2019.08.09 日本政府の核政策への批判相次ぐ
2019年の「8・6広島」

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 8月6日は、米軍機が広島市に原爆を投下してから74年。この日を中心に、広島では今年も原爆の犠牲となった人々を悼む慰霊の行事や核廃絶を求める集会が繰り広げられた。酷暑の中、全国から多くの人々がこれらの行事や集会に集まったが、そこでは、日本政府の核政策を批判する声が相次いだ。とくに、2年前に国連で採択された核兵器禁止条約に背を向け、いまだにこれへの署名・批准を拒否していることへの批判が目立った。加えて、米国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われている朝鮮半島非核化交渉についても日本政府が積極的な役割を果たしていないことへの批判も聞かれた。
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【2019年8月6日朝の原爆ドーム。原爆は74年前の8月6日午前8時15分、
ドーム上空約600メートルで炸裂した】 写真はクリックすると拡大します。

 今年の「8・6」に関する行事や集会は、緊迫する核情勢の中で行われた。なぜなら、冷戦終結後の核軍縮の柱となってきた米国とロシアの中距離核戦力(IMF)廃棄条約が8月2日に失効したうえ、2021年に期限切れを迎える米ロ間の新戦略兵器削減条約(新START)が、その後も延長されるのかどうか不透明な状況となっているからである。
 そればかりでない。米国のトランプ政権が、核兵器の使用をより可能なものとするための小型核兵器開発を始めるなど、核軍縮に逆行する動きを強め、ロシアもこれへの対抗姿勢を強めているからだ。世界は新たな核軍拡競争に突入したと言える。イラン核合意から脱退した米国の動き、核兵器を保有しているインド・パキスタンの対立激化も世界に緊張をもたらしている。 

 そんな世界情勢に直面しているためか、広島における行事や集会では、核兵器禁止条約の意義が一昨年、昨年にも増して強調された。
 核兵器禁止条約は2017年7月、国連加盟国193カ国中122カ国(6割)の賛成により採択された。その内容は「条約締結国は、いかなる場合も、核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵のほか、核兵器やその管理の移譲、核兵器の使用、使用するとの威嚇、核兵器を自国内に配置、設置、配備することを行わない」とするもので、核兵器を全面的かつ厳密に禁止する画期的、歴史的な条約とされている。
 条約を採択した会議を主導したのは非核保有国や非同盟諸国で、米、露、中、英、仏のほか、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮などの核保有国と、米国の「核の傘」に自国の安全保障を委ねる日本やNATO(北大西洋条約機構)加盟国は会議に参加しなかった。発効には50カ国・地域の批准が必要だが、これまでに25カ国が批准している。

 6日に平和記念公園で開かれた広島市主催の平和記念式典には、台風8号の余波による雨の中、被爆者、89カ国の代表、各都道府県別の遺族代表、一般市民ら約5万人(広島市発表)が参列した。参列者は式典会場に入れきれず、会場外にあふれた。式典参列者数は前年と同じだったが、雨にたたられるという悪条件を考えれば、よくこれだけ集まったという印象が強く、被爆から74年たってもなお人々の間で原爆投下に対する抗議と犠牲者への慰霊の気持ちと核兵器廃絶への願いが衰えていない、と感じさせた。
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【広島市民は原爆が投下された8月6日午前8時15分には、犠牲者の霊に黙とうをささげる。今年も、平和記念式典に参列していた全員が黙とうに参加し、その中には、中学生の姿もみられた】

 松井一實・広島市長は「平和宣言」の中で「日本政府には唯一の戦争被爆者として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界への実現にさらに一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい」と述べた。
 同市長は、同条約に後ろ向きな日本政府に対し、昨年までは署名・批准を直接求めてこなかった。これに対し被爆者団体など約30団体が反発し、今年は明確に政府に対し署名と批准を求めるよう要請していた。それを無視できなかったのか、今年の宣言には「署名・批准を求める被爆者の思いを受け止めていただきたい」と書き込まれた。
 被爆者の1人は「被爆者の思いを政府に伝えるという形でなく、市長として署名・批准を求めると言ってほしかった。そうすれば、広島市民が署名・批准を求めている、という宣言になったのに」ともらした。が、自民・公明の推薦で市長になったことから、これまで政府の方針に配慮してきた松井市長としては一歩踏み込んだ宣言と言ってよく、その点は評価したい。

 一方、原水爆禁止団体や市民団体の大会や集会では、核兵器禁止条約に参加しない安倍政権への批判が噴出した。
 4日開かれた原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の被爆74周年原水爆禁止世界大会・広島大会開会総会(1900人参加)で、あいさつに立った川野浩一議長は「原爆により広島・長崎で40万近い市民が被爆死した。被爆国の政府として日本政府は核兵器禁止の先頭に立つべきなのに、核兵器禁止条約にいまだ賛同していない。こんな政府を許せるか。政府は被爆者の怒りを真摯に受け止めるべきだ」と述べた。
 同大会で6日採択された「ヒロシマ・アピール」は「2020年には核不拡散条約(NPT)再検討会議が行われます。原水禁、連合、KAKKIN(核兵器廃絶・平和建設国民会議)は再検討会議にむけて、日本政府に核兵器禁止条約の批准、NPT再検討会議の成功を求める『核兵器廃絶1000万署名』に取り組むことに合意しました。日本政府の『核兵器禁止条約署名・批准』を実現させるため、原水禁運動の総力を挙げましょう」と述べている。

 6日に開かれた原水爆禁止日本協議会(原水協)の原水爆禁止2019年世界大会・広島(1300人参加)は「広島からのよびかけ」を採択したが、そこには、こうあった。
 「五つの核保有国は、NPT再検討会議の合意に背を向け、核兵器禁止条約に反対しています。『核兵器は安全の保証だ』とする『核抑止力』論は、核兵器の非人道性の告発によって破綻しています。核兵器禁止条約の発効はもはや時間の問題です」「アメリカの『核の傘』からの離脱と核兵器禁止条約への参加を日本政府に強く求めましょう。400を超えた禁止条約への署名・批准を求める自治体意見書のとりくみをさらに大きく広げましょう。日米核密約を破棄し、非核三原則の厳守・法制化を求めましょう。ニューヨークでの原水爆禁止世界大会をはじめ、2020年NPT再検討会議での国際共同行動を成功させましょう」
 
 5日に開かれた市民団体中心の「8・6ヒロシマ平和つどい」は、参加者一同の名で「市民よる平和宣言2019」を採択したが、そこに「2020年に行われるNPT再検討会議を前に、日本政府に対し核兵器禁止条約への署名・批准を強く求める」と書き込まれた。

 こうした日本政府批判に対して安倍首相はどう対応したか。
 首相は広島市主催の平和記念式典であいさつしたが、核兵器禁止条約には一切ふれず、「近年、世界的に安全保障環境は厳しさを増し、核軍縮をめぐっては各国の立場の隔たりが拡大しています。我が国は、『核兵器のない世界』の実現に向け、非核三原則を堅持しつつ、被爆の悲惨な実相への理解を促進してまいります。核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べるにとどまった。
 式典後の記者会見でも「核兵器禁止条約は現実の安全保障の観点を踏まえることなく作成され、核兵器保有国が参加していない」と条約不参加の理由を述べ、これまでの方針を変えなかった。

