2019.12.03 “ローカリゼーション”広がる―― 「しあわせの経済」国際フォーラム報告<上>
世界が注目する自然との共生型生活―沖縄・西表島の「紅露(クール)工房」

伊藤三郎 (ジャーナリスト)

 世界を覆う「トランプの闇」の先を見据えて、ローカリゼーション(地方からの改革)のネットワークが広く静かに展開中 ― 先月の9,10両日、横浜市戸塚で開かれた『「しあわせの経済」国際フォーラム2019』(以下、「しあわせフォーラム」)に参加。パレスチナ、タイ、メキシコ、沖縄など世界の各地でそれぞれの改革に取り組む人々の活発な議論や報告に耳を傾けて、それでも世界は前進している、と確信した。
 この集まりは、ローカリゼーションのリーダー、スウェーデン生まれの言語学者、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん(メモ1)の呼び掛けに、NGO「ナマケモノ倶楽部」代表の文化人類学者、明治学院大学教員の辻信一さんがそのパートナーを務める国際的な運動。その年次集会である国際フォーラムは、日本では1昨年11月に始まり、今年は3回目。会場を過去2回の東京から辻さんのホームグランド、明学大の横浜キャンパスに移し、内外の経済学者、地球環境保護運動のリーダーや学生を中心に2日間で延べ約1700人が会場を埋め、熱心な論議や報告が繰り広げられた。
IMG_1448 ヘレナ
「ローカル経済から改革を」と呼びかけるヘレナ

 「われわれがビッグ・ピクチャー(大きな改革構想)を共有し、その目標に向かって協力を続ければ世界は変えられます」
 昨年は「東京フォーラム」直前の急病で欠席し、今回2年ぶりに元気な姿を見せたヘレナは、意気軒高、ハリのある声で約30分の開会宣言を ―
 「いま世界の貿易はとんでもないことに ― 米国では1年あたりの輸出入が、たとえば砂糖は輸入7万1000㌧ンに対して輸出8万3000㌧、牛肉同じく95万㌧対90万㌧、英国でも牛乳を11万4000㌧輸入する一方で11万9000㌧を輸出、パンは17万㌧対15万㌧・・・」
グローバル化、大企業中心、成長神話に基づく国際貿易は、いまこんな大きな無駄、矛盾を抱えていることを表す一覧表を提示して、ヘレナの熱弁が続く。
「その一方で、“地産地消”のローカル経済が国全体を動かす力にも。地域の手作り農業生産、地元食材を使った地元の店舗、地域のマルシェ(朝市など)、地域通貨などがローカル経済を活性化させ、大きな改革への希望を膨らませているのです」
「気候変動、多くの動植物の絶滅危機、生態系の破壊、失業、不平等、貧困、ストレス、うつ病の蔓延、原理主義、テロ、民主主義の腐敗、政党の極右化・・これらの問題が底流でつながっているということは、解決策も繋がっているということ。こうした底知れぬ難問に目を奪われるよりも、身の回りから少しずつでも経済の仕組みを変えていきましょう」
改革運動のパートナー、辻さんはヘレナが舞台に立つと「本当に表れてくれるのかひやひやしていた」と胸をなでおろし、彼女の話が終わると「この沢山の問題にはそれぞれ専門家が存在するが、全体として解決するには(学問の領域を超えた)大きな構想、彼女の言うビッグ・ピクチャーが不可欠。その大切なことをみなさんの一人一人が認識することが本当に大切なんです」とコメントして、舞台から去るヘレナを見送った。
 
 ところで、私がこの「しあわせの経済」運動の着実な歩みに注目したのは昨年9月下旬からの2週間、英国イングランド西南部の小さな町、トットネスに逗留したのがそのきっかけ。「トランジション(transition)・タウン(town)・トットネス(Totness)」を略して“TTT”と呼ばれるこの町は、トランジション(改革途上)のシンボルとして知られる。
この美しい古都の住民約8000人が「Small is Beautiful (小さきことは美しい)」(メモ2)をモットーに「しあわせの経済」を探すいきいきとした生活ぶりを『「危機を好機に」 ― 英トットネス遠回り紀行』と題して本誌に連載(2018年10月23,24日号)。
 それから1年余、今年の横浜「しあわせフォーラム」に世界の各地から集まった改革運動の指導者、専門家らの活発な議論と報告を聞き、私は記者OBら仲間内のブログ新聞に、世界は混乱の中にあるが「ローカリゼーション(地方からの改革)は着実に進んでいる」と書いた(「メディアウオッチ100」2019年11月13,15日連載『「しあわせの経済」国際フォーラム2019・報告』)。本稿はそれを手直しした、上記『「危機を好機に」 ― ・・』の続編である。

 その中で、この「しあわせの経済」運動の元祖にしてシューマッハー・カレッジ創設以来の校長、インド人の思想家サティシュ・クマールさんが米トランプ大統領出現以来、折に触れて口にする「危機を好機に」という以下のような持論を紹介。
 「危機は同時に好機でもあります。イギリスのEU(欧州連合)離脱やアメリカのトランプ政権の誕生なども、見方によってはナショナリズムの意味を改めて考える絶好の機会なのです。(中略)偏狭なナショナリズムは“小さな心と大きなエゴ”の産物。一方、ローカリズム(地域主義)とインターナショナリズム(国際主義)は補完関係にあり、それを合わせた“グローカリズム”とは“大きな心と小さなエゴ”の組み合わせを意味するのです」

拙稿のタイトルにした「危機を好機に」という逆転の発想は、「改革途上の町」トットネスの人々の日常生活を支え、この「しあわせフォーラム」の一貫したテーマであるローカリゼーションの推進力にも。そして、地球の危機を救うには経済の限りなき巨大化、グローバル化を止め、ローカル化、人と人、地域と地域のつながりと自然との共生を、というヘレナの教えを自ら体現している「しあわせ経済」のお手本のような女性が今度の「しあわせフォーラム」に招かれた。
 沖縄・西表島に住む染色家、「紅露(クール)工房」主宰の石垣昭子さんがその人(メモ3)。
「地域文化の再生:江戸時代と先住民文化から学ぶ」という分科会(10日)で、尊敬する田中優子・法政大学長らと席をともにした石垣さんは、東京で生活していた自分が「西表島に戻ろう」と決めたのは、人間の幸福、地域の文化にとってその土地固有の布の力がいかに大切かを田中さんから教えられたから」と、その田中さんに謝意を伝えるように振り返った。
 「紅露工房」は石垣昭子さんと夫・金星さんの生活の場であり、同時に芭蕉布を中心とする糸・布・染色の研究にとどまらず、世界中の布・染色の専門家やローカルの生活と経済を研究しようという辻先生の教え子たちの修行・研修の場ともなっている。
 石垣さんは「西表島の歴史・伝統と美しい自然の恵みの中で私たちの芭蕉布作りや藍染めなどの染色の技術は守られ、再生されてきました。こうした自然との共生は年中行われるお祭りの祭事とも一体であり、自然から生きる力を与えられることを、世界中から集まる繊維の専門家や学生たちに伝えていくことが私たちの使命」と静かに語った。
西表島で開かれた国際交流ワークショップに参加したインド人のデザイナーが「ここはアーティストにとって楽園」とコメントした。その「紅露工房」が1980年に設立されたあと、どのように肉付けされてきたか、詳しくは『紅露工房シンフォニー』を読んでいただくしかないが、明治学院大・辻教室の卒業生の何人かはすでに西表島に住み着き、地元の人たちとともに「しあわせの経済」の実践に励んでいる。
 こうした若者たちが地方に戻り、住み着く傾向は一時の流行にとどまらず、いまや世界史的な流れとなってきた、と辻さんは見ている。
IMG_1481 トーク
トークショーで語る辻信一、田中優子、石垣昭子、亭田歩の各氏

