され、2015年3月に竣工した。大きな間取りの変化はないが、腐朽した木材の入替、基礎の交換、耐震壁の導入などにより耐震性が向上したほか、ガス・水道・電気設備などが改修されたのである。

 大学側と寮自治会の間で食堂棟の補修に関する合意が成立し、大掛かりな補修工事が行われたことは、吉田寮の歴史上画期的な出来事だった。だが、これらの補修工事は、大学当局と自治会の話し合いだけで実現したのではない。困難な合意が成立し補修工事が実施された背景には、建築家・山根芳洋氏をはじめとする幾多の人々の努力があり、これを評価する大学内部関係者からの有形無形の支援があったことを忘れるわけにはいかない。山根氏の調査によって、食堂棟が旧制三高寄宿舎の食堂棟を吉田寮現棟の竣工に併せて移築されたものであり、京都大学最古の建築物であることを判明したからである。

 これを契機にして、吉田寮を明治・大正時代の歴史的建築資産と評価する声が建築専門家たちの中でも大きく広がっていった。2015年5月、日本建築学会近畿支部は京大の山極壽一総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出し、同年11月には建築史学会が吉田寮現棟の保存活用を求める要望書を送付した。寮生たちがこれらの世論状況を積極的に受け止め、吉田寮の補修工事実現に向かって努力を重ねていれば、国立大学の歴史上前例のない成果を挙げることができたであろう。だが、このような社会の期待は、一部の心無い寮生の行為によって無残にも打ち砕かれた。それは、竣工後間もない食堂棟の内壁が見るに堪えない落書きによって汚されるという事件が発生したからである。(つづく)


2019.03.08 メリルリンチへの惜別
―私的金融史の一コマ―

半澤健市 (元金融機関勤務)

《ウォール街・1974年春》
 近くメリルリンチの名前が消えるという報道を見た。
メリルリンチは米国の証券会社である。「リーマン金融不況」時に、大手銀行「バンク・オブ・アメリカ」の傘下に入り、2009年1月に、「バンクオブアメリカ・メリルリンチ」となった。それが「BofAセキュリティーズ」になるのである。私にはメリルリンチに小さな関わりがある。曖昧な記憶を辿って金融史の一コマとして記録しておきたい。

1974年春に私は、メリルリンチのニューヨーク研修センターにいた。
同社の新入社員研修コースにゲストとして参加したのである。
その頃、私はS銀行・K銀行・N證券の3社が設立した信託銀行で、個人富裕層の株式ポートフォリオを運用、管理する仕事をしていた。「投資顧問業務」(商品名は「投資管理室会員」)である。
証券会社の営業が、売買手数料稼ぎに傾斜するのに対して、我々は預かり資産の価値増減に応じた管理手数料を受ける。この仕組みが、売り手買い手の双方に合理的である。これがウリであった。勿論、課題もあった。今でこそ銀行が市場商品を扱うが、株式投資を商品とすることは、銀行は固定利率商品しか売らないと思う人―信託銀行の経営者を含む―には、行儀の悪い、リスキーな仕事だと見られていた。今でも銀行が売った投信で損をしたというトラブルが起こっている。

《メリル日本営業の前哨戦》
 しかし、時代は高度成長の始点たる1960年から10年余を経ていた。過剰流動性相場も、第1次オイルショックも経験している。個人資産も成長してきたことを仕事の上でも私は実感していた。米国では60年代に機関化現象―市場参加者と株式所有が機関投資家に集中すること―が進んでいるという情報が伝わってきた。外国の金融機関が増大する日本資産を狙うのは当然である。メリルリンチは、72年に外国証券として初の東京支店を開設した。営業の前哨戦として彼らは、当局と市場関係者に、米国市場の啓蒙とPRに注力した。私のいた職場にも、メリルリンチの日系カナダ人M氏が米国市場を紹介したいと週一ベースで来社した。英語の勉強にもなるといい、同僚何人かで会話に加わった。

メリルリンチの研修センターは、ウォール街に近い高層ビルの29階にあった。1クラス百数十名、午前9時から昼食を挟んで午後4時頃まで。期間は2ヶ月8週間にわたる。一度に何クラスの講義があったかは記憶がないが、相当数のクラスが間断なく行われていた。私はそう記憶している。地方からの受講者は、会社の指定したホテルに宿泊していた。私が個人で中期滞在したキッチン付きの「シェルバーン・マレイ」というホテルに彼らも大勢泊まっていた。

《熱心な研修を見ていたら》
 老若男女の受講生は長いカリキュラムを真面目に聴いていた。
なぜ長時間なのか。受講者は全員途中入社、年齢・性別・前職は様々、証券外務員(社内・業界の2種)の資格取得を要するという条件もある。今年、大学を出た者も勿論いる。一方で、子供が数人もいる高齢者もいる。昨日までIBMの技師やGMのセールスマンだった者がいる。経済、金融のイロハから教えなくてはならない。時間と手間がかかるのである。