 各集会では、昨年3月から始まった朝鮮半島非核化の動きに対しても活発な議論が行われた。世界は今、米国と北朝鮮の交渉の行方を固唾をのんで見守っているが、これから先、どういう形で両国の交渉が進むのが一番望ましいか、あるいは、どういう解決策が現実的に可能なのか、といった観点からの発言もあった。印象に残ったのは、原水禁の分科会における梅林宏道氏(ピースデポ特別顧問・元長崎大学核兵器廃絶研究センター客員教授)の「北東アジア非核兵器地帯」創設案だった。
 これは北朝鮮、韓国、米国、中国、ロシア、日本の6カ国で朝鮮半島を含む北東アジア核兵器地帯を作ろうという提言だ。梅林氏は「この構想に日本政府は積極的に取り組むべきだ。なぜなら、これが実現すれば、日本は米国の核の傘から脱却できるし、核兵器禁止条約にも参加することができるのだから」と述べた。

 朝鮮半島の非核化をめぐって南北朝鮮、米国、中国、ロシアがさまざまな動きを見せている中で、日本だけが、ここうした動きの「カヤの外」に置かれていることにも批判の声が上がった。「政府は、北朝鮮に対しては制裁強化一辺倒という態度を転換し、この国との国交正常化を急ぐべきだし、韓国とも友好な関係を築くべきだ」という発言もあった。

 各集会では、安倍政権が、東京電力福島第1原子力発電所の事故後も、原発の再稼働を推進していることに反対する声も強かった。中には、「日本の支配層が原発推進を断念しないのは、日本の核武装を目指しているからではないか」という意見もあった。

 日本の核廃絶運動は、果たして日本政府の核政策を変えることができるか、どうか。そのための本格的な国民運動を構築できるか、どうか。今年の「8・6」は、運動側に厳しい課題を突きつけたように思えた。

2019.08.08 中国の「奉陪到底」に米は戦線拡大で対抗
――習近平の中国(2)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 米にトランプ政権が登場して、対中貿易赤字を問題にし始めた当初は、習近平はそれを、ここ数年、米国内で高まってきた安全保障面での対中脅威論、さらには習近平が唱える「中華の復興」は世界の覇権を狙うものだ、といった国際政治的圧力に比べれば、所詮はトランプらしい「カネの問題」といささか軽く考えていた節がある。
 昨18年の3月から4月、貿易問題での米の攻勢に対する中国側の合言葉は「奉陪到底」(ほうばいとうてい)の4文字であった。日本語に直せば「とことん付き合うぜ」とでもなろうか。たとえば4月5日の『人民日報』の外交問題コラム「望海楼」は(われわれは)「貿易戦争を恐れない。もしどうしても戦いたい。それも家の玄関口まで来て戦いたいなら『奉陪到底』だ」という具合である。
 トランプが振りかざす「一国優先主義」に対するに、こちらには「自由貿易で人類運命共同体を」という大義があるのだから、負けるはずがないと思っていたはずだ。
 当時の空気を物語るのが、前回でも触れた「中興通訊(ZTE)」の1件だ。4月、米商務省が米国企業に同社との取引を向こう7年間禁止したために、部品の供給を絶たれ、危機に瀕した同社のために、5月8日、習近平はトランプに電話で直接、救済を求め、トランプがそれに応じて、商務省に口をきいて、その後も曲折はあったが、結局、同社は生き延びることができた。
 この間、首脳間の電話が明らかになった後、14日、の中国外交部の記者会見で陸慷報道官は「米側の積極的な態度表明を称賛する」と述べ、同日の『環球時報』も「トランプ大統領の発言は歓迎に値するよい決定だ」と書いた。貿易赤字とほかの問題は別という対応で、このあたりでは中国側に余裕が感じられる。
 しかし、夏から秋にかけて、米の対中政策はきびしさを増す。貿易問題では、前回述べたように、7月第一弾、8月第二弾、9月第三弾と、追加関税の対象品目は合計2500憶ドルにまで膨れ上がり、第三弾の2000憶ドル分は9月からは10%、その後話し合いがつかなければ、第一、第二弾同様25%にまで引き上げるとされた。
 一方では、8月、国防予算の枠組みを決める「国防権限法」が成立した。これは米政府とその取引機関に「華為」や「中興」といった中国企業から製品を調達することを禁止するものであった。また「外国投資リスク審査近代化法」という新法も成立した。これは外国から米国内への投資案件の審査に国防総省や情報機関の発言権を高め、逆に米企業の中国企業への投資についても機密保持、情報漏洩防止などの審査を強めるものであった。いずれも中国との商取引や投資が中国政府の情報活動に利用されないようにという対中不信を正面に掲げた法律であった。
 国防権限法について、中国外交部の陸慷報道官は同14日、「強烈な不満」を表明し、「冷戦思考とゼロサムゲームの理念を捨て、正確かつ客観的に両国関係を扱うよう米国側に促す」とのべたが、もはや対立は貿易問題の枠をこえて広がっていた。
 10月4日にはペンス米副大統領が中国との全面対決を宣言したともとれる講演を行った。この講演の趣旨を要約することは難しいが、あえて言えば、次のようになる。
 「米はこれまで中国がやがては自由、民主を尊重する社会へ変化すると信じて、米国経済への自由なアクセスを認めてきた。しかし、その希望は達成されなかった。・・・今日の中国は他に類を見ない監視国家であり、時に米国の技術を借りてますます拡大し、侵略的になっている」
 現在、中国が進んでいる方向は、米とは相いれないというのである。米中貿易摩擦は「米中新冷戦」に進化?した。そのスタートとなったのが、経済交渉とはいえ、貿易のみならず、幅広く中国の経済の仕組みを含めて話し合いの対象とすることを決めた12月のブエノスアイレス首脳会談であった。
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 習近平にとっては、18年春の全人代(国会にあたる)で、国家主席の任期をそれまでの「2期10年まで」から「任期規定なし」に改正して、終身主席の可能性を確保した上で、いよいよ「中華復興の夢」の実現(先進国への仲間入り)を自らの主導で進めようとしたというのに、米に反中ムードが広まったことは目の前に突如、暗雲が迫ってきた思いであったろう。ペンス講演に習近平は大きな危機感を抱いたはずだ。
 ここで、現代中国の歴史において、国が危機に直面した場合、政権はどういう態度をとったかを振り返ってみたい。
まず思い浮かぶのは1960年代後半から70年代にかけて、である。国内は文化大革命で混乱し、対外的にはソ連(当時)と激しく対立した。特にソ連との対立はウスリー江の中州の島(ダマンスキー島、中国名「珍宝島」)や新疆ウイグル自治区で武力衝突が起こる(いずれも1969年)までに加熱した。
 この時、毛沢東、周恩来はどうしたか。それまで長年対立してきた「米帝国主義」とあえて誼を通ずる奇策でソ連の脅威をかわした。キッシンジャーの秘密訪中(1971年)、ニクソン訪中(1972年)が実現したことに世界は驚いた。
 次の危機は1989年の「6.4天安門事件」の後である。国の大方針は文化大革命時代とは逆に改革・解放路線であったが、天安門広場に陣取る学生たちの民主化要求運動を鄧小平は軍隊を動員して鎮圧した。正確な数字はいまだに不明だが、公式発表でも300人以上の死者が出た。
 西側の世論は反中国で沸騰した。経済的な制裁も受けた。そして、この時、鄧小平が打ち出したのが「韜光養晦(とうこうようかい)」政策であった。「韜光」とは刃物の光を袋に収める、「養晦」とは蟄居する、という意味で、目立たず、おとなしくすることであった。西側からの批判に「内政に干渉するな。反政府運動を取り締まってどこが悪い!」などと、むきにならず、頭を低くしてやり過ごせと、鄧小平は命じたのである。
 鄧小平自身はその後、老躯を駆って、南方の経済特区を2年がかりで回り、各地で改革・開放、とりわけ解放政策の重要性を説き、恐れずの外資を入れろと督励した。その後、中国は高度成長の軌道に乗る。
 1971年と1989年、この2回は中国の共産党政権が自我をひっこめて、状況に適応して延命を図った先例である。政権が選挙で選ばれるのなら、政策が変わることは珍しくないが、過去において共産党政権というのはとかく自己の正当性、無謬性、継続性を強調したものである。その意味では中国共産党は必要に応じて変身することにためらいはない政党と言えるかもしれない。正当性、無謬性に固執して、政権を危機に陥れるより、大義の旗は一時しまいこんで、状況に適応するのである。
 習近平は米の戦線拡大にどう立ち向かったか。            (以下次回)
2019.08.07 どうなる米中摩擦?中国でなにが起きているのか
――習近平の中国 1