(メモ1)ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ 1975年外国人入域が許可されたインドの高地、ラダック地区への最初の移住者の一人、言語学者。急速に進む開発とそれに伴うラダック文化と自然環境の破壊を憂い、地元の人々とともに「持続可能な発展」を目指す運動に取り組んだ。そのリポート『ラダック 懐かしい未来』は40ヵ国以上で翻訳されて世界中に大きな影響を与え、「しあわせの経済」フォーラムを世界各地で開き、国際ローカリゼーション運動の先端に立ち続ける。
(メモ2)「スモール イズ ビューティフル ― 人間中心の経済学」 ドイツ・ボンで生まれナチスの圧政からロンドンに逃れて、第二次大戦後英国に帰化した経済学者、E.F.シューマッハー(1911~77年)の処女作のタイトル。産業革命後の機械化、経済成長至上主義へのアンチテーゼとして再評価されつつある。その思想を伝える場として1991年トットネス近郊に大学院大学シューマッハー・カレッジが設立され、シューマッハーを信奉したインド人思想家のサティシュ・クマールさんがその初代校長に。
(メモ3)『西表島・紅露工房シンフォニー ― 自然共生型暮らし・文化再生の先行モデル」』(石垣昭子・山本真人 共著、地湧社)
<続く>

2019.12.02 崩壊する大学入試改革
記述問題をめぐって

 小川 洋(大学非常勤講師)

 現・高校2年生が受験する予定のセンター試験に代わる大学入学共通テスト(以下、共通テスト)が、収拾のつかない事態になっている。今回の「改革」の最大の柱は、民間英語検定の利用と記述式問題の国語と数学への導入の二つだった。英語検定は11月1日に導入の見送りが発表された。全国の相当数の高校生がすでに受検予約金(3000円)の支払いを済ませ、1日は各高校が生徒の受検登録の申請を入試センターへ発送する当日、という混乱ぶりだ。
 
記述問題では、すでに数学での導入が見送られる方向になっている。昨年行われた試行調査(プレテスト)では、一部の問題の正答率がわずか3.4%だった結果を受けてのものである。ほとんどの受験生が答えられない問題では、試験自体が無意味になる。中教審会長として今回の改革をリードしてきた安西祐一郎氏(元慶応大学塾長)は、この報道を受けて、「出題に対応できていない高校以下の教育が悪い」と、八つ当たり気味の反応をしたという。
 
さらに国語でも雲行きが怪しくなっている。文科省自身が国公立大学に対し、国語の記述問題の成績を二段階選抜(二次試験への足切り)に利用しないよう要請することを検討しているという。国語の記述問題は、80~120字で解答する問題と、より少ない字数で解答する2問が予定されている。採点は5段階の総合評価であるが、試行調査の分析結果から、評価の信頼性を十分に担保できないことが明らかになったからである。どれほど慎重に実施しても、採点担当者によって評価が異なることが避けられないことを、文科省が認めたのである。そのようなテストで、各大学の個別試験に進めるか否かが左右されては、入試の大前提である公正さが保証できない。今後、私大も含めて、記述問題部分の得点を選抜に使わない大学が続くことが予想される。もともと建付けの悪かった改革の看板は、今や釘一本でかろうじて留まっている状態である。

今回の改革案を検討する一連の会議のなかで学習評価法の専門家などから技術的な問題点などを指摘されても、安西氏は、「技術問題はいずれ解決できるはずだ」と、自説を貫いたという。しかし例えば、複数の民間英語検定を比較する一覧表は、最後まで疑問が投げかけられ続けた。例えば、英語圏の大学で学ぶための能力検定とビジネス現場での英語能力を問う検定を同列に扱えるはずがないことは、まともな研究者には初めから分かっていたことだ。一事が万事で、今回の改革は基本的な問題を無視して突き進んできたというしかない。

記述式問題についても同様だ。そもそも中教審答申などを読んでも導入する必要性や理由について、まともに説明されていない。多肢選択式問題では記憶力しか測れず、「これからの社会で求められる」とする「思考力、判断力、表現力」を測れない、という程度の漠然とした問題意識しか読み取れないのだ。改革案の具体化を検討する作業部会を経て出されたのは、最大で百数十字の文章作成という結論だった。本場フランスのバカロレアでは、必須科目の哲学で4時間に及ぶ論述が求められることはよく知られている。さすがにそこまで踏み切れるとは、筆者も考えていなかったが、字数を聞いて桁を間違えているのではないかと一瞬耳を疑ったほどだ。

散文での表現は基本的に、問題設定、展開、結論の最低でも三段階で構成される。地方公務員試験や教員採用試験の論述試験は、600~1200字程度とされる。120字の文章で、どのような学力を確かめようとしているのか、まともな説明はなされていない。さらに、第一回の試行調査では正解率が極端に低く、二回目のプレテストにおいて、本文中から適切な語を探させるなど、解答への誘導をするように問題を修正したという。ならば、多肢選択式で十分ではないか、と突っ込みを入れたくなるような有様なのである。

 今回の入試改革の発端は、民主党政権末期の12年11月に出された自民党内の教育再生実行本部の中間報告にまで遡る。そのなかで、大学入試については、「日本版バカロレアの創設」と「英語テストへのTOEFL等の導入」の二つが掲げられていた。しかし、日本版バカロレアを「高校在学中も何度も挑戦できる達成度テスト」とした点で、すでに提案は破綻していた。フランスのバカロレアは年一回行われる論述式テストであり、10万人の採点者が動員される大事業である。複数回受験可能なのは、アメリカの大学進学適性テストのSAT (Scholastic Assessment Test)であるが、基本的にマークシート方式で、コンピュータによって統計的に処理される。両立するはずもない入試制度である。教育学の専門家に意見を求める謙虚ささえあれば、犯しえない誤りである。
「論述式(バカロレア)」と「英語の民間検定試験」の二つの「改革」の源流は、ここにまで遡れるが、このような居酒屋談義に類する議論から実際の政策が進められる傾向は、この直後に成立した第二次安倍政権の体質のように思われる。無内容な「改革」に振り回されている教育現場と生徒たちにとっては、とんでもない災難である。抗議活動が広がって政権が倒れてもおかしくない事態である。

 仮にこのまま記述式問題の導入に突き進むとして、その採点がなぜベネッセなのか。記述問題部分の採点は、ベネッセが4年間60億円あまりで引き受けることになっている。現在、小6と中3の生徒に学力調査が悉皆調査で行われ、その採点業務を、毎年のようにベネッセが落札し、その実績があるということなのだろうが、短期アルバイトを動員して採点業務を遂行してきた経験があるということでしかない。
 
より確実で信頼性の高く安く済む方法を提案したい。筆者が専門とするカナダでも、ほとんどの州で学力調査が実施されている。公用語である英語とフランス語のテストでは、示された文章の要約を書かせる、与えられたテーマでエッセーを書くなど、基本的に記述式である。採点に当たるのは、おもに退職教員や現職教員である。6月に実施された調査の解答は州都などに運ばれ、夏休み中に採点される。日本でも教員を動員することは可能なはずだ。
 