どんなカリキュラムなのか。
ニューヨーク大学の経済学部教授が経済原論をやる。金融論もやる。勿論、証券市場や証取法をやる。と思えば、新規開拓の電話外交―cold callという―から、既得意先への電話のかけ方、個別銘柄の勧め方、売買成立伝票の書き方、ニューヨークの観光案内。NYCをよく知らない受講者もいるからである。つまり理論から些末な実務までであるのだ。

なぜ熱心なのか。
受講生は良く聴きよく質問した。仕事を変えて、しかも、就業に必要な試験に合格しなければならない。生活がかかっているのである。講義の進め方は、講師と生徒の掛け合い方式である。米国でMBAをとった仲間から、彼らの掛け合いは絶妙だと聞いていたが、こういうものかと思った。阿吽の呼吸である。日本の大学の今はどうなのだろうか。

《一回で終わらないメリルリンチ論》
 自分の感想を書いておく。
「新卒入社・終身雇用・年功序列」という日本式経営の特色―または奇怪さ―を痛感した。
私自身は日本的経営の崩壊開始時(95年)に退職したが、いまの日本企業はどうなっているのだろうか。
受講者の99%が、必死に勉強しているのを、私は気楽に見ていた。「ゲスト」で試験不要だったからである。外国人ゲストは4人いた。日本人は大手証券Dから1人、大手生保Nから1人、信託Tから私。スペインからの投信運用者1人であった。D証券勤務のS氏は試験を受けたかは聞かなかった。
講師の英語が分からなかった。大学の先生の発音は半分ほど分かったから話題と内容は推測がつく。講師によっては、タブロイド紙を手にしながら、タレントの話題などから始める。たとえば「日刊ゲンダイ」を手にプロ野球キャンプの話をするようなものである。こういう場合は俗語と話題の両方分からない。

メリルリンチのことは、もう一度書くことが残った。それはメリルが小売屋から卸屋へと変貌する話である。(2019/03/01)


2019.03.07 深刻化する「子どもの貧困」
日本生協連の調査でも明らかに

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 安倍政権は「アベノミクス」の成果を盛んに強調するが、アベノミクスが「子どもの貧困」を加速させていることが明らかになった。日本生活協同組合連合会(324生協加盟、全国の組合員数は2873万人)が昨年暮れに発表した「子どもの貧困支援に取り組む生協」についての調査結果だ。

 子どもの貧困への社会的関心が高まる中、日本生協連はこの問題を地域の問題としてとらえ、2015年度から、貧困に直面している子どもたちを支援する活動を続けている。具体的には「フードバンクまたはフードドライブ」、「子ども食堂」、「学習支援」といった活動だ。

「フードバンク」とは、食品を取り扱う企業から、製造・流通過程などで出る余剰食品や規格外商品、店舗で売れ残った賞味期限・消費期限内の食品などの寄付を受け、無償で必要な人や団体に提供する活動である。「フードドライブ」とは、家庭で余っている食品を持ち寄り、福祉団体や施設、フードバンクなどに提供する活動のこと。「子ども食堂」とは空腹であったり、1人で食事をしている子どもたちに、無料または低額で食事を提供する取り組みをいう。「学習支援」は、貧困家庭の子どもたちの勉強を支援する活動だ。
 日本生協連によれば、生協によるこうした活動は生協単独で行うというよりは他の団体、例えばNPO法人やJA(農業協同組合)と連携して行う事例が多いという。

 日本生協連が昨年実施した「子どもの貧困支援に取り組む生協」についての調査は、日本生協連が約130の地域生協に対し2017年度の取り組みについて聞き取りをするという形で行われた。90の地域生協から回答があり、うち54生協が具体的な取り組みを挙げた。
 その内訳は「フードバンクまたはフードドライブ」44生協、「子ども食堂」30生協、「学習支援」14生協だった。合計が54を上回ったのは複数回答があったためだ。

 調査結果は、この3年間の変化も紹介している。それによると、これらの活動に取り組む生協が以下のように年々増加しているという。
◆フードバンクまたはフードドライブ=15(2015年度)→35(2016年度)→44(2017年度)
◆子ども食堂=12(2015年度)→26(2016年度)→30(2017年度)
◆学習支援=5(2015年度)→13(2016年度)→14(2017年度)

 子どもの貧困支援活動に取り組む地域生協が年々増えている。ということは、地域で貧困家庭の子どもが年々増えているということに他ならない。
 この原因について日本生協連の調査はコメントしていないが、原因はもはや明らかだ。つまり、アベノミクスは富裕層を生み出したが、その一方で、国民の間に経済的格差をもたらした。とりわけ、非正規労働者の増加は、低所得世帯の増加をもたらし、中でも母子家庭を苦境に追い込んだ。フードバンクや子ども食堂が支援の手を差し伸べなければならない子どもたちが増えてきたのも当然と言っていいだろう。