田畑光永 (ジャーナリスト)

 中国の動きを観察し続けるのを、勝手に自分の仕事と決めて、これまでやってきたのだが、じつは最近、それが苦痛になってきた。その理由は追い追い読んでいただくつもりだが、去年から続いている米中摩擦をめぐる両国の交渉を見ていると、両国というより、トランプと習近平という2人の国家指導者の目をそむけたくなるような浅はかな振る舞いが延々と続いて、いい加減にしたら!と目を背けたい気分にかられる。
 今回は、ことの顛末をたどって、私の欲求不満を聞いていただきたい。
 去る1日、米トランプ大統領は例によって自身のツイッターで、交渉がまとまらなければ中国からの輸入品のほぼ3,000億ドル(約33兆円)分に9月1日から10%の関税を上乗せすると表明した。その前日まで上海で両国の閣僚による交渉が行われていたのが、思うほどの進展がないままに次回は9月と決めただけで終わったことに腹をたてて、一方的に次の一手を公表したのだろう。
 米の中国からの輸入額は年に5,400~500憶ドルに達し、一方、米から中国への輸出額は1,200~300憶ドルだから、その差(米の貿易赤字)は3,000億ドルをこえている。これがトランプにとっての癪の種である。そこで去年の春から何が何でもこれを減らせと騒いでいるのだが、考えてみれば赤字が多いからと言って、相手をなじるのはそもそも筋違いである。
 ものの売り買いが成立するかどうかはほとんどの場合、買い手がきめるものである。例外的に特定の商品が品薄になって、かつてのオイル・ショックのように売り手の立場が強くなることもあるが、それは例外であって、通常は買い手が買うと決めたところでトランプの言う「ディール」は成立する。
 だから赤字が大きすぎるなら、買わなければいいのである。それを相手に「売りすぎるな」と難癖をつけているのが、米中対立のこと貿易に関する部分の姿である。
 しかも、そのやり方がふるっている。今の世界の大勢は、なるべく仲間を作って、その中では関税など貿易障壁を減らして自由にものを行き来させようという方向である。それが果たしていいか悪いかの議論はあるにしても、世界中に思い思いの自由貿易圏の輪がはりめぐらされている。トランプ自身、日本にはたとえば牛肉の関税もっと下げて、たくさん買えと言っている。
 そこでトランプは去年の春始めた中国との交渉が進まないのにいらだって、7月に第一弾として農業機械や電子部品など中国からの輸入品340憶ドル分に25%の追加関税をかけ、翌8月の第二弾では半導体や化学品など160憶ドル分を追加して同様に課税、さらに第三弾の9月には家具や家電製品など2000憶ドル分に10%を追加課税した。
 中国側も直ちに報復措置として、第一弾、第二弾に合わせて、7月、8月に米と同額の輸入品、7月には大豆や自動車、8月には古紙や鉄くずなどに同率の追加関税をかけた。しかし、もともと中国の輸入額は1,200~300憶ドルしかないから、第三弾の2000憶ドルにはついていけず、LNGや木材など600憶ドル分にとどまった。だから今度の第四弾、「今年9月から新たに3000憶ドル分に10%追加関税」が実施されても、中国側にはもはや報復の手段がない。
 こうした関税合戦が続く中で、去年12月1日にはブエノスアイレスでトランプ・習近平の首脳会談が開かれた。ここでは交渉の仕切り直しがおこなわれ、貿易不均衡の是正に止まらず、中国による知的財産(技術)の移転強要、政府補助金による企業競争力強化なども交渉の議題に加えることになり、この日から90日間は9月に課税された10%の関税を25%へかさ上げすることを保留することになった。
 またこの日、首脳会談とまさに時を同じくして、中国の通信機器製造最大手「華為(ホアウエイ)」の孟晩舟副会長がイラン制裁違反にかかわった容疑で、米の要請を受けたカナダ当局によってバンクーバーで身柄を拘束されるという「事件」も発生して、両国間の対立面が拡大した。
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 こうしたトランプからの攻勢に対する中国側はどう対応してきたのか、それが本文の主題である。昨年を振り返ると、貿易不均衡については、関税には関税でという構えで対抗しながら、自由貿易の旗を振っていれば、大義はこちらにあるからしのげるとみていた節がある。春から夏にかけて問題になった、中国の国有通信機器メーカー「中興通訊(ZTE)」がイランへの制裁破りに関与した疑惑を理由に、米商務省が米企業に同社との取引を禁止した件を、習近平が直接、トランプに電話して、きつい条件ながらとにかく同社の延命に成功したことも、米側の姿勢を甘く考えさせた可能性がある。
 ところがブエノスアイレス会談を受けて今年2月から北京とワシントンで交互に開催された閣僚級交渉では、米側はブエノスアイレス合意に基づいて貿易赤字のみならず、あらためて、取り引きにからめて中国の官民が外国企業に技術供与を求めることとか、中央や地方の政府が企業に様々な補助金を出して競争力を強めて居ることとか、さらにはハッカー攻撃で技術情報を盗んでいるのではないかといった問題まで含めて、一言で言えば、貿易のみならず幅広く中国の台頭を押さえつけるという態度に出た。これには米ペンス副大統領が昨年10月の講演で、全面的に中国と対抗する立場を打ち出して、対決ムードが高まったことも背景にあるだろう。
 これに対して中国はどう出たか。中国側からそれを直接明らかにする材料は出ていないが、米側のムニューシン代表(財務長官)の言によれば、今年に入って1月から3月までの4回の交渉で、約150頁にのぼる包括的協定がほぼ合意に達し、最終的にまとまるのも近いと思われるところまで来たのだが、4月にワシントンで行われた交渉で、中国側がにわかにそのうちのほぼ3分の1を白紙にもどしたいと言い出したという。
 そしてその後、トランプは例のごとくツイッターで「中国が態度を変えた、約束をほごにした」と中国を攻撃し始めた。
 そんなもやもやした状態で約1か月が過ぎた5月初め、中国側首席代表の劉鶴副首相が交渉継続のためにワシントンに赴いた。しかし、この時彼の身には一つの変化が起きていた。それまで劉鶴には国務院副首相、中国側首席代表、そして習近平国家主席特使という3つの肩書がついていたのが、この時は中国側の報道から「特使」の肩書が消えていた。
 たんに肩書の問題ともいえるが、国家主席の特使となれば、まさに国家主席の信任を受けて交渉していることを内外に示す効果はあるだろう。ところが、交渉の途中でこの肩書が消えたとなれば、その意味は大きくなる。始めからなければいいが、あったものが外されるというのは、これまでの交渉の結果あるいは進め方になにか問題があったのかと誰しもが見る。
 ワシントンに現れた劉鶴は、米側の「中国が最後に態度を変えた」という批判については、「交渉というのは終わるまでは、何が起きても不思議はないのだ」と受け流し、一方で中国の記者団には「交渉で最も重要なのは、国の主権を守ることだ」と強調した。
 中国国内でなにかあったことは間違いない。それがなにかはまだはっきりしたことは言えない。しかし、そういう目で見ると、6月末の大阪での首脳会談、それを受けての7月末の上海交渉、それに業を煮やしたトランプの9月からの巨額関税予告という一連の動きの意味が分かるような気がする。                    (続く)
2019.08.06 広報 あびこがスゴイ
韓国通信NO610