新しい共通テストも、従来のセンター試験と同時期の1月第3週の週末に行われる。多くの高校では1月半ばに「家庭研修」という名目で3年生の授業は無くなっているから、現職教員も相当数動員できる。これに加えて退職5年以内程度の元教員を動員すれば人数は十分に揃う。2000人ほどを集め、研究者などが統括すればよい。各県の青少年会館のような宿泊施設で1週間ほど缶詰になってもらう。原稿用紙半分にも満たない分量である。3人一組で約750枚を評価するのには5日間ほどあれば十分だろう。日当、交通費、宿泊施設および食費を含めて一人15万円として、3億円で済む。会場費などを加えても5億円もあれば十分だ。ベネッセへの委託費の半額以下である。それとも、今回の改革は「ベネッセのための改革」なのだろうか。

なお、今回の大学入試改革の経緯については、筆者の『地方大学再生』(朝日新聞出版、2019年)の第七章「迷走する大学入試改革」で詳しく述べているので、参照していただきたい。

2019.12.01 「本日休載」
今日12月1日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会

2019.11.30 ローマ教皇のメッセージに賛同する
       平和アピール七人委がアピール

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 世界平和アピール七人委員会は11月28日、「ローマ教皇の長崎・広島でのメッセージに賛同する」と題するアピールを発表した。同月23日に来日したローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は24日、原爆被爆地の長崎と広島でメッセージを発したが、七人委はその内容を高く評価し、それに全面的に賛同するとの見解をまとめ、それをアピールという形で発表した。
 アピールは、教皇がメッセージの中で述べた内容は、日本国憲法第九条の精神に合致するものであり、さらに、一昨年に国連で採択された核兵器禁止条約の趣旨にも合致すると述べている。

 世界平和アピール七人委は、1955年、物理学者・湯川秀樹らにより、人道主義と平和主義に立つ不偏不党の知識人有志の集まりとして結成され、国際間の紛争は武力で解決してはならない、を原則に日本国憲法擁護、核兵器禁止、世界平和実現などを目指して内外に向けアピールを発表してきた。今回のアピールは135回目。
 現在の委員は、武者小路公秀(国際政治学者)、大石芳野(写真家)、小沼通二(物理学、慶應義塾大学名誉教授)、池内了(宇宙論・宇宙物理学、総合研究大学院大学名誉教授)、池辺晋一郎(作曲家)、髙村薫(作家)、島薗進(宗教学、上智大学教授)の7氏。

アピールの全文は次の通り。

       ローマ教皇の長崎・広島でのメッセージに賛同する
       世界平和アピール七人委員会
 

  武者小路公秀 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 髙村薫 島薗進

 2019年11月24日、フランシスコ教皇は長崎爆心地公園と広島平和公園で二つのスピーチを行った。そこで教皇は、1945年8月に広島・長崎に投下された原爆により尊い生命を失った人々、その後も苦しみと悲しみのなかで生きてこられた方々の苦難を思い起こしながら、その悲劇を忘れてはならない、繰り返してはならないと述べている。
 教皇は「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。二年前に私が言ったように、核兵器の所有も倫理に反します」「核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません」、さらに核兵器や大量破壊兵器の所有について「それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人との関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです」と明言している。

 現代世界の代表的な宗教指導者のこれらの言葉は、すべての人々の良心に訴えたものであり、とくに原爆投下による悲惨な結果を忘れることない日本の多くの人々の心に響くものである。同時に、それは日本国憲法第九条の精神に合致したものである。
 フランシスコ教皇の二つのメッセージは、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約の趣旨にも合致したものである。そして日本を含め、この条約を受け入れようとしない国々の政治指導者が頼る「核抑止力」という偽りの理論を問い直してもいる。核兵器をめぐる日本の政府与党の現在の姿勢が厳しく問われていることも明らかである。
 私たち世界平和アピール七人委員会は、この力強いメッセージに深く共鳴し、その趣旨に賛同し、それが広く共有されることを願う。とくに、現代世界の宗教や学術や文化活動に携わる人々からも、こうした声がさらに高まっていくことを強く期待したい。

2019.11.29 大賞に京都新聞の「旧優生保護法下での強制不妊手術に関する報道」
         2019年度の平和・協同ジャーナリスト基金賞
                                       
岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 反核・平和、協同・連帯、人権擁護等を推進するための報道に寄与したジャーナリストを顕彰する活動を続けている市民団体の平和・協同ジャーナリスト基金(PCJF。代表委員、歴史学者・色川大吉、ジャーナリスト・田畑光永の両氏ら)は11月28日 、2019年度の第25回平和・協同ジャーナリスト基金賞の受賞者・受賞作品を発表した。

 基金賞の選考は太田直子(映像ディレクター)、鎌倉悦男(プロデューサー・ディレクター)、高原孝生(明治学院大学教授)、鶴文乃(フリーライター)、前田哲男(軍事ジャーナリスト)、本間健太郎(芸能クリエーター)の6氏を審査委員とする選考委員会で行われた。基金の運営委員会に寄せられた候補作品は61点(活字部門33点、映像部門28点)で、この中から次の8点を選んだ。

基金賞=大賞(1点)
 京都新聞社取材班の「旧優生保護法下での強制不妊手術に関する一連の報道」

奨励賞(7点) 
 ★沖縄タイムス編集局の「権力の暴走をただし、民主主義を問う一連の報道」
 ★ドキュメンタリー映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」
  <佐古忠彦監督作品、TBSテレビ>
 ★ドキュメンタリー映画「誰がために憲法はある」<井上淳一監督作品、(株)ドッグシュ
  ガー>
 ★共同通信記者・平野雄吾さんの「入管収容施設の実態を明らかにする一連の報道」
 ★朝日新聞記者・三浦英之さんの「南三陸日記」<集英社文庫>と朝日新聞連載「遺言」
 ★揺るがぬ証言刊行委員会の「揺るがぬ証言 長崎の被爆徴用工の闘い」<自費出版>
 ★信濃毎日新聞編集委員・渡辺秀樹さんの「連載企画 芦部信喜 平和への憲法学」と関
  連スクープ

基金賞=大賞に選ばれた、京都新聞社取材班の「旧優生保護法下での強制不妊手術に関する一連の報道」は、旧優生保護法下で、特別の疾患や障害を理由に子どもを産む権利を国に奪われながら、謝罪も補償もないまま沈黙せざるを得なかった人たちの存在を明らかにした報道である。旧優生保護法下での強制不妊手術を受けたハンセン病患者やその家族には補償金を支給する法律が施行されているが、同じ目にあった精神障害者や聴覚障害者らはほとんど放置されたまま。そうした実態を3年間に及ぶ綿密な取材で掘り起こした報道で、選考委では「見事な報道活動」「世界でも、日本でも、これまで不当に差別され、虐げられてきた少数派の人々の人権を回復しようという動きが強まりつつある。これは、そうした動きに即応したタイムリーなキャンペーンと言える」と絶賛された。
 選考委によると、人権侵害問題をテーマとした報道活動に大賞が贈られたのは初めてという。