2019.03.06 文在寅大統領演説(全文)  (3.1独立運動100周年記念式)
       「韓国通信NO593」
             
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 3月1日にソウルで行われた3.1運動100周年記念式で行った文大統領演説の全文を翻訳した。ヴェトナムのハノイで開かれた米朝首脳会談が不調に終わった翌日、日韓関係が悪化するなか、大統領の演説は例年になく注目された。しかし、NHKを始め、民放各社の関心はもっぱら日本に対する発言だけに集まり、「日本を意識した抑制された内容」だったと、異口同音に短く報道しただけだった。
 文大統領の演説に注目して欲しい。3.1独立宣言と独立運動を振り返りながら半島の平和、アジアと世界平和に向けた強い意志とメッセージが伝わる内容である。
韓国通信593(1)

<3.1演説>
 尊敬する国民のみなさん、海外同胞のみなさん。
 100年前の今日、私たちはひとつでした。
 1919年3月1日正午、学生たちは独立宣言書を配りました。午後2時、民族代表者たちは泰和館で独立宣言式を行い、タプコル公園で5千人余りの人たちと宣言書を読み上げました。タバコを断ち、貯蓄をして、金銀、かんざし、指輪を差し出し、さらに頭髪を切って売り、国債報償運動※に加わった労働者と農民、婦女子、軍人、人力車夫、妓生、白丁、小作人、零細商人、学生、僧侶など市井の人たちが3.1独立運動の主役になりました。 ※1907年大邱で始まり全国に広がった大韓帝国の日本政府からの借款を国民の募金で返済する運動

 その日、私たちは王朝と植民地の民から共和国の国民に生まれ変わりました。独立と解放に向けて、民主共和国のための偉大な旅を開始しました。100年前の今日、3月1日には、南も北もありませんでした。ソウルと平壌、鎭南浦と安州、宣川、義州、元山までマンセー(万歳)の喚声が沸き起こり、全国至る所で野火のように燃え広がりました。
 3月1日から2カ月の間、南・北韓を分けることなく、全国220の市郡のうち211カ所でマンセーのデモが起きました。喚声は5月まで続きました。
 当時の韓半島全体の人口の10%に相当する202万余の人たちがマンセーデモに参加しました。7,500余名の朝鮮人が殺害され、16,000余名が負傷を負いました。逮捕・拘禁された人は46,000余名にのぼりました。
 最大の惨劇が平安南道の孟山で起りました。3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を求めた住民54名を、日本の憲兵が憲兵分遣所の中で虐殺したのです。京畿道華城の堤岩里でも教会に住民たちを閉じ込めて火を放ち、子供を含む29名を虐殺する蛮行が続きました。しかし、それとは対照的に朝鮮人の抵抗で死んだ日本人の民間人は、一人もいませんでした。
 北間島の瀧井と沿海州のウラジオストックで、またハワイとフィラデルフィアでも私たちは一つでした。民族の一員として誰もがデモを組織して参加しました。私たちはともに独立を熱望し、国民主権を夢見たのです。3.1独立運動の喚声を心に留めた人々は、自分と同じ普通の人たちが独立運動の主体であり、国の主人だと認識し始めました。それが、さらに多くの人たちの参加を呼び起こし、毎日のようにマンセーを唱える力となったのです。
 その最初の成果が大韓民国臨時政府の設立です。大韓民国臨時政府は臨時政府憲章1条で、3.1独立運動の志しを込めて「民主共和制」を定めました。世界の歴史の上で憲法に民主共和国を明記した最初の事例です。