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

我孫子市の広報8月1日号に二人の高校生が登場した。
市が広島に派遣した中学生たちが高校生になった。彼らは小学校に出かけ、被爆地での体験を「出前講義」した。ちょっと信じられない話だ。
原爆投下から74年目を迎える今年、市の広報で彼らが平和への思いを語った。
平和や原爆についてあまり知らなかった中学生たちは、広島で被爆者から直接、原爆の恐ろしさを聞き、平和の尊さを学んだ。その体験をさらに若い人に繋げようという我孫子市独自のユニークな試みである。

この取り組みは、1985年(昭和60年)に採択された我孫子市「平和宣言」にもとづく平和事業の一環で、15年前から毎年、中学生を広島・長崎に派遣してきた。今年は12人の中学生を長崎に派遣する。市の広報は下記ホームページからご覧いただける。「記憶」を次の世代にどう繋げていくかという難しいテーマに対する市と我孫子市民の挑戦と言ってよい。
https://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/kouhou/abiko/backnumber/
h31backnumber/20190801.files/190801_1S.pdf

 二面にもさまざまな平和事業が紹介されている。

派遣中学生について、我孫子市被爆者の会の的山ケイ子さんは語る。「私は原爆の話題をずっと避けてきた。派遣された中学生が、広島や長崎で聞いた被爆体験を堂々と小学生に語る姿に『あなたは被爆者として何をしてきたのか』と問われたように思った」。今年、彼女は中学生たちに同行する。懐かしい通学路を中学生と一緒に歩き、「平和を願う若者たちを連れてきた」と原爆で死んだ方々に報告したい、と抱負を語った。

<今年、長崎に派遣される12名の中学生のスケジュール>
8月8日 青少年ピースフォーラム参加、被爆者体験の聴講、被爆建物の見学
8月9日 長崎平和祈念式典参列、折り鶴の奉納、原爆資料館見学、インタビュー活動
8月10日 長崎歴史文化博物館見学

この他の我孫子市の事業を紹介する。
<「原爆に関する写真展」と「平和祈念の折り鶴展」>
8月6日~19日 アビスタ一階
<被爆74周年平和記念式典>
8月18日 午前9時30分~10時30分 会場 手賀沼公園「平和の記念碑」前
 黙とう、献花、派遣中学生の報告
<手賀沼灯篭流し>
8月18日 午後6時15分~ 手賀沼公園「平和の記念碑」前
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小さな町は効率が悪いという理由で市町村合併が盛んに行われた。人口13万人ほどの我孫子市も効率の悪い「ガラパゴス」みたいな町なのかも知れない。しかし小さな町だからこそ全体がよく見える。市民活動も活発だ。個人尊重の原点は「地方」にある。

2019.08.05 否定された安倍首相の改憲路線
護憲団体が参院選を総括

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 参院選が終わった。「改憲反対」を掲げて参院選を闘った護憲団体から、選挙結果に対する総括が相次いで発表された。そのうちの代表的なものの内容を紹介する。

 総選挙に向けてさらなる協力を―市民連合
 安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合(市民連合)は参院選直後の7月22日、「参議院選挙の結果を受けて」と題する一文を発表した。
 それは、冒頭部分で「この選挙では、多くの地域で市民と野党の共闘が実現しました。そして、32の1人区で10議席を獲得できました。また、改憲勢力の3分の2を打破することができました。自民党が現有議席を確保できず、参議院における単独過半数を失ったことにかんがみても、憲法改正を訴えた安倍晋三首相の路線が否定されたということができます」と述べ、「これは、日本の立憲主義と民主主義について危機感を燃やした市民と野党の頑張りの賜物です」としている。まさに、“勝利宣言”とみて差し支えないだろう。

 その一方で、一文は「残念ながら、安倍政権はさらに継続することとなりました。憲法改正の動きは一応頓挫しましたが、安倍自民党はこれから様々な形で憲法改正にむけた揺さぶりをかけてくることが予想されます。私たちは、引き続き立憲主義と平和国家を守るために運動を続けなければなりません」とし、さらに「この参議院選挙で野党共闘が一定の成果を上げたことをふまえ、次の衆議院総選挙に向けたさらなる協力を作り出すことが求められます。政権構想の深化と選挙協力体制の構築のために、市民と野党の対話、協力を続けていきたいと考えます」と述べている。

 改憲勢力3分の2を阻んだ運動に確信を―九条の会
 九条の会は7月29日、「参議院選挙後の新たな改憲情勢を迎えて」と題する声明を発表した。
声明は、まず「2017年5月3日の改憲提言以来、自民党は衆参両院における改憲勢力3分の2という状況に乗じて改憲を強行しようとさまざまな策動を繰り返してきましたが、その後2年にわたり市民の運動とそれを背にした野党の頑張りによって改憲発議はおろか改憲案の憲法審査会への提示すらできませんでした。そして迎えた参院選において、改憲勢力は発議に必要な3分の2を維持することに失敗したのです」と、こんどの参院選で改憲勢力を3分の2以下に追い込んだことを高く評価。
 続けて声明は「3分の2を阻止した直接の要因は、市民と野党の共闘が、『安倍政権による改憲』反対、安保法制廃止をはじめ13の共通政策を掲げて32の一人区全てで共闘し、奮闘したことです。また、安倍9条改憲NO! 全国市民アクション、九条の会が、3000万署名を掲げ戸別訪問や駅頭、大学門前でのスタンディングなど草の根からの運動を粘り強く続けることで、安倍改憲に反対する国民世論を形成・拡大する上で大きな役割を果たしたことも明らかです」と述べている。