奨励賞には活字部門から5点、映像部門から2点、計7点が選ばれた。
 沖縄タイムス編集局の「権力の暴走をただし、民主主義を問う一連の報道」は、沖縄県宮古島市がゴミ事業をめぐって市民を名誉毀損で提訴する議案を市議会に提出するというスラップ行政訴訟の異常さや、今年施行された改正ドローン規制法が報道の自由を侵すのではないかと指摘した報道である。選考委では「安倍政権登場以来、政府や自治体による民主主義を侵害する権力の行使が目立つ。これに立ち向かった新聞社のキャンペーンに敬意を表したい」「本土の新聞では改正ドローン規制法に関する報道が少なかった。その危険性を伝えた紙面は非常に優れたもので、顕彰に値する」と評価された。

 共同通信記者・平野雄吾さんの「入管収容施設の実態を明らかにする一連の報道」は、強制退去を命じられた外国人を拘束する法務省出入国在留管理庁収容施設の非人道的な実態を明らかにしたもの。選考委では「入管収容施設における外国人に対する非人道的な扱いは、一般の人にはほとんど知らされていない。それを明らかにした先駆的な報道」「この一連の報道で他紙もこの問題を取り上げるようになった点を買いたい」といった声が上がった。

 朝日新聞記者・三浦英之さんの『南三陸日記』と朝日新聞連載『遺言』は4編あった原発関係の作品の中から選ばれた。東日本大震災直後、津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町に約1年間暮らしながら被災した人たちを取材し続けた記録をまとめたのが『南三陸日記』、東日本大震災に伴って起きた東電福島第1原発事故の被災自治体の一つである福島県浪江町町長へのインタビューをまとめたのが『遺言』だある「被災地に長期間常駐して書いた記録だけに被災住民の苦しみ、悲しみが実に子細にかつ深く描かれていて、心打たれた」「原発事故で全町民避難を強いられた浪江町民の苦難がひしひしと伝わってきて、原発による放射能禍がいかに恐ろしいものであるかを改めて知らされた」との評価だった。

 揺るがぬ証言刊行委員会の「揺るがぬ証言 長崎の被爆徴用工の闘い」は、戦時中、三菱長崎造船所に徴用され、被爆した3人の韓国人が被爆者手帳を長崎市に申請したものの却下されたため、国と長崎市を相手取って提訴し、今年1月、長崎地裁で勝訴するまでの経緯を記録したものである。「勝訴までの経緯が実によくまとめられている」「徴用工の闘いから、改めて日本の対朝鮮植民地支配について考えさせられた」「日韓両国民による献身的な支援活動が判決に影響を与えたとの印象を受けた。このことは特記されるべき」との意見が相次いだ

 信濃毎日新聞編集委員・渡辺秀樹さんの「『連載企画 芦部信喜 平和への憲法学』と関連スクープ」も高い評価を得た。「戦後の総決算」を目指す安倍政権はいよいよ本格的な改憲作業に乗り出した。このため、護憲派としては、堅固な改憲反対論を展開することを迫られているわけだが、平和憲法制定以来、護憲派の憲法論をリードしてきた1人が憲法学者の芦部信喜(長野県駒ヶ根市出身)だ。その芦部の軌跡を追いながら、彼の徹底的な平和主義がどのようにして形成されたのかを明らかにしたのがこの37回にわたる連載である。選考委では「芦部の平和主義の原点が何なのかよく分かる」との賛辞が寄せられた。「関連スクープ」とは、長野県知事が県護国神社の崇敬者会長を務めたり、神社への寄付集めに関わっていた事実などをすっぱ抜いた報道で、こうした行為は憲法違反では、と警告している。

映像部門から奨励賞に選ばれた2点はドキュメンタリー映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」<佐古忠彦監督作品、TBSテレビ製作>と、同じくドキュメンタリー映画の「誰がために憲法はある」<井上淳一監督作品、(株)ドッグシュガー製作>である。
 「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」は、沖縄の政治家・瀬長亀次郎の生涯を描いた作品。沖縄の本土復帰後、国会議員に当選した瀬長は国会で「1リットルの水も一握りの砂も一坪の土地もアメリカのものではない。沖縄の大地は基地となることを拒否する」と訴えるなど、沖縄県民のリーダーとして活動した。選考委では「歴史的背景も取り入れながら彼を描くことで、本土から差別され続けてきた沖縄の今を観客に強く訴える作品となっていることを評価したい」とされた。

 「誰がために憲法はある」は、芸人・松本ヒロが演じ続けている、日本国憲法を擬人化した1人語り『憲法くん』を、今年87歳を迎えた女優の渡辺美佐子が演じるシーンと、彼女を中心とする10人の女優たちが33年も続けてきた原爆詩の朗読劇を収めたドキュメンタリーである。選考委では「憲法の大切さと戦争放棄の理念を表現した、今日的存在感のある力作として高く評価したい」とされた。

 基金賞贈呈式は12月7日(土)午後1時から、東京・内幸町の日本プレスセンター9階、日本記者クラブ大会議室で行われる。だれでも参加できる。
2019.11.28 香港区議会議員選挙結果の巨大な意義 ― ゆらぐ一党独裁の根拠
習近平の中国(8)

田畑光永 (ジャーナリスト)