 尊敬する国民のみなさん。
 親日残滓の清算は余りにも長く放置してきた課題です。間違った過去からは未来に向かって進むことはできません。私たちが正しい歴史を打ち立てなければ、子孫たちは堂々と生きて行けません。民族の正気(正しい精神)の確立は国家の責任であり義務です。
 ここでは過去の傷を暴き立て、分裂を引き起こすことや、隣国との外交において紛争要因を作ろうということではありません。それは望ましいことではありません。
 親日残滓の清算、外交も、ともに未来志向的に成し遂げるべきです。
 「親日残滓の清算」について―「親日」※は反省すべきものであり、独立運動は敬意を払われるべきだという極めて単純な価値をしっかり打ち立てることです。※過去の植民地時代に培われた反民族的精神
 この単純な真実が正義あり、その正義を認めることが公正な国の始まりです。かつて日本の支配者たちは独立軍を「匪賊」、独立運動家たちを「思想犯」として排除、弾圧しました。「アカ」という言葉までが生まれました。思想犯と「アカ」、実は共産主義者にだけ適用されたのではありません。民族主義者からアナキストまで、全ての独立運動家にレッテルを貼る言葉でした。左右の敵対、思想に対する烙印は日本の支配者が民族を引き裂くために使った手段でした。それが解放独立後も親日清算を妨げる道具になりました。
 良民の虐殺とスパイねつ造、学生たちの民主化運動にも国民と切り離す烙印に使われました。解放後のわが国で元日本警察の出身者たちが、独立運動家を「アカ」に仕立て、拷問しました。多くの人たちが「アカ」にされ犠牲になりました。彼らの家族、遺家族はそのレッテルのせいで不幸な人生を送らなければなりませんでした。
 現在の韓国社会で、政治的反対勢力を誹謗し、攻撃する手段に「アカ」という言葉が使われていて、形を変えた「色彩論」が猛威をふるっています。私たちが一日も早く清算しなければならない代表的な親日残滓です。私たちの心に引かれた「38度線」は、私たちを引き離した理念の敵対を消す時に一緒に消え去るものです。お互いに対する嫌悪と憎悪を消し去るなら私たちの心の光復(解放)は完成されるでしょう。新しい100年はその時になって初めて、真正なものへと始まることでしょう。

 尊敬する国民のみなさん。
 過去100年、私たちは公正で正義溢れる国、人類すべての平和と自由を夢見る国を目指して歩んできました。植民地と戦争、貧困と独裁を克服し、奇跡的な経済成長を達成しました。
 4.19革命と釜馬民主抗争、5.18民主化運動、6.10民主抗争、そしてロウソクデモを通して普通の人たちが、それぞれの力とやりかたで、私たちの民主共和国を作ってきました。3.1独立運動の精神が危機を迎えることがあっても、克服して蘇ってきました。
 新たな100年は真の国民の国家を完成する100年です。過去の旧弊に引きずられることなく、新たな考えと心で団結する100年です。私たちは平和の韓半島という勇気ある挑戦を始めました。変化を恐れず新たな道に立っています。新たな100年は、この挑戦を成功に導く100年です。
 2017年7月、ベルリンで「韓半島平和構想」を発表した時、平和は余りにも遠く、手が届きそうに見えませんでした。しかし私たちはチャンスが訪れると、躊躇なく平和を掴みました。ついに平昌の寒さの中に平.和の春が訪れました。昨年、金正恩委員長と板門店で初めて会い、8千万同胞の心を集め、韓半島へ平和の時代が開いたことを全世界に明らかにしました。9月には平壌の綾羅島競技場で15万の平壌市民の前に立ちました。大韓民国の大統領として平壌市民に韓半島の完全なる非核化と平和、繁栄を約束しました。
 韓半島の空と大地、海から銃声が消えました。非武装地帯で13体の遺骸とともに和解の心も発掘しました。南北の鉄道と道路、民族の血脈が繋がっています。西海5島の漁場が広がり漁民たちの長年の夢が大きく膨らみました。
 虹のように思っていた構想が目の前で一つ一つ実現しています。これからは非武装地帯が国民のものになることでしょう。世界で最もよく保存されてきた非武装地帯の自然が私たちの祝福になることでしょう。私たちはそこに平和公園を作り、国際平和機構を誘致し、生態平和観光を行い、巡礼道を歩き、自然を保存しながら南北韓の国民の幸福のために共同使用が出来るのです。
 それは私たち国民の自由で安全な北韓への旅行につながる道となるはずです。離散家族とふるさとを失った人たちが単に再会するだけでなく、故郷を実際に訪れ、家族、知り合いが会えるようにするつもりです。韓半島の恒久的な平和は、多くの峠を越えて確実なものになるはずです。

 ヴェトナムのハノイで行われた第2回北・米首脳会談も長時間の会話を重ね、相互理解と信頼を高めたことだけでも意味ある前進でした。特に両首脳によって連絡事務所の設置にいたる論議が成立したことは、両国関係正常化のために重要な成果でした。トランプ大統領が見せた持続的対話の意思と楽観的な展望を高く評価します。さらに高い合意に向かう過程と考えます。さらに私たちの役割が一層重要になりました。
 韓国政府はアメリカ、北韓と緊密に連絡を取り、協力して、両国間の対話が完全に一致するよう努力するつもりです。私たちが抱いている韓半島平和の夢は、他人が作ったものではありません。私たち自ら、国民の力で作りだしたものです。 統一も遠くはありません。違いを認め、心を合わせて互恵的関係を作れば、それがまさに統一です。今から始まる新たな100年は過去とは質的に違う100年になることでしょう。
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 「新韓半島体制」は大胆に転換して統一に備えていきます。
 「新韓半島体制」は私たちが主導する100年の秩序です。国民とともに、南北がともに新たな平和協力の秩序を作ります。
 「新韓半島体制」は対立と葛藤を終わらせる新たな平和協力共同体です。
 私たちの一貫した意志と緊密な韓米共助、北・米対話の合意と国際社会の支持を背景に恒久的平和体制の構築を必ず成就させるつもりです。
 「新韓半島体制」は理念と勢力争いの時代を終わらせる新しい経済協力共同体です。韓半島で「平和経済」の時代を開いていきます。金剛山観光と開城工業団地の再開もアメリカと協議します。
 南北は昨年、軍事的敵対行為の終息を宣言し「軍事合同委員会」運営に合意しました。非核化が前進するなら南北間に「経済共同委員会」を構成し、南北双方が恩恵を受けられる経済的成果が挙げられるでしょう。南北関係の発展が北・米関係の正常化と北・日関係の正常化につながり、東北アジア地域の新たな平和安保の秩序に拡大していくでしょう。3.1独立運動の精神と国民統合を背景に「新韓半島体制」を作り上げていきます。国民みなさんのご協力をお願いします。