 その上で、声明は「安倍首相は任期中の改憲をあきらめていません。それどころか首相は、直後の記者会見において「(改憲論議については)少なくとも議論すべきだという国民の審判は下った」と述べて改憲発議に邁進する意欲を公言しています」「安倍首相は、自民党案にこだわらないと強調することで、野党の取り込みをはかり3分の2の回復を目指すなど、あらゆる形で改憲強行をはかろうとしています」「安倍9条改憲を急がせる(米国の)圧力も増大しています」として、「参院選で3分の2を阻んだ市民の運動に確信をもち、3000署名をさらに推進し、広範な人々と共同して草の根から、9条改憲の危険性を訴える宣伝と対話の活動を強めましょう」と訴えている。

2019.08.04 「本日休載」

今日 8月 4日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2019.08.03 私が会った忘れ得ぬ人々(11)
前田常作さん ――絵は「行」であり「巡礼」

横田 喬 (作家)

 太平洋戦争敗戦の日から半月前の一九四五年八月二日未明、北陸の富山市を百数十機に上る米軍のB29爆撃機が襲った。二時間余の焼夷弾集中攻撃で市街地が全焼。約十一万人の罹災者を生み、死者が約三千人、負傷者は約八千人に上った。政令指定都市(広島など二十市)以外の地方都市では原爆被災地・長崎を別にすれば、全国で最悪の被害を被った。

 炎上する富山市街から十㌔余り南の田舎にある親類宅に、二つ年上の姉と私(当時十歳)に二つ下の弟の三人が疎開していた。両親や兄二人の身を案じつつ(幸い皆無事だった)業火が燃え盛る様を只々見守るしかない。子供心に彼我の科学技術力の圧倒的な差異を嫌というほど感じさせられ、日本はなんでこんなバカな戦争を始めたんだろう、と訝しく思った。

 空襲の翌々日、姉・私・弟三人で空襲で不通になった富山地方鉄道(富山市~立山山麓を結ぶ私鉄)の線路伝いに片道三時間ほどかけて富山市に到着する。市街地に入った途端、人体を焼く火葬場そっくりの何とも言えない嫌な臭いが充満していたのが今でも忘れられない。結局、両親や兄たちの避難先が判らぬまま、その日はすごすご引き返すほかなかった。

 富山県北部・入善町出身の洋画家・前田常作(敬称略)は、この空襲の一か月前に富山師範に在籍のまま徴兵検査を受け、市内の歩兵第三十五連隊に入営。地理に明るいからと空襲当夜は「市民誘導斑」に回され、市内の繁華街から市民を安全な地帯へ避難させる役目を負う。『朝日新聞』記者当時の私は彼を二度にわたりインタビューし、こんな証言を得ている。

 ――無差別じゅうたん爆撃で市内一帯が火の海。水に浸した筵を小脇に抱えて人々の避難誘導に当たった。避難先の神通川河原では、背中に火がついて燃える病気の人や、水面を流れる数々の死体、泣き叫ぶ親子らで地獄絵さながら。おばあさん二人が地べたに座り込んで「ナンマン、ナンマン(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)」と必死に念仏を口ずさむ。やはり応召した師範同級生の一人は直撃弾を受けて即死し、もう一人は重傷を負っています。

 富山県はよく「真宗王国」と言われるが、彼の亡父は真宗大谷派(東本願寺派)の檀家総代を務め、姉は真宗の寺に嫁いでいる。子供の頃から絵を描くのが好きで画家志望だった彼は戦後上京し、苦学しながら武蔵野美術学校を卒業。‘五五(昭和三十)年頃、広島で被爆~自殺した作家・原民喜の遺作『夏の花』を読み、富山空襲の折の記憶が蘇る。

――痛手を負った人間が光を求めるように踠くさまを前衛的に描ければ、と思った。
鎮魂への祈りを込めた抽象的なフォルムが作品『殖』シリーズに結実する。‘五七年、第一回国際青年美術家展で大賞を受け、翌年フランスへ留学が適う。パリで出会ったフランスの美術評論家から「あなたの絵には曼荼羅がある」と指摘された。曼荼羅はサンスクリット語で、曼荼は「心髄・本質」、羅は「悟る」の意である。そんな古色蒼然としたものではない、と初めは反発した。が、パリのギメー美術館へ通い、インドやネパール・中国・インドネシアなどの仏画や曼荼羅を見学するうち、考えが変わる。

「祈りが込められ、深遠なものが描かれている絵に一条の光を見出し、人々に感動を与えるものこそ美術の根源ではないか」と、思い至る。前田は「密教は深い教えで、悟らない人に悟ってもらうには図画を借りて示すほかない。空海は『請来目録』に、そう述べている。曼荼羅は宇宙の神秘な悟りへのいわば芸術的な視覚教育。いま流に言えば、テレビの考え方で悟りの境地を示したようなもの」と言う。

が、彼は日本に帰国後、自分なりの「曼荼羅」をいざどう描けばいいかの方法論を巡り、悶々とする。一年余りして、啓示を受ける。かつての日本人は『観音経』を読み、そこに生命の神秘を感じた。『般若心経』を読み、煩悩を離れる声明の知恵を見た。なぜ『観無量寿経』を、なぜ『法華経』や『観音経』などの仏典を自分は読もうとしないのか、と自問する。

中でも『観無量寿経』の観想の方法に惹かれた。西欧流の超現実主義的発想に近い、と感じたからだ。<恐ろしい地獄にも似た牢獄で、マガダ国王の后・韋提希夫人は釈尊の勧めに従って瞑想に耽り、光明燦然と輝く極楽世界を目の当たりにする。> 前田は毎朝、お経(『般若心経』ないし『理趣経』『観音経』の中の一つ)を上げてから仕事に入るのを日課と決め、絵日記を毎日描くことを「行」として己に課す。

――お題目や念仏・光明真言を唱えると、胸の中がすっきりし、集中力が湧いてくる。
経典や仏典が死後のことを説くのは、あくまで方便。根本は一瞬の生命をどう見つめるか。仏教は優れて現実的で、極めて現代的な教えです。東アジア唯一の仏教国に生きる我々は、もっと経典や仏典の教えを見つめ直す必要がある。

前田は四十代後半の頃、「絵を描こうという心は祈りの心につながっている」と西国巡礼の旅を発心する。熊野・那智の滝の傍らの那智山・青岸渡寺を手始めに、豊山・長谷寺、深雪山・上醍醐寺、新那智山・観音寺、補陀洛山・六波羅密寺、青葉山・松尾寺など西国三十三カ所の観音巡礼の旅をほぼ十年がかりで達成する。‘八九(昭和六十四)年、富山市で開いた回顧展で「西国巡礼シリーズ」の作品三十九点を初公開。ふだん美術館ではあまり見かけない素朴な感じのお婆さんたちも来場し、これらの作品に涙ぐんだり、手を合わせたりする姿が目立った。前田はこう言う。