 世界が注目する中、24日に投開票がおこなわれた香港区議会選挙の結果はいわゆる民主派の圧倒的勝利となった。投票総数約300萬、得票率は民主派57%、親中派41%。当選者数民主派395人、親中派59人、その他8人(11月26日・日本経済新聞による)。この意味の「巨大さ」を考えたい。
 知られているように香港は1997年に英から中国に返還されて以来、「一国二制度」が適用される特別行政区として他の省・市とはことなる法的地位をもっている。その象徴的な存在が3つの選挙である。
 まず特別行政区の行政のトップを選ぶ「行政長官選挙」、そして立法機関である「立法会議員選挙」、そして先日行われた地方議会たる「区議会選挙」である。中国本土では一般民衆は全国人民代表大会の末端である基層(地区や職場、所属単位)人民代表の選挙に参加できるだけ、それも被選挙権となると様々に制限されているのに比べれば、香港の参政権は格段に大きい。
 といっても、それは中国本土に比べてというだけで、「一国二制度」も当初の想定とは今や似ても似つかないものに変質してしまっている。行政長官選挙は返還前には「返還20年後には完全な自由選挙」のはずだったのが、それが近づいた2014年に自由選挙でなく、産業界など各分野から選出された1200人の選挙委員による現行の間接選挙へと本土の命令で様変わりすることになり、それに怒った若者たちがあの「雨傘運動」を展開した。
 立法会議員選挙も全員が自由選挙で選ばれるのでなく、定数70の半数を業界団体から選ぶことになり、また直接選挙も比例代表制となったり、当選後も議会で中国への忠誠を誓わなければならないといった「踏み絵」が設けられたりして、民主派が多数を占めるのは難しくなっている。
 この2つに対して18選挙区で452の議席を争う区議会議員選挙だけは、18歳以上の市民に1人1票が与えられる選挙らしい選挙である。その結果はとてつもなく大きい。当選しても立法機能があるわけでもなく、政策提言程度の権限ではあるが、そんなことは今回はどうでもいい。
 5月以来、何度も100萬を超える市民が「政治」に立ち上がり、思いを行動に移してきたそのエネルギーの量と方向とをここではっきりと数字にして残すことができたのが大きいのだ。中国では建国以来空前の壮挙である。
***********
 中国共産党は選挙が嫌いである。有名な言葉を1つ紹介しよう。
 「中国であなた方がやっているような多党制、三権分立をやれば、間違いなく大混乱だ。今日はこっちの連中が街に出れば、明日はあっちから出てくる。中国には10憶の人口がいる。1年365日、毎日が大騒ぎだ。それで日が過ごせるわけがない」
 これはかの鄧小平が1987年6月29日に米カーター前大統領(当時)を北京に迎えた時の談話の一部である。(『鄧小平文選 第三巻』244頁 人民出版社 1993年)
 鄧小平一流の諧謔であるが、この後2年も経たないうちに、あの天安門事件につながる北京の民主化運動が起こったことを考えると、鄧小平はそれを気持ちのどこかで予期していたか、などと想像したくなる。
 閑話休題。中国共産党が選挙を嫌うのは、騒ぎが起きるからではなくて、選挙が怖いのである。
 共産党政権はなぜ選挙をせずにここまでやってこられたか。それは革命戦争に勝ったからである。選挙は「風」で勝つこともできるが、革命はそうはいかない。中国共産党が武器にも不自由な少数の革命軍で、米国製兵器を持った国民党の大軍勢に勝つことができたのは、正義が共産軍にあったからだ。その勝利の重さは1回や2回の選挙で勝つことの比ではない。
 周知のレーニンの「プロレタリア独裁」、毛沢東の「人民民主独裁」の根拠がこの論理である。命と引き換えに手に入れた権力を気まぐれな「風」に奪われるなど論外だ、というのは分かる。しかし、この命題に有効期限はないのか。それが問題である。引用した鄧小平の言葉は革命勝利38年後である。しかし、鄧小平本人は革命戦争を実際に戦った人間である。
 常識的に考えれば、先の論理が通用するのはせいぜいが鄧小平あたりまでではないのだろうか。その後、中国共産党を動かして来た江沢民以下の幹部たちは革命体験者ではない。革命70周年を迎えた今の習近平以下の面々となると革命当時は生まれてもいなかった。
 その面々が建国当初の「中国共産党がすべてを指導する」というスローガンを振りかざして、自ら「民意の代表」をもって任じ、仲間内の談合で生まれたに過ぎない「総書記」がいつの間にやら「核心」などと称して、全知全能の軍司令官でもあるかの如くに振舞っている。
 このからくりを温存して、支配者として君臨し続けるためには、「核心」に国民が心服している形を整えなければならない。最近の中国のメディアが文革当時を思わせる個人崇拝に溢れているのはそのためである。
 しかし、どの程度の国民がそれを真に受けているのか、その実態を国民同士が知った時を彼らは恐れる。昨年春の人民代表大会で国家主席の任期を廃して、実質、終身主席に道を開いた憲法改正についての投票結果を2970対0という喜劇的数字に操作することはできても、無名の民衆全員に1票づつ与えて治世について公に信を問う勇気は習近平にはない。選挙は彼の周辺では禁句であろう。
 ところがそれが今回、香港で突如、実現したのである。どのような理屈をつけようとも、今回の選挙は実質的に中国共産党の香港統治、さらには中国全体の現状を肯定するか否定するかの二択の選挙であった。そして、出た結果にもっとも衝撃を受けているのは北京中南海の住人たちであろう。
 今のところ、中国のメディアは香港の民意を直接論評しているものは見当たらない。あくまで「一国二制度」の中の局部の問題と位置付けて、市民に自重を求める(26日『環球時報』社説)、あるいは米国の干渉を批判したり(27日『人民日報』「鐘声」欄)、といったところが目に付く程度である。
 われわれは「香港市民が共産党にノーと言った」という結果が広く中国の庶民の耳に伝わった後に聞こえてくる声に耳をそばだてよう。                    (20191127)

2019.11.28 ■短信
討論集会・日韓関係改善の道

 2019年7月に、日本政府が韓国に対する「輸出規制」を宣言して以降、日韓関係は悪化の一途をたどっています。私たちは、7月25日、このような日本政府の対応を懸念し、声明「韓国は「敵」なのか」を、およそ80名の呼びかけ人で出しました。その後も、日韓双方の様々な試み、あるいは外交的努力などもありながら、状況は改善しないままです。
  10月10日、私たちの声明に応答する形で、韓国で105名の署名によって、声明「東アジアにおける平和の進展のために」が出されました。
  ここで、日韓市民による、問題の共有と、解決のための討議の可能性が生まれたと考えます。そこで私たちは、韓国側声明を読み、どう応答するか、また問題の根源というべき日韓基本条約(体制)をどう捉え、どう変えていくか、討論する場をつくりたいと考えました。
  ぜひ積極的にご参加ください。

 *日時 12月1日(日) 13時開場 13時半開会 16時半閉会
 *会場 日本教育会館第5会議室(東京都千代田区一ツ橋2丁目。地下鉄都営新宿線・東
     京メトロ半蔵門線神保町駅下車)
 *主催 声明「韓国は「敵」なのか」呼びかけ人世話人
 *資料代 1000円
  
  (予定) 
 第一部 韓国側声明にどう応答するか(13時30分~14時30分)
    (問題提起)和田春樹(東京大学名誉教授) 
    (コメント)内田雅敏(弁護士)、田中宏(一橋大学名誉教授)
 
  第二部 日韓条約・「徴用工」・ジャーナリズム(14時30分~16時30分)(そ
     れぞれ問題提起)
     ① 日韓条約(体制) 木宮正史(東京大学教授)、
                 吉澤文寿(新潟国際情報大学教授)
     ② 大法院判決と徴用工問題 外村大(東京大学教授)、矢野秀喜(朝鮮人強制
                 労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動事務局長)
     ③ ジャーナリズムの問題 南彰(新聞労連委員長)
                                     
(岩)

2019.11.27 ライク外務大臣粛清の全容(2)
 フィールド一家の悲劇

盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)

 ライク逮捕・起訴において、ノエル・H・フィールドの存在と「自供」(氏名リスト)は決定的な証拠とされた。フィールド逮捕は極秘事項であり、フィールドは自らの拉致を外に知らせる手段をもっていなかった。
チェコスロヴァキアの諜報部に出向いたはずの夫から、長い間にわたって連絡が無いのを不審に思った妻のヘルタは、プラハの諜報部に出向き、夫の消息を尋ねた(1949年8月26日)。チェコスロヴァキア諜報部は夫のノエルはハンガリー国境近くの町の病院に入院しているとヘルタをブラチスラヴァへ案内し、そこからさらにハンガリー国境へ移動しハンガリー諜報部隊に引き渡した(8月28日)。夫に続いて、妻も拉致されたのである。もっとも、この拉致によってフィールド夫妻は合流することになったが。夫人逮捕の理由は、アメリカのスパイである夫との共謀罪であった。
 フィールド尋問内容はチェコスロヴァキア諜報部やポーランド諜報部にとってもきわめて重要な情報であり、フィールド逮捕後に、両国の諜報部員が頻繁にブダペストを訪れ、直接にフィールドを取り調べている。