 韓半島の平和は南と北を越えて、東北アジアとアセアン、ユーラシアを包括する新しい経済成長の動力になることでしょう。100年前、すでに植民地になり、また植民地に転落する危機に瀕していたアジアの民族と国々が3.1運動を積極的に支持してくれました。
 当時、北京大学教授で新文化運動に取り組んでいた陳独秀は「朝鮮の独立運動は偉大で悲壮であると同時に明瞭で、民意を使っても武力を使わないことで世界革命史に新しい時代を切り開いた」と語りました。アジアは世界で最も早くから文明が繁栄した地域であり、多様な文明が共存しているところです。韓半島の平和でアジアの繁栄に寄与していきます。
 共生をはかるアジアの価値と手を結び、世界平和と繁栄の秩序をともに作っていきます。韓半島の縦断鉄道が完成すれば、昨年の光復節で提案した「東アジア鉄道共同体」の実現を早めることになります。それはエネルギー共同体へ発展し、アメリカを含む多者平和安保体制を堅固にすることになるでしょう。アセアン諸国家と「2019年 韓-アセアン特別首脳会議」と「第一次韓-メコン首脳会議」の開催を通して「人間中心の平和と繁栄の共同体」を一緒に作っていきます。

 韓半島の平和のために日本との協力も強化していきます。
 「己未獨立宣言書」(3.1独立宣言書)は3.1独立運動が排他的感情ではなく、全人類の共存共生のために東洋平和と世界平和へ進む道を明らかに宣言したものです。「果敢にこれまでの間違いを正し、真の理解と共感を背景に良好な関係の新しい世の中を築くことが、お互いに災難を避け、幸せになる近道」だと明らかにしました。今日でも有効な私たちの精神です。
 過去は変えることはできませんが、未来は変えることは出来ます。歴史を鑑として韓国と日本が堅固に手を取る時、平和の時代がそっと私たちの傍にやってくるでしょう。力を合わせて被害者たちの苦痛を実質的に治癒すれば韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるはずです。

 尊敬する国民のみなさん、外の同胞のみなさん。
  過去100年、私たちがともに大韓民国を育ててきたように、新しい100年、私たちはともに生き続けていかなければなりません。すべての国民が平等で公正に機会を持ち、差別されず、仕事に幸福を見つけるでしょう。
 共に素晴らしい人生を送るために、私たちは「革新的包容国家」という新たな挑戦を始めました。今日私たちが歩んでいる「革新的包容国家」への道は、100年前の今日3月1日に朝鮮人たちが夢に描いた国の姿でもあります。世界は今、両極化と経済的不平等、差別と排除、国家間の格差と気候変動という全地球的問題解決のために新しい道を模索しています。「革新的包容国家」実現に私たちは挑戦を続けます。
 私たちは変化を恐れず、むしろ積極的に変化を利用する国民です。私たちは最も平和的で文化的な方法で、世界の民主主義の歴史上美しい花を咲かせました。1997年アジア外愌危機、2008年グローバル金融危機を克服したのは国民の力によるものでした。私たちの新たな100年は、平和が包容の力となり、包容がともに生きる国を作りあげる100年になるはずです。
 包容国家への変化を私たちが先導し、私たちが作る包容国家が世界の包容国家のモデルとなり得ると確信します。3.1独立運動は、これからも私たちを未来へと推し進めていきます。

 私たちは本日、柳寛順烈士の功績審査を改めて行った結果、独立有功者の勲格を上げて建国勲章一等級「大韓民国章」を追加で授与することにしたのも、3.1独立運動が現在進行形だからです。柳寛順はソウル西大門刑務所に収監されても死を恐れず、3.1運動の一周年にマンセーを叫び続けました。しかし何よりも彼女の功績は、「柳寛順」という名前だけで、3.1運動を象徴する存在になったことで、亡くなってからも大変な貢献をしていることが認められました。
 100年の歴史は、私たちが直面する現実がどんなに困難であろうとも、希望を諦めなければ変化と革新を達成できることを証明しました。
 これからの100年は国民の成長がとりもなおさず国家の成長になることです。理念の対立を乗り越え統合を実現し、平和と繁栄を実現するなら、独立は真に完成することになるでしょう。
 有難うございました。