 ――参拝で隣合わせたお爺ちゃんが、扉の向こうの観音様に「お参りさせてもらって有難うございます」と、お礼を言っている。目から鱗が落ちた。僕は感謝していないもんね。
 ――巡礼の原点は、見えない世界が見えるようになること。芸術も同じ。見えないものを見えるように表すわけだから。

 彼は密教の観法にある「入我我入」という言葉を大切にした。己が本尊に入り、本尊が己に入る。自分と本尊とが感応道交し、一体になる素晴らしい瞑想の法である。「両界曼荼羅を見ていると、入我我入が的確になされて描かれた感じがする。筆が生きているとは、描く対象と描き手が一体になっていること。真に素晴らしいものと出合った一瞬には無我夢中になって描く。何かが乗り移ったように対象との境目がなくなり、溶け込んでいく。そうした瞬間に出合うことが制作の至上の喜びなのだ」と説く。

 代表作の一つ「観想マンダラズ・シリーズ」では、画面下方に何百もの小さな仏像が遠近を付けて千体仏のように整然と描き込まれ、上方に大きな如来像が浮かぶ地平線に向かって、眩い光の波のように連なる。青っぽい色調の、どこか瞑想的な雰囲気を湛えた大画面は、壮麗な宇宙空間とその生命・霊気を感じさせる。

 ――北陸の暗い風土に育ったから、光に惹かれ、人間の内にある光明を描き出したい気持ちが人一倍強いのでしょう。私にとって、絵を描くことは「行」であり、「巡礼」なんです。
 こうして「曼荼羅の画家」と呼ばれるに至った前田は‘七九年に日本芸術大賞、’八九年に仏教伝道文化賞を受賞。京都市立大教授~武蔵野美大教授~同学長~同理事長を務め、二〇〇七年に八十一歳で亡くなった。

2019.08.02 新疆ウイグル地区を旅してきた―絶滅危惧民族のいま
――八ヶ岳山麓から(288)――

阿部治平 (もと高校教師)

初めて中国新疆ウイグル自治区を友人たちと訪れた。
出発前から私はかなり緊張していた。中国は、新疆で少数民族約100万人を拘束し収容施設に入れている、という国際的非難を浴びているからである。新疆の回族を除くムスリムは、ウイグル・カザフ両民族そのほかを合わせても1000万足らずなのに、100万が囚人というのは私には考えられないことであった。

この3月中国国務院が発表した「白書」によれば、2014年以降に同自治区で逮捕された「テロリスト」はほぼ1万3000人。また同じ2014年以降について、1588の暴力テロリスト集団を破壊し、爆発装置2025個を押収し、4858の違法な宗教活動で3万645人を処罰し、違法宗教資料34万5229点を押収したとして、「新疆でのテロ対策と脱過激化闘争は、常に法の支配の下に行われてきた」と主張している(AFP・時事2019・3・19)。
つまり、不法なテロがあったから取り締まったというのである。
出発直前、「週刊金曜日(7月5日)」に、「中国・習近平政権下で急速に進む弾圧、在日ウイグル人を救え」と題する水谷尚子氏の調査報告が載った。在日ウイグル人組織には右翼勢力の影響が強いこともあって、この手の報道は通常少ないのだが、水谷記事には、在日留学生らが新疆にいる家族と音信不通になるなど、悲惨な状況に置かれていることが綴られていた。

私たちの旅行は総勢8人だった。新疆ウイグル自治区の政府所在地ウルムチの空港に到着して以後は、戒厳令下さながらに検査された。警備当局は、鉄道駅やバスターミナル、高速道路の途中などで、わが団体の名簿とパスポートを要求し、いちいち顔認証技術によって点検をした。ウルムチからマイクロバスでトルファンに向かった時は、行きに3回、帰り1回の検査を受けた。街路やホテルなどいたるところにある監視カメラの画像も顔認証技術によって分析しているのであろう。
そのうえ、大きな町では城管(都市の治安機関)・公安(警察)・武装警察・特殊警察、さらには一般の警備員と、いたるところ黒い制服の治安要員があふれていた。そのなかにはウイグル人やカザフ人名とチュルク系の顔もあったし、防弾チョッキをつけた中年女性の姿もあった。

たしかに7月は、新疆政府にとって緊張の月である。
10年前の2009年7月5日に200人近い死者を出したウルムチ暴動があったからである。さらに5年前の2014年7月28日にも、タリム盆地のヤルカンドでウイグル人が地元政府庁舎などを襲撃して漢族を主とする死者37人を出し、対する当局は「テロリスト」59人を射殺し、容疑者215人を拘束した(千人単位の殺害があったともいう)。7月30日には、カシュガル市にあるエイティガール・モスクのイマーム(導師)ジュメ・タヒルが朝の礼拝後に刺殺された。同モスクでは1996年にもイマームのアルンハン・ハジ暗殺未遂事件が起きている。この二人は中国政府寄りの高位の人物だった(「八ヶ岳山麓から(113,115)」参照)。

検査、検査のあまりの煩わしさに私が不満を漏らすと、同行中国人が「この5年ほどの間に、警備強化によってウルムチは中国で最も安全な都市に変わったといわれている。警戒は緩やかになり、以前のように『菜刀』まで登録するという厳しさはなくなった」といった。菜刀とは料理用刃物である。これまで取り締まるのは滑稽に見えるかもしれないが、これは過去のテロにおいて民族主義勢力がナイフを使った経緯があるからである。

ウルムチからバスで数時間の観光地「天池」では、タリム盆地のアクスから来たというウイグルの男性グループに出会った。我々が日本人だと知ると、親しげに漢語(中国語)で話しかけてきたが、一人として頬ひげ・あごひげを生やしたものはいなかった。またウイグルやカザフの女性で頭髪から首までを隠して顔を出す「リチェク」をかぶったものもいなかった。
「星と月」、男性のひげ、女性のスカーフなど、ムスリムの象徴とされるものは一切禁止されているのである。観光客らしい女性の中にはスカーフを被った人がいたから、これは新疆のムスリムに限った禁令なのであろう。
ウルムチでは、モスクは3ヶ所しか見なかった。市内最大のモスクは商店になっていた。そこで金曜礼拝が許されているかどうかはわからなかった。私が5,6年住んだ青海省西寧市内には10ヶ所ほどのモスクがあったのだから、ムスリム社会としては異様な風景だった。

北部では思いがけなく、アルタイ地方へ行くことができた。アルタイ地区は中国・モンゴル国・ロシア・カザフスタンの4ヶ国の国境が接するところで、従来外国人は入れなかった土地である。
いわゆるシルクロードのオアシスは、夏は乾燥・酷暑が普通だが、アルタイ地方は冷涼で比較的湿潤、高山と湖、草原と森林に富む風光明媚の地である。このため近年、新興観光地として開放されたらしい。
人々はこの観光スポットの入口までそれぞれの方法で行き、関門で検査を受けると、その先は現地観光会社のバスで運ばれる仕組みになっている。観光スポットはどこも漢人を中心とする観光客で溢れかえっていた。