事実は小説より奇なり
 ヘルタが消える前、ノエル・フィールドの弟であるヘルマン・フィールドはヘルタの知らせにチェコスロヴァキアに渡り、そこからワルシャワに飛んで友人たちと会い、その後音信不通になった。プラハに戻る帰路、ワルシャワ空港でポーランド諜報部に逮捕され(1949年8月22日)、ワルシャワのミエンジェシンにあるポーランド諜報部の監獄に拘束されたのである。
 ヘルマン・フィールド夫妻は建築家で、欧州の戦後復興計画を調べるために、度々欧州に出向いていた。ポーランドで調査したこともあり、ワルシャワには建築家の友人たちがいた。その手助けでビザを取得してワルシャワに入り、帰路プラハへ戻る時に拘束された。逮捕を実行したのはポーランド保安警察第10課(国内共産党内部のスパイ摘発)次長のユゼフ・スフィアトゥヴォ(Jozef Swiatlo)だが、逮捕指示は当時の共産党書記長で大統領を兼ねていたビエルトから出ていた。ライク事件の出発点になったフィールド逮捕と取調べは、ハンガリーのみならず、チェコスロヴァキアとポーランドの諜報部にとっても、きわめて重要な案件であった。
 後にヘルマン・フィールド夫妻が記した手記(Herman Field, Trapped in the Cold War: The Ordeal of an American Family, Stanford University Press, 2000.pp. 5-15, pp.365-367)に、ワルシャワ空港での逮捕状況が記されている。当時、アメリカ国務省は1949年9月13日付けで、ポーランド外務大臣宛にヘルマン・フィールドの消息を尋ねる外交文書を送付した。これにたいして、ポーランド外務大臣は9月28日に、アメリカ大使に口頭で、「彼の動向は不明(really mystified)」と回答した(Hermann Field, 上掲書429頁)。
 こうして、ハンガリーに拉致されたノエルだけでなく、ヘルマン・フィールドもポーランドに拉致・収監されたのである。

フィールド夫妻養女の拉致
 フィールド夫妻が育ての親であるエリカ・ヴァラックはドイツの共産主義者の仲介を得てベルリンに向かい、両親の消息を探ろうとしたが、ソ連占領地に入ったまま消息不明になった。ソ連軍に逮捕された(1950年8月)。かくして、フィールド一家はそれぞれがハンガリー、ポーランド、ソ連の保安警察部隊に拘束され、消えてしまった。
 エリカ・ヴァラックは社会主義の理想を信じて、共産党員になった。フィールド夫妻の消息を探るために、ドイツ共産党員レオ・バウアー(Leo Bauer)に助けを求めたところ、東ベルリンで会うことになった。西ベルリンのテンペルホフ空港に午後1時に到着し、午後3時に東ベルリンに入って1時間もしないうちに、スパイ容疑でドイツ保安警察に逮捕され、ソ連側に引き渡された。
 逮捕後、1年半の間、ベルリンの刑務所に拘束され、ソ連の軍事法廷で死刑を宣告された。その後、ポーランドのブレスト(Brest)に移送され、そこからさらにモスクワに移送されて処刑を待つ身となった。モスクワに到着して半年ほど経過して、死刑から15年の強制労働へ減刑という通知を受け、ヴォルクタ(Vorkuta)の労働キャンプへ移送された(1953年8月)。1954年12月までヴォルクタで強制労働に従事し、そこからすべての外国人はアベズ(Abez)の一般刑務所に移送された。そこに1955年9月まで拘束され、その後にモスクワの拘置所に移された。モスクワ移送は「再調査の結果、無罪と認定されたから」というものだった。1954年秋に釈放されたフィールド夫妻とヘルマン・フィールドは、ポーランドとハンガリーの当局にエリカ・ヴァラックの消息を求める要請を行い、フルシチョフにも手紙を送った。アメリカ国務省もソ連側に釈放を求めた。最終的に1955年10月に釈放され、10月27日に空路で東ベルリンへ向かい、そこからタクシーで西ベルリンへ戻った。
 以上の足跡は、1955年12月9日付のU.S. News and World Reportに掲載されたエリカ・ヴァラックのインタヴュー記事を要約したものである。
 当時、東欧各国の保安警察ではスパイ容疑で逮捕した者をソ連保安警察に引き渡すことが慣例になっていた。というより、「ソ連に引き渡す」という殺し文句が自供を引き出す取調べ手段になっていたのである。ライク夫人も、ハンガリー保安警察の取調べにおいて、取調官からソ連への引渡しの脅しをかけられていた。何ともやるせない。
 数奇な運命を辿ったヴァラックは自らの体験を綴った書籍を出版した(Erica Glaser Wallach, Light at Midnight, Doubleday; 1st edition 1967)。このタイトルは、ハンガリー人作家アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)のノンフィクション的小説Darkness at the Noon(Macmillan, 1940. 邦訳『真昼の暗黒』(岩波文庫、2009年)から着想された。ケストラーの小説の主人公はエヴァ・ストライカー(Eva Striker Zeisel, 1906-2011年)で、マイケル・ポラーニィの妹ローラとシャンドール・ストライカーの間に生まれた子供である。エヴァはオーストリアの物理学者と結婚してソ連に移住したが、そこで遭遇した苦難を描いたものである。

フィールド拉致事件の暴露
 フィールド拉致はライク裁判においても極秘事項だった。そして、もしその後に起きた亡命事件が発生しなければ、フィールド一家の拉致事件は永遠に知られることなく、闇に包まれたまま歴史から消えるはずであった。
 ところが、フィールド一家拉致が公になる事件が発生した。
 フィールド逮捕からすでに5年半が過ぎた1954年10月、ラーコシは湯治目的でモスクワに滞在していた。そこへポーランド統一労働者党第一書記長ビエルトが突然やってきた。緊急の用件でモスクワに出向いてきたのだ。ポーランド諜報部幹部でヘルマン・フィールド逮捕を実行したユゼフ・スフィアトゥヴォが、前年暮れの東ベルリン出張時に亡命し(1953年12月5日)、ヘルマン・フィールド拉致を明らかにしたために、アメリカ国務省から外交ルートを通して、引渡し要求が来ているというのだ。それで、慌ててモスクワに飛んで来た。ヘルマン・フィールドを釈放するだけでなく、ハンガリーに拘束されているノエル・H・フィールドも釈放しないとまずいという。ラーコシは暫く時間が欲しいと答えたが、その日のうちにノエル・H・フィールドの釈放指示を出した。
 亡命したスフィアトゥヴォはフランクフルトのCIA離反者受付センター(CIA Defector Reception Center)で取調べを受け、1954年4月にアメリカ本国に移送され、さらに取調べを受けた。スフィアトゥヴォが公の場に姿を現したのは、1954年9月28日のラジオ・フリー・ヨーロッパの放送である。これでヘルマン・フィールド拉致事件の全貌が公になり、アメリカ国務省が正式な引渡し要求を行い、4週間後にヘルマン・フィールドの釈放が実現した。1949年にスフィアトゥヴォは何度もブダペストに出向き、ノエル・H・フィールドの尋問を行っているから、フィールド夫妻がハンガリーに拘束されていることも知っていた。ノエル・H・フィールド夫妻が釈放されるのは、その3週間後である。

 なお、ハンガリーで釈放されたノエル・H・フィールド夫妻にアメリカへ戻る意思はなく、ハンガリーに「亡命」することになった。ハンガリー(カーダール)政府は賠償金を支払い、住居と職を与え、ラーコシ時代の暴挙を謝罪した。ノエルは1970年に、妻のヘルタは1980年にブダペストで他界した。
 ノエル・H・フィールドのドキュメンタリー映画が制作されたように、西側ではフィールド一家の悲劇の調査や研究が多数発刊されているが、ハンガリーでは専門家以外にフィールド事件を知る人はほとんどいない。