 安倍首相と文大統領は一歳違い。平和憲法を変えることに執念を燃やす、わが安倍首相と、民族の悲願である統一と平和の実現に情熱を注ぐ文大統領の違いは明らかだ。日韓両国のトップの姿から、二人を選んだ国民のレベルの違いも情けないほど明らかだろう。
 3日、我孫子駅前で「アベ政治は許さない」「放射能はキケン」のプラカードを掲げた。蹴とばされても非暴力、3.1精神を受け継ごうと思った。
2019.03.05 ある中国通の予言について思うこと
 ――八ヶ岳山麓から(277)――

阿部治平 (もと高校教師)

2008年リーマンショック(世界金融危機)があった。中国政府は4兆元(およそ65兆円)を投下して景気回復を図った。効果は十分にあった。
先進国の経済は一時中国頼りとなり、フランス・サルコジ大統領やドイツ・メルケル首相が中国詣をした。中国人学生はこれをとりあげて、「西欧の半植民地化と日本の侵略による屈辱の歴史はすでに終わった。中国は2020年代にはアメリカに追いつく」と誇りに満ちて語った。
彼らは尖閣諸島や南シナ海を「核心的利益」とし、その領有は失った領土の回復だと主張した。私は、「じゃあ、アイグン条約も北京条約も無効だ。レーニンはウラジオストクをロシア領だといったが、中国は沿海州も回復しなければなるまい?」といってみた。彼らはこれには考えが及ばなかったらしくとまどった様子を見せた。
「80後(1980年代生れ)」の学生の発言は、中国の指導者や経済学者の言説を繰返しただけのもので、にわか成金の傲慢さがあったけれども、日本人の私に向かい祖国をことさらに高く誇るその姿に、1989年天安門事件当時の学生とは全く違った国家観を持つ世代が存在することがわかった。

中国政府の「4兆元投資」は特効薬ではあったが、副作用もひどかった。数年先までの投資需要を消化してしまったから、中国のGDP成長率は2010年を頂点にして下降し始めた。日本では、この前後から中国経済論が書店にあふれるようになった。それはいまにも中国経済が崩壊するかのようにいうものから、冷静に停滞を予測するものまでさまざまであった。
私が知る限り、前者の代表的なものは、2013年刊の近藤大介著『日中「再」逆転』(講談社)である。これと対照的なのは、津上俊哉『中国台頭の終焉』(日本経済出版社2013)である。

以下おもに近藤氏の著作にそって私見を述べる。
2012年末安倍晋三氏は第二次安倍内閣発足にあたって、「三本の矢」として「異次元緩和」「機動的な財政政策」「成長戦略」を提起した。近藤氏は翌2013年の株価上昇に舞上がり、14年以後22年まで3%の経済成長を見込んだ戦略を称賛し、アベノミクスによって日本経済は「第三の成長期」に入るとした。氏は、これにひきかえ中国は、「2015年から16年までに雪だるま式に危機が膨らみ爆発するだろう」といい、「中国は『六十年に一度の巨大不況』に直面する」「習近平『超・軽量政権』で中国バブルは2014年、完全に崩壊する!!」と断定した。
一旦中国によって追い越された日本のGDPは、アベノミクスによって再び中国を凌駕すると「予言」したのである。
しかし、ご存知のように、『日中「再」逆転』は叶わなかった。政府は長期の景気回復をいうが、一般には「異次元緩和」による日本経済の景気回復はなかったというのが実感である。経済成長という言葉は魅力的ではあるが、当時も3%の成長は望むべくもなかった。日本経済に成長があったとどうしてもいいたければ、それは非正規労働つまり契約社員・パート・アルバイトの増加である。「アホノミクス」といった人がいたが、まさにその通りになった
中国のGDPは(統計上の確かさに大きな問題があるけれども)、一桁台の成長とはいえ、リーマンショック後の2010年から2018年までの間に2.15倍に達したが、日本のGDPは1.09倍になっただけだった。日中GDP 格差は拡大した。