私たちはアルタイ山中のトゥバ民族村の丸太造りの民宿に泊まった。モンゴル国西部とシベリアのあいだにロシア連邦に属するトゥバ共和国があるが、中国領でトゥバ人に会えるとは思っていなかったので非常に驚いた。私たちが訪れた家族は、老夫婦が馬や牛羊とともに山の放牧地へ行っていて、若い夫婦が民宿経営をしていた。そこで酸味のある発酵バターとパン、乳茶をごちそうになった。
彼らの母語は、ウイグルやカザフと同じチュルク系トゥバ語だから、同行者のモンゴル語は通じなかった。ところが中国ではこの民族をモンゴル族に繰り入れているのである。中国には56の民族があるといわれるが、それは中国政府が民族として認めた数字であって、必ずしも実態を表してはいない。トゥバ人のように行政的に「消された民族」はほかにも存在するだろう。

アルタイ地方の観光地への途上、ヨーグルトを売って学費を稼いでいるカザフ人の小中学生と出会った。彼らはきれいな漢語を話した。聞くところによると、学校では教師が使う言葉も生徒同士の会話も、漢語以外の民族語を使うことはできない。使うと処罰されるとのことであった。
少数民族地域には普通学校と民族学校がある。民族学校では現地の民族語が原則であるが、近年モンゴル人・チベット人地域でも、政府は抵抗を排除して民族学校での漢語による教育を強行している。私たちが会ったカザフ人の少年らは、カザフ文字は小学校の低学年で学習しただけだと言った。
人懐っこいカザフ少年と同行者の会話を聞きながら、私は今年5月にNHKテレビが放送した四川省チベット人地域のルポを思い出した。そこでは、現地テレビ局のチベット人女性幹部が「漢族になること、これがチベット人にとっての進歩です」と語っていた。中国政府が望む少数民族像そのものであった。
こうして少数民族の文化と歴史は継承される術を失ってゆく。少年らが成人した時、カザフ民族はトゥバ民族と同じように、事実上は「消された民族」になり、中国人がいつも持つことを要求されている「身分証明書」の民族籍欄にのみその名を残すことになるだろう。

というわけで初めての新疆旅行で、私は「民族抑圧がある」という対中国非難を否定する積極的材料を発見することはできなかった。むしろ「抑圧があるから抵抗がある」という印象をさらに強くしたのである。

2019.08.01 再び徴用工問題を考える
韓国通信NO609

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 最悪の状態といわれる日韓関係。マスコミは、改善の出口が見えない、解決策がないとまで報じる。無責任な野次馬報道、政府主張の垂れ流し、お先棒を担ぐ新聞・テレビには本当に腹が立つ。彼らには解決策が見えないのは当然だ。あらためて問題点を考えてみた。

<アメリカに仲裁を期待する愚かさ>
 韓国にアメリカの仲裁を期待する向きがある。アメリカの舎弟(しゃてい)」を自認する日本がアメリカの仲裁なら受け入れると考えるのはわかる気がするが、アメリカの利益を優先する仲裁は将来に禍根を残すだけだ。日韓関係はこれまでアメリカによって歪められてきた歴史がある。当事国が真摯に向き合うことなしに真の解決は望めない。

<平和主義、協調主義をかなぐり捨てた安倍内閣>
 韓国を力で屈服しようとする安倍内閣の姿勢は、傲慢な差別主義者トランプ米大統領とそっくりだ。「戦後体制からの脱却」を目指す安倍政治の脱平和主義、脱協調主義は、「戦争法」の制定と同じく憲法改悪の先取り、憲法の蹂躙にほかならない。
 仮想敵を作りだしてナショナリズムの風を吹かすのは世界的風潮だが、アメリカを筆頭に経済的行き詰まりの兆候でもある。安倍内閣の「強がり」と「弱者切り捨て」政策は遠からず破綻する。国会の議席数では盤石に見えるが、庶民の不満は渦巻き、政権基盤は揺らぎ始めている。

<日本は正しい、韓国は間違っているという「決めつけ」>
 安倍政権に期待はしないが支持する人がかなり多いらしい。トランプ大統領を支持する現象に似ている。背信を山のように築いた政権を支持し続けるのは信じられないが、今回の参院選で不信感が広がっていることは立証された。自民党への支持者は有権者の20%前後だ。
 困った時の「隣国恃(たの)み」とはよく言ったものだ。人気落ち目の挽回策に隣国とことさら事を構える。古今東西、古典的な国民の支持誘導策だ。特に、オリンピックを来年に控え、「ガンバレ ニッポン」の「ノリ」で、対決ムードが軽く受け入れやすくなっているのかも知れない。 
 しかし、韓国との関係はスポーツの世界ではない。政府が撒いた不信の種が様々な民間交流に影響を及ぼし始め、政府のお墨付きを得たとばかりに憎悪(ヘイト)を声高に主張する勢力が勢いづいている。何が何でも、「韓国は間違っている」。「だから嫌い」という声が広がり始めている。
 首相とその取り巻き連中に共通する感情的な露骨な「決めつけ」。駐日韓国大使に「無礼」と発言してヒンシュクを買った河野外相の傍若無人ぶり。本当に恥ずかしい。

 問題の発端として1910年の日韓併合、1965年の日韓条約まで遡る必要があるが、ここでは、韓国大法院(最高裁)が2018年10月に新日鉄住金に賠償命令、続いて不二越、三菱重工にも同様の判決が続いたことから始めたい。
 日本政府は日韓請求権協定によって「すべて解決ずみ」と判決の無効と撤回を主張した。口を開けば「解決ずみ」という政府の主張が繰り返された結果、企業の加害責任が忘れ去られ、加害企業が被害者であるような理解が生まれた。日本政府は居丈高に「すべて解決ずみ」という姿勢から一歩もでない。
 オウム返しのように繰り返される政府の「見解」は正しいのか。政府を批判する法律家、学者たちの意見は発表の場すらない異常な状況が続いている。「すべて解決ずみ」への疑問を「韓国通信」NO576、NO585、NO596でも取り上げた。それほど難しい話ではないが、一般のマスコミも政府見解を前提にした状況が続いている。責任を問われた日本企業の前に政府が立ちはだかり、国益ばかりを主張する異常さに気づいてもらえるとうれしい。

<円満解決のチャンスを壊した安倍政権が押した「横車」>
 ◇日本は韓国最高裁判決の撤回を韓国政府に求めた。三権分立の韓国では行政府が最高裁判決の撤回を求めることは出来ない。かつてアメリカの圧力で「伊達判決」を最高裁で葬ったことのある日本は、アメリカ気取りで韓国に撤回を求めた。
 ◇「解決ずみ」と日本は主張するが、日本政府の公式的見解「国家間の請求権の問題は完全に消滅したが、個人の請求権は消滅していない」と矛盾する。(1991年8月27日参議院予算委員会)。国家間で解決ずみでも個人の請求権は、国際的にも認められた権利だ。
 さらに日本の最高裁でも請求権を認めている。中国人が強制連行による被害の賠償を求めた西松建設事件では請求権にもとづき和解による実質的賠償が行われた。花岡事件でも鹿島建設と和解による解決が行われた。今回の日本政府の介入で解決のチャンスが失われたことになる。原告側の強制執行に大騒ぎするが、そこまで追い込んだ責任は日本政府にある。政治献金の見返りに政府が加害企業をかばった疑いもある。加害企業の釈明は何も無い。