2019.11.26 唯一の隣国との友好関係を取り戻そう
ー韓国がGSOMIA破棄を「停止」・WTO提訴も中断
最も積極的だった朝日の報道


坂井定雄 (龍谷大学名誉教授)

 文在寅大統領率いる韓国政府は23日、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄通告を、発効前日に「停止」し、日本から韓国への半導体など3品目の輸出手続き煩雑化に対するWTO(世界貿易機関)への提訴を停止すると発表した。まずはよかった。米国政府の両政府への精力的な調停工作が功を奏した。こんご両国は、昨年来の両国関係悪化の直接的な原因となった、日本支配下の徴用工への補償問題を“棚上げ”などで解決し(日本政府は徴用工問題への報復とは言わず、韓国側の貿易管理に問題があるための制限措置と主張)、日本側は輸出手続きを元通り正常化しなければならない。
 今回の問題でも、安倍政権と一部の民放番組、週刊誌は、反韓国宣伝・扇動に狂奔した、安倍政権が対韓政策を修正、転換できるかどうか。中国、ロシアの2大国、北朝鮮に対して、日本、韓国と同盟関係にある米国では、自国の利益のみを優先するトランプ政権がますます横暴になっている。今回は、米国の戦略上、日韓関係でのGSOMIAの維持が極めて重要だから、米政府は解決に尽力した。日本政府は自国の安全、経済的繁栄のために、韓国との友好関係を、早急に改善する努力をすべきだ。

 今回の韓国政府によるGSOMIA破棄、破棄「停止」問題の新聞報道では、朝日新聞の報道が最も積極的で、多くの紙面を埋めたと思う。韓国がGOSMIA失効期限前日の22日に一転し、文在寅大統領府が「効力停止」を発表した翌日の23日、朝日新聞の報道は1面「GOSMIA一転継続―韓国が破棄を「停止」―WTO提訴も中断」、2面の「土壇場文政権が軟化」、12面の社説「日韓情報協定―関係改善の契機とせよ」だった。
 ところが翌24日(日)の紙面は次のような構成で、いわば“朝日の全力投球”
 1面 日韓主脳会談 来月で調整、外相会談 連携の重要性確認
 3面 失効回避の裏 米が「圧力」
   「GOSMIA維持 日韓に働きかけ」
 4面 GOSMIA継続 韓国厳しい見方も
   考/論 元徴用工含まぬ合意 両国は対話を(趙太庸・韓国外交省・元第1次官)
 8面 社説余滴(箱田哲也)日韓、米国頼みのたそがれ
 31面 ナショナリズムの迷宮 すれ違う日韓(下)
    両立できぬ「歴史の物語」
    日韓 譲れない自国への誇り
    根深い近親憎悪
 すでにお読みの方も多いとは思いますが、ここでは、23日の朝日社説を再録します。

(社説)日韓情報協定 関係改善の契機とせよ

 日韓の安全に資する協定が、かろうじて救われた。ひとまず安堵(あんど)できても、問題の根本は手つかずだ。理不尽な事態を繰り返さないための健全な関係回復に本腰を入れるべきだ。
 きょう失効を免れたのは、GSOMIA(ジーソミア)と呼ばれる政府間の取り決めである。両国が軍事情報を共有するための協定で、文在寅(ムンジェイン)政権は寸前のところで破棄を撤回すると発表した。
 日米韓は、この協定を主要な回路の一つにして、安全保障の情報をやりとりしている。破棄となれば、共同歩調に悪影響が出ることが懸念されていた。
 北朝鮮の不穏な動きが続くなかで、日韓関係がここまでこじれたのは不毛というほかない。今回の失効回避を機に、両政府は国民の実利を損ねる負の連鎖を止めなければならない。
 韓国側が8月に協定の破棄通告をしたのは、日本による輸出規制強化への対抗策だった。きのうの発表でも、今後いつでも破棄できると強調し、日本側に相応の対応を求めた。
 だが、いくら韓国内の対日世論が硬化したからといって、安全にかかわる問題を取引材料にすること自体に無理がある。
 北朝鮮に加え、中国やロシアも日韓関係の悪化に乗じて軍事的な挑発行動に出ている。内外の現実を慎重に考慮すれば破棄の選択肢はなかっただろう。
 一方、日本政府にも関係改善への重い責任がある。7月に唐突に打ち出した韓国向け輸出の規制強化は、昨年来の徴用工問題をめぐる事実上の報復にほかならない。
 韓国では、製造業で不安が広がっただけでなく、日本による「強圧」に対する世論の反感を増幅させた。韓国からの訪日客の激減は日本の観光地を悩ましているほか、さまざまな市民交流も滞っている。
 文政権が誤った対抗措置のエスカレートを踏みとどまった以上、日本政府も理性的な思考に立ち返るべきである。輸出規制をめぐる協議を真摯(しんし)に進めて、強化措置を撤回すべきだ。
 いまの両国間に横たわる問題の本質は、日本企業に賠償を命じた韓国大法院(最高裁)判決への対応である。今回図らずも芽生えた両政府間の危機管理の対話を発展させて、徴用工問題を打開する枠組みづくりを急がねばならない。
 文氏も安倍首相も、相手との妥協を政治的な損失ととらえる考え方から脱すべきだ。たとえ不人気であっても、国民の未来を見すえた外交の価値を説くのが政治家の務めである。
 両国関係の土台である1965年の日韓請求権協定を守り、両国関係全般を本来の軌道に戻す一歩を踏み出してほしい。

2019.11.25 少数民族にとって中国革命とは何だったか(7)
――八ヶ岳山麓から(300)――

阿部治平 (もと高校教師)

ここでは皇帝に匹敵する権力と階級闘争の論理が少数民族の衰退を導いた経過を見る。

反右派闘争の始まり
1956年2月、ソ連共産党20回大会でのフルシチョフ首相のスターリン批判は世界に大きな衝撃を与えた。とりわけハンガリーやポーランドなど東欧諸国の衝撃は大きく、社会的動揺が生れた。
5月毛沢東はこれによって自信が揺らいだのか、ひろく中共の支配に対する批判を求めた。「百花斉放百家争鳴」運動である。知識人らは、はじめ報復を恐れて批判を口にしなかったが、何回も促されてようやく意見表明に踏み切った。批判の多くは誰が考えても当を得たものであった。
しかし毛沢東は、6月になると人民の敵=右派が一斉に立ち上がったものと受け止めて中共批判に激しく反論し、それまで中共に寄り添ってきた民主同盟や農工民主党を「反共反社会主義」と名指しで批判した。毛沢東による批判は皇帝の裁決と同じ意味を持つ。
毛沢東は、社会主義改造がおわった中国になおプロレタリアートとブルジョアジーの矛盾が存在し、社会主義と資本主義の生死を賭けた路線闘争が存在する。これに勝利しなければ体制の危機が生まれると考えていた。プロレタリア独裁下の継続革命と階級闘争の理論である。
このとき、反右派の熱狂が中国中を駆け巡った。知識人はブルジョアジーに区分され、攻撃の対象になった。中国の建設に必要な知識人55万余が社会的に葬られた。彼らの家族も運命を同じくした。これ以後毛沢東路線に反対する者はほとんどいなくなった。
だが、3年後の59年の廬山会議では、彭徳懐らは民衆の餓死・放浪・離散の惨状を背景に、あえて毛沢東の大躍進政策を批判した。毛沢東はこれもブルジョア階級の反撃として退けた。彭徳懐は文化大革命の初期、暴行虐待を受け獄死した。