そうはいっても、近藤氏のこの著作は多くの読者を得て、刊行後2ヶ月で3刷になった。なぜだろうか?私はひとつの理由は、中国政治経済の動向、とりわけ要人の発言や行動をこまかく追跡し、庶民の生活に触れる文言を配置して臨場感ある記録になっているからだと思う。
だが、それよりも重要なわけがある。この本は日本人の沈みがちな気分をくすぐったのである。
日本は、20年もの長期にわたる経済の停滞が続いた。この間に「後進中国」は「先進日本」を追い越し、先進的な技術力、巨大な軍事力を擁する強大な国家に脱皮した。朝鮮半島の和平に対して決定的な影響力を持ち、南シナ海制圧に際してもアメリカの干渉をよせつけないまでになった。
これに対して我々は焦燥感をもっている。とりわけ尖閣諸島への軍事圧力が加えられていることに対しては、多かれ少なかれ不安と反感がある。そこに、アベノミクスをほめそやし、中国の没落を断言した『日中「再」逆転』という思いがけない予言があった。薄っぺらなナショナリズムは自国・自民族を礼賛し、ライバルとする国や民族の問題点を列挙する言説に快感を覚えるものである。とりわけバブル崩壊後の成功体験の乏しい若い世代は、中国に対する不安と悔しさを近藤氏の本で癒されたであろう。

近藤氏はこれに引きつづき2016年に『パックス・チャイナ 中華帝国の野望』(講談社現代新書 2016)を刊行した。2012年から16年までのドキュメントである。方法は『日中(再)逆転』と同じである。さすがにアベノミクス礼賛は影を潜めているが、それに代わるのはオバマ米大統領に対する不快感である。オバマ批判には本書全7章のうち2章分を費やしている。
しかし、『パックス・チャイナ 中華帝国の野望』が描き出した時期、中国は南シナ海を軍事力で制圧し、「一帯一路」構想を提起し、AIIB(亜洲基礎設施投資銀行)を設立し、中国が主導権をにぎる東アジア共同体形成を目指して大きな一歩を踏み出した。
安倍政権は中国の経済的軍事的進出に対抗して、インドまでをふくめた西太平洋インド洋における中国包囲網を構築しようと苦闘したが、関係諸国の同意を得られず挫折した。TPP構想からは肝心のトランプ・アメリカが抜けてしまった。朝鮮半島の和平交渉には影響力を発揮するどころか手も足も出ない。拉致問題ですらアメリカ頼みだ。
このところ「環球時報」など中国のメディアは、薄ら笑いを浮かべながら日本を見ている。
たとえば貿易問題では、日本がいくら対米従属を維持しても、トランプが中国の次に高関税をかける対象が日本ではないという保証はない、日本はいずれ重点を中国に移さざるを得ないだろう、TPPもいずれ中国にとってプラスになりそうだというのである。

今日、中国の経済成長率は、トランプ米大統領が仕掛けた貿易戦争によってさらに低下した。中国は、はじめは目には目を、高関税には高関税をという対抗手段をとって断固戦うかまえだったが、2018年秋からは戦争の構えを和らげ、対米交渉に移行した。2018年に台湾海峡をアメリカの軍艦が数回通過したおりも、金切り声で糾弾することはなかった。
2018年後半以降、PMI(購買担当者景気指数)や、工業生産、小売売上、固定資産投資の伸び率(前年比)など、主要な経済指標の低下傾向が鮮明になってきた。これを反映して、2018年の年間の経済成長率は6.6%と、1990年(3.9%)以来の低水準となった(関志雄https://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/index.html)。

にもかかわらず、中国の国際的影響力は依然として大きなものだし、これからも大きくなっていくだろう。貿易一つとっても、中国にとっては日本はおおぜいの中の一人だが、日本経済にとっては中国市場を無視しては存在できないという現実がある。これにひきかえ日本は、世界第二第三の経済力を持ちながら、それにふさわしい政治的力量を持てなかったし、周辺国家からの尊敬も受けてこなかった。
それどころではない。これから中国を先頭に韓国・北朝鮮は反日ナショナリズムによって束になってかかってくる恐れがある。わが日本がこれら3国とは植民地化と侵略戦争の過去を十分に清算していないからである。

保守政治はこれからも続くだろう。近藤氏も含めた右派ジャーナリストには、巨大化し帝国化する中国をはじめとする隣国と、日本はどのような外交的立場をとってつきあうべきか、自立すべきか、敗戦以来対米従属70数年のままのスタンスでよいのか、それを論じてもらいたい。中国をこき下ろし、習近平の専制政治を非難することで、日本人の脆弱なナショナリズムを煽るだけでは、何の役にも立たないと思うから。



2019.03.04  京都大学学生寄宿舎「吉田寮」をめぐる存廃問題の経緯と今後の行方について(2)
          昔の学生気質と今どきの学生ライフスタイルの違い

広原盛明 (都市計画・まちづくり研究者)

 「舎友会」という吉田寮の同窓会組織がある。1950年代後半から1960年代前半に寮生活を共にした超高齢者集団の集いである。毎年2回、定期的に会合を開く。1月は新年会、6月は寮母さんの追悼会だ。年々少しずつ参加者が減っていくが、それでも毎回20人前後の参加がある。これまでは近況報告と思い出話が多かったが、ここ1、2年は吉田寮の存廃問題が話題の中心となった。