<日韓条約・請求権協定から問われる歴史認識>
 政府は締結済みの日韓条約・日韓請求権協定を主張するが、条約・協定について、今回あらためて慰安婦問題、徴用工問題等の諸問題点が明らかになった。「未来志向」の観点からも日韓正常化のために再検討が必要だ。
 日韓条約の合計5億ドルの経済協力金は賠償ではない。資金の使途は「経済の発展に供する」ものと定められた。植民地支配への謝罪を回避するために「経済協力」。個人が補償を求めると、「経済協力金」で賠償ずみというのは矛盾している。損害賠償と経済協力の都合の良い使いまわし。 
 日韓正常化交渉を振り返る。予備会談(1951)から始まり締結まで15年かかった。この間の交渉は侵略を正当化する日本側の発言で度々中断された。日本の侵略の歴史を「鉄道を敷いた」「学校を建てた」「経済発展に貢献した」などと侵略と搾取を正当化し続けた。それでも締結に至ったのはアメリカが締結を急がせたこと。朝鮮戦争によって荒廃した国土再建を急ぐ朴正煕軍事政権と日本政府の政治決着によるものだった。それは締結当時から韓国国民に屈辱的なものだった。
 「経済協力金」で韓国が奇跡的な経済発展をとげたのは事実だが、日本には植民地支配に対する旧態依然とした歴史認識が反省も無いままに残った。

 韓国・北朝鮮に対しては、何を云っても、何をしても構わないといった尊大ぶり。徴用工問題から火が噴いた輸出制限という「経済制裁」からも明らかだ。相手の主張は認めず、韓国・北朝鮮に対しては、何を言っても、何をしても構わないといった尊大ぶり。徴用工問題に目を向けようとしない政府の姿勢からは、かつて朝鮮・中国へ侵略を進めた驕りの気分さえ感じさせる。日韓条約にもとづく仲裁委員会の設置に韓国が応じなかったという非難も姑息だ。仲裁委員会で解決する見通しは皆無である。時間稼ぎをして韓国が悲鳴をあげるのを待つ狙いだ。韓国側の怒りを知ろうともせずに、「明らかに国際法違反」などと外務大臣が居丈高に口走る姿は理解に苦しむ。
 問われているのは日本か韓国か。歩み寄るべきはどちらなのか。

2019.07.31 新宿ゴールデン街は日本の未来か幻想か
       極めて稀な多文化で平和な安全地帯

杜 海樹(フリーライター)

 東京新宿のゴールデン街と言えば、300店ほどのバー等が長屋形式で軒を連ね、朝まで呑だくれの溜まり場として名を馳せて来た所であり、よいイメージで語られることはほとんど無かった。戦後の闇市から、青線、新宿騒乱、ボッタクリ、地上げ屋騒動・・・とあり、怖い街の代表格のようにも言われてきた。しかし、時は流れ、あろうことかミシュランにも掲載され星2つもいただく日本を代表する安全で優良な観光地へと変貌して来たのだ。筆者自身もゴールデン街に通って長いが、客層の変化は十分実感できるものとなって来ている。

 現在、新宿区には127カ国の外国籍の方々が住民登録をして暮らしている。東南アジアや欧米に限らず、ありとあらゆる国の方々が住んでいると言っても過言ではない。そして、ゴールデン街にやってくる客層も、中国、韓国、ベトナム、アメリカ、オーストラリア、フランス、イタリア・・・と様々になっている。中でも欧米からの観光客はひっきりなしで夜な夜な言語を飛び越えた交流で盛り上り幸せな一時を過ごしている。国際交流という言葉が抽象的に使われることは多いが、実態として国際交流現在進行形の現場というものはなかなかあるものでもない。人種の坩堝とはまさに現在のゴールデン街のことと言っても過言ではなく、この光景を是非とも時代の一証人として目撃していただければと思う。
 
 第二次世界大戦以降、新宿区には中国や韓国出身の方々が数多く住んでおり、近年では新大久保のコリアタウンが有名となっているが、大久保周辺には国際交流促進のNGO等も多くあり、2000年にはゴールデン街の隣にある新宿区役所付近を拠点としたイベント「多文化探検隊」も開催されている。そして、国の違いを超えて助け合う関係を作り出していくことが模索され、母国語が異なる人々が集っての防災訓練も実施され一定の成果も共有されている。その甲斐あってか、新宿区のホームページは英語・韓国語・タイ語・フィリピン語・中国語・フランス語・ベトナム語・インドネシア語等々14カ国語で見られるようになっている。日本においては国際交流は笛吹けど踊らずという感が拭いきれないが、海外からの観光客がどっとやって来る中、少子高齢化・建築物の老朽化等が進む日本において、他とは少し異なるゴールデン街周辺の存り様は一つの未来の手本となり得るかも知れない。現状では地元の日本の方々がやや押し出されてしまっている感はあるが、多文化との共存が今後とも継続発展していくのか、それとも一瞬の幻想で終わるのか、まだその答えは誰も知らないが少しでも良い方向に行ってもらえればと思うところだ。

 ゴールデン街には経営者にもお客にも有名人というか一目置かれる方々が少なくない。歌手や俳優、作家や写真家といった職業の方々はひとつも珍しくなく、ギター片手に店を渡り歩いた流しの故・マレンコフ氏(ソ連時代の最高指導者マレンコフに似ているとのことから皆からそう呼ばれていた)やタイガーマスクのお面を被って新聞配達を続けている新宿タイガー氏などはゴールデン街で知らない人はいない有名人だ。お二方ともドキュメンタリー映画の主人公になっているので、詳しくは何かの機会にでも映画を見ていただければと思うが、自分自身の独自のスタイルを貫いて平和を願い、人生の伴奏者としてゴールデン街にやってくる人々に寄り添う姿は圧巻でもあり小気味良い。地域の独自性といったことが声高に叫ばれる今日だが、マレンコフ氏や新宿タイガー氏ほど地域の独自性に根付いたスターはいないであろう。

 ゴールデン街の店舗はどこも非常に小さい。3坪から5坪程度が平均値といったところで、狭い店の中に大きな体の外国人観光客が肩をすぼめて座っている姿は何ともユーモラスでもある。ある時、何でこんな狭いところにわざわざやってくるのか?と質問したことがあるが、返ってきた答えは「こんな狭い店は自分の国にはない」、「皆と話せて楽しい」といったものであった。

 日本には古来から茶の文化・侘寂の文化があるが、ゴールデン街の狭小空間は侘寂に通じているのかも知れないと思うこともある。バーカウンターの中の主は千利休、テーブルの上のグラスは茶器、壁の張り紙は掛軸・・・そう考えると狭い飲み屋の向こう側にも無限の宇宙が拡がっているように思えてくる。ゴールデン街の一時が誰にとっても結構なお点前でしたであってほしい。