青島民族会議と地方民族主義
チベット人地域反乱と同時に反右派闘争がつづくなか、1957年7月山東省青島に29の民族105人の代表を集めた民族工作座談会がひらかれた。総理周恩来は、はじめ遠慮のない発言を求め、発言に対して報復をすることはありえないといった。
新疆の独立運動すなわち「東トルキスタン共和国」運動を戦ったものからは、連邦国家と自治区の区域変更の要求が出された。青海省副省長だったタシ・ワンチュクは、チベット自治区をチベット人地域全体に拡大するよう要求した。さらに叛乱鎮圧の仕方が無慈悲で、罪のないものが大量に殺されていると抗議した。
会議の終わりに、総理周恩来は少数民族の要求を全面的に退ける挙に出た。少数民族は漢民族などと雑居しており、独立した経済単位となってはいない。したがって独立の主体とはなりえない、と民族自決と連邦国家構想を否定し、民族自治区域の変更も拒否した。
57年11月、北京での中央民族委員会座談会において、責任者の汪鋒は「自治区拡大や単一民族の自治区を求めるのは、中央の政策に逆らうものだ」「地方民族主義批判は、少数民族地区における社会主義と資本主義の二つの道の戦いだ」と発言した。
これ以後、民族問題についてなにか発言するものは、地方民族主義すなわち階級的敵のレッテルをはられた。
プンワンは、かつて毛沢東が大漢民族主義に反対せよと発言したことを指摘したにもかかわらず、「この階級闘争の結果、全国人口の8%しかない少数民族のうち、十数万の人々が地方民族主義の帽子をかぶせられ、迫害を受けた。これに引きかえ人口の92%を占める漢人にはだれひとり大漢民族主義分子がいないのである。この不公正な現象はどうしても理解できない」と慨嘆した(“A Brief Biography of Phuntsok Wanggyal Gorananpa” by Daweixirao )。

青海の方法
毛沢東は、少数民族問題もプロレタリア独裁下の階級闘争の論理で裁いたのである。
58年3月毛沢東は、中共四川省委員会の『甘孜蔵族自治州民主改革問題に関する中央への報告』に同意し、「(チベット政府管轄地域は延期したが)金沙江の東(すなわち甘孜州)は断固としてやる」「民衆に依拠してやる。基本的な環節は、農牧民が主人公になる気持があるかどうかだ」といった。ところが農牧民には、集落首長や寺院を乗り越えて主人公になる気はすこしもなかった。
毛沢東はこの実態を見ようとしなかった。だから叛乱鎮圧については、「戦争はどうやるか?準備しなくてはならなない。準備して大いにやれ。やればやるほどよい。これはいい加減にはできない。ぐずぐずしていれば余計悪くなる」と指示したのである。
中共青海省委員会は58年1月2日から3月8日まで、拡大全体会議を開き、党書記孫作賓ら省政府幹部数名を、少数民族政策と宗教政策において中共中央の路線に反した反党集団として除名した。このとき、党省副書記タシ・ワンチュクも副省長の職務が剥奪された。実権を握った急進派は、叛乱の徹底鎮圧を中央に申請した。58年6月24日毛沢東は、これに同意の回答をした。
「青海の反動派の叛乱は極めて結構だ。労働人民解放のチャンスがやって来た。青海省委の(断固鎮圧するという)方針は全く正確だ」
「チベット人地域の問題は戦略問題であり、革命の問題である。革命の問題は革命の方法を採用しなければならず、任務は素早く徹底的にやれ。青海は初めのころ平和的にやった。だがいま革命的方法をとっているのは正しい」
青海の急進派は本当にこの通りにやった。たとえば海南州マンラ(貴南)県では集落首長や僧侶41人を「学習」名目で招集して大部屋に監禁し、窓から銃を撃ち込んで皆殺しにした。これを私が知ったのは、当時の公安警察幹部だった人物が55年後に事件を明らかにしたからである(尹曙生論文「炎黄春秋」2012・3)。
「青海の方法」はすべての叛乱地域に適用された。中共軍は遠慮することなく、チベット高原の仏教寺院を反革命拠点としてほとんど打ち壊し、虐殺と略奪から逃亡しようとしただけの「労働人民」を大量に殺戮したのである。

毛沢東は今も生きている
王希哲は1980年に香港で発表した論文「毛沢東と文化大革命」の中でこう指摘した。
「……毛沢東が成功裏に指導したこの革命は、農民革命にすぎなかった、ということだ。それは共産党の指導下に行われたが、その内容について言えば、農民革命の範疇を出るものではなかった。
……もしわれわれが毛沢東を一人の農民首領として考察するのであれば、別に何も彼を
糾弾せねばならぬところはない。毛沢東は中国の歴史上もっとも偉大な、空前絶後の農民首領である。彼が後に中国の帝王になったのは、まったく農民首領の階級的必然性がしからしめたのであって、すこしもおどろくにはあたらない」(高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書)。この論文によって王希哲は懲役15年の刑を受けた。

中共は抗日戦争を8年、国共内戦を4年戦った。中共の勝利は党内で最高の地位にあったものの勝利であった。中国は農民がほとんどを占めていた。農民は貧困と圧政からの脱出と平等を渇望し、その実現をいつも英雄に託してきた。歴史上勝利した英雄はたちまち誰からも干渉を受けない地位に昇った。
レーニンの時代から各国共産党には、下級は上級に従う、少数は多数に従うという組織原則があった。これがスターリンなど指導者個人に権力が集中し、個人崇拝を生んだ原因のひとつとなった。ところがこの原則は中国伝統の皇帝支配の論理に非常にうまく調和した。
毛沢東は「私は秦始皇にマルクスを加えたものである」と公言してはばからなかった。彼は自分が大衆の崇拝を受け大衆に君臨している事実を十分に自覚していた。
私が中国生活の中で日常的に感じていたのは、伝統的思考と習慣の強さである。毛沢東崇拝を自然発生的とすれば、その後継者の権威はかなり人為的なものである。だが、人々は後継者が至高の権力を持つことにも、行政の各レベル・各地方に「土皇帝」・小毛沢東があることにも何の抵抗も感じていなかった。皇帝崇拝に慣らされた者が皇帝を批判することはありえない。権力者に対する追従と贈賄はあたりまえのように行われていた。

中国は、古代秦帝国以来、周辺異民族を征服し漢民族に同化させてきた専制国家である。
漢民族とは異なる少数民族の歴史、文化、宗教を守ろうとするものは異端とされてきた。異端は排撃される。
いま新疆(東トルキスタン)でもチベット高原でも、少数民族のこれという人物は社会から葬り去られ、学校教育から少数民族語が消えている。モンゴルに至っては、ほとんど民族語を失い漢民族の大海の中に埋没しつつある。民族自決あるいは高度の自治、あるいは民主と自由を中共に期待した者たちの希望は、皇帝支配と階級闘争の論理によって異端とされ、無残に踏みにじられた。
荒野を血で染めた農民革命は、20世紀半ばに新たな専制国家を生み出し、それが過酷な運命を少数民族にもたらしたのである。(おわり)