 舎友会世代に共通する感情は、「今どきの寮生はなっていない!」「あんな汚い住み方はけしからん!」「みんな追い出してしまえ!」というものだ。自分たちが大切にしてきた吉田寮が余りにも汚く荒廃しているので、見るに堪えないという感情を抑えきれないからだ。大学の修理保全が行き届かないことがあるにしても、寮の荒廃の根本原因は寮生の自堕落な生活態度にある――こんな感情がみんなを一様に支配していた(いる)。

 当時の大学には「苦学生」が沢山いた。家が貧しくて学費を出せない、授業料が払えない、自分でバイトをしなければ食っていけない、下宿代が高いので入れない、...そんな学生がそこらじゅうにいたのである。だから、寮に入ることで初めて学業生活が成り立った寮生がほとんどだった。賄い付きの寮が苦学生たちを救ったのであり、寮生たちはそのことを心から感謝していた。寮の応募倍率はものすごく高かったので、大学に入るよりも寮に入る方が難しかったくらいなのだ。

 だから、当時の寮生は仲間意識が強かった。吉田寮は北寮、中寮、南寮の3棟に分かれていて、それぞれの棟には寮生の管理組織があった。総務以下さまざまな役割があり、寮生活の全てが寮生の自主管理のもとに営まれていた。ちなみに私は、体育会系(陸上競技部)ということもあって食堂係となり、その特権を利用してもっぱら空腹を満たしていたものだ。

 だが、こんな人間関係は大学紛争を境にしてぷっつりと切れてしまった。大学紛争が立場を異にする学内集団の対立を決定的にした結果、それが寮生にも及んで世代間の断絶となってあらわれたのである。とりわけ、紛争以前と紛争以後の世代の溝が深かった。紛争以前の牧歌的な世代は何よりも不毛の対立を嫌った。だから、紛争世代の教条的な主義主張には付いて行けなかった。かくて寮生の世代間交流がまったくなくなり、お互いに「あいつら」「おまえら」と呼ぶような関係になってしまったのである。

 だから、私が舎友会の席上で吉田寮の存廃問題を持出したときは参加者から総スカンを喰った。「そんなこと聞くだけでも腹が立つ」というわけだ。人間は老いるとますます頑固になる動物らしい。何しろ大学紛争以来何十年も同じ思いに凝り固まってきた連中だから、彼らの感情を解きほぐすことは容易でない。最初はあっさりと引き下がったが、でもこの世代を巻き込まなければ吉田寮の存続運動は成功しないことがわかっていたので、折を見ては問題提起を続けた。

 私が吉田寮の存廃問題を意識するようになったのは僅か数年前のことである。同志社大学人文社会科学研究所の共同研究会で同席した吉田寮在住の大学院生(中国からの留学生)から存廃問題が持ち上がっていることを聞き、これは何とかしなければならないと思ったのが最初だった。それ以降、同様の問題意識を持つ寮生たちと恒常的に接触するようになり、吉田寮の保存要望書を出した建築史関係の研究者とも意見交換することになった。その輪が京大公文書館に在籍していた教育史研究者にも広がり、吉田寮の意義を教育史と建築史の両面から裏付けることになった。さらに、都市計画の視点からも京都という街を形づくる歴史的資源として吉田寮を位置づける方向に視野が広がっていった。

 こうした一連の理論武装を終えてから、いよいよ「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会」(2017年10月、現役寮生も一部参加)の結成に踏み切った。元寮生の会は、老壮青の3世代から構成されている世にも不思議な組織だ。第1世代は1950年代後半から60年代前半に卒寮した「舎友会世代」、第2世代は1980年代後半から90年代前半卒寮の「ポスト紛争世代」、第3世代は現役寮生の「21世紀世代」である。3世代の年齢差は各々30歳前後、つまりティーンエイジャーを含む現役寮生、50歳代半ばの中堅クラス、80歳以上のウルトラシニアが混在している3層組織なのである。

 これで議論が噛み合うかというと、そこが面白いところだ。もともと私たちウルトラシニア世代は、今どきの寮生はこれまで受けてきた管理主義教育に反発する余り、それが正視にたえない自堕落なライフスタイルとしてあらわれている――と考えていた。ところが、目の前に現れた「21世紀世代」は意外にも礼儀正しく、実に「いい子」たちなのである(後に、彼らが寮生の中では少数派であることがわかったが)。そんなことで、彼ら自身も今どきの寮生たちの中でのギャップに苦しみながらも私たちと行動を共にしていることを知って、元寮生たちは世代を超えた友好関係を結ぶようになった。そして、そこから生まれた多彩な発想が困難な吉田寮存廃問題を解決していく道を切り開くことになっていくのである。(つづく)